似たような質問の繰り返しで恐縮です。
「真の自分」という言葉は、自分自身の、内的自意識・魂・こころ・人格、それらの概念をすべて含む
ものと考えてください。(どうも「真の自分」をぴたりと言い表せる言葉がないです)
みなさん、自分の「真の自分」を考えたとき、それは理性だと思いますか? 感情だと思いますか?
それとも両者を従える超越者だと思いますか? 「真の自分」は真実在だと思いますか?
それとも物理化学現象が作り出す幻影だと思いますか?

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A 回答 (66件中51~60件)

補足に関して第三弾。


> 理性と感性
これって、併置すべきものなのかどうか、そこからしてちょっと疑問があります。心理学の専門家に教えて欲しい。
感性=センスは価値判断であり、また感性は状況判断にも働きますが、論理が抜けてていきなり答えが出る。理性ってのは何だ?合理的行動プログラミング、状況展開の予測をするシミュレータですかね。理性をどこまで走らせるかは意思がかなり介入できるけど、感性はどうもそうじゃない。感性はegoの下にあるagentのようですが、理性は全部が下位ではなく、その一部はegoの中にあるのかなあ。よくわかんないです。

> 人間をより高い「生」へと 導くもの
こっちが本題であるのをつい忘れちゃってました。もう答は出てません?ego自身でしょう。しかし、「より高い「生」」を望む、という動機のもともとの出所がsuper-egoであってもおかしくない。別に嫌がらなくてもいいじゃありませんか。mori0309さんの感性・価値観が全て自分一人で選んで作り上げたものでなきゃ駄目ってことはないでしょ?

こういう、いわば「青臭い」議論って、若いうちに始めて、幾つになっても時折反復してバージョンアップして行くのが、「より高い生」と「より深い知性・感性」を培うのに大切な気がします。

この回答への補足

> ego自身でしょう。しかし、「より高い「生」」を望む、という動機のもともとの出所が
> super-egoであってもおかしくない。別に嫌がらなくてもいいじゃありませんか。
自分の感じでは、「何かに導かれている」という感覚なんです。それともego自身がより高い
「生」を望んでいるのかなあ、、、、
結局、神は、自分の外部にいて自分を導くのか、自分の内部にいて向上を促すのか、という
問題なのでしょうか。神のような高次存在になると、外在か内在かという問いは意味を
なさなくなる?
(また、神という言葉を出してしまった。stomachmanさんに冷水を浴びせられてしまうなあ)

補足日時:2001/01/12 02:42
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この回答へのお礼

stomachmanさん、ありがとうございます。ボリュームたっぷりのご意見、読み応えがあります。
多忙ゆえ、すこし時間をください。

お礼日時:2001/01/10 10:15

> 神の話


世の中こうも不条理な事が多いと、天にまします全能の神を信じてられるのはよっぽどの脳天気か、自分だけが救われると思ってるファンダメンタリストだけじゃないかと、過激な発言をするヒトも居るほどで、やはりここで考えるべきは、神道でいう神に近いかな?自分の心の中に在る神。自らに誓いを立て、意志を確認するその対象。誰も見ていないところで悪事をしても、それを知る者がひとりは居るって訳です。(神道について勉強したくて神主さんに相談したら、実は禄な教科書もないんですって。今度OkWebで訊いてみようかしらん。)
この神がsuper-ego(これが生き霊か死霊か、ともかく祖先と繋がるものであることは暗示的ですね)であるのか、egoの持つ倫理であるのか。stomachmanはsuper-ego説を採ります。その祖霊に誓うのがegoであり、egoの中で具体的行動規範が作られる。暫定的ですが、そのように解釈します。
もちろん、これを神という名前で捉えているかどうか、それは人それぞれです。「俺の中には神などいない」「いや神は唯一だ。その名をAbraxasという」って、それは「神」という言葉・記号の定義の違いだけの問題ですから、どうか誤解無きよう。ここで言ってるのは、心の中にある倫理的他者という存在についての話です。

この回答への補足

私は不用意に「神」などという言葉を出してしまいました。「自分」さえ分からず
人に意見を求め、これだけ紛糾しているのに。
「心の中にある倫理的他者」とは何か?それは真実在か? もう、つきあいきれなく
なりました?
神について語るのは、非常に困難を感じます。論議の俎上に乗せられて人間に客観視
されてしまうようなものは、もうそれは神ではないと思いますので。
(こんなことを言うと「真の自分」だって同じことじゃないか、ということになるでしょうか)

ゲーデルは、どう考えていたのでしょうか?

補足日時:2001/01/12 02:47
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補足見ました。


> 私の敬愛する小林秀雄サマ
やばいよ、怖いよ、という感情を引き起こしてプレッシャーを掛けてくるんです。super-egoはやっぱり叱られ経験、褒められ経験で鍛え上げられたcomplexであって、幼児体験で作られるだけあって、その価値判断には哲学が欠如しているのが特徴と言えるんじゃないでしょうか。レストランで若い女性が、多分父親と思われる老齢の男性に背中をチョンとつつかれて、すっと姿勢を正すところを見ました。(なんだかほのぼのしちゃいますね。)これはもうほどんど反射的に身体が反応しているんですね。チョンでsuper-egoのスイッチを入れたらしい。
で、倫理的行動の規範としてこんなものだけが頼りだったら、そりゃ、まだコドモですってば。
stomachmanは小林秀雄てば大嫌いですけど、言ってることは穏当です。無意識だけが倫理の舵取りである、なんてのは間違いだと、それは同意します。これじゃあドーブツのレベル。
そこから先は、自分が意識できる自分、(=ego)の中で、倫理を作り上げる。哲学をする。行動規範を作って自らに課していくんですよ。super-egoの出す「もう子供じゃないんだから、きちんとしなさい。」っていう抽象的命令に対して具体的回答を構成していくのは、egoの仕事です。
> 良心や倫理心の核にあるものは、同胞愛 だと私は思うのですが、どうでしょう。
快楽主義。エピクロスの思想がドライで捨てがたいです。mori0309さんが絶対いやがる口ですが、目先のデメリットより、後悔をさけるために犠牲的行動をする。あるいは利己的遺伝子の説に言う、「遺伝子を保護するための個体の犠牲は合理的である」。さらには「情けは人の為ならず」「見る人は見ている」ってわけで善行は酬われる。ヒトなんて、地獄に堕ちるぞ、と脅かされなくちゃ悪事が止まらないような動物なんですぞ。信賞必罰を良しとするのなら、同胞愛も良心もはたしてどこまで純粋かなあ。てなこと言ってますが、stomachman自身としては、人助けすると自己満足というか充足感を感じる。とっても幸せ。これって、super-ego的圧力を受けているんだと思うんです。super-egoに褒められてうれしがってる子供ですね。自分の存在意義・必要性を認められて安心する子供。
 ところがsuper-egoが乳幼児レベルで止まってしまうと、注目されることで自分の存在意義を確認する、というレベルであり「わざとバカをやって目立つのが嬉しい。死んでも目立ちたい」になってしまう。バキューン。
> 内省的自我があるから、はじめて私たちは自由であると言える
なるほど。「自己規制してしまえば、だれに制約もされないから自由だ」(ってそういう言い換えをしたら身も蓋もない。ほらmori0309さんがプルプル震えて誤字脱字してしまう。)いや、stomachmanとしては何か創造した時以外に感じることはほとんどないです、スポーツの爽快感とは別物の素敵な開放感。自我の自由において、倫理がそれほど重大かなあ。(アナーキー=自由と勘違いしている、なんていう幼稚なレベルの話じゃないですよ。)
> ぜんぜん思考がまとまりません
それはキャッシュメモリがあふれてるんです。ERROR出ちゃいますよ。
> どうやら私に哲学を語る資格はなさそうです
なにを仰る。「哲学」カテゴリーで一番哲学してらっしゃるじゃありませんか。

この回答への補足

stomachmanさん、回答ありがとうございます。
私はじつはいい年なんです。mori0309ってどこの誰だか分からないのをいいことに、普通だったら
恥ずかしくてできない青臭い質問をしています。ここOKWebは仮面の意見交換場みたいなところ
ですね。普段は人と語ることもない自分の心のなかの自問自答を、文にして投稿することを了承
願いたいと思います。

> super-egoはやっぱり叱られ経験、褒められ経験で鍛え上げられたcomplexであって、幼児体験で
> 作られるだけあって、その価値判断には哲学が欠如しているのが特徴と言えるんじゃないでしょ
> うか。
私は倫理心とは「情」であって「理念」ではないような気がします。「自分を愛して守ってくれて
きた人たちを裏切りたくない」「その人たちの愛に応えたい」、そういう情愛が倫理心の核だと思い
ます。だから倫理心に「哲学」はないです。大人になり、家族を持ったりすることで、そういう情愛が、
自分の家族だけでなく、広く社会の人々に向けられていくのではないでしょうか。tabioさんのお話の
なかの「理屈抜きの深い感動」も、その現れではないかと思います。
人は愛されて育ちます。愛されなければ人間になれないとさえ思われるくらいです。もしsuper-egoが
幼児経験で作られるものだとするのなら、それは「叱られ経験」によってではなく「褒められ経験」に
よってでもなく「愛され経験」によってではないでしょうか。幼児にとって「愛される」ということは、
ほとんど常態であるため、かえって人々にあまり意識されないのではないかと思います。「叱られ経験」
だけを優遇して「愛され経験」を冷遇する理由はないのでは?
西欧ではキリスト教があるため、倫理を理念として考えすぎる嫌いがあると思います。

> 目先のデメリットより、後悔をさけるために犠牲的行動をする。「遺伝子を保護するための個体の
> 犠牲は合理的である」
良心や倫理心は、自己犠牲精神のことではないと思うのですが。 一方通行の奉仕行為は不毛です。
良心や倫理心は、何をおいても、まず家族・友人・職場仲間に対して発露されるべきものです。
見知らぬ人に対してどんなに善行をしても、不倫・友人への裏切り・隣人への不親切をしていたのでは
何の意味もないと思います。繰り返しですが、良心や倫理心は、身近にいる人々との情愛関係を保とう
とするこころで、自他を区別して利害計算や損得計算をする心理ではありません。
と、私は思うのですが、どうでしょう。

> 自我の自由において、倫理がそれほど重大かなあ。
私が自由にこだわるのは、自分が遺伝子や因果律の奴隷だと思いたくないからです。もし奴隷ならば
生きているということに、まったく意味がありません。宇宙の存在理由もありません。なんという
壮大な徒労か、ということになります。でも私は、こういうことを皆さんと考えることができるということ
自体が、自由である証拠だと思っています。唐突ですが、私は、「倫理」「美」「真理」の本源は
同じだと思います。いわゆる「真・善・美」というやつです。

ご回答に対して、なにやかやと反論めいたものを言ってしまってすみません。ここは議論の場では
ないんですよね。(私は出入り禁止になるかも)

補足日時:2001/01/12 02:35
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補足について。


> 意識は全身の細胞にあまねく存在
どこまでが自分、どこからが自分のシモベである肉体、という区別がきちんと出来ない以上、こういう言い方もできなくはない。でも、首をちょん切ったときに、自分がどっち側にいるか。顔面をそぎ取ったらどうか。そういう「思考実験」をやってみると、どうも脳味噌側にいるようです。

> 超自我(super-ego)こそ真実在じゃないかなぁ
いやいや、そうじゃないです。たしかnanashisanさんの「霊は科学で否定されるか」というような質問のところでやりましたが、発達的には親に怒られると、次からは怒られる前に自分で怒られることを予想するようになる。これが倫理の始まりです。いわば怒る親のシミュレータ、コピー、生き霊、がsuper-egoであって、egoから見れば自分の中にいる他者に近い存在なんですね。
ニュースで成人式で暴れてる「ガキ」を見ながら書いてますと(なんでガキが成人?ときどき射殺したくなります)こいつらにはsuper-egoはないみたいだ。多分こいつらの親もsuper-egoが発育不全であり、「親の親の顔が見たい」ってやつです。これがidoだけに突き動かされるegoの無様な姿ですが、でも意識はあるでしょ?
いや、もしほんとにsuper-egoこそがヒトの本質、真実在であってくれれば、stomachmanとしてはためらうことなく射撃の腕前を披露できるんですがね。

この回答への補足

stomachmanさん、発言がちょっとアブ七草ですよ(^o^)
●理性と感性、それとegoはどういう関係にあるのでしょう。理性と感性も egoがしたがえるagentなの
でしょうか。それとも egoより上位の存在? 「理性と感性=ego」なんていうことはないですよね。
●良心や倫理観念はsuper-egoにすぎないのですか。そしてsuper-egoとは「しかられ経験」から生まれた
検閲者またはブレーキ操者にすぎないというのでか。私の敬愛する小林秀雄サマは「そういう思想は
人間の生きる勇気を奪う思想だ」とおっしゃっておられまする。
●口に出すのはこそばゆいですけど「愛」(男女のそれは別として)はどうなのでしょう。egoはいつも
いつも自分の保身だけ考えて生きているわけではないですよね。良心や倫理心の核にあるものは、同胞愛
だと私は思うのですが、どうでしょう。(自分だけ助かるわけにはいかない。自分だけズルイことをして
徳をするわけにはいかない、というこころ)
●それとも、「保身と打算を一手にひきうけてくれているヤツ」を称して、心理学は egoと呼んでいる
のでしょうか。であるならば、自分とは egoを超える何かだと思うのですが。
●super-egoはなんだか「天のおふれ」みたいなものにも思えます。自分ではないような気がします。
ユングの説を詳しく知りたいです。
●外部の刺激に対して保身と打算の論理だけで対処していては、フロイト先生のおっしゃるように egoに
自由はないですね。内省的自我があるから、はじめて私たちは自由であると言えるのだと思います。
●なんだか、ぜんぜん思考がまとまりません。もう少し考えて出なおします。

補足日時:2001/01/09 20:20
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この回答へのお礼

誤字脱字をしてしまいました。訂正です。
■ブレーキ操者にすぎないというのでか → ブレーキ操者にすぎないというのですか
■徳をするわけにはいかない → 得をするわけにはいかない
ついでで、すみません。補足させてください。
●真実在という言葉の使い方が不適切であるとわかりました。肉体も精神も、無意識(ido)も
自我(ego)も超自我(super-ego)も、みんな真実在であることに変わりはないです。
私が言いたかった真実在という言葉の意味は、『より上位にあって人間をより高い「生」へと
導くもの』というようなことです。上位というのは、現実社会の階級的上位のことではなくて
包容力の強さ、生命愛の強さ、ということにおいて上位という意味です。
(どうやら私に哲学を語る資格はなさそうです)
(でも、ここまで来たのだから、神の話まで、もっていきたいなあ)

お礼日時:2001/01/09 21:56

mori0309さんてば議論がどんどん凄くなってきてます。


 夢野久作の「ドグラマグラ」を思い出しちゃいました。「脳は電話交換局に過ぎない。意識は全身の細胞にあまねく存在している」って、もちろんフィクションですけどね。ここで議論してナントカなる話とも思えませんが、どうもここまでは生理学と認識の観点が中心みたい。ともあれ、幾つか他の観点を提出してみようかと思います。お気に召すかどうか....(と言いつつさらなる混乱を狙ってたりして)
●イスラム教では、神は完全であり、従って、全ては神の予定した通りに起こる。神が完全者なら予定論にならざるを得ないですよね。必然的に自由意思はない、という事になる。「だったらなんで努力するの?なんでお祈りするの?全てもう決まってることじゃないの?」と訊いたら「自分の願いが、神の予定に含まれていて欲しいと願うんだ。自分が努力を怠って失敗することも、自分ががんばって成功することも、神の予定のうち。だから、私ががんばって成功するのが神の予定であれかしって祈る」って真顔で言うんです。面白いでしょ。
●自分で自分だと思う自分、自分にとっての自分、というものの一番基本にあるのは、記憶でしょう。昨日の自分と今日の自分、さっきの自分と今の自分、同じではありえないのに確かに連続性がある。その根拠は記憶以外には求められないんじゃないかな。たとえ毎朝、前の日の記憶を完全に失っていて、憶えているのは10年前より以前、というボケ状態でも、10年前の続き(自分にとっては昨日の続き)を生きる自分にとって、自分は連続したものじゃないでしょうか。
●他人から見た自分というものは、(身体的特徴を度外視すると)行動や判断、嗜好などの傾向の総体としてのcharacterで捉えられ、それは自分が自分だと思っている自分よりも随分幅広いものです。
 自分にとっての自分(自我ego)を自分の中で叱咤激励する、そういう反省の圧力を掛けてくる(引き金を引く)のは自我自体ではない。super-egoと呼ばれる、親・社会・外界との接触で培われた倫理的価値判断回路ですね。無意識(ido)から上がってくるドーブツ的な欲求とsuper-egoの検閲の間でバランスを取って動いているのがegoです。でもegoからはidoは見えない。これらのシステム全体を自己と呼ぶ。(すごく単純化しちゃったけど...まあいいか。)
 その全体としての自己が外界とのインタラクションをやっていて、それを他者は見ている。だから当人が記憶を失って自我の連続性を喪失していても、他者は同じ癖、同じ嗜好を見つけて同一性を確認することができる。
●多重人格症では複数のego(あるいはegoモドキ)が生じている。記憶を部分的に共有していたり、他のegoの存在に気付いてないやつがいたりするようですが、それぞれがそれなりの主体性を持っている。(他のところでmori0309さんが質問されていた話に関連しますが)それぞれのegoモドキにとって、それぞれが自分であり、他のegoモドキは自分じゃない。沢山の個人がそこに実際に居るんです。つまり、決して「意識のフォーカスが一方に移る」のではない。
 この一群のegoモドキにとって、idoはどうやらかなり共通のようです。従って、idoの上に、egoが(複数)上部構造として存在している。そのほかに、(多重人格のように主導権を取ることはないものの)かなり「それ自体の意思(というか偏った嗜好)」を持ってさりげなく干渉してくるcomplexという奴が、これは多重人格に限らず誰にでもいる。(「劣等感」のことじゃないですよ。)
●Egoが自分で思っているほどegoは自由でない、というのがフロイト先生の発見で、結構無意識界(自我から見えない自己)の言いなりにされていて、「いやそれは自分(=ego)の意志だ」って合理化している。よく反省してみると「自分の意思って今日何回働いたかな」てなもんだったりします。環境・入力にほぼ自動的に応答しているという自動機械みたいな事が結構多い。そうではなく「これは確かに自分の意思で選択した」と思ってても、実は案外idoさん、complexさんに左右されていたりする。(もちろんそれ以前のレベルとして「今日はちょっと疲れているから、風邪をひかないように白血球を少し多めに作っておこう」なんて思っても出来ません。)
●離人症では、幽体離脱みたいな感覚があるようです。(古い記憶で、憶えてる情景の中に自分の姿が入ってることってありませんか?見えてた筈がないのに。それに似ている。)つまり自分の肉体の居る現実世界とegoの在処が分離してしまう。この症状を聞くと、自分が自分の中から外界を見ているかのように認識しているのは、実は当たり前じゃないんだなー、ということに気がつきます。色々な入力(視覚が主体ですが)から周囲の空間を脳の中で再構築して認識しているんですね。入力そのものを受け取っているのではない。
●で、こういう構造を還元論的に言い直すと、神経ネットワークの話になってしまう。いろんな神経回路が"agent"を構成してまして、いちいちハードウエアに細かい指示(どの末梢神経に毎秒どれだけパルスを送るか)をしなくても「足の筋肉を縮めろ」という指令だけで縮む。このagentに指令をだす上位のagentもあって、上位のagentに「歩け」と命令すれば一連の筋肉運動を体性感覚や視覚との連携においてフィードバックしながらやってくれる。このagentの上位にもまたagentがあって、「よけろ」と言えば歩く他に身体を縮めるとか、いろいろやってくれる。その最上位にいるのがegoであるらしい。
 でもすべてがegoの命令で動いているわけではなくて、黙っていてもよけるときはよける。(ぼんくら社長でも会社はやっていけたりするんです。)egoの外界認識も下位のagentから上手にまとめたレポートを受け取るようなもので、生の情報を見ているのではない。そればかりかegoはハードウエアレベルに直接指示を出すことが出来なくて、必ずagentを使うしかない。agentがどうやってその命令を実行するかはegoには分かっていない。(だから歩くロボットを作ろうとするとき、幾ら内省しても歩き方が分からない。)もしego以外のagentが全部麻痺しちゃったら、運動も感覚も認識も言葉もイメージも全部アウト。例えればインタープリタのないJavaプログラムみたいなもので、ただ在るという以外に何も意味が無くなってしまう。こう見ていくとegoはagent群のしもべかもしれない。(実際にegoの取り替えが利く、というのが多重人格ですね。)そういう訳で、egoというagentが存在しているのは、これは幻想ではない。だけど、egoが一番偉い、一番重要、というのはegoのエゴイズム(駄洒落です)であって、実はぼんくら社長。そんなに重要だったら、寝るな!(「寝てないんだ!」って言ったぼんくら社長は記憶に新しいですね。関係ねーてば)
●生命体としてのヒトにとって、egoが絶対必要という訳じゃないのは、昏睡状態でもなんとか生きてられることが証明してます。(出産までできてしまう。)やはり、社会や環境とのインタラクションにおいて初めてegoが主役になりうる。ところが、そのegoがego自体の思ってるほど自由じゃない。主体的じゃない。そして、実に、他人もそうは見ていない。「あいつのことだから、キット下らない駄洒落を言うと思ったよ...」ってパターンを読まれてしまうのはその証左。そのパターンが無ければ、しかし、他人から見て、identity あるいは characterという物がつかめない。何を言い出すかわからないキモチワルイ奴になってしまう。
●やっぱし、フロイトやユンクの精神分析、大脳生理学、認知心理学、人工知能、精神医学などなど、順を追ってじわじわ読んでみるてのはいかがでしょうか。(これって一応建前は「質問」ですもんね。)

この回答への補足

stomachmanさん、ここにも来てくれたのですね。うれしいです。でもハナシがムズカシすぎるデス。
●>「脳は電話交換局に過ぎない。意識は全身の細胞にあまねく存在している」
「ん!そうにちがいない!」って言いたい感じです。(これまでの発言と矛盾しますけど)
生命体としての一人の人間は、細胞集団の超民主主義社会かもしれないと、ときどき夢想します。
細胞同士を結びつけているものは生命エネルギーの親和力すなわち愛です。脳細胞は他の細胞より
偉いわけではなく、細胞間の情報交換処理センターです。だから、こころや人格には全細胞の
代表意見が現れます。(な~に言ってるンだか)
●無意識(ido)と自我(ego)と超自我(super-ego)と三つそろって「自分」を形成しているのですか?
超自我(super-ego)は検閲者にすぎないのですか? これは「ん!ちがうにちがいない!」です。
超自我(super-ego)こそ真実在じゃないかなぁ。
また、後日、コメント入れさせてください。とりあえず寝ます。

補足日時:2001/01/09 01:07
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あれ?何故かチェックと違ってる……(;;)


下のも一般人と読み替えておいて下さい。m(_ _)m
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真の自分:


精神面において自己とは他者との相対なので他者の無い所で自己という絶対値は存在できない。
もしも生まれてから生命だけ維持されていて、他者が全く接触しなかったらどうなるのか?

自分という物体:
肉体と脳の活動を区別しようとしているが、脳も肉体の一部であり、その内部のソフトウエアもその個体の構成要素の一部としてある物なので、構成要素として別格に扱う合理的理由が無い。脳の活動自体他の器官や内分泌系の影響により活動を変え、脳も内分泌系を制御できる。(ちなみに脳の内部活動は短期記憶はDRAM型のキャッシュ構造で、本体はノイマン型ではなくエニヤックのようなハードウエアコーディングと考えられています。ハードウエアコーディングを拡大して考えていくと、電子回路で言うとゲートアレイの集合になります。ソフトはどの部分になるんでしょうね?分離できますか?)

部品について:
“利己的遺伝子論”以前の考え方では働き蜂や働き蟻がなんで巣のために働くのか説明出来なかったが、その考えを元にしたとしても働き蜂はやはり個体であり、脳みそを持っている。人間を考えても、日本は古くはムラ社会であったが、mori0309さんが思っている自分という物がもちろんありますが、個体からムラという視点に変えても今度は個体が部品に見えます。そうなると、mori0309さんの説明を当てはめるとムラオサが一番価値のある物で、下々は偉くないとなります。でも、場合によってはクーデターだって起きますよ?

良心について:
city49さんご指摘の良心は、じつは社会という他者から与えられている物です。
mori0309さんの

> ただしかし、脳細胞という媒体なしには「真の自分」は存在できないとも思います。媒体なしでも
> 存在できるとしてしまうと、それはもう神秘主義や生気論になってしまうので、思索のタガがはず
> れてどこまでも飛んでいってしまい、帰ってこれなくなってしまいますから。

真の自分と思っている物は、実は社会というコミュニティーから形成されているとおもいます。
反社会的な真の自分があった場合、でもそれは社会という相対によって成り立ちます。
また、社会から影響を受けて人々は存在しますが、人々が社会に影響を与えるし、そもそも社会が存在する媒体は人々です。


と、私はこのように思います。

P.S.
私も“一般人”で投稿しています。
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この回答へのお礼

marimo_cxさん、再回答ありがとうございます。

> 肉体と脳の活動を区別しようとしているが、脳も肉体の一部であり、、、、

私はどうも人格の脳偏在を言いすぎたようです。肉体なしでは脳は機能維持できないし、肉体を
失って脳だけになってしまったら、生き生きとした理性も、みずみずしい感性も、消えてしまう
だろうと思います。肉体と精神を分けて考えるのは、やはり間違いであると思えてきました。

> 個体からムラという視点に変えても今度は個体が部品に見えます、、、
> ムラオサが一番価値のある物で、下々は偉くないとなります。場合によってはクーデターだって、、、

「真の自分」を「超越者]とか「最高司令官」とか表現してしまったのがマズかったです。
私の思い描いている「真の自分」は独裁者でも君臨者でもないです。

> 真の自分と思っている物は、実は社会というコミュニティーから形成されているとおもいます。

そうですね。「真の自分」とは「良心」のことであり、それは個人の脳のなかの具有物ではなく
社会の人々と共有しているものなのですね。そういう気がしてきました。世の中の人々は、皆、
良心によってつながっているのですね。
(心理学や大脳生理学に、このしくみの説明を求めることはできるのでしょうか)

お礼日時:2001/01/09 00:06

すいません。

下の回答の訂正です。

「もし自己完結できるものを「真の自分」と呼ぶのなら、
それは「良心」のようなものではないでしょうか。」

ではなくて、

「もし自己完結できるものを「真の自分」と呼ぶのなら、
それはもう自分ではないような気がします」です。
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僕もあくまでも素人一般なので、


考えるたび混乱するのですが・・・

僕はmori0309さんの言う「真の自分」とは
自らの意識を客観視している意識のようなものだと思います。
でもそれはあくまでも視点を変えているだけであって、
意識の外にあるわけではないです。

自分を内的な階層構造として捉えようとしても
結局は意識レベルと無意識レベルにわけることしか
できないのではないでしょうか。
しかし、内省を行えるからには無意識レベルではありえない。

意識レベルをどれだけ階層に分けたところで、
結局は意識に含まれるような気がします。

仮にそれが無意識レベルでのことだとしたら、
もうそれは形而上学になってしまいます。



下の方で別の方が言っていましたが、
自己とは他者との相対だと思います。

「感情的になって暴走したり、理屈にこだわりすぎて目的から脱線したり、
嫉妬心から醜い言葉を発してしまったり、動物的欲求にふけって
いたりした自分を、静かに内省」するのは
自分自身を別の視点で捉えなおすことだと思います。

自分の本質を把握するには他者との関係から捉えなければなりません。
自分がいてそしてそれ以外があるわけではなく、
他者がいてはじめて自己のあり方を問えるからです。

しかし自分を客観視して自己と他者との関係を捉えない限り、
その内省は他者を想定していないことと同じになるように思えます。
内省をする契機が他者なのに、他者を考慮せずに自分の中だけで
自己完結できるわけがないからです。

もし自己完結できるものを「真の自分」と呼ぶのなら、
それは「良心」のようなものではないでしょうか。




ぜんぜん論理的になってないような気がします。
相当恥ずかしいこと言ってるかもしれない。どうしよう。
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この回答へのお礼

city49さん、回答ありがとうございます。

「良心」という言葉を一度出して、訂正しておられますが、私は「真の自分」は「良心」のこと
だろうと思いはじめました。「良心」は、いつもいつも意識の表面で鎮座しているわけではなく
あわただしい生活時間から、すこし離れて、こころを静めたときに、ふとどこからともなくやって
きて、今日のおこないを反省するというようなかたちで現れるような気がします。
(良心は自分であって、自分ではないです)

それは、もちろん、ひとりよがりな内省などではなく、世の中の人々(正確には家族、友人、仕事
仲間など)のなかにいる自分を見つめて、自分のおこないが正しかったかどうか、それを考える
行ないですね。
それは、city49さんのおっしゃる「他者を想定し、自分を客観視して自己と他者との関係を捉える」
ということそのものなのだと思います。

良心が脳(または肉体全体、または社会全体)のなかでどう実現されているか、興味はつきない
ですが、良心研究よりも、良心ふかき人になることのほうが大切みたいですね。

お礼日時:2001/01/09 00:46

トンチンカンかいてたらおおめにみてね~♪



殺人を犯した人について報道されるとき
犯人の犯した行動を『常軌を逸した・・・』などといいますね
また、犯人自身の言葉で『我を忘れた・・・』精神錯乱とでも
いうんでしょうか~

こういう状態に陥った場合、『真の自分』ではないのでしようか~?
精神錯乱状態に陥ると外観は本来の自分であっても
内面は感情とこころののバランスを崩して本来の自分では
なく、別人格が現れるようですね。

これは、多重人格者に限らず誰にでも起こり得ることだと考えます。

真の自分っていうもの自体『コレだ!』っていいきれるものではないとおもいます。
その時々によってその様を変えているように思えるのですが・・・
まだ見ぬ自分というものがあると考えれば・・・

理性に強い自分もいれば、感情を抑えきれない自分も存在していると考えます。

真の自分をみいだすことは、お釈迦様の域に達しないと
知りえることはできないのではないでしょうか~?
大晦日に除夜の鐘を百八つ打ち鳴らすのも人の煩悩を
取り除く為とか・・・・

あぁ~~~なにがいいたいんだろう~ごめんなさい!
わけわかんなくなってきちゃった。
トンチンカンいってたらごめんなさい。
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この回答へのお礼

littlekissさん、回答ありがとうございます。

みなさんの意見をいろいろ聞いているうちに、「自分」という言葉の意味が、私もよく分からなく
なってきました。「真の自分」という言葉自体、私の勝手な思いこみによって出てきた言葉かも
しれません。「自分」というものの範囲はまったく不明確ですね。marimo_cxさんの言うように
「自分」と思われるものを、いくつかの部分に分けて、どれが本当の自分か問うなんて、ナンセンス
なのかもしれない、という気がしてきました。

でも、あえて問うと、「自分」は階層構造を持っていて、部分部分には従属関係があると思うの
です。一番頂点にいる自分を、ここでは「真の自分」と呼ばせてください。
「真の自分」は、いつも静かに自分自身を見つめています。感情的になって暴走したり、理屈に
こだわりすぎて目的から脱線したり、嫉妬心から醜い言葉を発してしまったり、動物的欲求にふけって
いたりした自分を、静かに内省します。

そういう自分を、叱ったり、許したり、そしてまた、明日生きる元気を取り戻そうとします。

なんだか文学になってきましたね。哲学論議は無理なのかなあ。

littlekissさん、ぜんぜんトンチンカンじゃないですよ。また意見を聞かせてください。

お礼日時:2001/01/08 00:16

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Q暴力とは 感情のよりは理性の産物だ。

 なぜなら 本能として感情のままに動く動物の物理的なチカラは 暴力とは言わない。

 それは 一面として自由意志によるものだと見られる部分が乏しいからでもあるが 実際の側面としては 獲物である相手の動物に対して こいついっちょうやったろかと思ったり 借りがあるから倍返しだと考えてチカラを振るうわけではないだろうからである。

 つまり 人間だけが いちいち相手とのいやな関係を思ったりしてそのゆえに危害をくわえようとする。のだと もしするなら 人間だけが 《暴力》をふるうのだ。

 【Q:暴力とは 相手の意志を無視することだ】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8286426.html

 から まさに――自由意志の振る舞いであるとともに――理性による産物である。



 糺してください。

Aベストアンサー

B様、こんばんは。


>「人間だけが いちいち相手とのいやな関係を思ったりしてそのゆえに危害をくわえようとする。のだと もしするなら 人間だけが 《暴力》をふるうのだ。」

いやいや。
「「暴力をふるう」が、理性による産物」で、(それは)人間だけ」とは、


>「なぜなら 本能として感情のままに動く動物の物理的なチカラは 暴力とは言わない。」

まあ、なんてますか。
「倍返し」とは、「「目には目を」というくらいでは(次からは?)済ましませんよ?」という、
一種の、まあ、「禁じられた「自力救済」」です。

・・・ところで、やはり「「自力救済」は禁じられている(→理性の産物)」わけで、
・・・そうした「法の網」をかいくぐって、「自力救済」を実現してしまう!?というところに、
一種の、まあ、「してやったり!」を覚える事は、あるのかもしれません。


>「「暴力をふるう」が、理性による産物」で、(それは)人間だけ」」

では、「水戸黄門」という勧善懲悪的なドラマにおける、
登場人物(たち)のチカラ(と、その淵源)関係について、ご説明ください。

Aベストアンサー

その「世の中」を広くする事が、その「原理」を
理解する上で効果的と考えた僕は、協力隊と海外
コンサルとして、8年間かけて世界11ヵ国で働き、
20ヵ国旅しました。
途上国暮しは、夜が長く、複雑な日本社会と距離を
おけるので、思索するのは絶好です。

Q円周率(π)が超越数であるということの意味は? そして真理とは?

数学カテゴリで質問しようかと思いましたが、やっぱり哲学カテゴリにしました。
以前、「ゲーデルの不完全性定理ってわかりやすく言うと何?」と質問したとき
回答者の方から『不完全性定理のストレートな解釈は「自動的に定理を枚挙する
ようなアルゴリズムはない」という意味です』というすばらしい回答をいただき
感嘆いたしました。これこそ「事実のもつ意味であり真理だ」と思ったものです。
そこで質問です。

【質問1】円錐の体積は円柱の体積の1/3、球の体積は円柱の2/3という具合
に、体積比はきれいな有理数値です。なのにどうして円周率(π)は有理数でも無
理数でもない超越数なのでしょうか?(無理数は超越数の一部かな?)
その意味するところを何か「うまい言葉」で表現することはできないでしょうか?
曲線と直線の本質的不親和性とか何とか、、、あるいは数という概念の限界とか
何とか、、、

【質問2】円周率(π)が超越数であるという「真理」は、造物主が創ったものなど
ではなく、人間が「円周と直径の比は?」という問いを発したからムクムクと姿を
現したものであると考えることができると思います。したがって「事実」は自然界
に自然に存在するが「真理」は人間が「問い」を発して「創る」ものだと思うの
ですが素人考えでしょうか。

【質問3】「真理」は広く一般に認められて「事実」となり、それがさらに高次の
「真理」を生み出す母体基盤となると思うのですが、どうでしょうか。

このところ、ぼんやりと考えている「ホントに素人」な疑問です。
どんな回答でも結構です。質問1~3のどれかひとつだけの回答でも結構です。
いろいろな観点からのお話をお待ちしています。

数学カテゴリで質問しようかと思いましたが、やっぱり哲学カテゴリにしました。
以前、「ゲーデルの不完全性定理ってわかりやすく言うと何?」と質問したとき
回答者の方から『不完全性定理のストレートな解釈は「自動的に定理を枚挙する
ようなアルゴリズムはない」という意味です』というすばらしい回答をいただき
感嘆いたしました。これこそ「事実のもつ意味であり真理だ」と思ったものです。
そこで質問です。

【質問1】円錐の体積は円柱の体積の1/3、球の体積は円柱の2/3という具合
に、体積...続きを読む

Aベストアンサー

質問1
 超越数って、なんかスッゴイ名前を戴いちゃって、完全に名前負けしてます。超越数とは「整数係数の多項式=0」という方程式の解にならない実数のことです。整数係数多項式とは係数に整数しか許さず、足し算、引き算、かけ算だけで構成される式(だから、冪を使って表現しても、冪の肩に乗るのは自然数の定数だけです)。だからまあ、一番「易しい」たぐいの方程式でしょう。「与えられた円と同じ面積の正方形を定規とコンパスで描け」と言われてもできない。定規とコンパスだけで平面上に点を決める操作は、解析幾何学に翻訳するとすべて低次の整数係数多項式の方程式に帰着してしまうからで、どうやっても√πという長さが作れません。
 なお無理数とは「有理数でない実数」の事です。整数係数の方程式 nX-m=0の解はX=m/nですから、有理数は超越数ではない。すなわち超越数はみんな無理数です。無理数√2は方程式 X×X-2=0の解だから超越数ではなく、従って、超越数⊂無理数。
・実数と無理数に関しては: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=32339

 コンピュータのプログラムで任意の精度まで計算できる(「計算可能な」もしくは「構成可能な」)実数というのは、実は高々、自然数の個数と同じだけ(アレフ0個)しかありません。(証明はmori0309さんにお任せ。プログラムのゲーデル数を考えてみれば...)実数の個数はずっと多い(アレフ1個)ので、圧倒的多数の実数が計算不可能であり、また当然の事ながら計算不可能な数はみんな超越数です。で、πは計算できる実数。可愛いもんです。つまり、計算不可能な数⊂超越数。
・実数の個数に関しては: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=31937

 円に関係してπが出てくるのは、直径と円周の比、という所にポイントがあるんですね。面積と円周の比じゃダメです。円周も円の面積も、また円錐や球の体積・表面積も、みんな仲良くπの因子を1つずつ含んでいますから、お互いに比を取ればπは消えてしまいます。しかし、一般に半径rのn次元球の体積は
 nが偶数: V[n] = (r^n) {π^(n/2)}/{(n/2)!}
 nが奇数: V[n] = (r^n) 2 {(2π)^((n-1)/2)}/{n!!}
   (ただしn!!= n (n-2) (n-4) ... 1 )
です。円はn=2(2次元における体積=面積)、球はn=3(普通の意味での体積)。で、n=4次元だったら、
V[4]=(r^4) {π^2}/2
であり、円や球の体積との比を取るとπの因子が残ってしまいます。逆にn=1次元でも
V[1] = 2r
だから、πの因子が残ります。(1次元の場合の体積とは、直線上に中心Oを取り、そこからrの距離にある2つの点に印を付けて、その2点間の距離を測った物です。)
 ちなみにn次元の球の表面積はV[n]のrによる一階微分S[n]=dV[n]/drで表されますから、或る球の表面積と体積とではπの因子の次数はいつも同じです。(n=2の場合で言うなら、円の面積と円周との比を取るとπの因子は残らない。nが幾つでも同じ事です。)
・n次元球の体積に関する若干の議論は: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=19508

 円形の海があってその周囲が丁度直径の3倍である、という記載が聖書の中にあるそうで、円周率が丁度3じゃない事に悩んだヒトも昔は(今でも?)随分いたと聞きます。これは大地が平らだと仮定するからそうなっちゃうんで、仮に空間の曲率が正であるとしたとき(この場合球面上)の非ユークリッド2次元幾何学を考えると話は違います。円周率は円の直径に依って変化するものになり、これが丁度3になるような海の直径を割り出せます。すなわち、北極点を中心にしてこのような円形の海があったとすると、その円周は丁度北緯60°の所に来ます。地球の半径をRとするとき円周の長さ=2πRsin(π/6) = πR, 球面に沿って測った海の直径は=2R(π/6)= πR/3ですから、円周率は(πR)÷(πR/3)=3になります。(だから聖書学は球面幾何学を含んでいる?というのは例によって考え過ぎです。)
・非ユークリッド幾何に関する若干の議論は: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=30830

質問2
 とても重要な観点だと思います。「真理」という所を「概念」と呼んでみては如何でしょうか。数学にはいろいろな性質を表す言葉が導入されます。そしてそのような性質同士の関係を問う、などの問題を考える訳です。しかし(普通の数学の場合)これらの性質は、全部集合論の記号と論理式に完全に還元して表現することができます。素数であるとか、超越数であるとか、ゲーデル数であるとか言うのは、言ってみれば人間が発明した「概念」であり、本来は論理式のパターンに過ぎないものに名前を付けることによってヒトが創造した、と考えることもできます。
初めに言葉ありき。
 逆に「数の性質は初めからそこにあって、それを探求して発見して行くんだ」というケンキョな考え方もあり、どちらかと言うとこっちの方が普通でしょう。
・質問3に関しては: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=24901

質問1
 超越数って、なんかスッゴイ名前を戴いちゃって、完全に名前負けしてます。超越数とは「整数係数の多項式=0」という方程式の解にならない実数のことです。整数係数多項式とは係数に整数しか許さず、足し算、引き算、かけ算だけで構成される式(だから、冪を使って表現しても、冪の肩に乗るのは自然数の定数だけです)。だからまあ、一番「易しい」たぐいの方程式でしょう。「与えられた円と同じ面積の正方形を定規とコンパスで描け」と言われてもできない。定規とコンパスだけで平面上に点を決める操作...続きを読む

Q真の宗教と真の科学

 
真の宗教は科学に頼らないし、真の科学は宗教に振り回されない。
宗教の正しさを科学によって裏付けようとする宗教は真の宗教ではなく邪教である。
宗教に依存する科学は真の科学ではなくエセ科学である。
宗教と科学はそれぞれ次元の異なる別々の世界だからである。
宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである?
 


 

Aベストアンサー

真の宗教は正しさを問われることはない。宗教は世の道、人の道の精神的な面を説くものであり、その教えに共感できない物に対して強制する性質のものではないのだから、証明を必要としない。

真の科学は物理法則以外の何ものにも左右されず、普遍のものである。科学はある系に対して実際に観測される事象の因果関係を証明するものであり、科学的手段を用いていない説明は単なる仮説として扱われるだけである。


従って、真の宗教と真の科学にはその性質において重なり合う部分はなく、人の「欲」だけが両者を繋ぐ鍵となりうる。

Q【哲学】世界の中に自分がいるのではなく、自分の中に世界が存在している。自分が死んだ時点で世界が終

【哲学】世界の中に自分がいるのではなく、自分の中に世界が存在している。

自分が死んだ時点で世界が終わる。

世界は己自身の中にあり、世界は内と外に存在する。

これらの言葉の解釈を発見した者は死を経験しないだろう

やっと気付いた「自分が世界に存在する」ではなく「世界の正体が自分」な件
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4900063.html

どう思いますか?

Aベストアンサー

自分が死んだ時点で世界が終わる。

この考えだと死を悟った者の中に不届き者がいて、運悪く核兵器のボタンを握っていたとしたら他の皆も運命共同体であの世行き。

それに近い人は過去に居たはずですが、今のところそこまでの愚か者は居ない。死ぬ間際は案外「自分が世界に存在する」に寄って亡くなる方が多いと考えます。


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