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吉田松陰(蔭)は、明治維新に重要な役割を果たしたように言われていますが、その思想は極めて過激なものであり、現実にもその過激な行動が世の中に受け入れられず、何度も挫折(失敗?)しており、彼自身の行動実績については、特に評価されるものは何一つないように思います。
有名な松下村塾についても、正常な運営が行われたのは一年程度、と言われています。

勿論、明治維新に大きな役割を果たしたのは、彼の弟子たちによるところが多いのは確かですが、それらの思想や行動は、松陰の思想をもっとマイルドに変革したものであり、例えば久坂玄瑞などは、はっきりと師の思想の危険性を批判し、袂を別っています。

所詮松陰の事績は、いいところ「縁の下の力持ち」程度のものであり、表舞台で評価を受けるほどのものではないと思うのですが、如何でしょうか?
松陰自身による行動が、直接世の中を変えることに寄与した事例(業績)があれば教えてください。

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A 回答 (7件)

イエスキリストは12使徒、せいぜい数十人レベルの弟子しかいなかったようですが、世界宗教として現代の世界に影響を与えています。

だからイエスキリストは偉い。
と 同じ事が、明治時代の指導層、特に長州系に強かったからでしょうなぁ
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私は二十代の時、数年間や山口県に住んだ事があります。

 

山口県の名産って、何かご存知ですか?

山口県が誇る特産品は『総理大臣』です。 これまで八人も総理大臣を輩出しています。 当然、道路の舗装率はずっと昔から100%です。 イノシシの通る獣道だって舗装されているという冗談があるほどです。

さて、話題を松蔭に戻しましょう。 彼の凄い逸話は、山口にはたくさんあります。 七才にして、藩侯の前で、目出度い正月の進講講義を行っています。 この才能を愛でた毛利候は、彼を佐久間象山、広瀬淡窓のもとに送り、研鑽を積ませています。 公費留学生の走りだったのです。 

象山には広い世界観を、淡窓からは慈悲の心を学んでいます。 松下村塾の時の弟子と個人個人で違う接触のしかたをしています。 個性を重んじた教育の第一号だったのです。 

この塾には、武士だけでなく、志のある者は誰でも受け入れています。 後に、高杉晋作、久坂玄随による『奇兵隊』という民兵組織が出来、明治維新の達成に大きな貢献をしました。 これも、松蔭の身分を隔てぬ教育の賜物です。 彼の思想には、身分の貴賎や男女差別が見られません。 この時代の思想家としても、極めて異色の存在です。 

山口県の人は二人集まると、すぐに『天下国家』を論じます。 彼らは本当に政治の話が大好きです。 安倍晋三さんを見ていると、『ああ、山口の人だなあ』と思います。 絶対に持論を曲げないところが、山口人の良いところです。 
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この回答へのお礼

多くの方からご回答をいただき、誠に有難うございます。

残念ながら、いずれも教科書に載っている通りのワンパタンな解釈で、大変失望しております。(-_-;)
教科書に書かれてあることは、いわゆる「明治の元勲たち」が、自分たちのバックボーンを強化するために、「祭り上げた」ためであることは、紛れもない事実です。
当時、このような教育者は、日本中にいっぱいいたことと思います。
特に松蔭が大きく名を残しているのは、彼が「長州出身である」ことは疑いもありません。

しかし、彼が真に優れた教育者と言えるかどうかについては、多大な疑問が残ります。
彼は師である象山、淡窓などからも、その過激な思想、行動に対し、厳しい叱責を受けています。
また、松下村塾の弟子達がいわゆる「成功」を収めたのは事実ですが、それらは師の思想を、より現実的な形に修正することによって、得られたものです。
弟子達の中に、師の行動を批判する者たちが多いのも、このことを裏付けています。

「歴史」というものは、「成功者」たちによって大きく歪曲されています。
教科書に載っていることを鵜呑みにするのではなく、もっと自分の目で真実を見抜く努力が必要と思います。

有難うございました。

お礼日時:2006/10/15 14:26

 No.1,2さんに全く同感。

日本の歴史上最高に純粋な教育者、思想家だったと思います。
 ご質問の、松陰の直接の行動による業績については存じません。塾で学び、彼に心酔した弟子達が行動を起こし、世の中を変えたのだと思います。
 松陰自身はその純粋さゆえ、後に維新の元勲となった弟子達とは違って、行動力はあっても、それは「上手な行動力」であったとは思えません。
 弟子達のうちでも、彼の謦咳に接する機会の少なかった末端の弟子や、当時武士とはいえないような身分の低い人達が、周旋の能力(今で言う政治力かな?)などで、のし上がっていったのが印象的です。山形有朋や伊藤博文など。
 松陰先生はあくまでも思想家、教育者で、そんなタイプではなかったんでしょうね。
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私はあまり幕末には詳しくないのですが、吉田松陰の功績はその「過激さ」にあったと思います。


「君」と「僕」という言葉は松陰先生が広めた言葉だそうです。相手と身分関係なくわけへだてない付き合いを実践するため、彼は自分の門下生でさえ「君」と呼び自分のことを「僕」と呼びました。身分制度が当然であった当時からすると信じられないほど過激な思想です。
それから彼の行動はイラクに行って日本中から非難された青年より過激で無鉄砲です。
黒船に乗ろうとするわ、あと数週間も待てば通行手形が出るのに待ちきれなくて脱藩しちゃうわ、はっきりいってバカとしかいえません。

しかし、彼の偉大さは失敗を恐れず行動したことです。今も昔もそうですが、たいていの人は口では立派なこといいますが「じゃあやってみろ」といわれるととたんに「いや、今はその時期じゃない」とかなんとか言い訳してやろうとしません。
彼は自分が犯罪人として弾圧されることも恐れずに行動したのです。そして、ほぼ自爆に近いような形で弾圧されます。もっと上手に立ち回ったら、決してああいう死に方はしなかったでしょう。しかし、もしそうなら決して歴史に名を残すことはなかったでしょうね。

彼の偉大さは弾が飛び交う最前線で「突撃ィ!」といって飛び出したことです。先生がそんなことしたら弟子も後に続かないと収まらないじゃないですか。先生はあっさり弾に当たって死んじゃいますが、今さら後には引けないのでみんな突撃していったというところではないでしょうか。
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教育者の評価は、



何を教えたか。
誰を育てたか。
です。

松下村塾の教育方針(スローガン)
学ぶは市民平等と言う思想は、

いずれ国家のスローガン、
平等、自由と言う思想に発展します。

華族と言う特権階級を与え、軍事力(家臣)と分離します。
市民平等とは良くいいました。
大名は例外です。

自由民権ではありません。
結局何も変わってません。

変わったのは、戦後になってGHQの開放方針を受け入れてからです。

>例えば久坂玄瑞などは、はっきりと師の思想の危険性を批判し、袂を別っています。

教わる事には優れていますが、、それを自分流に解釈する事が出来ない偏った人格であったと思います。

貧乏に(松陰)に良い所無し。
良いとは金持ちに有り。

字が読めない百姓でも言うでしょう。
「尻が抜けただ。こいつは大馬鹿だ」

思想とは、実現しなければ無意味である。

思想とは、思う事自体が大切である。
この教えを理解出来ずに京都で自害します。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。
これって、松陰の教えですよ。

教育とは誰でも受けられる。
現在の教育方針です。

華族には聞こえませんでした。

今でも、大蔵省、文部省の高級職員、警察官幹部などは、
自分はエリートで、税金が給料なのは当たり前。
こう考えています。

これは血税であるので有意義に使う。
常に国民の負託に答えるように努力する。
国民の見本となり、マナーを守る。
国民に奉仕する。

こう言う行動は、派出所の警察官に良く見られます。
まあ、無駄使いが出来ないのが最大の理由ですが。
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私も#1さんと同様、彼の功績はその教育者としての能力に尽きると思います。

確かに封建体制下でも武士以外の教育水準は高かったようですが、長州とりわけ松下村塾ほど純粋な学問が行われていたところは少ないのではないでしょうか。門下生への分け隔て無い姿勢、己を律する謙虚さとそれを裏打ちする純粋な自尊心が、高杉晋作らが奇兵隊をつくるきっかけになったのは間違いないと思います。

勿論、その後の薩長政権が樹立したことによって評価が明るみにでたことも否定しません。
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 わたしは、吉田松陰の一番の功績を挙げるとすれば、教育者としての姿勢です。



 貧乏人でも、下層民でも、学習意欲のあるものは誰でも入門を許し、運営資金は、上級武士や承認の献金でやりくりしていた、というこの姿勢を、今の教師、特に日教組の左翼・北朝鮮シンパに見習ってもらいたいです。
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Q坂本龍馬が薩長同盟を締結させた???

「坂本龍馬」司馬遼太郎創造説という内容の本を読みました。
つまり、実際の坂本龍馬が歴史上果たした意義、さらには龍馬自身の人物像は、司馬遼太郎の誇張によるところがかなり大きいとういう内容です。
実際、司馬遼太郎本人も
『あれは僕の竜馬なんだよ。「竜馬がゆく」は小説だから、史実の龍馬と区別するために「竜馬」という字を使ったんだ。』
と対談集で言っていました。

この「坂本龍馬」司馬遼太郎創造説を知って以来、「竜馬がゆく」をそのまま信じて
「坂本龍馬が薩長同盟を締結させた。」
というのは間違った歴史観だと思えてきました。

小説のように龍馬が日本を救うための薩長同盟をひらめき、薩摩も長州も嫌がっているのに、ムリヤリ同盟締結をしたのでしょうか?

薩長同盟は少なくとも西郷と桂に代表される実質的な指導者層が必要性を感じていなければ坂本龍馬がいくら周旋したところで成功はなかったでしょう。
やはり薩摩もしくは長州に同盟に意志があり、同盟締結のための一つの手段として龍馬を使ったという方が納得できませんか?

Aベストアンサー

事実として明治維新後、坂本龍馬の名前はほとんど知られていませんでした。日露戦争の時、昭憲皇太后の枕元に白装束の武士が立ち「私は魂を海軍の上に宿して、必ずロシアに勝利させます」と言上したという逸話があり、時の宮内大臣田中顕光(土佐出身)が「それは坂本龍馬である」と語った話が新聞に報道されてから、名を知られるようになりました。
では、龍馬が風評伝説の中だけの人物なのかといえばそうともいえません。実際に薩長同盟締結の裏書もしているのですから、相当のポジションにいたことは疑いがないと思われます。
西郷と龍馬は親しく、西郷に関する記録にも龍馬の名前が度々出てくるようですが、薩摩のもう一人の大立者、大久保利通と龍馬は面識が薄かったのか、あるいは仲が良くなかったためか、大久保に関する記録には全く龍馬の名前が出てきません(確か『大久保日記』の某日に「土州坂本某来る」と書かれているのが唯一の記録だった、と記憶します)。
維新後、西郷は政権中枢から外れ大久保が壟断するようになって行きましたから、維新の功績を評価する場面でも自然に龍馬の名前も出なくなってしまったのではないかと想像します。
『竜馬がゆく』のすべてを鵜呑みにすることはもちろんできないと思いますが、坂本龍馬が薩長同盟締結の重要なキーマンの一人であったことは否定できないのではないでしょうか。

事実として明治維新後、坂本龍馬の名前はほとんど知られていませんでした。日露戦争の時、昭憲皇太后の枕元に白装束の武士が立ち「私は魂を海軍の上に宿して、必ずロシアに勝利させます」と言上したという逸話があり、時の宮内大臣田中顕光(土佐出身)が「それは坂本龍馬である」と語った話が新聞に報道されてから、名を知られるようになりました。
では、龍馬が風評伝説の中だけの人物なのかといえばそうともいえません。実際に薩長同盟締結の裏書もしているのですから、相当のポジションにいたことは疑いがな...続きを読む

Q環境決定論と環境可能論

環境決定論と環境可能論,どちらもいまいちよくわかりません。

具体的な例とともに教えて下さい!

ちなみに,今はどちらの考えが主流なんですか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

地理的事象(産業、人口等々)が、環境によって決定されるというのが「環境決定論」。一方、環境はその可能性の幅を規定はするものの、具体的にどうなるかは別の要因で決まる、というのが「環境可能論」。

現在主流なのは、もちろん、環境可能論です。
分かりやすい例で言うと、北海道のコメ生産です。環境が全てを決定するなら、世界中の同様の気候の他の地域と同様、コメは作らず、ムギやトウモロコシなどを生産したことでしょう。しかし、現実は、日本で有数の米どころです。コメが好きな人が入植したため(あるいは、政府の食糧政策の誘導などもあって)、品種改良や栽培法の工夫を重ね、コメができるようになりました。
もちろん、いくら頑張っても、ツンドラではコメはできないでしょうから、環境は可能性に一定の枠をはめます。それが、「環境可能論」です。

Q坂本龍馬について。簡単に教えてください。

歴史がとっても苦手です。坂本龍馬がどんな人物で何をしたのか、小さな子ども(小学生前)に説明しなければならないのですが、説明できません。

小さな子どもにも分かるようにするには、どう話せば良いでしょうか?

子どもに説明するつもりで、私にも教えてください。
m(_ _)m

Aベストアンサー

http://www.bakusin.com/sakamoto.html
↑ご参考(坂本龍馬の基礎知識)

坂本龍馬は、土佐(高知県)の郷士(下級武士)に生まれ、子供の頃は差別されたりイジメられたりで泣き虫でした。
そんな泣き虫を見かねた姉は、龍馬を鍛えるために剣術を習わせました。
学問(勉強)が苦手だった龍馬も剣術では才能を発揮しました。
そして、本格的に剣術を習うために江戸(東京)の千葉道場で剣術の腕を磨きました。
江戸で、勝海舟と知り合って開国や海軍の必要性を知りました。
その後、大阪や長崎などで活動中に薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の桂小五郎らと知り合いました。
薩摩藩と長州藩は仲が悪かったですが、龍馬が仲介して西郷隆盛と桂小五郎らを仲良くさせました。
このような活動が幕府側の反感をかい、京都の近江屋で京都見廻り組によって暗殺されました。
龍馬33歳の時でした。

まぁ、小さな子供さんに坂本龍馬を簡単に説明するなら、この程度で良いと思います。
特に、イジメられたり泣き虫だった龍馬が立派な大人に成長したことを教えて欲しいですね。

http://www.bakusin.com/sakamoto.html
↑ご参考(坂本龍馬の基礎知識)

坂本龍馬は、土佐(高知県)の郷士(下級武士)に生まれ、子供の頃は差別されたりイジメられたりで泣き虫でした。
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