戦前の華族の生活・風習などに興味があります。参考になる本、サイトなど、があったら教えて頂けませんか?(ちなみに『徳川慶喜の子供部屋』榊原喜佐子著のみ読みました)
知識のある方、どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (2件)

戦前は、明治より前の貴族階級と違い、華族といっても公卿、諸侯、軍人や功労者など多くの家系があり、さらに富豪家系と貧困家系の差も大きかったと聞きます。

また、家同士の争いも多く、特に軍人や功労者は爵位をもらう前の基盤の身分がないので公卿華族や諸侯華族に軽視され、「無粋、下民育ち」と馬鹿にされていたそうです。私の出身家は公卿華族の分家で親戚に本家の当主がいますが、聞いてみたところ彼の学習院時代の親友は貧乏な公卿華族で屋敷も小さく、食事も粗末で使用人も一人だったそうですが、「鷹は飢えても穂を摘まず」という格言を家訓としてがんばっていたそうです。
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「近代日本の上流階級」タキエ・スギヤマ・リブラ著


華族制度についてのしっかりした研究書ですが,一読の価値あり.
お値段が高いんですが,図書館で探してみてはいかがでしょう.

参考URL:http://www.yomiuri.co.jp/bookstand/syohyou/20000 …
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この回答へのお礼

ご教示、ありがとうございます。参考URL、見せて頂きました。
なかなか面白そうですね。(確かにお値段、高めですね…)
おっしゃる通り、図書館利用して、是非、読んでみたいと思います。
なかなか資料がなく、困っていましたが、助かります。
貴重な情報ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/08 00:03

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Q知り合いに元華族の人いますか?

どのカテにしようか迷ったのですが、やはり多くの人の回答を欲しいことと、調査による資料というより、実際に知ってる人に現状を教えて欲しいことでこのカテにしました

皆さんのまわりで、元華族の家柄の方はいらっしゃいませんか?

新憲法発足時に華族(爵位を持った人)は889人だったそうです。
華族制度存続時にも経済的に窮乏し、爵位を返上する家庭もあったそうですし、また戦後は没落華族なんて言葉もあったと聞きました

しかしもちろん多くの華族家では、その潜在的資産や人脈をもって一般庶民とは異なる環境であった家も多いと思います

有名なところでは細川元首相や県知事のような家もありますね。

皆さんのご存知の、元華族の末裔の方はどのようにしていますか?

細川さんや政治家のように公的立場の方なら、出来れば今の稼業や経済状態、元はどこのどのような家系の方かもお教えください(差しさわり無い範囲で)

私人と見られる方なら、もちろん個人のプライバシーに関わらない範囲でお願いします

もちろんご本人が子孫って方のお話も大歓迎です

Aベストアンサー

知り合い、と言えるかな?
大学の先生にもと華族の方がいました。
正確にいうと「もと華族のお嬢様と結婚なさった」方ですが、日本史の先生をなさっていました。
華族生まれの奥様は京都で、家宝を守ったり礼法を教えたりして暮らしておられたと思います。

あと、有名かもしれませんが、女優の久我美子さんって旧華族ですよね。デビューするとき「家名を汚す」と大反対されたそうです。

今気がつきましたが、華族の方のことはなんとなく敬語で書いてしまいますね(笑

Q徳川慶喜と妾

鳥羽・伏見の戦いに敗れたというか、戦わずして江戸に逃げ帰った徳川慶喜は、その開陽丸の船中に「妾」を乗せていたそうです。まったく「あきれた奴」だけれど、明治になってから、徳川家の再興を密かに、願っていたのか?十男十女をもうけたそうです。

ここで質問なのですが、
(1)この20人の子供の中には、正室美賀子夫人の子供はいたのでしょうか?
(2)この頃(明治初期)、慶喜には、何人くらい妾がいたのでしょうか?
(3)20人の子供の中には、新門辰五郎の娘、芳の子供はいますか?

Aベストアンサー

美賀子夫人には子供はいません。

一度、流産したあと、子供には恵まれなかった、、そうです。

あの時代の殿様は お家存続のため とにかく沢山子供を生ませたそうです。

子供の夭折が多かったため、、とも言われています。

慶喜が静岡に隠棲するときには、数えられない位の側女がいたそうですが、

新村信、中根幸の二人に整理したそうで、あとの側女はお払い箱だったそうです。

新門辰五郎の娘、芳は静岡に行くことを自分から拒否した、、、と言われています。

新村信は、12人、中根幸も12人の子を生んだそうです。(その他、流産もあり)

二人は、顔立ちがそっくりで、子供たちもどちらが自分の母親とは、意識しないで暮らし

二人の立場はあくまで女中だったので、子供たちも「信! 幸!!」と呼び捨てだったそうです。


徳川慶喜の残した言葉で、私が一番 印象に残ってるのは

「長州は、最初から反幕だったので恨みはないが、薩摩は、最初、味方となったのに、寝返った。

薩摩だけは、絶対に許せない」と言ったという言葉です。

薩摩って、「簡単に寝返る信用ならない藩」なのだったのですね。


慶喜の偉い処は「逃げた」処ですね。

小栗上野介の策を取り入れれば、幕府が勝てたでしょうが、

慶喜は「単に一戦に勝つだけなら勝てる。しかし、朝廷を握られており

幕府の土台が腐っている以上先はない」と見ていたそうです。

そういうことを考えれば、先を見ることが出来た優秀な人物だったと思います。

美賀子夫人には子供はいません。

一度、流産したあと、子供には恵まれなかった、、そうです。

あの時代の殿様は お家存続のため とにかく沢山子供を生ませたそうです。

子供の夭折が多かったため、、とも言われています。

慶喜が静岡に隠棲するときには、数えられない位の側女がいたそうですが、

新村信、中根幸の二人に整理したそうで、あとの側女はお払い箱だったそうです。

新門辰五郎の娘、芳は静岡に行くことを自分から拒否した、、、と言われています。

新村信は、12人、中根幸も12人の子を生んだそ...続きを読む

Q華族令について

華族令について

ズバリなのですがなぜ華族令で持って軍人を〔華族〕にしたのでしょうか。
有力な政治家を華族にしたのはこの人たちを貴族院の議員にして政府の意見を反映させようとしたのでしょうけれど・・・
ご存知の方が居たら教えてください

Aベストアンサー

華族は、旧公家・旧将軍家・旧大名家・旧大藩家臣家・神職・僧侶などの伝統華族と、明治維新以降軍事・政治・経済・科学などで功績を立てて取立てられた新華族があります。華族創設の第一の目的は、皇室の藩屏として、皇室を支える事でした。新人物往来社の歴史読本「華族近代日本の新名家」(1993年1月号)に華族1000家の全一覧が掲載されています。貴族院の事も解説されています。同じ出版社の「明治大正昭和 華族事件録」(千田稔)も、華族が起こした色々な事件が解説されていて、面白い本です。

Q徳川慶喜は何故政治をなげだしたのか。

徳川慶喜は、なかなかの切れ者でインテリだったと私は考えてます。

鳥居伏見の戦いで逃げ出した本当の理由は何だったのでしょうか。

また、本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっていたと思ういますか。


12代将軍徳川家康はなぜ後継ぎを決めず死去したのでしょうか。


歴史に詳しい方、ご意見お願いします。

Aベストアンサー

 徳川慶喜は水戸藩ですから尊皇派です。つまり彼が

将軍職につくということは彼も周囲の幕閣も幕府消滅は

織り込み済み。問題はどうスマートに幕を引くかでした。

例えば鳥羽伏見の戦い、慶喜は戦いたくはない、でも一戦を

交えなければ佐幕派が収まらないからガス抜きで戦わせ、自分は

初めからすぐに逃げる用意をしていた。

 ちなみに彼が描いていた新政府案は天皇を盟主に大名会議をおく。

徳川が大名会議の議長におさまる。彼の政治思想は尊皇開国です

から当初の薩長政府より進歩的だった。

 鳥羽伏見~五稜郭で幕府軍が勝つ可能性はあったのか?

答えはNo。理由の一は兵士の練度、薩長の官軍は欧米式兵制と訓練。

幕府軍も現代人が思う以上に欧米の兵制をとりいれているが多くの

兵は旧態依然の旗本・御家人たち。彼等は集団戦どころか行進も匍匐

もできない口は偉そうだけど実戦能力がない。理由の2幕府も諸藩も

財政的に倒産状態で戦をする資金がない。

(ちなみに僕が居住する市は西国の外様が攻め入るのを防ぐ任を負った

由緒ある譜代が治めていたのだけれど、お殿様は領内を通過する官軍

には藩士を全員城に集めて「軍勢の通過は知らなかった」ポーズ。そ

して対岸の官軍と幕府軍の戦闘にはお殿様の命で大砲をどちらにも当たら

ないように撃たせたそうです。つまりどちらが勝とうが自分は加勢したと

言い訳できる。政府はこの功績をみとめ明治初期、わが市は一市で一県

でした。)

 徳川慶喜公はできるだけ徳川の勢力を保持しながら新政府樹立させたい

と思い、また彼みずからは政治よりも趣味に関心が強く、晩年の彼は穏やかに

写真家として人生をまっとうします。

>本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっ ていたと思ういますか。

いいえ、勝つ見込みがなかったのです。敗因は近代化の遅れ、幕府を援助したフランスより薩長を援助した

イギリスが強かった。どちらが勝つというよりもこの戊辰戦争が長引けば英仏の植民地になりかねなかった。

だから勝海舟など心ある幕臣は戦いに消極的だった。

 徳川慶喜は水戸藩ですから尊皇派です。つまり彼が

将軍職につくということは彼も周囲の幕閣も幕府消滅は

織り込み済み。問題はどうスマートに幕を引くかでした。

例えば鳥羽伏見の戦い、慶喜は戦いたくはない、でも一戦を

交えなければ佐幕派が収まらないからガス抜きで戦わせ、自分は

初めからすぐに逃げる用意をしていた。

 ちなみに彼が描いていた新政府案は天皇を盟主に大名会議をおく。

徳川が大名会議の議長におさまる。彼の政治思想は尊皇開国です

から当初の薩長政府より進歩的だった。

 鳥...続きを読む

Q華族と

戦前、華族が事業の失敗などで破産する事はあったのでしょうか?
そういった場合、爵位は剥奪されたりしたのでしょうか?

華族が犯罪を犯し、有罪が確定した場合は爵位の剥奪などはあったのでしょうか?


今でも旧華族同士、霞会館などで親交があるみたいですが、旧華族の方は英国貴族の様に働かなくても資産が潤沢で、趣味で仕事をしているような方が多いのでしょうか。

Aベストアンサー

破産しなくても華族の体面が保てない場合は自ら爵位を返上したというたくさんあります。(公家出身の興福寺の院家が還俗して男爵位をもらった南都貴族と呼ばれる華族にはもともと財産が無かったために体面が保てず爵位を返上したという何件かの例があります。また清水徳川家も確か爵位を返上しています。)
また、もともと公家や大名だった家では、爵位は家の伝統に与えられているので犯罪を犯した場合でも後継者に爵位を譲って隠居してしまえば家の爵位は残るという例もありますが、明治維新その他の功績で爵位をもらったいわゆる新華族の場合は爵位を剥奪されたという例もあります。
華族といってももとも資産が潤沢ではなかったという例も多いですし、戦後のいろいろなことから没落した家もたくさんあります。ただ一部の大名家はうまく資産を残していまも裕福という場合もありますが。

Q鳥羽伏見の戦に敗れた徳川(慶喜)は一時的に改名しましたか?

鳥羽伏見の戦の後に出版されたと思われる瓦版に、戦に負けた幕府方(慶喜と推測されます)を、「長州薩摩の敵の中、御旗は錦でお定まり、お困りならば落ちさんせ、御城もどんどと焼けてある、名字もこのごろ書きかえて、味方も今ごろ泣いている、今度の戦を負けにして・・・」と揶揄しているのですが、謹慎の意味か何かで姓を一時的に変えたことがあったのでしょうか。

Aベストアンサー

 慶喜は数人の側近と大阪城から脱出する時、小姓に変装しています。この時の事を記録では『城門にては衛兵の咎むることもありやといたく気ずかいたれど、御小姓なりと詐りたるに欺かれて、べつにあやしみもせざりしはまことに僥倖なりき』(昔夢会筆記)
 この時の将軍ともあろう者が小姓に変装した事を揶揄したのかもしれません。

 それから、江戸城に帰った慶喜は、戦意を喪失するとともに徹底した恭順、謹慎生活にはいります。これには、幼年期から青年期に至る、父・斉昭の教育も大きく作用していました。斉昭はつねずね次のように諭していたのです。『もし天下に大事が起きて、朝廷と幕府が相戦うような事態となったら、我らはたとえ幕府に背くことになろうとも朝廷に向かって弓を引くようなことがあってはならぬ。これは義公(水戸光圀)以来の家訓である』と
 これだけみれば慶喜は徳川家の人間からまるで水戸家の人間に変わったようにもみえます。
 このどちらかではないでしょうか。

Q華族の生活について、お勧め本を紹介してください

私はマカオ人で、今は日本語を勉強しているが
ゲームの関係で日本の華族に興味を持ち始めたです
明治と大正時代の華族の生活をもっと詳しく知りたいです
その時代の華族の女性や子供の生活を詳しく書かれた本を読みたいです。


アマゾンでちょっと調べましたが、華族関係の本はたくさんありすぎて
どれがいいかさっぱりわかりません。

私は華族についてはただ基本的な概念しか持っていませんので
できれば、初心者でもわかりやすい本を紹介していただけたいです

Aベストアンサー

現代の日本人の大半も、華族のことはほとんど知らないと思いますよ。

アマゾンをご覧になったのでしたら、その中でわかりやすそう、読みやすそうな本を選ぶと
この2冊でしょうか。
女性や子供の生活についてでしたら、2冊目の本の方が詳しいのではないかと思います。

「明治・大正・昭和 華族のすべてがわかる本」 新人物往来社
「華族令嬢たちの大正・昭和」 華族史料研究会

ゲームの関係? どんなゲームなのか謎です。

Q徳川慶喜と細川護煕

皆さんも、ご覧になったかも知れませんが、今日のネットで、

『 都知事選:与党、小泉氏に「晩節を汚した」 なお警戒も

 東京都知事選で、「原発即時ゼロ」を掲げて元首相の細川護熙氏(76)を支援した自民党の小泉純一郎元首相に対しては、政府・与党内で「晩節を汚した」(自民党関係者)などと冷ややかな見方が出ている。ただ小泉氏の動向は今後も予測がつかず、原発立地自治体などの選挙に、小泉氏が乗り込んでいく事態も警戒している。…………』

という記事です。

候補者よりも、支援した人の方が話題になっている。変な現象????

このことは主題ではありません。

ふと、想い出してしまいました。甘利大臣だったでしょうか?「殿、ご乱心」と発言されたのは。その時は、深く考えなかったのですが、考えてみると「細川護煕さんは、世が世であれば、殿だったのですよね」……しかし、今回の出馬は一体何だったのだろうか?……候補者でありながら、主役でもないという不思議な立場。

そして、今回落選したわけですから、又、趣味の陶芸の世界で、のんびり暮らすのだろうなぁ……なんて考えているうちに、ふと幕末・維新の時代と徳川慶喜の後半生のことを想い出してしまいました。

何故、徳川慶喜のことを想い出したのが、どんな共通点があるのか?もやもやとして、理由ははっきりしません。歴史には、詳しくはありません。共通点など何もないのかも知れません。

しかし、何か「もやもや」として……。

私の、以上の質問を読んで、私の「もやもや」の気持ちの原因などを説明できることはありますか?

皆さんも、ご覧になったかも知れませんが、今日のネットで、

『 都知事選:与党、小泉氏に「晩節を汚した」 なお警戒も

 東京都知事選で、「原発即時ゼロ」を掲げて元首相の細川護熙氏(76)を支援した自民党の小泉純一郎元首相に対しては、政府・与党内で「晩節を汚した」(自民党関係者)などと冷ややかな見方が出ている。ただ小泉氏の動向は今後も予測がつかず、原発立地自治体などの選挙に、小泉氏が乗り込んでいく事態も警戒している。…………』

という記事です。

候補者よりも、支援した人の方が話題に...続きを読む

Aベストアンサー

幕末の細川家は、
佐幕派から公武合体、そして勤皇討幕と時流を見抜き、
家臣と領民を守りました。

最後の藩主細川護久は、
西南戦争で、西郷軍と官軍の戦闘で被害をこうむった旧領民の支援に
尽力したと伝えられます。

本気原発ゼロのため知事選出るなら
原発に影響力無い都知事選より、
確実に原発再稼働止められる原発所在地の鹿児島や福井、最近では青森
の知事選に出るはず・・・・・

結局
「安倍内閣の大臣だった舛添さん支持するわけにはいかない。
でも、都内に、ろくな候補者いない。殿、上洛を!!!」
という旧日本新党系の民主党幹部に、お願いされてということでしょう。

旧家臣に頼まれると嫌といいにくいのは、殿様気質でしょうねφ(.. )

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

Q華族の娘との結婚で平民の男性が華族となるのは可能?

明治初期~中期において、平民の男性が華族の娘との結婚で華族となること(爵位相続等)は可能ですか?
普通の結婚だと無理そうだとは分かったのですが、一人娘の婿養子に入るとか何か方法はあったのでしょうか?
調べたのですがどうしても分かりません。
ご存知の方、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

華族は原則として男系相続ですから娘と結婚しても家族にはなれませんが、婿養子になれば可能でした。
ただ、家族の家の当主は婿養子でも原則として華族出身者がふつうでしたから、まったくの平民から(もともと華族の家系だが分家して平民になったような場合は別です。)華族になるのはかなり難しい道でした。

Q徳川慶喜が六ヶ国の公使を招待した目的

年表に、

慶応3年10月14日(1868年11月9日)、徳川慶喜が天皇に大政奉還。慶応3年12月9日(1868年1月3日)、天皇が王政復古の号令。慶応3年12月16日(1868年1月10日)、徳川慶喜が大坂城に六ヶ国の公使を招待。

と書いてあります。

政権を返上して将軍でなくなった徳川慶喜が六ヶ国の公使を招いた目的は、いったい何だったのでしょうか。

ご存知の方、教えて下さい。

Aベストアンサー

私は、歴史に関する本を読むのが好きなだけです。
「慶喜の軍服姿」を調べたときに、当時の慶喜の行動を追ったのですが、そのとき「六ヶ国公使と大坂城で会談」したことを知ったので、今回のご質問に回答できただけです。

慶応3年10月大政奉還した直後の19日、慶喜は諸侯会議の開催に至るまでの間の当面
の措置について、3条8項目を設定して朝廷にお伺いを立て、委任されています。
外交関係の事務についてが第一条です。
委任を得て慶喜は、諸外国の外交官に対して、これまでに締結した条約は、政府間(日本側は幕府)で交渉し結実したものであるから、幕府が、条約履行の義務を負うと通達したということを、「外交権」と安易に表現してしまいました。
新政府が、駐日外交官に王政復古を告げ、条約履行の業務を継承するとしたのは翌年1月10日です。

「外交権」という大きな問題についてお答えできるような知識をもっておりません。

参考 吉川弘文館『日本の時代史20「開国と幕末の動乱」』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/jidaishi2.htm#開国と幕末の動乱

私は、歴史に関する本を読むのが好きなだけです。
「慶喜の軍服姿」を調べたときに、当時の慶喜の行動を追ったのですが、そのとき「六ヶ国公使と大坂城で会談」したことを知ったので、今回のご質問に回答できただけです。

慶応3年10月大政奉還した直後の19日、慶喜は諸侯会議の開催に至るまでの間の当面
の措置について、3条8項目を設定して朝廷にお伺いを立て、委任されています。
外交関係の事務についてが第一条です。
委任を得て慶喜は、諸外国の外交官に対して、これまでに締結した条約は、政府間(...続きを読む


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