蜀の軍師で諸葛亮孔明ていたじゃないですか。
その息子は魏に攻められたときあっさり死んだイメージがあるんですけど、
頭はよくなかったんですか?
それと孔明が残した書物はあるんですか? あるならその内容を知る方法も教えてください。

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A 回答 (6件)

諸葛亮の息子は諸葛瞻ですね。


参考URLに詳しいです。

また孔明の著作に『諸葛氏集』なるものがあったことが『三国志』の中に見えます。
その目録は以下の通りです。

開府作牧第一 權制第二 南征第三 北出第四 計算第五 訓・第六 綜覈上第七 綜覈下第八 雜言上第九 雜言下第十 貴和第十一 兵要第十二 傳運第十三 與孫權書第十四 與諸葛瑾書第十五 與孟達書第十六 廢李平第十七 法檢上第十八 法檢下第十九 科令上第二十 科令下第二十一 軍令上第二十二 軍令中第二十三 軍令下第二十四

以上24篇、104112字だそうです…
こちらは全文は現代に伝わっていないのではないかと思います。

また別に三国志の撰者である陳寿のもので『諸葛亮集』というものもあります。
この中の孔明自身の著作と思われるものは日本語に翻訳されているようです。

中林史朗『諸葛孔明語録』(明徳出版社、1986年)207p、2233円 を参照してみてください。

参考URL:http://www2.nightmare.to/~nobmatsu/san3/31.html
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この回答へのお礼

大変興味深い一節をありがとうございます。
特に今回の文章はおもしろかったので、この本を手に入れたくなりました。
また他の質問ができた時にはよろしくお願いします。

お礼日時:2001/01/16 11:15

 現代に残っている文で有名なのは、他の人が指摘している様に、やはり「前出師表」です。

出師の表とは、出陣にあたって皇帝にささげる上表文です。劉備の三顧の礼により召し出された諸葛亮が北伐に際し、後主劉禅にささげた『出師の表』は、彼の至誠の心をあますところなく披瀝した名文としてあまりにも有名で、読んで流さない者はいないといわれています。
 原文
http://www.cnd.org/BIG5/Classics/Prose/Before_Ex …
日本語訳
http://www3.justnet.ne.jp/~gotengo/suisi.htm
この日本語訳も難しいですが、ちゃんとしたものは、「文章軌範」という漢文の名文集に収められています。この中でも有名な文ですので、漢文のちょっとした本には解説つきで載っています。また、三国志の該当個所にも、載っています。
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この回答へのお礼

わざわざありがとうございます。
さっそく「文章軌範」というのを探して読んでみたいと思います。

お礼日時:2001/01/16 11:03

諸葛瞻(しょかつせん)字は思遠(しえん)が孔明の子ですが、261年に行軍護衛将軍に任ぜられるが、その後、宦官の黄皓が権力を握ったために病と偽り家に引きこもる。


その後、蜀の滅亡寸前になって劉禅に召し出され、諸葛瞻の子である諸葛尚と魏軍を迎え撃つが援軍を待ちきれずに自害した。ということで頭が良かったかどうかは分かりませんが、実戦での活躍はありませんので戦いの面を見るとそれほどではないように思います。しかし、学問ではもしかしたら頭が良かったかもしれません。
諸葛亮が残した書物ですが、私は読んだことはありません。まあ、出師の表は読みましたけど、あれは書物とは言わないと思いますし。三国志や孔明関係の本を読むと、それらしいことは記載されていますけれどもね。
オンラインブックショップ等で検索してみてはどうでしょうか?
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孔明が残した書物で有名なのは、やはり、『出師表』でしょうね。

詳しい内容については知りませんが、忠誠心あふれる名文だそうです。
『危急存亡之秋』(ききゅうそんぼうのとき)という言葉は『出師表』から出てきた言葉だそうです。
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確かに本を読むとあっさり死んだようですが、実際のところは蜀の武将があっさりと降伏してしまってるのに、1人で孤軍奮闘して亡くなったというようです。

私としては援軍の望みもなく、兵力もないのにようやった!と言ってやりたいです。

あと、諸葛亮は実際のところは政治力(統治力)には優れていたが、軍事面での才能は取り立てて優れているわけでもなかったとの事です。それが脚色されて天才軍師になってしまったのです。

#赤壁の時の連環の計も正史には諸葛亮の名前は出てこないし。
#北伐が成功しなかったのも。。。
#そういう目で三国志を見ると確かにそうかも。と納得できるはず。

この回答への補足

僕は正史を読んでないので孔明が軍事面で凡才だというのは初耳なのですが、その場合
赤壁の戦いでの連環の計は鳳統だけの案で孔明の手柄は呉を動かしたということだけなのですか?
それに魏の司馬蔚(字が間違ってるのは大目に見てください)が恐れていたのは孔明なのではないんですか?

補足日時:2001/01/11 13:55
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あれだけの傑物になると、どうしてもその周りはくすんでしまいます。

実際どれくらいの器であったかはよくわかりませんが…

それから、孔明は死の直前に自らの兵法を記した「兵法二十四編」を姜維に預け、蜀の未来を託したといわれています。

これらをより詳しく知るには、「蜀書」を読まねばならないと思います。

今のところこれくらいです…
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この回答へのお礼

蜀書というのは初耳なので探して読んでみたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/16 11:18

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>三国志は、全65巻からなる大部の官撰歴史書
ではありません。編者の陳寿が讒言などにより官職を辞していたため、著者の死後改めて採り上げられ正史となった、というものです。

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以下のような子供用の伝記ものはいかがでしょう。
(まだ、他にもあるかもしれませんが)

講談社 火の鳥伝記文庫〈80〉
諸葛孔明―「三国志」の名軍師
ISBN:4061475800
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9920387274


あと、子供用の文学全集ものの中を探すのもひとつの方法かもしれません。
ご参考までに。

「子どものための世界文学の森   26  三国志 」
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Q魏晉南北朝時代について調べています。

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[魏晉南北朝時代]220~589
 【南北朝時代】317~589 
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  1.南朝
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    江南中心:後の南京に都
    豪族勢力が強大で王権が弱体、王朝は「名前だけ」
    ※江南開発の促進
     自由な貴族文化=六朝文化
  2.北=五胡十六国時代
    5つの異民族による13の国と漢民族による3つの短命な国
    ↓この異民族の内“鮮卑族”が強大化
   =北魏(386~439~534)
     ※439年、華北統一=北朝開始
  3.北朝
   北魏→東魏→北斉─┐
    └→西魏→北周(華北統一)→隋
                ※589 南朝の陳を滅ぼし南北統一

Aベストアンサー

これでほぼ完璧でしょう。付け加えるとしたら、「胡」(野蛮な民族を意味する)という文字を避けて最近は「東晋十六国時代」と呼ぶことが多いとか、北朝勢力が発達するにつれて南朝は押されていきどんどん弱体化していったとか、あとは中国史上で東南に逃げた政権はほとんどが滅亡の運命をたどっている、ぐらいでしょうか。
それより、引用されているサイトがどちらなのか気になります。こういう場合には明示しておくことが先方への礼儀だと思うのですが。

Q三国志・魏に降った蜀呉の武将の最高位・真実の徐庶の姿

蜀、呉から魏に降った人物の中で、
最も高い位にまでのぼりつめたのは、誰でしょうか。
それはなんという位で、どの程度の役職でしょうか。


徐庶が好きなのです。
徐庶は魏に降ったあと、右中郎将・御史中丞までのぼったと聞きました。
この位は、なかなか高い、もしくはあまり高くないという両方の意見を聞きます。
史実の徐庶は、実は演義で描かれるほどには能力の高い人物ではなかったのかなと思ったり、
いやいや、蜀から降ったわりには、すごい位にまでのぼったじゃないかと思ったり、
曹操のために献策しないと言ったのは、本当なのかな、うそなのかなと、思ったり……

蜀呉から魏に降った他の人物のその後の位と、徐庶の位を比べることで、
徐庶の真実の姿に迫りたくて……
よろしくお願いいたします。

他に、史実の徐庶に関することなら、どんな情報でも大歓迎です。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

 単純に魏に降った、だと「黄権」(車騎将軍・儀同三司)ではないでしょうか?
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%A8%A9

 車騎将軍
  蜀だと張飛が就任。上には大将軍と驃騎将軍のみ

 儀同三司
  従一品の文官が帯びる散官で、特に職掌はなかったけれども、三公(太尉・司徒・司空)に準じる扱いを受ける役職です。

 まあ、彼は「三国名臣序賛」で蜀の四名臣に挙げられるくらいですし…。
 他に諸葛亮・ホウ統(鳳雛と呼ばれ、諸葛亮と並び称される名軍師)・蒋エン(諸葛亮の後継者)
 
 呉から魏へ降った将で、特に昇進した例はちょっと思いつかないのですが、蜀から呉へ下った将(関羽が呉に討たれた時)では「潘濬」が一番ではないでしょうか?(顧雍の次に、陸遜をさしおいて丞相に推挙されていた。長生きさえしていれば確実に丞相に…。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%98%E6%BF%AC

 ただ、徐庶と比較するには、ちょっと不向きかもしれません…。
 両者とも奮戦、捕縛後も自国への忠誠心を堅持していた事を、相手国の君主(曹丕・孫権)に認められ驚嘆させています。
 (特に黄権に対して、劉備は「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ」とまで言っていますし)

 理由は兎も角、徐庶は自分の意思で劉備を見捨ててしまったので、魏では君主を見捨てた裏切り者の汚名を背負ってしまっているので…。
 (この時代は、家族の為に義を損なうのは褒められた行為では…。演義では徐庶の母は、息子が劉備を見捨てた事に怒り、自殺していますし…。)

 特に魏の曹丕は、家臣が君主を裏切る行為を毛嫌いしていますので…。
 (旗揚げの頃からの功臣の于禁が呉に捕縛され、命乞いした事に怒り、曹操の陵墓にわざわざ、その様を描かせ、戻ってきた于禁を憤死させています。)

 ただ、御史中丞という弾劾を司る役職に昇進した事は、彼の公明正大で精力的な仕事振りが魏においてさえ認められていた証拠ではないでしょうか?

 そして、そこまで昇進した割に正史にその業績が残されていない事が、魏における彼の置かれていた立場の辛さを示していると思います。

 単純に魏に降った、だと「黄権」(車騎将軍・儀同三司)ではないでしょうか?
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%A8%A9

 車騎将軍
  蜀だと張飛が就任。上には大将軍と驃騎将軍のみ

 儀同三司
  従一品の文官が帯びる散官で、特に職掌はなかったけれども、三公(太尉・司徒・司空)に準じる扱いを受ける役職です。

 まあ、彼は「三国名臣序賛」で蜀の四名臣に挙げられるくらいですし…。
 他に諸葛亮・ホウ統(鳳雛と呼ばれ、諸葛亮と並び称される名軍師)・蒋エン(諸葛亮の後継者...続きを読む

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5世紀の高句麗と中国王朝(北魏 南宋)の関係についてですが、5世紀に高句麗は南北両朝の北魏、南宋との間に冊封関係を結んでいる、というのが私の解釈なんですが、間違っているでしょうか?確かにきちんとした書籍で確認した情報なんですが。ご意見ください。

Aベストアンサー

(北)魏書と宋書ともに、高句麗王にXX将軍の称号を与えているようですので、その理解で間違っていないと思います。少なくとも両国と朝貢関係はあったわけで、「冊封関係」は解釈のしようにより微妙ですが。

Q諸葛亮(孔明)の人材を起用する能力は低かった???

孔明よりも劉備のほうが人材を見る目や、その人材の活用術については、上であったと思いますが、いかがでしょうか?

それは劉備の周りに集まった綺羅星のごとき人材を見れば伺えます。
孔明の方はといえば、彼は意外と人事と言う最重要任務において失策が目立ちます。
1、街亭の戦いでの馬ショクの起用
2、魏延の軽視
3、魏延と楊儀との不仲の仲裁をしなかった事
4、李厳の扱い方の失敗

などなど、挙げればかなり多いです。


実は孔明の総司令官としての初陣はかなり遅くて、南蛮征伐の時期であったと言われています。
従って、戦争の現場での経験がほとんどありません。
実際、“学者である孔明”と“現場たたき上げの魏延”の意見は対立したと予想されます。
魏延にまつわる話で有名なのはやはり、「子午谷の奇謀」でしょう。
「子午谷の奇謀」は演義の創作でありますが、
史記には魏延は一か八かの作戦で長安を陥落させる作戦を提案したことが書かれています。
それに対して孔明は、魏延の作戦を軽視して、安心・安全・確実な作戦を実行していきます。
そして結果、孔明は長安を落とすことはできませんでした。

劉備は
1、魏延を能力を高く評価していおり、魏延を重視するように言っています。
2、逆に馬ショクを軽視しており、馬ショクには重要な任務を任せないように言っています。

丞相の地位にいた孔明にとって人材起用といった能力は必要不可欠なものです。
やはり孔明の人材を起用する能力は低かったと思いますか?
諸葛亮(孔明)の人材を起用する能力について、あなたの意見を聞かせて下さい。

孔明よりも劉備のほうが人材を見る目や、その人材の活用術については、上であったと思いますが、いかがでしょうか?

それは劉備の周りに集まった綺羅星のごとき人材を見れば伺えます。
孔明の方はといえば、彼は意外と人事と言う最重要任務において失策が目立ちます。
1、街亭の戦いでの馬ショクの起用
2、魏延の軽視
3、魏延と楊儀との不仲の仲裁をしなかった事
4、李厳の扱い方の失敗

などなど、挙げればかなり多いです。


実は孔明の総司令官としての初陣はかなり遅くて、南蛮征伐の時期で...続きを読む

Aベストアンサー

 こんにちは。これは面白い問題提起ですね。

 結論から先に言うと、劉備も孔明も、人材登用能力はあったと思います。政治家としての力量も充分だった、ただ、人材がいなかった、というのが答えになります。

 なぜ、蜀の滅亡が他の国に比べて速かったのか。

 私は「天下三分の計」の時点で、蜀の運命は決っていたと思います。

 魏は、中国古来の、いわゆる「中原」といわれる土地を領土としていました。
 呉は、これも南方の、古来、中原とは異なる文化を築いてきた地域を押えていました。
 対して、蜀はどうだったでしょう。確かに肥沃な土地ですが、魏や、呉ほどの文化や歴史の充実があったか。

 これが、国力に出てしまったと思うんです。で、国力とは、人材ではない。なんていうか、人材を育てるもの、発達した経済と、厚みのある文化です。

 天下三分の計を孔明が劉備に諮ったとき、もう魏、呉はかなりの安定政権でした。それに拮抗し、起死回生の道を開く賭け、それが、望蜀だったわけです。

 実際、蜀を得てから、劉備も孔明も、殖産興業に勤めています。肥沃な土地を生かして、国力を充実させるのに努めます。
 そして劉備の死後、自分の死期をも悟った孔明が力を入れたのが、南方の安定―七擒七放―と、魏を叩いておくこと―出師の表―です。つまり、自分亡き後、しばらくは外患をなくし、国力を充実させる時間を稼いでおくことだったわけです。
 そのために、孔明は、できうる限りの人材を配置したと思います。

 ただ、正直、関羽や張飛、趙雲などの将星が次々と世を去っていくなかで、新しく参加した蜀出身の武将たちは、どうだったか。

 曹操死後も、優秀な人材が集まり、強大な軍団を保持できた魏と比べて、どうしても見劣りがしてしまうんです。
 それは、「蜀」を選んだ(選ばざるをえなかった)劉備や孔明の宿命だったように思います。
 孔明は、その宿命を知っていて、それに自らの力を賭して抗ってみようと思っていたような雰囲気さえ感じます。

 冷静に考えれば、魏、呉に蜀が拮抗できる訳がないんですね。それをおそらくは知っていて、で、孔明は劉備についたと思います。

 孔明の生涯で、自分の判断と逆の事をした―それを悔いてはいないでしょうが―最初で最後が、この、三顧之礼に続く、出廬だったと思います。

 だからこそ、この話が、人の結びつきの美しさを後世に伝えることになったんだと思います。「出師の表」が、これを読んで泣かざるは人にあらず、とまでいわれたのも、その忠義よりも悲壮さの故だったと思います。そして、秋風五丈原のくだりが、あんなに美しいのも、運命に戦いを挑んだ人の姿が、共感を呼ぶからであると思います。

 長文失礼。ご参考になれば。 

 こんにちは。これは面白い問題提起ですね。

 結論から先に言うと、劉備も孔明も、人材登用能力はあったと思います。政治家としての力量も充分だった、ただ、人材がいなかった、というのが答えになります。

 なぜ、蜀の滅亡が他の国に比べて速かったのか。

 私は「天下三分の計」の時点で、蜀の運命は決っていたと思います。

 魏は、中国古来の、いわゆる「中原」といわれる土地を領土としていました。
 呉は、これも南方の、古来、中原とは異なる文化を築いてきた地域を押えていました。
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