金、銀は別として、戦国時代の貨幣って誰が発行していたのですか ?

足利幕府が発行していたとすれば、幕府と敵対している戦国大名は偽の貨幣を作ると思うのですが。ましてや幕府が倒れた後ではそれも無いでしょうし、、織田と毛利、武田が同じ貨幣を使用してたとは到底思えません。

各戦国大名が自分の領土でしか通用しない貨幣では、戦費の調達などあまり意味がないようにも思います。

やはり共通貨幣は金、銀だけで、少ない単位の貨幣は自分たちの領土だけで通用をさせていたのでしょうか ?

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A 回答 (5件)

こんばんは。


う~む、よい着眼点です。
仰るとおり、政府には貨幣を発行する力など無かったのです。
では、どうしたか?
「輸入」です。
12世紀から17世紀にかけ中国(北宋や明)から銅銭を輸入して流通させていたのです。
当然発行元は中国ですから、国際通貨としての価値はバッチリ。
もちろん、国内で私鋳銭と呼ばれる模造品が出回りましたから、
民衆の間でその質によって受け取り拒否など「撰銭」という選別行動が起こりました。
大名たちはなんとか撰銭を取り締まろうとしましたが、
いまいち効果を発揮せず。
結局その状況は江戸時代になり、幕府が貨幣発行権を独占するまで続きました。

といった感じでよろしいでしょうか?
たぶんこんな風に習いました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
そーでした。そういえば昔そのように習ったような気がします。

しかし、それでは当時の日本は国家としての体を成していませんね。中国から見ればまったく属国のように映ったのではないでしょうか? 余裕は無かったかもしれませんが、プライドの高かった信長には悔しかったでしょうね。

お礼日時:2002/04/02 22:22

 


  PCの調子が悪いのか、回答を書いて送信しようとすると、フリーズしてしまう。入力エリアに書き込んでいると、しばしば、「このプログラムは強制終了」とか言って、全部消えてしまうので、別の場所で回答文を書いて、入力エリアにコピーするようにしているのだけれど、つい、入力エリアに回答を書いてしまう。
  
  とまれ、もう一度書きます。
  
  >例えば、三方ヶ原の戦いで、家康が逃げる途中で団子を食い逃げをし、店主に追い掛けられて銭を払ったとの話が有ります。この時に払った銭・・・当時この地方で使用されていたと思われる小額のコインは堺や武田、上杉などの領土では使用されていなかったのでしょうか?
  
  何と書いたのだったか。一般庶民でも、銅の貨幣は、「銅」であるが故に、金属価値を簡単に識別できたということです。金などになってくると、庶民では、鑑定力がなかったが、銅だと、見ただけでそれと判別でき、またもっと近くでよく見ると、不純物が混じっているかどうか、品質なども判断できたのです。銅の銭は、「銅」であるが故に流通したので、それは貨幣の「使用価値」と「交換価値」における「交換価値」の自立という状態とは、随分遠い話だということです。
  
  室町幕府は、しきりに通達を出して、「選り銭をするな」と言ったのですが、一般庶民は、そういう通達には耳を貸さず、「選り銭」を行っていたという話があります。現代の感覚だと、貨幣が汚れていたり、少々傷んでいるので、受け取り拒否というのはおかしいとも思えるのですが、当時、「選り銭」の対象になったものは、半分に割れてしまって、半分しかないとか、摩耗してぺらぺらになっているとか、混ぜものが多く品質が極度に悪く、こぼれていて、触れると形が崩れるなどの粗悪なものや、また、小さい銅貨を大きく見せるため、鎚で叩いて大きく延ばして、見た目は大きいが、銅としての価値は、大きさほどないようなものです。こういう銅の銭は、実質の「銅」の価値がないか少ないので、庶民に嫌われたのです。本当に貨幣が自立していれば、「交換価値」で決まり、現在の十円硬貨が汚れているとか錆びているとか、また紙幣が汚いとか、しわくちゃだとか、そんなことで通貨として通用しないということはありません。この千円紙幣は、汚れてしわくちゃだから500円の価値しか認めないなどということはないのです。しかし「選り銭」をする場合は、そういう話も交渉次第であったかも知れません。
 
  銅の銭として見た目で品質がよいと分かり、大きさも重さも、その形状も整っており、おまけに銘が「永楽通宝」などとあれば、知っている人は、誰でも信頼したので、日本全国で通用したでしょう。しかし、それは、「永楽通宝」が「共通貨幣」であったからではなく、「銅」の価値において、品質に信用が置けたからです。家康が払った銅の銭は、茶店の店主がそれで納得したのなら、「銅の銭」として、見た目で、銅の価値があると庶民でも判断できたのでしょう。こういう銅の銭なら、堺でも武田・上杉・織田・島津などの領地でも、銅の価値として通用したでしょうから、日本全国で、銅の価値を知る人には共通に通用したということです。しかし、どこでも、それで物品を購入できれば「共通貨幣」の資格を持つかと言うとそうではないはずです。
 
  例えば、重いかも知れませんが、米を5合持って、これで布を売ってくれとか、酒を売ってくれとか、飯代をこれで払うといえば、米が腐っているとか、砂だとかでない限り、これも日本全国で通用したはずです。では、米は「共通貨幣」かと言えば、違う訳で、それは物品としての価値の準普遍性による、物々交換の「代理貨幣」だということになります。銅の銭も、特に永楽通宝はじめ永楽銭も、銅の金属価値で「代理交換価値」が生まれたので、原始的な物々交換よりは遙かに進んで、貨幣経済の段階に踏み入れた時の代理通貨ということになりますが、日本全国どこでも通用する「米」と同様に、これを、共通貨幣というには、条件が満たされたいないのです。江戸時代では、「米」を武士階級は給与として受け取ったので、外国では、「塩」を給与として渡した例もあります。「米」も「塩」もかなりな普遍性を持って、物々交換の際に利用できたので、共通貨幣のような相を呈しているということです。
  
  昭和時代に入って、敗戦直前の日本の少額通貨は、現在の1円アルミ貨幣のようなものが、現在では、100円ぐらいに相当する貨幣であったことがあります。これは戦争末期、金属がほとんどなかったからですが、実質価値がとても100円もない、ぺらぺらな1円アルミ貨が貨幣として通用したのは、その「使用価値」ではなく、「交換価値」で、交換がこれで可能だったからです。室町幕府や、江戸幕府や、江戸時代の藩が、どう裏書き保証しても、紙の貨幣は通用しなかったでしょう。江戸時代の藩札は、紙幣というより、いまの国債のようなものと考えた方がよいでしょう。
  
  「偽金造り」というのが(非合法)商売になるのは、貨幣がある程度「交換価値」で意味を持ち始めてからです。江戸時代中期になると、そういう事態になる訳で、そうすると、小判の偽造を行って利益を上げようという犯罪者も出てくるのです。小判の偽金は、品質を落とし、混ぜものをするか、鉛に金鍍金などを行って造るのですが、前者は、偽金造りではなく、当の江戸幕府自身が実行しました。50万両の小判を改鋳して、品質を落とし、金含有率を減らし、重量も減らし、100万両分の新しい小判にすると、差額の50万両が幕府の収入になるというので、現実にそういうことを行いました。従って、江戸幕府が造った小判は、初期に造った小判の金含有量がもっとも多く、品質もよく、後になって改鋳したものは、金の品質が落ちてきます。金貨として見ると、初期のものと後期のものでは、価値が二倍以上違って来ます。
  
  敗戦後、日本は金属がなかったのですが、当時造られた十円銅貨は、いまの十円と同じデザインですが、コインの周囲にぎざぎざが付いていました。また、百円ニッケル貨は、最初に造られたものは、銀を含有しており、これも、縁にぎざぎざが付いていました。このぎざぎざは何かと言うと、流通途上で、コインの縁を削られないための工夫です。金属の価値で見ると、銅銭や銀含有の硬貨の縁を削って貯めると、金属が蓄積されて、それなりに利益が出たからです。現在でも法律で、貨幣に傷を与えることは禁じられているはずです。それは、金属を削って、金属としての価値が低減することを防ぐ意味もあったのです。
 
  金貨なら、ローマ帝国時代にもありましたし、それ以前にもあったはずです。これらは、金属の利用価値を前提として通用したので、「交換価値」、象徴的な価値として通用したのではないのです。永楽銭も同様です。永楽銭は、明から「輸入した」と表現します。ドル紙幣を「輸入した」とは言わないでしょう。
 
  貨幣は、広い範囲で流通するということだけでなく、「使用価値」と「交換価値」が分離し、「交換価値」で規定されるものを貨幣というのです。「交換価値」で流通しているからこそ、大インフレーションが起こるとか、「交換価値」を保証していた国家等が破綻すると、貨幣は、ただの紙屑の山に変化するということが起こるのです。南北戦争の時、南部諸州は、北部に対し、独立宣言をして、南部共和国独自の紙幣を発行しましたが、南部が敗北した時、この南部共和国の紙幣は紙屑になりました。紙屑になる前は、流通していたということで、こういうものが貨幣なのです。
 
  「米」は先に言ったように、堺でも、武田・上杉・織田・島津領へ持って行っても、これで物品を購入することができます。では、「米」は共通貨幣かというと、「代理貨幣」だとは云えるでしょうが、それが代理貨幣として通用するのは、「米」の「使用価値」に基づいているのです。別に、国家が国内貨幣として規定していなくとも、ドル札は、アメリカ以外の多数の国で通用します。この通用の理由は、ドル札が紙として価値があるからでなく、アメリカの経済力によって、ドル札で、色々なものが購入でき、またドル札を他の貨幣に「交換」できるから価値があるのです。アメリカが経済崩壊して、ドルの価値が現在の1万分の1にでもなれば、ドル札は、紙屑に近くなるでしょう。
 
  広い範囲で「通用」するのが貨幣の条件ではないのです。貨幣は、貨幣経済の成立を前提として意味を持つものですし、貨幣経済の発達においては、その実質が利用価値ある貨幣ではなく、「交換」において意味を持つ、経済の価値象徴媒体が必要で、これが「交換価値」で規定される貨幣なのです。貨幣経済も十分に確立しておらず、貨幣も「交換価値」だけで純粋に自立していないのでない場合は、貨幣に見えるものは、その物品価値=利用価値で決まっている、代理貨幣でしかないのです。
 
  以下のURLの第一節の「現金決済」の「近代紙幣」「電子マネー」を参照してください。また、第二節の「信用決済」なども、貨幣経済が、通貨の利用価値を離れた場合に、有効に成立するものです。(永楽銭の輸入は、「銅の輸入」なのです。明王朝が永楽銭を価値保証したのでなく、銅としての価値の品位の高さで共通に通用したのです。形状や銘は、銅に品位の保証であったのです)。
 
  >第二章 従来の様々な決済方法
  >http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/2.html
  

参考URL:http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/2.html
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この回答へのお礼

PCの調子が悪いのに再びの回答、ありがとうございました。

>明王朝が永楽銭を価値保証したのでなく、銅としての価値の品位の高さで共通に通用したのです。

納得です。

>このぎざぎざは何かと言うと、流通途上で、コインの縁を削られないための工夫です。

これはビックリしました。大変面白く読ませていただきました。ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/13 16:59

ちょっと横から失礼します。

家康が払った団子代が何で払われたのかは知りませんが、永楽銭(=永楽通宝)は相当幅広く使われていたはずです。(おそらく洪武通宝もそれに近い。)(参考URL御参照。)勿論、「法的な強制力を持った貨幣が独占的に流通していた」のではない事をもって、「共通貨幣がない」というのなら、その力を持つ中央政権がなかった以上、全くその通りですが、「貨幣を受け取ってもらえる局面でありさえすれば、たいていは受け取ってもらえる」という意味なら、共通の貨幣は存在していた、と言っても良いかと思います。因みに、余談ですが 伝説では「豊臣秀吉が子供の頃、亡父の形見として持って家をでて、木綿針にかえたのも、永楽銭一貫文」って事になっています。

参考URL:http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_16.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
URLに疑問に思っていた事の回答がほぼ書かれていました。

お礼日時:2002/04/13 16:50

 


  日本にしても、西欧にしても、中国にしても、16世紀や17世紀は、未だ「貨幣制経済」ではなかったのです。「貨幣」は「貨幣」ではなく、「地金(金・銀・銅)など」を、適当な分量で大きさを決め、それに、時の権力者や過去の権力者が、確かに「この重量のある金属である」という証明を刻印していたので、現在で発想するような「貨幣」ではなかったのです。
 
  文明が発達すると、まず、度量衡を決めます。つまり、「ものの重さ・長さ」などの広域に流通する「基準単位」を決めるのです。この度量衡の上に、或る重量の銅とか銀とか金として、準貨幣金属品として、物々交換の手段として当時の貨幣は存在したのです。だから、これは「貨幣」ではないのです。
 
  日本も、和同開珎以下皇朝十二銭を鋳造したのは、実用的な貨幣というより、中国が、度量衡を定め、定重量金属貨幣を発行しているので、日本もそれに負けない度量衡を持つ文明国だということを主張するため発行したので、実用貨幣には、ほど遠いものです。元の後の明が発行した銅貨、特に「永楽銭」と呼ばれた銅銭は、重量が極めて正確で、かつ、純度保証があったので、便利なので、物々交換の際の代理物品として重宝され、明から輸入したもので、これは「貨幣経済」ではないので、こういうことが可能だったのです。「永楽通宝」という名の「銅の品物」だったのです。
 
  「貨幣」と言っても、いま言ったように、地金を一定の形にして、重さを表示した「金属品」であったので、銅以外の別の安い金属を混ぜて銅銭を作り直したり、銅銭の端を削ったりするので、重量・品質共に、信頼できないことが多々あったので、当時は、「両替商」が重要な役割を持っていました。「両替商」というのは、例えば、1万円札を千円札十枚に「両替」するというような仕事をしていたのではなく、「金属貨幣」や「金属塊」を計りで計り、純度を見積もって、その実質価値を判断して、金属塊を、輸入貨幣に交換したり、見栄えの悪い貨幣を、もっと立派なものに交換したり、物品と金属物品(貨幣)のあいだで両替する仕事をしていた人のことです。
 
  だから、両替商は、計りと、金属を見分ける識眼力が必要になりました。江戸時代でも、貨幣経済とは言い難いことがあり、そもそも、自給自足をむねとする農民は、普段から貨幣など使いませんし、武士も、そうです。江戸や大坂や京都などで、貨幣が流通したぐらいで、まだ、貨幣経済とは云えません。各藩が幕府の許可を得て、「藩札」などを発行していたことから、貨幣経済だったような錯覚が起こりますが、「藩札」は、有価証券のようなもので、いまの「社債・国債」に当たるもので、借金状のようなものです。
 
  豊臣秀吉の造った「大判」は、貨幣ではなく、楕円形をした金塊というのが正しく、江戸時代の小判は、貨幣かも知れませんが、これも、重量を幕府が公認した「金塊」の形態だとも云えます。一分銀などは、小さな銀の丸い塊で、貨幣というより、銀塊でしょう。
 
  江戸時代も、中後期に入って来ると、銅銭は、貨幣に似た機能になってきますが、それは、「米穀本位制」経済が崩れて来たからで、また、実質においても、銅銭貨幣経済が日本でも成立して来たからです。
 
  戦国時代には、そもそも貨幣制経済などなかったのですから、「共通通貨」も何も本来まだないのです(つまり、貨幣と言われているものは、「地金」としての価値で意味があったので、地金と物品を交換する物々交換経済だったのです)。
 
  戦費の調達は、米や特産品や、そして無論、金などの金属も交換に使ったでしょうが、基本的には「米」でしょう。
 
  繰り返しになりますが、「貨幣経済」が成立していない時代に、貨幣はないのです。それは、地金を特定の形や大きさに造った、商品の一種だったのです。「地金貨幣」の実質価値を決めるための専門家が両替商だったのです。でないと、米とか、日本の特産品を明に輸出し、代わりに、「永楽銭」などの「銅貨」を「輸入した」というのは、どう考えてもおかしいでしょう。
 
  日本全国どこでも通用する共通貨幣などなかったのです。明の銅銭が、純度・品質などで、優れているので、物品交換の交換代理物として使用されていたので、これは貨幣とは云えないのです(貨幣は、現在の「紙の貨幣」を考えれば分かるように、そのもの自体の「価値(実質価値・利用価値)」ではなく、「交換価値」において意味があるのです。インフレーションも含め、国家が破綻して、通貨に「額面通りの交換価値」がなくなると、紙の貨幣などは、ただの紙切れになるというのは、これが通貨なのです。昔の紙幣には、国家銀行に持って来れば、「相応の金(銀)に交換します」という保証があって、これを「兌換紙幣」と呼びましたが、これは、「地金」の価値がやはり、意味があった時代の名残です。
  

参考URL:http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/nenpyo_kodai_ …

この回答への補足

回答ありがとうございました。出来ましたらもう少し質問をさせてください。

戦国時代が、「貨幣経済が成立していない時代」である事はある程度想像がつきます。
>日本全国どこでも通用する共通貨幣などなかったのです。

例えば、三方ヶ原の戦いで、家康が逃げる途中で団子を食い逃げをし、店主に追い掛けられて銭を払ったとの話が有ります。この時に払った銭・・・当時この地方で使用されていたと思われる小額のコインは堺や武田、上杉などの領土では使用されていなかったのでしょうか?

補足日時:2002/04/07 22:22
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 本来、戦国大名が必要としているものは年貢を売り、それを永楽通宝などの輸入銭に換え買い物をしていました。

家臣には、土地を与えることで金銭は必要ありませんでした。輸入銭は当時の共通貨幣です。しかし、精錬法の改良と共に、鉄砲などの高価なものが出現するに及び、金や銀を発掘して、甲州金のようなものにして、貨幣にあてるようになりました。下のHPに貨幣の歴史がわかりやすく書かれています。

参考URL:http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_gra.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。URLも大変参考になりました。

お礼日時:2002/04/07 22:06

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Q足利幕府の守護大名の影響力の大きさについて

1)なぜ足利将軍家を圧迫するくらいの大版図を領有し得たのか

2)なぜ細川・斯波・畠山の三家のみ管領家と成り得たのか

3)なぜ山名氏だけが「六分の一殿」と称されるくらいの大版図を領有し得たのか

以上三点、なるべく簡潔な回答、お願いします。

Aベストアンサー

1)なぜ足利将軍家を圧迫するくらいの大版図を領有し得たのか

守護の権限なんてそうタイしたものではなかったから。
守護大名は戦国大名と違って、一円支配しておらず、「領有」という概念で考えるほど、権限は持っていなかった。
南北朝の騒乱をやっている間に、ジワジワと権限が広がって、気づいたら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7%E9%A0%98%E5%9B%BD%E5%88%B6
こんな感じになっていた。

参考 自民党幹事長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E5%B9%B9%E4%BA%8B%E9%95%B7
戦前の政党の幹事長はそんなに権限を持っていなかった。
戦後の選挙制度が、中選挙区制で、選挙の取り仕切りをやる幹事長がジワジワと力を持つようになり、総裁は総理大臣ということになったため、いつの間にか自民党の事実上のトップが幹事長になった。
そんな感じ。


2)なぜ細川・斯波・畠山の三家のみ管領家と成り得たのか

これは、たまたま高家が没落した後、執事として(自民党の幹事長みたいなもんですが)足利将軍を補佐できるような実力を持っていた、足利一門の分家が上記の三家だったから。
執事(=家来)となるのを潔しとしなかったので、斯波高経は、13歳の息子を管領にして、自分は実権を握るみたいなことをしています。


3)なぜ山名氏だけが「六分の一殿」と称されるくらいの大版図を領有し得たのか
キャスティングボードを握って上手く立ちまわると、利益が大きいという例です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%99%82%E6%B0%8F
南朝方に一時付いた。返り忠ってやつですね。

1)なぜ足利将軍家を圧迫するくらいの大版図を領有し得たのか

守護の権限なんてそうタイしたものではなかったから。
守護大名は戦国大名と違って、一円支配しておらず、「領有」という概念で考えるほど、権限は持っていなかった。
南北朝の騒乱をやっている間に、ジワジワと権限が広がって、気づいたら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7%E9%A0%98%E5%9B%BD%E5%88%B6
こんな感じになっていた。

参考 自民党幹事長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A...続きを読む

Q守護大名・戦国大名の領国支配~一円知行~

鎌倉とかでも見たことありますが、「一円知行」とは、正確にどういう意味なのか知りたいのです。「誰も入れずに、すべて自らの手で管理する」みたいな意味かと解釈しているのですが、いかがでしょう。詳しい方、教えてください。

Aベストアンサー

一円知行ということはまとまった領域のすべての権限を一元的に掌握して支配することです。
中世の支配は、たとえば荘園でもひとつの地域をまとまって支配するのではなく、あちらの田、こちらの畠と分散的に支配権を持っているのが普通でした。これだけなら江戸時代にもありましたが、それだけではなく土地の支配とそこにいる人民の支配が違ったり、収穫物の一部についての支配権を持っていたりと、ひとつの土地でも重層的な支配があるのが普通でした。
そういう重層的、分散的な支配権のすべてを掌握したのが一円知行です。

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戦国大名と守護大名って何が違うのでしょうか?
どちらも武将ではないのですか?

Aベストアンサー

「守護」とは室町幕府の役職で「守護職」と言います
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「守護」の下には「守護代」があります

たとえば 武田信玄は「甲斐守護」の役職でした
一方 長尾景虎(上杉謙信)は「越後守護代」です
「守護代」は守護大名の変わりに国を治める事を任されています

守護の上には「探題」という役職もあります
これは広域の支配者という意味です
例えば伊達家は「奥州探題」を名乗っていました

これらはみな「守護大名」です。


一方戦国大名とは
幕府から守護や守護代には任じられていない大名で
主君を倒してのし上がってきたりした大名です

徳川家康は守護ではありませんね
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織田信長も守護代の家来の一族です

幕府の力が弱まると
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Q戦国大名で「頼」のつく名前の大名家は滅ぶ?

武田勝頼 土岐頼芸 豊臣秀頼 三大名とも、「頼る」 という字がついていましたが、滅びました。
これは偶然なのでしょうか?ご教授お願いします。

Aベストアンサー

偶然です。

「頼」がついて滅びなかった大名(当人)。

(1)六角定頼・・・六角家の全盛期を築いた人。父の高頼も家督を譲って隠居してから亡くなってます。ただし子の義賢が織田信長に敗北し、以後、六角家は衰退します。

(2)毛利秀頼・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から信濃に10万石を与えられました。

(3)平岡頼勝・・・秀吉に仕え、後に秀吉の命で小早川秀秋の家老になった人。関が原合戦後に2万石を貰うも、主君の秀秋死後に浪人。しかし家康から1万石を与えられ大名に。

(4)蜂屋頼隆・・・土岐、斉藤、織田、そして秀吉に仕えた人。秀吉から4万石を与えられました。

(5)相良頼房・・・九州の小大名。関が原では最初は西軍につくも東軍に寝返り2万石の所領安堵を受けました。

(6)小笠原貞頼・・・信長に仕え、ついで秀吉に仕えるも秀吉の怒りをかい改易に。しかし徳川家康が召抱え3万石の大名に。小笠原諸島はこの人が発見したとのこと。

(7)有馬則頼・・・秀吉に仕え1万石の大名。秀吉没後は家康に接近し関が原でも東軍につき、合戦後は加増を受け3万石に。

(8)諏訪頼忠・・・武田に謀殺された諏訪家当主、諏訪頼重の親戚。頼重死後は浪人していたものの武田家滅亡後に諏訪に舞い戻り諏訪家の再起を図りますが、徳川家康に破れ臣従。家康の関東への移封にともない武蔵で1万2千石を与えられます。息子も頼のつく頼水という名で関が原合戦で功績を上げ信濃に2万7千石の所領を賜りました。

(9)新庄直頼・・・浅井長政、織田信長、そして秀吉に仕えた人。秀吉から3万石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、合戦後に改易に。しかし後に許され家康から3万石を与えられ大名に復帰しました。

(10)吉見正頼・・・大内家、つぎに毛利元就に仕えた人。元就に1万5千石を与えられました。

(11)村井長頼・・・前田家家老で1万石。既に隠居していた時、主君利長の母が江戸に人質に行くと聞き、付き従って江戸に赴き、江戸で亡くなった忠義の人。



「頼」がついて滅びた人。

「原長頼」・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から3万石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、西軍の敗北後に自害。

「石川頼明」・・・秀吉に仕えた人。1万2千石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、西軍の敗北後、東軍に降伏しますが切腹に。

「木下頼継」・・・大谷吉継の次男ですが秀吉に可愛がられ厚遇を受けた人。2万5千石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、敗北後は領国に逃げ帰りますが病死。15歳という若さでした。

「宇多頼忠」・・・豊臣秀長、秀吉に仕えた人。1万3千石を与えられました。娘が石田三成に嫁いでおり、関が原合戦では、佐和山の城を守備するも東軍に攻められ自害。息子も頼のつく頼重という名で、こちらも父と同じく佐和山の城で自害。なお頼忠は所領を返上して娘婿の石田三成のところに身を寄せていたという話もあり。


なお、石高などは書籍によって微妙に違いがあるので、必ずしも正しいとは限りませんが、私の手元にある本の数字を書いています。また、この他に石高など不明な人もいまして、大名(1万石以上)に該当するかどうか分からない人も、まだいます。

このように「頼」のつく大名は結構おり、滅びなかった人も二桁を数えられるので偶然だと思います。

偶然です。

「頼」がついて滅びなかった大名(当人)。

(1)六角定頼・・・六角家の全盛期を築いた人。父の高頼も家督を譲って隠居してから亡くなってます。ただし子の義賢が織田信長に敗北し、以後、六角家は衰退します。

(2)毛利秀頼・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から信濃に10万石を与えられました。

(3)平岡頼勝・・・秀吉に仕え、後に秀吉の命で小早川秀秋の家老になった人。関が原合戦後に2万石を貰うも、主君の秀秋死後に浪人。しかし家康から1万石を与えられ大名に。

(4)蜂屋頼隆・・・土岐、斉藤、...続きを読む

Q中学の歴史について質問です。 戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、

中学の歴史について質問です。
戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、足利義昭を将軍としたのに、1573年に足利義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしたのですか?

Aベストアンサー

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によって殺害され、替わりに義栄が14代将軍として擁立される、ということまで起きています。

信長が義昭を将軍に添えたのも、理由としては同じです。
世の中に色々と命令などを出したいが、自分の名前で出すと周囲の大名たちの反発を生んでしまう。義輝を殺害して、義栄を擁立した三好氏と同じように信長も、義栄を追放して、義昭を擁立することで、義昭の名前を利用しようとしたわけです。
実際、足利義昭を将軍に添えてから数年で近畿地方における勢力を確立しました。
しかし、信長の力が伸びることに反発した義昭は、周囲の大名に対して信長を討って自分を助けよ、というような書状を出すなどしました。
信長としては、近畿地方をほぼ制した上に、自分の敵ばかりを作る義昭、室町幕府はもはや用無し。なので、追放し、幕府を滅ぼした、ということになると思います。

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によ...続きを読む


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