「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

戦前の華族の生活・風習などに興味があります。参考になる本、サイトなど、があったら教えて頂けませんか?(ちなみに『徳川慶喜の子供部屋』榊原喜佐子著のみ読みました)
知識のある方、どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (2件)

戦前は、明治より前の貴族階級と違い、華族といっても公卿、諸侯、軍人や功労者など多くの家系があり、さらに富豪家系と貧困家系の差も大きかったと聞きます。

また、家同士の争いも多く、特に軍人や功労者は爵位をもらう前の基盤の身分がないので公卿華族や諸侯華族に軽視され、「無粋、下民育ち」と馬鹿にされていたそうです。私の出身家は公卿華族の分家で親戚に本家の当主がいますが、聞いてみたところ彼の学習院時代の親友は貧乏な公卿華族で屋敷も小さく、食事も粗末で使用人も一人だったそうですが、「鷹は飢えても穂を摘まず」という格言を家訓としてがんばっていたそうです。
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「近代日本の上流階級」タキエ・スギヤマ・リブラ著


華族制度についてのしっかりした研究書ですが,一読の価値あり.
お値段が高いんですが,図書館で探してみてはいかがでしょう.

参考URL:http://www.yomiuri.co.jp/bookstand/syohyou/20000 …
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この回答へのお礼

ご教示、ありがとうございます。参考URL、見せて頂きました。
なかなか面白そうですね。(確かにお値段、高めですね…)
おっしゃる通り、図書館利用して、是非、読んでみたいと思います。
なかなか資料がなく、困っていましたが、助かります。
貴重な情報ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/08 00:03

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Q旧華族系の家で今でも資産のある家

公家や皇族の流れを汲む旧華族系の家で,今でも豊かな富を蓄えている家があると聞きました。現代でも実際そのような豊かな暮らしをしている旧華族系の家ってあるのでしょうか?また,それらの家は会社を起こしているわけでもないのに,莫大な富を保有しているみたいですが,収入源は何なんでしょうか?いくら由緒ある家柄だというだけで,昔みたいに豊かな暮らしができるとは思えませんし…。知られざる世界なので興味があります。ご存知の方回答いただけるとありがたいです!

Aベストアンサー

私がよく遊びに行く先。
栃木県千本松牧場。やまがたありともの経営していた農場です。

近くの青木農場。ここも家族です。せんだっての大使館立てこもり事件の時の大使で.記者会見で煙草を吸ってマスコミにたたかれた人の家です。

以上は観光ガイドブックに載っているようなないようです。
別の方は株式を多く持っていて.この配当で暮らしているとも聞いています。

Qお公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住

お公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住の四条家や京都在住の冷泉家は裕福そうですが、旧五摂家や他の旧公家はどうでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

私の知人は藤原北家隆家流の堂上家で、ご本家は明治維新後は子爵でしたが、曾祖父の代で傍流になり、祖父が変な修験道に凝って土地を切り売りして没落、父親はそれでも一流企業の役員として悠々自適の生活でしたが、子ども(私の知人ですけど)の代で相続争いで残った資産も散逸し、現在は何とか暮らしているという状況です。

別の知人は堂上華族で、維新の後はうまく資産家のところに婿養子に入り込み、戦前戦中は上手に生き抜いて、この知人の父親の代は徴兵逃れで医者になり、知人の代でも医者や歯医者が多く、比較的裕福に暮らしています。

両方ともご本家ではなく、傍流ですけど、ご本家は神社関係の仕事をしています。

Q華族と

戦前、華族が事業の失敗などで破産する事はあったのでしょうか?
そういった場合、爵位は剥奪されたりしたのでしょうか?

華族が犯罪を犯し、有罪が確定した場合は爵位の剥奪などはあったのでしょうか?


今でも旧華族同士、霞会館などで親交があるみたいですが、旧華族の方は英国貴族の様に働かなくても資産が潤沢で、趣味で仕事をしているような方が多いのでしょうか。

Aベストアンサー

破産しなくても華族の体面が保てない場合は自ら爵位を返上したというたくさんあります。(公家出身の興福寺の院家が還俗して男爵位をもらった南都貴族と呼ばれる華族にはもともと財産が無かったために体面が保てず爵位を返上したという何件かの例があります。また清水徳川家も確か爵位を返上しています。)
また、もともと公家や大名だった家では、爵位は家の伝統に与えられているので犯罪を犯した場合でも後継者に爵位を譲って隠居してしまえば家の爵位は残るという例もありますが、明治維新その他の功績で爵位をもらったいわゆる新華族の場合は爵位を剥奪されたという例もあります。
華族といってももとも資産が潤沢ではなかったという例も多いですし、戦後のいろいろなことから没落した家もたくさんあります。ただ一部の大名家はうまく資産を残していまも裕福という場合もありますが。

Q天皇の側室について

平成天皇、昭和天皇、大正天皇、明治天皇、、、、の中にも側室(二号さん)の子どもであった人が複数いると某雑誌に書かれていましたが、それは誰でしょうか。

 その場合、その側室である女性はどういう人だったのでしょうか。側室の人も公表されて系統図に残るのでしょうか。

Aベストアンサー

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
    権典侍?・園祥子…父:園基祥

孝明天皇
女御・九条夙子(英照皇太后)…父:従一位関白 九条尚忠
側室 典侍・中山慶子【明治天皇の生母】…父:従一位権大納言 中山忠能
    典侍・坊城伸子
    典侍・藤原(堀川)紀子

仁孝天皇
贈皇后・新皇嘉門院 藤原繁子…父:関白 鷹司政熙
女御・新朔平門院 藤原祺子…父:関白 鷹司政熙、義父:関白太政大臣従一位 鷹司政通
女院・新待賢門院 藤原雅子【孝明天皇の生母】…父:正親町実光
側室 権典侍・観行院 藤原経子《和宮 親子内親王の生母》…父:橋本実久
    典侍・藤原研子…父:甘露寺国長

光格天皇
中宮・新清和院 欣子内親王…父:後桃園天皇
女院・東京極院 藤原婧子【仁孝天皇の生母】…父:勧修寺経逸
側室 内侍:菅原(東坊城)和子
    藤中納言局 藤原(葉室)頼子
    菖蒲小路局 藤原(姉小路)聡子
    小侍従局 藤原(富小路)明子

とりあえずちょっと遡って、正妃(皇后およびそれに準じた立場の人)と子供を生んだ側室を列挙してみました。

明治天皇の側室は、典侍、権典侍という身分のある「女官」です。
御所や皇居内に局や部屋をもらい、天皇の身の回りの世話(という仕事)をしていたと思われます。
天皇の子を妊娠した女性は、実家に帰って出産することが多かったようですが(お産は「穢れ」とされていたので、宮中で出産することはできなかったようです)、その後は、また「女官」として生涯宮仕えであり、天皇の子は、実際に自分が産んでも自分の子ではない-ということで、自分の子供にも「仕える」という形だったようです。

私も蛇足ながら…。
#2さんがお答えのように、今の天皇陛下(時々、名前を使って明仁天皇-という表記をされることもありますが)のことは、「今上天皇」、「今上陛下」というのが正しいですね。
明治以降の慣習からすれば、将来、「平成天皇」と言われるのでしょうか、51代の「平城天皇(へいぜいてんのう)」と紛らわしいような気がするので、本当に「平成天皇」になるのかなぁ-と思っています。

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
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Q戦時中の富裕層について教えて下さい。

戦時中の富裕層について教えて下さい。


戦前から戦後にかけて、日本のお金持ちor身分がいい人達はどんな生活を送っていたのですか?
また、敗戦でなにか生活様式に変化がありましたか?
特に若い世代について興味があります。


・20歳前後で結婚前の若者(男女)はどんな生活スタイル?
・戦争中は富裕層の御令嬢は何をしていた?


その他何でも構いません。当日の富裕層についての情報を頂けたらうれしいです!!

Aベストアンサー

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府から学生(生徒)たちも軍需工場に動員すべきという主張が現れ、これがやがて学徒動員令として実現化しました。なお、この有識者というのは戦後一転して市民運動で活躍した著名な方々でした。

 当時の新聞(現代仮名遣いに改め)から引用すると、

> 箱入り娘は旧観念 男子と職場交替

> 不急学校の整理は当然 市川房枝女史談

> この決戦が始まってから下層階級には遊休女性はすでに一人もいないはずです。ただ、中産階級以上の家庭では圧倒的に多く所謂不急学校ともいうべき花嫁学校、料理学校、洋裁学校その他何々講習会といった教養施設に篭る子女は全国で相当数に上っていましょう。したがってこれらの整理は当然のことですが既存施設を全て閉鎖したりなどはせずに割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか ~ 決戦女性は家庭と共に職場を持つのが当然であります。(43年5月4日 東京新聞)


> 政府こそ躊躇せず女性を徴用なさい

> 婦人代表総蹶起の感激

> 中央協力会議第二日、第一委員会が緊急国民動員に関する議題に入ると宛ら婦人代表の独壇場となり花木チサヲ、羽仁説子、村岡花子、桐淵とよ、山高しげりの各委員が期せずして各自の立場から女性勤労の強力な指導、施設の飛躍的前進を要請 ~ 「徴用の即時断行こそ女子の勤労観念を徹底せしめ工場、事業者側は勤労管理を万全ならしめる、政府は躊躇するところなく未婚女子徴用を断行されたい」(43年7月16日 毎日新聞)

 それでも、やはり抜け道はあるもので、富裕階層のお嬢様のなかにはコネを使って国策会社や官庁の臨時雇いとして採用され、タバコや食券の配給などがあると職員の代わりに並んだりとちゃっかり労働を免れた方々がいたようで、これまた当時の新聞紙上で非難されました。

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府...続きを読む

Qチャールズがカミラさんにこれほど惚れたのは何故?

イギリス王室の世紀の結婚式を拝見してました。
もし、ダイアナさんが生きてらしたら何処の席で息子さんの結婚式を
ご覧になってたんでしょうか?
いつも疑問に思ってたのは何故美しいダイアナさんよりあの下品なカミラ
さんと長い間不倫を続け、愛を注いだのでしょうか?
男女間のミステリーを感じます。
不誠実な夫に耐えかねた妻の最後はあまりにも悲劇的、それなのに
カミラはちゃっかりとイギリス王室の一員となってしまった。
カミラの前の夫が彼女は凄い床上手だと発言したのを記事で読んだ
事があります。
"君のタンポンになりたい”という信じられない言葉を盗聴されてしまった
チャールズ。
そこまでカミラを愛し続けたのは何故?相性?同じ趣味?価値観?
真面目に答えて欲しいです。

Aベストアンサー

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠れする方みたいですが、伝統を破るほどの革新的な王子ではないそうです。

ダイアナは正直、自分の言いたい事を言う、好きな時に好きなことを楽しみといった自由人で強く、暖かい人情のある方だったそうです。
しかし一般的な母性はあるとしても極端に甘えさせてくれるなどの懐の深さはなかったようです。

チャールズの母であるエリザベスは王女だった為にチャールズに対して母として接する機会があまりなく愛情不足だったと思われます。
チャールズは気難しく理屈っぽい。正直さ、率直な振る舞いが特徴です。
伝統や格式を担う公人としては適役と思われます。

そして問題なのが、公人としてダイアナを妃にした事としかしダイアナは公人としてでは無く私人として愛して欲しかった事です。
ダイアナは彼を変えられると幻想を抱いてたのかもしれません。
ダイアナは言いたい事を言う性格ですので、キレて文句を言う日々が続いたのかもしれません。
しかし、チャールズはグッと考え込んで大事な事だけ発言するタイプです。
ですから元々の性格は真逆だったと思われます。
その為チャールズはダイアナに寄りつかなくなったのかもしれません。

もちろんダイアナは理屈を理解しようと努力をした事は伺えるのですが・・・理解は出来ても許容する事が出来なかったと思われます。

そしてカミラの場合は難しい理屈などは置いておきたい人のようです。
カミラにとって重要な事は自分を求め愛してくれる人がいること。
ドロドロとした三角関係にあってもチャールズの事を理解しそして許容する事が出来る方のようです。

気難しい彼に対してデリケートな部分を刺激したりしない、とても尊重してくれる方だと言われてます。
そして最大の彼女の魅力は強い母性愛です。
愛する男性を子の様に慈しみ、命を捧げて生涯を守るほどの古典的な母たる姿勢を崩さなかった事と周りから何を言われても誇り高く、強い女性であった為にチャールズにとっては不可欠な女性だったのだと思います。

長くなりましたが、カミラとダイアナでは性格が真逆であることは一番の原因だったのではないでしょうか?
ただ、誰が悪いとかでは無いと思います。

私も最初は否定派でしたが、現在はお二人の関係を暖かく見守って差し上げたい様な心情です。

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠...続きを読む

Q明治時代の婚姻について

先日75歳の女性の方に伺った話ですが、
彼女の祖母は13歳で結婚したのだそうです。

彼女は「明治だから」といっていましたが、
いくらなんでも早すぎると思い、帰ってインターネットで調べたところ、
明治の民法上結婚できる年齢は15歳でした。

「田舎だから」とも言っていましたが、
田舎では13歳で結婚するのは普通だったのでしょうか?

江戸時代の時代劇で見かける「奉公」みたいなものかなぁと想像してみてますが、
明治でもそういうのあったりしますか?

また、明治時代では読み書きできないのが普通なのですか?
明治でも義務教育はあったようですが、それでも学校に行かないものだったでしょうか?

Aベストアンサー

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性(父親ないし、それに準ずる立場の年長男子)の考えのみで決定されるのが普通だったので。やはり当人の正確な年齢とかどうでも良かったのです。

確か明治30年頃に富国強兵(=徴兵制)と言う事で、特に平民男子の正確な肉体的年齢を国家として管理する必要が初めて出て来たので。慌てて日本でも全国的に「子供が生まれたら正確な誕生日を役所に届けるべし」とのお達しが出され、それ以降から日本人に「誕生日」という考え方が一般的になったのです。

昔から日本人がむしろ記録に残して拘ったのは、生まれた日ではなくて、むしろ「死んだ日」です。お墓とかにも誕生日では無く、何年何月に死んだと書く習慣が昔からありました。昔は乳幼児死亡率が以上に高かったので、いちいち子供の誕生日を記録しても無駄になる事が多かったからかもしれません?一応、身分の高い貴族や皇室の方々、大名クラスの武家だと誕生日を記録に残し現代風に祝う習慣がある地域もあった様です。

また非常に重要な事ですが。江戸時代までは仮に本人が正確な誕生日を記憶していたとしても、今の現代人が言う年齢とは違います。何故なら昔の日本では「歳が増えるのは誕生日の時では無く、生まれて何回目の正月かで計算した」からです。さらにややこしい事に、昔は“生まれた瞬間が1歳”と計算するのが通例なので。冬場、例えば12月31日に生まれた赤ん坊は、翌日の元旦には2歳になる計算でした。

…と言う訳なので、そのご婦人の御祖母様が13歳と言うのなら、それ以上の意味はありません。まあ明治20年代以前に生まれたのなら十中八九、実際の年齢よりは1つ~2つは若い可能性があります(つまり小学6年生で嫁に行った!?)。


>読み書き
江戸時代は「読み書きソロバン」と言うくらいに子弟教育に熱心だったのですが。明治時代になって重工業化は進んだのですが、それまではその地域自治体に当たる藩主大名たちが行っていた子弟教育システムが維新によって崩壊してしまったので。東京などの一部を除けば、逆に教育はほぼ壊滅状態でした。

また個人家庭で勉強させていた場合でも、それまでの学問の筆頭であった朱子学などの儒教の教典を暗記する勉強が。明治になって一転、時代遅れのアジア学問という扱いになったため。富裕層でも子弟教育のあり方に混乱が生じていました。

で、教育に関するお触れは割と早い時期に出されるのですが。それは国民皆教育ではなく、あくまでも国家エリートを養成するための教育令だったので。長らく「義務教育」に関して放って置かれました。その後、やはり前述の徴兵制に関連して、戦場で使い捨てる兵卒候補としての幼年学校が必要と考えられ。え~っと確か明治22年?に「小学校令」というのが発布されます。ここから日本に於ける近代義務教育が始まる訳です。

一応、発足当時から男女共学だったのですが。特に農村部では女子に教育は必要無いという考え方が支配的だったので、例文の御祖母様の様に学校に通わせて貰えなかった女子児童も当時は多く居ました。またいわゆる戦後になるまでは、日本の近代女子教育には高等教育が無かったため(大学とかは男子校だった)。将来性が無い女子教育に金を掛けるのは無駄という考え方も一般的でした(そんな暇があったら針仕事の一つでも覚えさせろ!~的な)。

後、これも非常に重要な点ですが。明治33年(1900年)までは日本では、義務教育と言いつつ“有料サービス”だったので、授業料を払えないorケチな親だった場合は当然ながら男女を問わず学校には通わせて貰えませんでした。当時は毎月25銭~50銭を徴収すべしと法令にありました。昔の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいですが。大体、月々5000円~1万円程度って感覚でしょうか?

逆に1900年以降は小学校が全国無料になったので、当時の資料でも就学率が90%に達した喜ばしい~と書かれています。

あともう1つ、これまた現代人には理解し難い点がありまして。当時の義務教育制度では修学年齢というモノが決めてなかった!つまり今みたいに満6歳になったら小学校へ~的な制度では無くて。あくまでもそれぞれの御家庭の事情に合わせて、好きな年齢の時に入学すれば良かったのです(一応、6歳~14歳の範囲で)。

なのでピカピカの1年生でも、同じクラスの同級生には6歳の子もいれば、妙にガタイの良い10歳の子も居るのが普通でした。後、今と違って義務教育中でも“落第”がありましたので。もう今年で3回目の1年生だよ!~みたいな落ちこぼれも居ました。

で、落第があると言う事はその逆、つまり“飛び級”もある訳でして。優秀な生徒は小学校を最短で4年で卒業する事が可能で(つまり10歳で中学へ進学可能)。逆に落第ばかりの劣等生だと、単位を取れなくても14歳になった時点で強制的に義務教育は終了させられました。

P.S.
いわゆる「ゆとり教育」という言葉が囁かれて久しいですが。明治時代にも言葉こそ無けれど、同じ様に教育の中身に関しては現代以上に行ったり来たりの試行錯誤だった様で。日露戦争当時には「最近の兵士はちゃんとした教育を内地で受けていないのか!?簡単な足し算引き算さえ出来ない馬鹿が多くて困っている!」と言う様な主旨の報告書が、現場の指揮官から送られています(笑)。

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性...続きを読む

Q明治から昭和初期の住み込み使用人の一生

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの事情で住み込みで働くようになるのでしょうか。
2)どういった仲介などの方法があったのでしょうか。
3)住み込み使用人を求める側は、住み込み使用人が欲しいことをどのようにしてアピールし、実現させたのでしょうか。
4)住み込みで働くとき、藪入りのような形で里帰りするのだろうと思うのですが、例えば5人の住み込みを使用している主家では、全員がいなくなってしまうようなこともあったのでしょうか。日程をずらすのが普通でしょうか。ほとんど主家に住み込んだまま、時々休暇で私用をたすような人も多かったのでしょうか。
5)住み込みで働いていた人が100人いた場合、何人くらいが結婚したのでしょうか。住み込ん後ではもう結婚しないで一生を終えた人はどのくらいいたのでしょうか。 (感覚的な割合で結構です)
6)住み込みを辞めるということもあると思います。結婚してしまうから。通いに変更するから。単に使用人であることができなくなったから。死んでしまった。 住み込みの主家で一生を終えるというケースはどの程度あったのでしょうか。
7)住み込み使用人が事故、疾病、老齢などで死んでしまった場合、主家は葬儀や遺体にどの程度関与したのでしょう。【住み込み使用人に実家や身寄りで遺体引き取りをしそうな類縁がいないケースの場合で、どうだったのか】 主家はどう扱うことが多かったのか。 葬儀、埋葬や墓はどうしたのか。

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの...続きを読む

Aベストアンサー

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。

 また身元がしっかりしていることが条件なので、あまり斡旋所(桂庵)などの利用はなかったと思います。

 大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。

 詳しいことは、たとえば小泉和子『女中のいた昭和』などがお役に立つと思います。末尾にある読者の書評も面白い。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727921/chickensoupwi-22/

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられま...続きを読む


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