カントは「理性」をどう捉えていたのでしょうか?

『純粋理性批判』を紐解いてみても、今一つすっきりしないのです。

「自分の『理性』のレベルでは、人間は過ちを犯す可能性が十二分にある」あるいは「自らの『理性』を過信してはいかん」

という感じで捉えているのですが、どうも自信持つことができないので。

ひょっとしたら、全く的外れなのかもしれないですが、どうか教えて下さいませ。

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A 回答 (6件)

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。



 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え方を導き出します。
 すなわち、ある一定の所与のドグマではなく、「その行為が全人類にとって、普遍妥当的であるかどうか」という観点から、自らの行動の規範を知れ、と言うわけです。

 「絶対」の前に於いての無限の無力、しかしながら、それゆえに、普遍妥当性を認識することの出来るアプリオリ(先天的)な人間理性の存在を指示することによって、彼は、最後の「人間存在の尊厳」を、証ししようと、揚言するわけです。

 因みに、カントの理性は、ヘーゲルでは、歴史的なガイストという概念によって捉えなおされ、「理性の狡知」による、歴史自体の発展の予定調和として、その先天性を保証されていくわけですが、考えようによっては、ヘーゲルのなかに既に、後年の「実存主義」の芽があるともいえるでしょう。
 

 いずれにしても、カントによって持ち出された「先天的に存在している」(アプリオリ)、という観点ですが、これは、当時の時代の一つの特徴であった、経験主義、カントの用語法によると「ア・ポステリオリ」(後天的)なもの、それのみで、神や人間理性、尊厳、真の意味での倫理規範、といったものを狭く限定的に規定することの誤りを、強く批判したかったのだと、私は、思います。

 分かりにくい言い方かもしれませんが、カントの理性批判は、上の意味で、存在論なのだ、という見方も出来るでしょう。

 
 ・・・・先天的に存在している人間理性の不可思議、について、深く相通底すると思われる、一人の天才的な思索者のことばを、引いておきます。

「しらるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するがゆえに、しかあるなり。」(道元・正法眼蔵)

 道元は、カントより500年以上前に生まれた日本人ですが、仏教には、もともと、唯識論などのような、認識論や存在論が含まれています。
 仏法、という宗教的なことばの背後に、後年付託された「宗教」という概念を被せてはいけませんよね。


 ・・・・以上ですが、カントについての詳細な解説としては、今、日本とドイツで共同出版されている、ハイデガー全集のなかに、彼のカントの講義録もあるはずです。


 
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この回答へのお礼

サポート、どうもありがとうございました。m(_ _)m 
「先天的に存在するものとしての理性」...ですか。

カントの問題としていた「理性」というのは私のイメージするそれよりも、もう一回りぐらいハコが大きい感じがします。

もうちょっと頑張ってみたいと思います。

哲学書は難解な上に定義が一つ一つどれも大変で困ってしまいます。解説書も役に立ちそうではありますが、実書がやはり一番ストレートな気がします。(といっても理解するには至難のようですが。翻訳ですし。)

ともあれ、ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/06 01:20

カントと自然科学については,この↓ページがまとまってると思います。



参考URL:http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phisci/Gallery/kant …
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実は私もカントのいう「理性」や「悟性」とは何なのか、しばらく前に調べていたことがあったのですが、いちおうそれによって分かったのは以下のことです。



まずカントの生きていた18世紀は、自然科学が急速に発展していった時代ですが、「十八世紀の、古典力学が完成した時代には、動物植物はもちろんのこと、人間さえも一つの機械として解釈するような傾向があり、世界を歴史的に発展し進化する過程として理解することができず、自然は絶対的に不変であるという考えかたの上に立った独特の世界観がつくりあげられました」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』)。

人間も大きく見れば自然が産んだもの、自然の一部に他なりませんが、引用のとおり18世紀における「自然」の概念はいまの常識とはかなり違っていたため、その一部である人間に対する考え方、とりわけ「理性」に対する考え方も、現在とはだいぶ違っていたようです。すなわち人間の「理性」(思慮分別)と「自然」の法則性とが同一視され、「理性」に対しても「絶対不変」の「自然」の法則性のように、絶対の信頼がおかれたということです。

その「理性」に対して検討を加えたのが、あの「批判哲学」三部作で、カントの『純粋理性批判』とは、人間の認識能力=頭脳活動の限界を明らかにしようとして書かれたものです。ここでいう認識能力とは自然科学的な認識能力のことで、カントのいう「純粋理性」とはその能力のことを示したものです。いずれにせよ常識でいうところの「理性」とは、関係はあるが違う概念だということです。(ちなみに「二律背反」や「物自体」論は、「純粋理性」の検討からでてきたものです)。

なおハイネの『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)は、後半にカント哲学とりわけ『純粋理性批判』のことが言及されているので、参考になるかと思います。またシュテーリヒの『西洋科学史(3)』(現代教養文庫)や高校の『倫理』の資料集も良いかと思います(ハイネとシュテーリヒの先の2冊は残念ながら絶版ですので、見つかれば図書館か古本で読まれると良いでしょう。)
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまっています。

なるほど…。

問題が随分と整理できたような気がします。


しかし、そうすると「今」「カントを学ぶ意義」はあるのか?なんてことを考えたりしてしまいました。

…ともあれ、どうもありがとうございました。
とても助かりました★

お礼日時:2002/05/02 12:04

 ちょっと思い出したんですが…


 かの夏目漱石先生が教鞭をとっていた時の話。
 先生は、黒板に「I Love you」と書いて、学生諸君に「なんと読みますか?」と問うた。当然、学生達は「あいしています」だの、「君がすきです」だの、めいめいに答えますわね…。 ところが、夏目先生。「ぶぁかも~ん!!」と一喝、してこう言った。 「月が青いですね」。

 これ。
 どういうわけか「純粋理性批判」を思いだすんですよね…

 …で、近く、猫を飼おうかなんて思っていまして、名前、以前からの候補の中で「カント」が有力だったんですが、ここにきて再考してます。どうも、呼べば「関東~」と、聞こえる心配と、ペットはいつしか愛称で呼びがち。そのうち、「カンちゃん」に変換されそうなんで… 
 すみません、つまらないことを…

 えっと…。R・D・レインの「結ぼれ」「好き好き大好き」は、哲学書で煮詰まった時、かなりお世話になりました。併せ読んでも、げに楽し。頭の中が、ストローに詰まっていた果実の粒粒、つるん、…な感じになることがあります。
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この回答へのお礼

お返事遅れています。
度々のおつきあいありがとうございます。

R・D・レインさん、ですか。φ( ̄ー ̄) メモメモ

漱石氏もいい味出してますね。

ネコの名前、ですが、それでは


「イマヌエル」


では如何か、と。

お礼日時:2002/04/15 23:43

「Pure reason」ですね?


カントの人生の13年をかけ仕上がった、このPure reason。

カントは、このpure reasonを書くにあたって、
まず、「感覚界を支配している根本概念」を論じました。
そして、「判断」と「認識」を2つに分け、
「判断」を「総合判断」「分析的判断」
「認識」を経験に基ずいて行われる「アポステオリ(後天的)な認識」
     先天的にもっている「アプリオリ(先験的)な認識」
アプリオリな認識能力をもつ理性。アプリオリな理念に導かれて、
理性は人間に認識を与え、方向を決断してくれる。

この純粋理性批判の「批判」は、理性が追求する認識に関しての理性能力の批判。


「形而上学的原論」「実践理性批判」「判断力批判」なども、
時間の都合がつけば、1度、目を通してみてください。カントの批判哲学です。
総合的に読むと、掴めてくることもあるかも・・・です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

頂いたアドバイス参考にして、カントの他作もいずれ目を通してみることにします。


繰り返しになりますが、どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/04/22 15:18

感覚のほうが理性に優ることを、体験的に知っていた哲学者かな、と私は思っているのですが…かねがね。


 わりと好きですカントは。おもしろくて。
 …すいません、答にも何にもなっていなくて。
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この回答へのお礼

イエイエ、とんでもございません。

「感覚のほうが理性に優る」っすか。

読み解くヒントにしたいと思います。

どうも、ありがとうございました。

思うところあれば、是非お手伝い下さると嬉しいです。

お礼日時:2002/04/07 23:53

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Q高校倫理 カント『純粋理性批判』について

 大学受験生です。
 教えていただきたいことがあります。
 カントの『純粋理性批判』に対する参考書の解説の中で
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 「私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない」
という表現があるのですが、よく内容がつかめていません。
 具体的にわかりやすくご説明いただけると助かるのですが。
 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

哲学経験ないけど、何となく回答>w<b
>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
この二つの命題は実質的には同じこと言っているようだよぅ
「経験」=感覚や知覚によって直接にあたえられ体験されるものごと
感覚や知覚→総じて感性をさすと思うぅ
それで、二つの命題比べたら、なんとなく言ってることはおなじかなぁ
ようは感性と限定された時間・空間の関係をいってるってこと

つぎ!
自分たちの日常会話って、大体場所と時間を指定して会話されるよねぇ?
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A 「週末に」
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A 「山が本当にないのか手分けして調べよう」
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初めてコミュニケーションが成り立っているといっても過言ではないのでは?

逆に時間・空間指定がなければどうなるかなぁ
例えば、時間指定がない場合
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A 「Dは私の妻だ」
B 「重婚・・・!?」
このばあい、Aは犯罪者(重婚罪)かあるいは一夫多妻制の国の人となってしまいそう
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A 「Dは現在の私の妻である」
E 「おまえだったのか!わしの元妻Dの不倫相手は!!」
E 「いつだ、いつからなんだ。はけ!!」
A 「うははははぁ、ぐはぁ、・・・」
*動詞の過去・現在形も時間指定の一種と考える
いずれでもなかったとなってまうことにも・・・
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>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
これは、つまり、
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でも、これだとパラパラ漫画みたいだなぁ
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>カントの『純粋理性批判』に対する参考書の解説の中で
この参考書の題からして、理性と感性を比較してるのではなかろかぁ
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あり、これじゃぁ日常会話の件、意味ないような・・・
あ、でも、日常会話の件考えると、時間・空間限定は理性の作用とでもいえそうだぁ
たぶん><

げぇ、もうAM4:00じゃんけぇ
なんてこった!!

哲学経験ないけど、何となく回答>w<b
>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
この二つの命題は実質的には同じこと言っているようだよぅ
「経験」=感覚や知覚によって直接にあたえられ体験されるものごと
感覚や知覚→総じて感性をさすと思うぅ
それで、二つの命題比べたら、なんとなく言ってることはおなじかなぁ
ようは感性と限定された時間・空間の関係をいってるってこと

つぎ!
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Q人生の分岐点。その時失うものがなかった人へ。

こんにちは。

大学を両立しながら受験し、大学を変更し、医師へなりたいと思っているものです。

後期のセンター試験と大学の試験がかぶり、今からでも気持ちを高めてのりきっていきたいと思っています。

でも会社を辞めて中途採用に挑む人や、失うものがない状態で人生の方向性を決める人と比べたら自分の感じる辛さはまだ軽いとも思います。

そこで今あげた失うものがない状態から何かに挑戦したり成功した人の話しが聞けたらなと思い投稿しました。

何でもいいので話し聞かせてください。

Aベストアンサー

 医学部には5浪程度は珍しくないですし、10浪すら
普通にいます。私が以前見た東北大学医学部の入学者
分布では、2浪に山のピークがあり、そこから10浪に
向かって広がる大きな裾野がありました。

 ですので、いまの大学を卒業してから医学部を目指す
という方法もあるかと思います。3年4年になれば授業も
ラクになるので受験勉強もしやすいし、とりあえず大学を
卒業しておけばイザというときの保険になります。この
保険は、気持ちの上で大きくプラスになりますよ。

Qカントの純粋理性批判のアンチノミーは今どう解釈?

カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。
カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか?

・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール
・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン
・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン
・物質は粒子と波の性質を持つ  量子論 ハイゼンベルク
・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク 
など

の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか?
入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを
取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。

Aベストアンサー

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹が変れば) その数だけ 論理ができるというものです。哲学を論理で思考するなら定義の数だけ 出来上がり 従来の絶対真理があるはずである というモダンとは 真っ向から対峙するものです。

このポストモダンのなか 科学とは何か であります。科学は 論理であることは 間違いないところです。絶対真理を求めるモダン科学は ポストモダンの出現により 根底から見直されるべきものとなったのです。アインシュタインの一般相対性理論も定義から出発する一つの系であります。定義の違った宇宙理論は当然 開発されていいのです。ニュートンの力学もそれらの中の一つであります。科学の証明手段は 観測でありますが この観測にしても その系から出発したものである限り その定義の証明は 科学以外の論理と同様に証明できないのです。そのようなポストモダン上で科学者を論評するなら 絶対真理探求のモダン型を信奉している科学者が 今 尚 多いと思います。発想豊かな ポストモダン科学者 世界中から数多出でよ、と言いたいのです。科学は絶対真理を求めるものではなく 論理の一種であります。定義から始まる論理系の構築であります。

そこでカントの二律背反をどう評価するか ですが、定義が異なれば背反することになることは認識していましたが それは 絶対真理ではない と断定し封印した と思うのです。ポストモダンに繋がるパンドラの箱を開けるのではなく逆に封印し モダンを確立する方向を目指したと思うのです。その方向は ニュートン力学などの科学との整合性はとれていると思います。ポストモダンの時代にカントと科学の検討は 時代にそぐわないのではないか と思います。ポストモダンで科学を料理するには その出発点の定義(公理)を明確にすることです。そこを理解していく ことが重要と思います。一般相対性理論も同様であって 定義の理解が重要であります。物理学が絶対真理に近づいている と理解するのは論理的には問題なのです。

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹...続きを読む

Q【哲学・理性】世界人口73億人時代。世界で1番理性がないのは人間ではないでしょうか?どの動物

【哲学・理性】世界人口73億人時代。

世界で1番理性がないのは人間ではないでしょうか?

どの動物より理性がないから73億という種が存在している。

そう思いませんか?

理性があったら、こんなに人口って増えないと思うんですよ。

どう思いますか?

人間は理性がないのでこれだけ人口が増加した。

違いますか?

"理性がこの世界で1番ないのが人間"と習えば納得出来ますが、

人間は理性があるから世界の覇者になれたと習う今の教育だと何だか納得出来ない。

胸の奥底にそうじゃないと思うんだけどなあと思っても口に出せない。

人間は理性がないから世界の覇者になれたと習えば教育って凄いんだなあと思うけど、どうも納得出来ないことを教育として押し付けられると教育って洗脳だなあ。矛盾してんなあ。無駄だなあと思ってしまいます。

こんな屁理屈男は頭がおかしいんでしょうか?

この地球上で1番理性がない人間だからこそ世界人口が伸び続けている。

facebookのCEOは50兆円を寄付して貧しい人たちを救済するって言ってるけど、人間は理性がないので更に子作りを続け、貧困の国の人口が更に増えて、最終的に先進国をマンパワーで潰す未来しか見えない。

貧困国の救済は人間は理性がないので意味がないと思えてしまう。

理性があったら、こんな人間だらけの世界にはならなかったと思います。

【哲学・理性】世界人口73億人時代。

世界で1番理性がないのは人間ではないでしょうか?

どの動物より理性がないから73億という種が存在している。

そう思いませんか?

理性があったら、こんなに人口って増えないと思うんですよ。

どう思いますか?

人間は理性がないのでこれだけ人口が増加した。

違いますか?

"理性がこの世界で1番ないのが人間"と習えば納得出来ますが、

人間は理性があるから世界の覇者になれたと習う今の教育だと何だか納得出来ない。

胸の奥底にそうじゃない...続きを読む

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そもそもとして生物の本能を勘違いしています
生物は本来、自分の遺伝子を残そうとする本能を持っています
そのためには同種であろうと、邪魔になる場合は排除(極端には殺害)します
ですが人間には理性があるので、理性が勝っているうちは邪魔だろうと安易には殺害などの行動には移しません
そのために人類は社会を維持する事ができ、社会を構築する事で種全体の安定が図られ、
地上で最も広範囲に広がった大型の生物となっています

もし人類に理性が無ければ、確実に殺し合いになりここまで増える事はできてなかったでしょう

Qカント 純粋理性批判 カテゴリー表を獲得する意味 

初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。

超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。

私の今の考えでは、
判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。
一方でその統一機能を、直観における表象間の結合に即して考えた場合、それは対象とのかかわりを持つために、超越論的論理学に属する。
したがって、超越論的論理学についての議論においては、悟性の統一機能の場を、概念間から直観における表象間へと”次元の繰り下げ”をしなくてはならなかった。

ということが理由なのかなと思っています。
とはいえ、なぜ表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は、対象とかかわりあうようになるのか、などという点で全く疑問が解消されません。

どなたか、純粋理性批判のこの箇所について、理解のための助言をいただけませんか?
お願いします!!

初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。

超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。

私の今の考えでは、
判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。
一方でその統一機能を、直観における表象間の結...続きを読む

Aベストアンサー

あまりカントに詳しくないので、間違っているかもしれませんが、「カントが判断表でなく、カテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味を把握しかねています」という場合の、判断表とかカテゴリー表というのは何なのでしょうか?
判断表というのは形式論理学の判断形式だと思いますが、カントはそれをカテゴリーに流用して、それを純粋悟性概念といいました。

古代ギリシャのアリストテレスにとって、カデゴリーとは述語のこと、それに対して主語がヒュポケイメノンといわれるもの、実体とか基体という意味でした。
アリストテレスは10個のカデゴリーを挙げていました。

実体、量、質、関係、場所、時間、状況、所有、能動、受動

このうち、実体は主語であって述語ではなかったので、アリストテレスは苦し紛れに、それを第一実体といい、残りを第二実体といいました。
だけどアリステテレスのカテゴリーは、どちらかといえば恣意的で、カテゴリー同士、重複するところがありました。
アリストテレスにとってカテゴリーとは論理学上の分類でしたが、カントにとってカテゴリーは認識の客観性を保証するものです。
つまり主観的な知覚判断を客観的なものにすること、対象を感覚器官を経由した感覚データを直観の形式である時間・空間で整理・整頓することで、それに形式論理学の判断形式を当てはめて、カテゴリーと総合統一することで認識を客観的なものとして作り上げます。

したがってカントのカテゴリー表は形式論理学の判断形式を流用したものです。
「カントが判断表でなく、わざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったのか」ではなく、形式論理学の判断形式をそのままカテゴリー表として使ったのです。
形式論理学の判断形式とカントのカテゴリー表は同じものだと思います。
その違いは形式論理学の判断形式が、論理的な分類なのに反し、カントの場合、認識の形式、主観的な知覚判断を客観的なものに作り変えるための分類だというだけです。

「したがって、超越論的論理学についての議論においては悟性の統一機能の場を概念間から直観における表象間へと、次元の繰り下げをしなくてはならなかった」

・・・・・と、おっしゃいますが、カントにおいてカテゴリーはアリストテレスとは違って論理学上の区分・分類ではなく、認識論上の分類なので、最初から知覚判断に適用してそれを客観的なものとして作り上げるためのもので、「次元の繰り下げ」などというものではなかったと思います。

カントの哲学は超越論的哲学と言われ、その場合の超越論的とはフッサールとは違い、認識の成立している可能性の条件を遡行して、それを探究するもののこと。
どのような条件があれば、認識の客観性が成立するか、その答えが純粋悟性概念であるカテゴリーでした。
カントはそのカテゴリーの超越論的演繹を行ない、それが対象に適用できることを証明しました。
もっとも、カントは「純粋理性批判」をほとんど書き上げていたのに、その演繹の章を書き上げるのに10年の歳月を要したと言っています。

「なぜ、表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は対象とかかわりあうようになるのか」

・・・・・と、おっしゃいますが、考え方が逆です。
表象ではなく、現象。
外界を感覚器官で感覚データとして受容し、その現象を直観の形式である時間・空間で、整理するだけでは認識は成立せず、それを悟性の形式であるカテゴリーによって総合統一することで初めて、認識が客観的なものとして出来上がります。
そして現に認識が成立している以上、悟性は対象と関わりあわなければならないものですから、なぜ? といって疑問に思うようなものではありません。
認識が成立している以上、そのようになっていると思うしかありません。

カントにとって、カテゴリーは実在ではなく、フィクション、構造主義でいう「構造」のようなもの、あると言えばあるけど、ないと言えばないもの。
それにカントは4×3の12個しかカテゴリーを挙げていないけど、それは形式論理学の判断形式を流用したからで、その12個以外にも、まだあります。

最後にステファン・ケルナーの「カント」より、引用して終わります。

「カントにとって、カテゴリーを適用するとは、純粋直観における多様なものを統一することによって客観的関係を与えることである。客観性の担い手、主観的な印象の単なる集積とは対立する対象が直観において算出されないなら、判断によって客観性を与えることは不可能である。カテゴリーの適用によって客観性を与えるのではないとすれば、直観の内には何らの対象も存在しない。われわれが純粋な多様なものを統一することにより、直観において対象を産出するのでなければ、客観性の何らの徴表も存在しない。そればかりか、直観における対象の産出とカテゴリーの適用とは、同一の過程の二つの側面なのである」

あまりカントに詳しくないので、間違っているかもしれませんが、「カントが判断表でなく、カテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味を把握しかねています」という場合の、判断表とかカテゴリー表というのは何なのでしょうか?
判断表というのは形式論理学の判断形式だと思いますが、カントはそれをカテゴリーに流用して、それを純粋悟性概念といいました。

古代ギリシャのアリストテレスにとって、カデゴリーとは述語のこと、それに対して主語がヒュポケイメノンといわれるもの、実体とか基体という意...続きを読む

Q【人間・理性】人間の理性って何ですか?理性って何ですか?

【人間・理性】人間の理性って何ですか?

理性って何ですか?

Aベストアンサー

色々な意味が定義されていますが、基本的には、
1 道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。
2 善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力。
などです。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/231038/m1u/%E7%90%86%E6%80%A7/
大雑把に言うと、『正しいことを考える能力』といったところではないかと思います。
理性は、生まれた後のしつけ、教育などによって育まれます。
対義語は「本能」で、これは、動物として生まれながらに持っている能力。
本能+理性=人間
という図式が成り立つでしょう。
動物の場合は、高等な類人猿などを除いて、基本的に本能のみで行動する。

Q薬学と、哲学が同じ大学に、あるのが不思議です。薬学には、実益は、あるでしょうがカントの純粋理性批判を

薬学と、哲学が同じ大学に、あるのが不思議です。薬学には、実益は、あるでしょうがカントの純粋理性批判を理解して、それが個人の教養以上の話しに、なるんでしょうか、

Aベストアンサー

薬科大卒でしたが、確かに、哲学ありました。教養課程だけでしたし、高校の延長って感覚でしたね!


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