カントは「理性」をどう捉えていたのでしょうか?

『純粋理性批判』を紐解いてみても、今一つすっきりしないのです。

「自分の『理性』のレベルでは、人間は過ちを犯す可能性が十二分にある」あるいは「自らの『理性』を過信してはいかん」

という感じで捉えているのですが、どうも自信持つことができないので。

ひょっとしたら、全く的外れなのかもしれないですが、どうか教えて下さいませ。

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A 回答 (6件)

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。



 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え方を導き出します。
 すなわち、ある一定の所与のドグマではなく、「その行為が全人類にとって、普遍妥当的であるかどうか」という観点から、自らの行動の規範を知れ、と言うわけです。

 「絶対」の前に於いての無限の無力、しかしながら、それゆえに、普遍妥当性を認識することの出来るアプリオリ(先天的)な人間理性の存在を指示することによって、彼は、最後の「人間存在の尊厳」を、証ししようと、揚言するわけです。

 因みに、カントの理性は、ヘーゲルでは、歴史的なガイストという概念によって捉えなおされ、「理性の狡知」による、歴史自体の発展の予定調和として、その先天性を保証されていくわけですが、考えようによっては、ヘーゲルのなかに既に、後年の「実存主義」の芽があるともいえるでしょう。
 

 いずれにしても、カントによって持ち出された「先天的に存在している」(アプリオリ)、という観点ですが、これは、当時の時代の一つの特徴であった、経験主義、カントの用語法によると「ア・ポステリオリ」(後天的)なもの、それのみで、神や人間理性、尊厳、真の意味での倫理規範、といったものを狭く限定的に規定することの誤りを、強く批判したかったのだと、私は、思います。

 分かりにくい言い方かもしれませんが、カントの理性批判は、上の意味で、存在論なのだ、という見方も出来るでしょう。

 
 ・・・・先天的に存在している人間理性の不可思議、について、深く相通底すると思われる、一人の天才的な思索者のことばを、引いておきます。

「しらるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するがゆえに、しかあるなり。」(道元・正法眼蔵)

 道元は、カントより500年以上前に生まれた日本人ですが、仏教には、もともと、唯識論などのような、認識論や存在論が含まれています。
 仏法、という宗教的なことばの背後に、後年付託された「宗教」という概念を被せてはいけませんよね。


 ・・・・以上ですが、カントについての詳細な解説としては、今、日本とドイツで共同出版されている、ハイデガー全集のなかに、彼のカントの講義録もあるはずです。


 
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この回答へのお礼

サポート、どうもありがとうございました。m(_ _)m 
「先天的に存在するものとしての理性」...ですか。

カントの問題としていた「理性」というのは私のイメージするそれよりも、もう一回りぐらいハコが大きい感じがします。

もうちょっと頑張ってみたいと思います。

哲学書は難解な上に定義が一つ一つどれも大変で困ってしまいます。解説書も役に立ちそうではありますが、実書がやはり一番ストレートな気がします。(といっても理解するには至難のようですが。翻訳ですし。)

ともあれ、ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/06 01:20

カントと自然科学については,この↓ページがまとまってると思います。



参考URL:http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phisci/Gallery/kant …
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実は私もカントのいう「理性」や「悟性」とは何なのか、しばらく前に調べていたことがあったのですが、いちおうそれによって分かったのは以下のことです。



まずカントの生きていた18世紀は、自然科学が急速に発展していった時代ですが、「十八世紀の、古典力学が完成した時代には、動物植物はもちろんのこと、人間さえも一つの機械として解釈するような傾向があり、世界を歴史的に発展し進化する過程として理解することができず、自然は絶対的に不変であるという考えかたの上に立った独特の世界観がつくりあげられました」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』)。

人間も大きく見れば自然が産んだもの、自然の一部に他なりませんが、引用のとおり18世紀における「自然」の概念はいまの常識とはかなり違っていたため、その一部である人間に対する考え方、とりわけ「理性」に対する考え方も、現在とはだいぶ違っていたようです。すなわち人間の「理性」(思慮分別)と「自然」の法則性とが同一視され、「理性」に対しても「絶対不変」の「自然」の法則性のように、絶対の信頼がおかれたということです。

その「理性」に対して検討を加えたのが、あの「批判哲学」三部作で、カントの『純粋理性批判』とは、人間の認識能力=頭脳活動の限界を明らかにしようとして書かれたものです。ここでいう認識能力とは自然科学的な認識能力のことで、カントのいう「純粋理性」とはその能力のことを示したものです。いずれにせよ常識でいうところの「理性」とは、関係はあるが違う概念だということです。(ちなみに「二律背反」や「物自体」論は、「純粋理性」の検討からでてきたものです)。

なおハイネの『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)は、後半にカント哲学とりわけ『純粋理性批判』のことが言及されているので、参考になるかと思います。またシュテーリヒの『西洋科学史(3)』(現代教養文庫)や高校の『倫理』の資料集も良いかと思います(ハイネとシュテーリヒの先の2冊は残念ながら絶版ですので、見つかれば図書館か古本で読まれると良いでしょう。)
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまっています。

なるほど…。

問題が随分と整理できたような気がします。


しかし、そうすると「今」「カントを学ぶ意義」はあるのか?なんてことを考えたりしてしまいました。

…ともあれ、どうもありがとうございました。
とても助かりました★

お礼日時:2002/05/02 12:04

 ちょっと思い出したんですが…


 かの夏目漱石先生が教鞭をとっていた時の話。
 先生は、黒板に「I Love you」と書いて、学生諸君に「なんと読みますか?」と問うた。当然、学生達は「あいしています」だの、「君がすきです」だの、めいめいに答えますわね…。 ところが、夏目先生。「ぶぁかも~ん!!」と一喝、してこう言った。 「月が青いですね」。

 これ。
 どういうわけか「純粋理性批判」を思いだすんですよね…

 …で、近く、猫を飼おうかなんて思っていまして、名前、以前からの候補の中で「カント」が有力だったんですが、ここにきて再考してます。どうも、呼べば「関東~」と、聞こえる心配と、ペットはいつしか愛称で呼びがち。そのうち、「カンちゃん」に変換されそうなんで… 
 すみません、つまらないことを…

 えっと…。R・D・レインの「結ぼれ」「好き好き大好き」は、哲学書で煮詰まった時、かなりお世話になりました。併せ読んでも、げに楽し。頭の中が、ストローに詰まっていた果実の粒粒、つるん、…な感じになることがあります。
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この回答へのお礼

お返事遅れています。
度々のおつきあいありがとうございます。

R・D・レインさん、ですか。φ( ̄ー ̄) メモメモ

漱石氏もいい味出してますね。

ネコの名前、ですが、それでは


「イマヌエル」


では如何か、と。

お礼日時:2002/04/15 23:43

「Pure reason」ですね?


カントの人生の13年をかけ仕上がった、このPure reason。

カントは、このpure reasonを書くにあたって、
まず、「感覚界を支配している根本概念」を論じました。
そして、「判断」と「認識」を2つに分け、
「判断」を「総合判断」「分析的判断」
「認識」を経験に基ずいて行われる「アポステオリ(後天的)な認識」
     先天的にもっている「アプリオリ(先験的)な認識」
アプリオリな認識能力をもつ理性。アプリオリな理念に導かれて、
理性は人間に認識を与え、方向を決断してくれる。

この純粋理性批判の「批判」は、理性が追求する認識に関しての理性能力の批判。


「形而上学的原論」「実践理性批判」「判断力批判」なども、
時間の都合がつけば、1度、目を通してみてください。カントの批判哲学です。
総合的に読むと、掴めてくることもあるかも・・・です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

頂いたアドバイス参考にして、カントの他作もいずれ目を通してみることにします。


繰り返しになりますが、どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/04/22 15:18

感覚のほうが理性に優ることを、体験的に知っていた哲学者かな、と私は思っているのですが…かねがね。


 わりと好きですカントは。おもしろくて。
 …すいません、答にも何にもなっていなくて。
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この回答へのお礼

イエイエ、とんでもございません。

「感覚のほうが理性に優る」っすか。

読み解くヒントにしたいと思います。

どうも、ありがとうございました。

思うところあれば、是非お手伝い下さると嬉しいです。

お礼日時:2002/04/07 23:53

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Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Qカントの考える自由

カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。
もし義務を果たせなかったとしても
「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。
そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。
人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して
初めて自由の存在を知る。

・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」

・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」

この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で
自由を知るとはどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っていたのに、友だちから「良くなかったよ」と聞かされたとたん、読む気が失せてしまう。
日常ではよくあることです。

カントは、道徳的な行為の規則を作ろうと考えていました。
いつ、いかなるときであっても、世界中の誰でも従わざるを得ない、そのような規則です。

普段ならそれでよくても、道徳的な行為しようとするときに、こうした「自分が~したい」という気持ちは邪魔になります。
ですからカントは「性向に依存したもの」として退けたのです。

一方、しなければならないからする、というのは、どうでしょう。

明日試験だから、勉強しなければならない。
約束してしまったから、行かなければならない。
ここにはどこにも自由など存在しません。
こうした自分以外の要請から起こす行為を、カントは「他律」としてやはり退けます。
道徳的な規則の根拠を、こうした他からの強制に求めるのは間違いである、と考えたのです。

ならば、どのような規則ならば、誰もがすすんで従うことができるのか。
すすんで従うことが、喜びになるような規則は存在するのか。

人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である、とカントは考えました。
動物は本能に支配されて生きている。
けれども人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。
カントのいう「自由」の中味はそれです。
自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である、と。

本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
これが、カントの言う「義務」なのです。

どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。

このように自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである、とカントは考えたのです。

こうしたことは『人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波文庫その他)
という本の中にあります。
カントの中では比較的読みやすい本ですので、もっと詳しいことがお知りになりたければ、ご一読ください。

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っ...続きを読む

Qカントの純粋理性批判のアンチノミーは今どう解釈?

カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。
カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか?

・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール
・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン
・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン
・物質は粒子と波の性質を持つ  量子論 ハイゼンベルク
・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク 
など

の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか?
入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを
取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。

Aベストアンサー

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹が変れば) その数だけ 論理ができるというものです。哲学を論理で思考するなら定義の数だけ 出来上がり 従来の絶対真理があるはずである というモダンとは 真っ向から対峙するものです。

このポストモダンのなか 科学とは何か であります。科学は 論理であることは 間違いないところです。絶対真理を求めるモダン科学は ポストモダンの出現により 根底から見直されるべきものとなったのです。アインシュタインの一般相対性理論も定義から出発する一つの系であります。定義の違った宇宙理論は当然 開発されていいのです。ニュートンの力学もそれらの中の一つであります。科学の証明手段は 観測でありますが この観測にしても その系から出発したものである限り その定義の証明は 科学以外の論理と同様に証明できないのです。そのようなポストモダン上で科学者を論評するなら 絶対真理探求のモダン型を信奉している科学者が 今 尚 多いと思います。発想豊かな ポストモダン科学者 世界中から数多出でよ、と言いたいのです。科学は絶対真理を求めるものではなく 論理の一種であります。定義から始まる論理系の構築であります。

そこでカントの二律背反をどう評価するか ですが、定義が異なれば背反することになることは認識していましたが それは 絶対真理ではない と断定し封印した と思うのです。ポストモダンに繋がるパンドラの箱を開けるのではなく逆に封印し モダンを確立する方向を目指したと思うのです。その方向は ニュートン力学などの科学との整合性はとれていると思います。ポストモダンの時代にカントと科学の検討は 時代にそぐわないのではないか と思います。ポストモダンで科学を料理するには その出発点の定義(公理)を明確にすることです。そこを理解していく ことが重要と思います。一般相対性理論も同様であって 定義の理解が重要であります。物理学が絶対真理に近づいている と理解するのは論理的には問題なのです。

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹...続きを読む

Q人間は何故本能よりも理性を尊重するのでしょうか? 

なぜ、人間は本能的行動よりも理性的行動を好ましいと感じるのでしょうか? 
場合によっては本能を優先するケースもあると思いますが、理性が重んじられるケースについて、人間はなぜそういう思考をするのかという事を考えています。

そもそも理性的行動は何なのか、本能的行動と理性的行動はどこで線を引くべきかという点についても漠然としていて、定義ができていません。

どなたか、少しでもこうではないかと思う方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
あるいは参考になる書籍などありましたらご教授頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

 人間の動物的能力は、他のほ乳類に勝っているかというと、それほどでもありませんが、知的能力の高さは比べる相手がいません。突出しています。

 一番不思議に思うのは“意識”という能力です。
 物事や時間や、そして何よりも自分を意識できるということ。

 他の動物にはありません。いや、鏡を見て自分だとわかると云うことは、“意識”の働きによるのかもしれませんが、意識していることさえ意識できるというのは人間ならでは。

 人間は知的高性能動物、ですね。

 生命は生きようという本能があれば生きられます。
 それに感情が加わればもっと生命体らしく生きられます。
 でもその能力に限りがあるので、結果「自然」を保つことになるのでしょう。

 人間は動物としての本能に限界がなく、その代わりに高度な精神を持っています。

 その精神の能力に、理性、感情、意志があり、記憶という能力もあり、そしてそれらを意識する、出来るという不思議な能力もあります。

 人間はこれらの能力を駆使して生きています。
 人間はその中の理性をどう働かせているんでしょう。

 理性は、「感情に溺れずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力」とありますが、 往々にして自分にとっての良し悪し、損得を判断し選択しがちです。

 でも、その理性の働きによって、自分の損得から離れて他者に向けて、社会に向けて行動させることができます。
 この事が理性的行動を重んじる、ということになるのではないでしょうか。

 ☆これは私の頭の中の出来事です。読み返してみると最後の方で、やっと本題に入り、入ったかと思うと結論を出していて、まったく幼稚な“思索作業”で恥ずかしい。もう一度トライしてみようかしら。

 
 

 人間の動物的能力は、他のほ乳類に勝っているかというと、それほどでもありませんが、知的能力の高さは比べる相手がいません。突出しています。

 一番不思議に思うのは“意識”という能力です。
 物事や時間や、そして何よりも自分を意識できるということ。

 他の動物にはありません。いや、鏡を見て自分だとわかると云うことは、“意識”の働きによるのかもしれませんが、意識していることさえ意識できるというのは人間ならでは。

 人間は知的高性能動物、ですね。

 生命は生きようという本能があれば生き...続きを読む

Qカントの人間観について

カントの人間観について、
素人でもわかるような表現で教えていただけませんか?

Aベストアンサー

 なんか最近、カント関係の質問が多いですね。少し後ろの方に「コペルニクス的転回」という題の質問があります。そこでは「純粋理性」の話がされています。ご覧下さい。
 (ひょっとして「レポートなの教えて」系、あるいは「テストなんで助けて」系の質問かも…とも思いましたが、「素人にもわかるような表現で」というあたりに「自分の頭に入れたいんだ、納得したいんだ」という熱意のようなものを感じました。そういう言葉が出てくるということは、「素人にはわかりにくい表現」で書かれたものはお読みになったのでしょう。お手伝いします。)
 で、「カントの人間観」。少し包括的な問題になりますね。以下の三つの論点で述べようと思います。
 1理性には限界があること
 2人間は自由であること
 3人間は「目的」として扱われるべきこと

 まず「1理性の限界」。これはまず、冒頭に挙げた「コペルニクス的転回」のページをご覧になってください。簡単にまとめると、「理論理性(純粋理性)は、感覚を通じて経験できる範囲でのみ正しく認識を構成できる」、「経験できない領域(物自体、イデア界)には、理論理性は踏み込めない」ということです。つまり、「人間の理性には限界があるのだ」と考えていた点、これがカントの人間観、その1です。
 で、「2人間の自由」。
 純粋理性に関してその限界を定めたということは、一見、人間の自由を制約しているように見えます。だって人間理性が無限で万能だったら、それこそ本当に何でもできることになりますからね。けれどカントは、実はそのようにしたことで逆に人間の自由を根拠付けているのです。
 そう言えるのは、まず認識の局面では、「客観的に存在している物の情報が、一方的に意識に押し付けられているのではなく、むしろ意識が積極的に働きかけて、感覚の情報を経験へとまとめあげているのだ」としていることからです。まず一つ、人間の積極性・主体性の根拠がここにあります。
 もう一つの根拠が「実践理性」です。純粋理性が対象認識を担当する理性であるのに対して、実践理性は「意志」を規定する理性です。両者は区別されています。ここでもう一度純粋理性の振る舞いを見直しましょう。それは「認識は外界から一方的に与えられる」というものではありませんでした。でも、かといって「意識が世界を創っている」とまで言えるものではありません。意識が作れるのは(「構成」できるのは)「経験」だけです。
 ということは、「外界があって」しかも「意識があって」、その両方があって初めて認識が成り立つということです。やはり認識のためには「外界の存在が必要である」ことになります。
 ところが実践理性はそうではありません。外界の存在やその作用がまったく無くても、実践理性による意志は、主体そのものの中から内発的・自己原因的に発しうる。つまりここで、外界・自然の因果を断ち切って、人間精神は自由になっているのです。のみならず、純粋理性が「そんなもん、わからんよぉ、ぴぃー」と言って泣きながら放り出したイデア界の諸観念(神とか善とか)をも、それがあるものと要請し(想定し)、いわば努力目標として自分のものにできるのです。(このためカントは、純粋理性と実践理性とは、単に横並びの同僚というわけではなくて「実践理性の方が優位に立っている」としました。)
 さてこうして、実践理性は自然の因果を断ち切って自由になるとともに、神や善を志向することができるようになりました。つまり「善意志」を持ちうるわけです。ここで出てくるのが例の「定言命法」ってやつです。「ホニャララしたければホニャララしなさい」という条件つきの命法(仮言命法)ではなくて「とにかくやれー」と命じる、アレです。外界・自然の関与なしに、実践理性が主体に命令するんです。自然の関与なしに、ということは、人間の内なる自然たる「本能」の関与なしに、ということでもあります。つまり、エッチしたいから女性に親切にするってのはイケナイんです。そーゆーシタゴコロを超越したところから出てくる「やれー」なんです。
 ということで、「人間は自然を超越して、自分で自分自身の主人であり、その意味で自由である」ということ、これがカントの人間観、その2。
 さて「3人間は目的だ」。
 芸術はバクハツですが、人間は「目的」です。これ、どういうことかと言うと、簡単に言えば「人間を道具あつかいしちゃダメだよ」ってことです。よくドラマなんかで悪党の親玉が「あいつはもう用済みだ、消せ」なんて言ってます。仮にここで言う「あいつ」が、嫌いなポテトサラダをボスの代わりに食べてあげる役だったとすると、この「あいつ」は「ポテトサラダ食いマシーン」にすぎないことになります。それで死んだら、墓碑銘には「ポテトサラダのために生まれ、ポテトサラダのために生き、ポテトサラダのために死んだ」と刻まれることになります。まんもす悲ぴい。
 そーゆーふうに人間を扱ってはいけない。たまにはうな重でも食べさせてあげなくては…ということではなくて、どんな人であっても(部下とか手下とか下僕とかパシリとかであっても)、その人を独立した人格を持つ個人として、自分の道具じゃない、その人自身の主体性を持つ存在として、尊重しなさいということです。これ、カントの人間観、その3です。
 ちなみに、カントは「国連」を最初に構想した人でもあります。上の「人間を目的として尊重」というのを、国と国との関係にまで広げているわけです。

 どの程度わかりやすくなったかわかりませんが、こんなところで。

 なんか最近、カント関係の質問が多いですね。少し後ろの方に「コペルニクス的転回」という題の質問があります。そこでは「純粋理性」の話がされています。ご覧下さい。
 (ひょっとして「レポートなの教えて」系、あるいは「テストなんで助けて」系の質問かも…とも思いましたが、「素人にもわかるような表現で」というあたりに「自分の頭に入れたいんだ、納得したいんだ」という熱意のようなものを感じました。そういう言葉が出てくるということは、「素人にはわかりにくい表現」で書かれたものはお読みになっ...続きを読む

Qカントにおける図式、構想力と悟性との関係について

カントの哲学、特に感性的認識においての、現象を知覚する時点から悟性による認識までのメカニズムがいまひとつ分かりません。下記の点が特に気になっているので、教えていただけないでしょうか。

(1)図式と構想力との関係。
(2)『判断力批判』では「構想力と悟性の遊動」と書かれています。これは構想力がデータを送り、悟性がデータを受けようとするときにうまく一致せず、それゆえ美を感じるということなのだと理解していますが、では通常美的判断でない状態では、構想力はどんなデータを送り、悟性はどんなデータを受けているのでしょうか?

Aベストアンサー

お礼欄、拝見しました。

うーん。ここらへんめちゃくちゃややこしいとこなんですよ。
検索してもいいサイトが見つからなかったんで、がんばって書いてみよう。
ただあんまり信用しないでください(参考の一助というぐらいで)。

◎直観が赤くて丸いものを認識する
 ↓
◎悟性の中で、カテゴリーがスタンバイ:カテゴリーっていうのは、判断の機能です。

・分量を判断(すべてのものか、特殊なものか、それともこのひとつか)
・性質を判断(これは~である、といえるものか、これは~でない、といえるものか、これは非~である、といえるものか)
・ほかのものとの関係を判断(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、もし…なら、~である、という条件付きのものか、これは~か…のどちらかである、といえるのか)
・様相(ものごとのありよう)を判断(~であるだろう、といえるのか、~である、といえるのか、かならず~でなければならないといえるのか)
 ↓
◎カテゴリーがデータに適用できるように、図式というアプリケーションが起動する:図式はカテゴリーを感性化するよう、変換する機能です(直観は空間と時間しか認識できませんから、カテゴリーを空間と時間に変換していくんです)。

・分量のカテゴリーの図式は数である(数という概念は時間に結びついていくから)。
・質のカテゴリーの図式は度である(時間を充実する感覚の有無によって判断できるから←これは相当苦しい)。
・関係のカテゴリーの図式は時間順序である(時間との関係で因果関係は把握できるから)。
・様相のカテゴリーは時間総括である(~であるだろう、といえるのは、いずれかの時間においてそうなる、ということであり、~である、といえるのは、一定の時間においてそうなる、ということであり、かならず~でなければならない、というのは、あらゆる時間においてそうなるということだから)。
 ↓
◎アプリケーションが情報を取り込んで、カテゴリーに分類。判断成立。

え?図式って空間がないじゃん、って思うでしょ?
空間は外的現象の形式であって、心理的な内的現象は、空間的なものではない、とカントは考えた。
それに対して時間は、外的、内的を問わない、あらゆる現象にあてはまる。
したがって、カテゴリーが感性化されるという場合、カテゴリーは時間という形式と結びつくと考えたんです。
だから、先験的図式は悟性のカテゴリーに従った「先験的時間限定」ということになります。

質問者さんのあげられた例に即すると、数量は理解できるのですが、「赤い」「丸い」という性質が、カントの図式のカテゴリー表に照らし合わせてどのように判断されるのか、私にはちょっとよくわかりません。

ただ、#1の回答ではっきり書かなかった部分の判断の流れを詳しく書くと、こうなると思います。
おおよその流れを汲み取っていただければ良いのではないかと思います。


『純粋理性批判』というのは、いわばカント哲学の“ルールブック”みたいなもので、ひとつひとつ言葉を措定し、意味範囲を規定しているので、これを押さえておかないと、『実践』『判断力』もよくわからないことになってしまいます。
ただ、実際、読んでいくのは大変です(^^;)。
私の場合、カント自身による『純粋…』の要約である『プロレゴメナ』と岩崎の『カント』を先に読んで、岩崎の本はいつも手元に置いてアンチョコとして活用しつつ『純粋…』を読みました。ナビゲーターがないと、やっぱりちょっと辛かったです。

お礼欄、拝見しました。

うーん。ここらへんめちゃくちゃややこしいとこなんですよ。
検索してもいいサイトが見つからなかったんで、がんばって書いてみよう。
ただあんまり信用しないでください(参考の一助というぐらいで)。

◎直観が赤くて丸いものを認識する
 ↓
◎悟性の中で、カテゴリーがスタンバイ:カテゴリーっていうのは、判断の機能です。

・分量を判断(すべてのものか、特殊なものか、それともこのひとつか)
・性質を判断(これは~である、といえるものか、これは~でない、といえる...続きを読む

Qカントの純粋理性と実践理性について

この2つの違いについて教えてください。

Aベストアンサー

 非常に簡単に違いを説明すると、
純粋理性は形而上学的テーマが主題であり、観念的考察である。それに対して実践理性は実際的な問題が主題となっており、行為の問題である。

 双方の共通点はアプリオリな総合判断はいかにして可能かという問題である。『純粋理性批判』ではそれが観念上可能であることを述べることにとどまるが、『実践理性批判』ではそれが実際的に、つまり、人間の行為として出現するときにはどのようなものかを論じた。

Qカントのカテゴリについて質問です。

カントのカテゴリについて質問です。
量、質、関係、様相に4大別され、それぞれが3つに細分されて全体で12個あると説明があるのですが、具体的なイメージがよく分かりません。
簡単でいいのでどなたか教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)あるカメは水棲である。
単称的:「この」SはPである。
(例)このネコは水の中に入るのを好む。

「質のカテゴリー」
肯定的:SはPで「ある」
(例)信号は青である。
否定的:SはPで「ない」
(例)信号は赤ではない。
無限的:Sは「非Pである」
(例):青信号は赤ではないほうの信号である。

「関係のカテゴリー」
定言的:SはP「である」
(例)本日は晴天である。
仮言的:「Xならば」、SはPである
(例)日が照っていれば、本日は晴天である。
選言的:Sは「PかQかのいずれかである」
(例)降水量ゼロというのは晴れているか曇っているかのどちらかだ。

「様相のカテゴリー」
蓋然的:SはP「であろう」
(例)明日の天気は晴れでしょう。
実然的:SはP「である」
(例)現在の気象状態は晴れである。
確然的:Sは「必ずPでなければならない」
(例)晴天は降水量が1ミリ未満でなければならない。

人間はまず外部からの刺激をまず感覚器官で受けとります。それは「空間と時間の形式」(ものの大きさや形状、前かあとか、など)にあてはめて受けとられるのですが、それだけでは認識にはいたりません。そこから直観として得られた対象を、悟性が上記の形式において判断する、それによって認識が成立する、とカントは考えたわけです。

簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)ある...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
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Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む


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