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※子供以外の大人の精神について

よく(?)大人が大人に向って、または大人を指して「あの人は大人だ」とか「もっと大人になりなさい」とか「大人のふるまいだ」などという言葉がありますが、大人とはどういう状態を言うのでしょうか。誰が大人かどうか決めるのでしょうか。
今の私は、18歳の時よりは知識は増えましたが、感動する事は減ったと思います。精神的に高校生の時のまま止まっている様な気がします。
体は見れば大人だとわかります。だんだん老化もしていきます。

では、精神は?精神が大人になるとはどんなふうなのでしょうか?老化していくのでしょうか?それとも子供のままの人もいるのでしょうか?精神的に大人な人はどんな感じなのでしょうか?

A 回答 (6件)

59歳男性。


大人になれというときは、いつまでも子供じみているというのを別の言い方にしたものでしょう。大人と子供の違いは、社会生活にどれだけ関わってるかがありますね。
社会生活は世間のことです。
世間というのは、お互いに助け合うべきもの、というよりも、監視しあうものという気がしないでもない。

そのような世間で生きていくためには、自分をあるていど殺しながら、気配りを怠らないことがひつようです。
ときには、正論から外れても、生きていくためにあえて多数にあわせる生き方ができる人を大人といいます。
現実が重要なので、ものごとに感動することもなくなります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
私の親世代でもあるikkannsann様からのご意見はとても説得力があると思いました。
近年はとても便利になって、お互い助け合わなくても、ほぼ一人でなんでもできるようになったと思います。だから、お互い助け合うべきと言われても「何を?」「どうやって?」と思いますね。「お蔭様です」と言わなくなりました。監視しあってるというのも一理あるかもしれないですね。

>そのような世間で生きていくためには、<
後半三行については、半生を生きてきた方の知恵なのだなあと思い、とても重みを感じました。勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/26 09:28

 俺の場合は、「危なっかしい行動をする質問者」にそのような言葉を使うことが多いです。



 高校生は年齢的に大人に見られがちですが、急に道に飛び出したり、または人間関係の問題を不用意に扱ったりと、ずいぶんと「危なっかしい」行動をとることが多いのです。
 もちろん平均論ですし、えなりかずき みたいな子もいっぱいいますけど。

 んで、そのような行動をとる人に、「もうちょっと現実を見て慎重になりなさい」という意味で、大人になれという言葉を使うことがあるのです。
 俺が言う場合に限っては、感動とかは関係ないです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
「大人になれ」というのは「頭が良い」という頭の良さを測れないのと同じくらい曖昧で、実は「大人」の意味もその人によって微妙に違うんですね。
deagleさんの「大人になれ」というのは、道を誤りそうになった人に対してそれを気付かせてあげるような意味合いで使われるのですね。後から来る者達に対する愛情というか、そんな感じがします。

>「もうちょっと現実を見て慎重になりなさい」<
なるほど・・・です。
1番様も書いてましたが“現実”を良くみる事が大人の共通点という気がしてきました。参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/26 09:51

世間一般で言われるところの大人と、本当の意味での大人、2つの場合を考える必要があると思います。


人間の精神性は本能(エス)・自我・超自我の3層からなるという解釈が可能だと思われますが、
本能は快・不快、
自我は損・得、
超自我は善・悪、
の判断に関与していると考えて良いでしょう。

世間一般で言われるところの大人は自我の強い人、ということが言えると思います。
超自我の割合はピンキリですが、これが全く発揮されないと犯罪者になりますし、過剰(自らを顧みないという点で)に多すぎるのが聖職者(真の意味での)などの精神性に近いということになりそうです。
エスを持たない人はいませんが、これを超自我でセーブする状態を理性、と考えることができると思われます。
大人は損得で本能をセーブできるが、善悪でセーブするとは限らない(人による)ということになるでしょう。
いずれにしても自我の確立さえ難しいものですが、これがあまりに未発達の場合は子供と同じでエスの制御ができなくなります。
わざわざ自分が損するとわかっているようなことに夢中になったりするのがこれですが、何が損かという問題もあり、この点に関してはまとめて後で述べます。

なにかエスは悪者のように思えてきますが、これはまた生命の源泉でもあります。
生きるという欲望の純粋形と考えることができますから、これが弱すぎる人は生命力の弱い人だと言うことも可能です。
ただ、エスは必要だがいつもいつも言うとおりにしていると集団生活は不可能になる、ということです。
(他者のエスと真っ向から対立するだけなので)
ところで、超自我と自我の対立も当然ながらあります。
超自我といっても特別偉いわけでもなく、何でも制御すれば良いとおもっている堅苦しい人のような印象もありますが、不要なものまで制御してしまう場合もあります。
感情は時に素直に発揮されたほうが健全な場合もありますから。(無論、抑えることが必要な場合もあります)

こうして見てくるとお気づきかと思いますが、これら3者のバランスがほど良く取れている人が健全な真の大人、ということになるのではないかと思います。
『自分の感性は大事にするが、自分の日常的生活を壊してまでそれにのめりこんだりせず、
自分の主張はきちんとし、なるべく自分にとって得になるような解決を目指し、同時に
他者に明らかな迷惑がかかったり、他者の生命や精神を侵害するようなことがないように十分配慮できる。』
というのが真の大人と言って良いのではないでしょうか。
(そのバランス加減が難しいので大変なのですが、自身の基準について常に変革の余地を持ち続けることが大事だろうと考えます。)

自分や家族を利することが最優先になるのは止むを得ませんが、
『(同じ人間としての)他者の心をどの程度想像し得るか』
というあたりが、自我の肥大した大人から超自我とのバランスのとれた大人になる分岐点なのかという気もします。
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この回答へのお礼

Hakobuluさんご回答ありがとうございました。
フロイトの精神分析(?)ですね。“エス”“自我”でインターネット検索したら出てきました。(フロイトの原文(翻訳されていたが)は難しくて解読困難でした。)なのに、とても分かりやすく説明して頂きありがとうございました。
>『自分の感性は大事にするが、
↑hakobuluさんの言う真の大人は、自己評価的には表面上クリアできていると思います。ただ、内面的には相手によってストレスになりますね。これが、しんから内面も自然にこんな大人になれたらよいなと思います。
>『(同じ人間としての)他者の心をどの程度想像し得るか』<
このスキルを獲得するには、やはり人間関係のコミケーションの場数を踏む事でしょうか。頑張ります。大変参考になりました。ありがとうございました。
Hakobulu(←前回はスペル間違って失礼致しました)さんは博識があるお方で、でも、ご本人は控えめだから「ぶる」をつけたのだと・・・だからハクブルさんなのだと思っていたけれど、よくよく見たらハコブルさんでしたね(汗)すみません。

お礼日時:2006/10/26 21:50

ikkannです。


わたしは、現実の、状況はこうなってるのではないかなというところで書いてみました。あなたぐらいの若いときには、30すぎの人間は信用するなというフンイキがありました。
世界中の若者が旧体制に反旗を翻したころです。

「大人」というのは旧体制のことだったのですね。
年をとり、世間になじむうちに、若いころの熱い血が忘れられていきます。本当の生き方は自分で探すものだと思います。
自分が、自分のためだけでなく、もっとも有効に生かされるならきっといい人生になるのではと思います。失敗は成功のもとというのは本当のことです。
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この回答へのお礼

ikkannsann様、再度の投稿ありがとうございます。
>現実の、状況はこうなってるのではないかなというところで・・・<
はい、大丈夫です^^。10人いれば10通りの回答があると思っています。環境や時代や年代で捉え方も人それぞれだと思います。誰かに「こうだ」と言われたから「そうする」のではなくて、最終的には答えは自分で決めなくちゃいけないのですよね。自分の考えも合わせて皆様の意見を参考にしたいと思います。
>自分が、自分のためだけでなく、もっとも有効に生かされるならきっといい人生になるのではと思います。失敗は成功のもとというのは本当のことです。<
そうなりたいですし、そうありたいです。

お礼日時:2006/10/27 10:06

こんにちは。


心の中を覗いてみることはできません。ですから、精神的に大人であるかどうかは、そのひとの行動や言動といった、身体の外に表れ出たものを評価することになります。
我々動物の行動や反応は、脳内の中枢神経系が自分に与えられた状況に対して「利益・不利益の価値判断」を行うことにより、その全てが選択されます。ですから、行動や言動、あるいは反応といった身体の外に表れ出るものは、そのひとの心の動きを映しているということになります。そして、それが大人であるかどうかは、多くの場合、その社会の道徳観や価値観などに従い、必然的に評価基準が設けられることになります。

我々の脳内には、行動選択のための価値判断を行う中枢が以下のように三種類があり、それぞれによって選択される行動の様式が異なります。

「本能行動:脳幹以下脊髄まで」(本能行動)
「情動行動:大脳辺縁系」(学習行動)
「計画行動(意識行動):大脳皮質」(学習行動)

本能行動の様式といいますのは全人類に共通であり、これは生涯に渡って変更されることはないのですが、大脳辺縁系の「情動行動」と大脳皮質の「計画行動(意識行動)」は学習行動でありますから、成長・体験に応じて次第に複雑になってゆきます。そして、我々の社会で「理性行動」と呼ばれているものは、学習行動の内、大脳皮質の「計画行動(意識行動)」に含まれます。従いまして、まず知性的であるということは本能行動に対する「学習行動の比率」が高いということです。そして、知的行動として選択される学習行動の内、更に情動行動に対する「計画行動(意識行動)の比率」が高ければ、それはより理性的であり、より大人ということになります。

我々が産まれたとき、大脳皮質は白紙状態であり、更に人間の場合、その正常な発達には15~20歳までの期間を要します。これに対しまして、情動反応を司る大脳辺縁系といいますのは、出生時でほぼ正常に機能できる状態にあります。
このため、子供というのは大人に比べ、学習行動における「情動行動の比率」がたいへん高くなります。「泣く」「甘える」「欲しがる」、小さな子供でしたら当たり前のことです。やがて大脳皮質の発達と生後学習の積み重ねによって「情動行動と計画行動のバランス」が執れ、知的作業や理性的な判断が行えるようになります。そして社会的な評価というのは、どちらかと言いますならば知的作業よりも「理性的な判断」の方に下されます。
従いまして、大人として評価されるためには、脳の発達が成人に達しているだけではなく、その社会における道徳観や価値観をきちんと学習獲得し、それに基づいた行動の選択ができなければなりません。
精神的に大人になるというのはこのようなことであります。

では、我々の社会で「理性行動」と呼ばれるものは、どうして大脳皮質の「計画行動(意識行動)」に分類されるのでしょうか。それは、大脳皮質には「善悪」の判断が付けられるからだと思われるかも知れませんが、実はそうではありません。
「情動行動」といいますのは、「大脳辺縁系」に発生する「情動反応」に従って選択される行動です。学習行動ではありますが、それは大脳辺縁系の価値判断によって行われるものであるため、大脳皮質に知覚されるまでは行動や反応の発生を自覚することさえできませんので、自分の意思でコントロールするというのはたいへん困難です。
これに対しまして、「計画行動(意識行動)」は「過去の学習記憶を基に未来の結果を予測する」という、極めて複雑な「大脳皮質」の情報処理によって実現するたいへん高度な学習行動であり、本能行動や情動行動では対処できない様々な問題を解決することができます。

「理性」とは「感情に影響をされない判断能力」と定義されます。
「バカ野郎!」と言われたら「何を、この野郎!」というのが情動行動です。ですが、それがたまたま目上の上司でありますならば、「自分の会社での善悪(利益・不利益)」の判断を誤ったということになります。
これに対しまして、「バカ野郎!」と言われたら、ここは取り敢えず謝っておいた方が得だな、というのが「計画行動」です。このようなことは「未来の結果」を予測することのできる大脳皮質でなければ不可能です。このため、「理性行動」という複雑な行動選択は、全てが大脳皮質によって行われます。
上司と自分はどちらが正しいか、我々が理性的な行動を選択するために、善悪の判断は全く関係ありません。強いては、理性的であると評価されたいのでありますならば、心にもないウソを吐けば良いわけです。ともすれば、これができて初めて「大人」ということになるのかも知れません。

「感動」といいますのは、大脳辺縁系の「情動反応」によるものです。
「大脳辺縁系」は、身体内外の環境から入力される知覚刺激に対し、生後体験に基づく「利益・不利益の価値判断」を下し、「快情動」と「不快情動」のどちらかを発生させます。「快情動」と判定され「報酬行動(接近行動)」を選択せしめる知覚入力を「報酬刺激」、これに対しまして、「不快情動」に伴う「回避行動」の因子を「嫌悪刺激」といいます。そして、「好奇心」の源であります「新奇刺激」は、快情動をもたらす「報酬刺激」に分類されます。
ですから、我々にとりまして「感動」という情動反応の要因となりますのは、
「刺激の強さ」
「刺激の新奇性」
「報酬体験としての学習」
主にこのようなことになります。
ですが、まず一度体験してしまいますならば「新奇性」が損なわれます。また、強い刺激も繰り返されるならば反応が弱くなりますし、如何に過去に強い感動を学習したとしましても、飽きてしまえばそれまでですよね。
まして、知識が深まるならば「未来の結果を予測する」という能力が高まるわけですから、「そんなの当たり前だ」「見る必要はない」、これでは、新たな感動に巡り会う機会は端から損なわれてしまいます。更に、知識や経験によってある程度の判断が容易に下せてしまいますと、それが今度は、「頭が固い」といった現象として表れることになります。
我々はこのようにして、しだいに若かりし頃の豊かな感受性を失ってゆきます。

かつてフロイトが「性的道徳観」と指摘したものは、現在では、生後体験によって大脳辺縁系内の「扁桃体」に獲得される「情動記憶」であると考えられています。我々は生まれ育った社会からSEXに関する道徳観を学習し、それを判断の基準として情動反応を発生させているわけです。
ですが、大脳辺縁系内に学習獲得される判断規準といいますのは、決して善悪や道徳観ばかりではありません。個人体験や社会慣習に従い、道徳的価値観や宗教的価値観から、食べ物の好き嫌い、異性のタイプまで、ありとあらゆる価値観が獲得され、我々はそれに基づいて行動の選択を行っています。これが「情動行動」であり、そして我々の日常生活は、決して大脳皮質の計画行動ではなく、ほとんどがこの情動行動によって賄われています。
大人であるということは理性行動を選択できることであり、理性とは感情に影響を受けない行動の選択です。このためには、様々な学習情報を駆使して未来の結果を予測するというたいへん高度な思考を行わなければなりません。
ですが、先に述べました通り「感動」とは大脳辺縁系の情動反応であります。そしてそれは、決して自分の意思ではコントロールすることはできませんが、我々の行動を「目的」というものに対して突き動かすという原動力であります。更にそこには、生後我々が長い年月を掛けて獲得した道徳観や個人の個性といった判断規準が無数に獲得されているだけではなく、何よりも、大脳辺縁系の情動反応が大脳皮質の計画行動とはっきり異なる点は、ここではウソを吐けないということです。ですから、作り笑いをすることは誰でもできますが、ウソで感動できるひとはいないわけですね。

我々が大人になるためには、大脳皮質にたいへん多くの知識を詰め込まなければなりません。ですが、それと同時に、ひとが悲しむならば自分も悲しみ、幸福であるならば心から喜ぶと、そんな豊かな人間であり、豊かな大人であるためには知識だけではなく、より多くの体験に触れ、大脳辺縁系に様々な反応規準をしっかりと獲得する必要があります。
感受性は確かに年齢と共に低下してゆきます。ですが、知識が高まれば好奇心を増やすこともできるわけですし、何よりも経験・体験というのは年月が物を言います。お年寄りの心が豊かなのはこのためですね。脳の成長は止まっても、人間としての成長は生涯続きます。

この回答への補足

どうもありがとうございます。
以前「バカの壁」という本を、自分の事だと思って買って読んだ事があります。「こういう人はバカです」という内容ではなくて、「脳について(脳だけじゃないが)」の真面目な話だったのですが、意外にとっつきやすい内容で、それ以来、脳の話はわりと好きです。。
読んだのは3年前なので内容は忘れましたけど、脳の話だった事は確かです。1回読んだ本はあまり読まないのですが、また読みたくなりました。
計画行動と言うのは、外部からの刺激が脳の回路を瞬時に通って反応として出る。大脳皮質がしているのがこの仕事ですね。字を覚えたり、マナーを覚えたり、するのがこれですね。
繰り返し学習して早くても15歳、遅くても20歳までには出来上がるのですね。
情動行動と言うのは「喜怒哀楽」の感情がそうですか?これは生まれた時には、ほぼ正常にそなわっているのですよね。
本能と言うのは「睡眠欲」や「食欲」「息を吸う」とか「性欲」とかですね。ただし、性欲はフロイトによると後から獲得するものなのですね。

>更に情動行動に対する「計画行動(意識行動)の比率」が高ければ、それはより理性的であり、より大人ということになります。

比率が高いという事は、それだけ脳が刺激・反応を繰り返して学習したという事になりますよね。その学習する原動力はどこにあるのでしょうか。?
後に述べる「感動」という「情動行動」の強さということでしょうか?

>「情動行動」といいますのは、・・(略)・・自分の意思でコントロールするというのはたいへん困難です。
>これに対しまして、「計画行動(意識行動)」は・・(略)・・本能行動や情動行動では対処できない様々な問題を解決することができます。

例えば、お葬式の時におかしな出来事があって思わず笑いたくなっても、計画行動が瞬時に場に相応しくないと判断して笑いをこらえる事が出来るのがそうですね。
泣く・笑う・怒る・などという感情は、発生する前から頭で考えて変更できない、でも、大脳皮質の仕事によって時と場所を判断して表面上はコントロールできるのですね。

>上司と自分はどちらが正しいか、我々が理性的な行動を選択するために、善悪の判断は全く関係ありません。

そうですね。自分の未来と照らし合わせて不利かどうか、で対応しますね。

>「理性」とはに「感情」に影響をされない「判断能力」と定義されます。
そのような判断能力を養うには何が必要なのでしょうね。
>生後体験に基づく「利益・不利益の価値判断」を下し、「快情動」と「不快情動」のどちらかを発生させます。
>「報酬行動(接近行動)」を選択せしめる知覚入力を「報酬刺激」、
>「不快情動」に伴う「回避行動」の因子を「嫌悪刺激」

人間が、好んで受け入れるのが「快情動」、避けるのが「不快情動」に分類されるのですね。

>何よりも、大脳辺縁系の情動反応が大脳皮質の計画行動とはっきり異なる点は、ここではウソを吐けないということです。ですから、作り笑いをすることは誰でもできますが、ウソで感動できるひとはいないわけですね。

なるほどーーー!!

Hakobuluさんのお礼の欄で表面上はクリアできるが、シンからもそうなりたいと述べましたが、絶対に出来ないのですね。表面上クリアできてればそれで良いのですね。ということは、表面上大人的振る舞いが出来る人の方が「大多数」ですね。
私は大人的振る舞いをする人は、しんからも大人な人だと思っていましたが違うのですね。

>ひとが悲しむならば自分も悲しみ、幸福であるならば心から喜ぶと、そんな豊かな人間であり、豊かな大人であるためには知識だけではなく、より多くの体験に触れ、大脳辺縁系に様々な反応規準をしっかりと獲得する必要があります。

そうですね.
そういう人の方がずっと魅力的ですね。ということは、なんだか苦労は買ってでもしたくなってきました(おおげさな表現ですみません)

脳という角度から、とても詳しく説明してくださって、とても勉強になりました。ありがとうございます。

補足日時:2006/10/30 09:43
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この回答へのお礼

この度はこの質問にお付き合い頂き大変ありがとうございました。
脳の話は好きです。と、書きましたが「脳科学」の「の」の字も知らないですし、心理学の「し」の字も知らない輩です。そのような私の質問に答えて下さり大変恐縮です。
このような問いを立てたのも、実は私が人から「もっと大人になれ」と言われたからです。
なんとなくイメージは分かりますが、具体的にはどのようなものだろう?他の人はどう捉えているのだろう?と疑問に思ったからです。こんな事聞いたらバカだと思われるかなあと躊躇もしましたが思い切って聞いてみて良かったです。
私は現在、子育て中でもあるので大変参考になりました。こうしてる間にも子供の脳はどんどん発達中なわけですね。上手に育ててあげなくてはと思いました。
このQ&Aが、多くの人に見ていただければ幸いです。

お礼日時:2006/10/31 01:47

こんにちは。


ANo5です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。
あの長い回答を隅までお読み頂き、ここまでご理解を示して頂きましたことに感激しております。そして、せっかくですから、私の説明が至らなかった部分に就いて、もう少しだけ説明を付け加えさせて下さい。

>計画行動と言うのは、外部からの刺激が脳の回路を瞬時に通って反応として出る。大脳皮質がしているのがこの仕事ですね。字を覚えたり、マナーを覚えたり、するのがこれですね。

はい、その通りです。

>繰り返し学習して早くても15歳、遅くても20歳までには出来上がるのですね。

はい、厳密には「神経細胞の分裂」と「神経結合の強化」が概ね20歳までで完了するということです。それまで子供の大脳皮質は未発達ではありますが、もの心が付けば様々な知能行動を急速に学習してゆくというのは、お子様をお持ちの質問者さんでありますならば良くご存知だと思います。逆に二十歳までの成長期を過ぎますと、我々の脳細胞の数は減少の一途を辿ることになります(念のため、これは老化ではありません)。
「神経結合の強化」といいますのは、細胞が結合の数をどんどん増やすと共に他の信号と混ざり合わないように神経線維の周りに絶縁が施されるといったようなものであります。この細胞結合の形成が最も活発に行われますのが生後3歳頃まででありまして、この時期は「人格形成期」と言われ、子供の脳の発達にはたいへん大切な時期と考えられています。
また、「三つ子の魂百までも」のことわざ通り、「食べ物の好き嫌い」や「好みの異性のタイプ」など、大脳辺縁系の方にも様々な価値判断が獲得され、その多くは一生ものになります。生涯に渡る両親への愛情は、私はこのようにして獲得されるのではないかと考えています。

>情動行動と言うのは「喜怒哀楽」の感情がそうですか?これは生まれた時には、ほぼ正常にそなわっているのですよね。

はい、大脳皮質とは違い大脳辺縁系では、出生時の段階で「情動の発生機能」と、そのための「学習機能」がほぼ正常に備わっています。ですから、産まれたばかりの赤ちゃんでも「報酬刺激」に対しては喜び、「嫌悪刺激」に対して泣く、このようなことがすぐにできるようになります。
ですが、本能行動の基準として生まれながらに持っている反応以外は、自分に与えられた環境の中で、いったい何が「報酬刺激」であるのか、あるいは何が危険で何が「嫌悪刺激」であるかは、取り敢えず一度は体験をしてみないことには決められません。つまり、大脳辺縁系はすぐに使える状態にあるわけなのですが、何に対して「喜怒哀楽」を発生させるかという反応の規準は生後学習によって獲得されるものです。そして、そこにはそれぞれの個人体験に従って「個性」というものが反映します。
我々の大脳辺縁系には、このようにして「食べ物の好み」や「異性のタイプ」といった様々な「個性」や「性格」が作られるわけですが、例えば「ご飯をこぼしてはいけない」とか「裸で外を歩くものではない」といったような、その社会における共通の概念も順を追って獲得されてゆきますので、これに反するような事態に遭遇しますならば「叱られる」「恥ずかしい」といった道徳的な反応もちゃんと発生するようになります。

>本能と言うのは「睡眠欲」や「食欲」「息を吸う」とか「性欲」とかですね。ただし、性欲はフロイトによると後から獲得するものなのですね。

はいそうです。
ですから、「性的欲求」といいますのは我々人間が動物として持つ生得的な反応ではありますが、それに対する価値判断といいますのは生まれ育った社会環境から学習獲得されるものです。SEXに対する嫌悪感や羞恥心を道徳観と呼ぶならば、性欲に基づいて発生する情動的な報酬反応を情愛、あるいは恋愛感情と考えて良いのではないでしょうか。そして、このようなものは大脳辺縁系の中に、大脳皮質の論理的な概念よりも先に学習獲得されてしまう可能性が十分にあります。大人たちが夜の生活を隠そうとすれば、子供たちはそれを「悪いこと」と学習してしまうかも知れませんね。

>>更に情動行動に対する「計画行動(意識行動)の比率」が高ければ、それはより理性的であり、より大人ということになります。
>比率が高いという事は、それだけ脳が刺激・反応を繰り返して学習したという事になりますよね。

はい、その通りです。

>その学習する原動力はどこにあるのでしょうか。?

そうですねえ、色々考えてみたのですが、どうやら学習というのは我々の意思に従って行われるものではないように思います。ですから、その原動力とは意思とは切り離されたものであり、我々は学習をしているというよりは、学習させられていると考えた方が近いのではないかと思います。

>後に述べる「感動」という「情動行動」の強さということでしょうか?

そうですね、まず「学習効果」といいますのは刺激の強さに比例し、反復学習によっても強化されます。それと同時に、このような刺激情報を円滑にやり取りし、記憶として効率良く獲得するためには、やはり脳内の覚醒状態もそれなりの高いレベルになっていなければなりません。
通常、我々の脳内は「5-TH(セロトニン)」という伝達物質の恒常的な分泌によって「安静覚醒状態」にあります。そして、ここに何らかの刺激が発生しますと「NA(ノルアドレナリン)」の「脳内広域投射」が行われ、中枢系全体の覚醒状態が一気に亢進されます。これにより、脳内の情報伝達が活発になると同時に、様々なことが記憶に留めやすくなります。
このような状態を「注意状態」、あるいは「ストレス反応」といい、NA(ノルアドレナリン)といいますのは、いざここぞというときに分泌されるものです。ですから、「刺激の強さ」「刺激の反復」とういったものが学習の「外的要因」でありますならば、このような脳の受け入れ状態は学習の「内的要因」であり、「学習の原動力」といいますならば、こちらの「NAの広域投射」という内的要因がそれに当たるのではないかと思います。
ところが、これは環境からの刺激に基づく脳の生理反応でありますから、当然のことながら自分の意思でコントロールすることはできません。では、脳内にNAをたくさん分泌させ、より効率の良い学習を行おうとしますならば、
「集中して注意力を持続させる」
「興味を持つ」
「危機感を煽る(受験生が良くやりますよね)」
といった手段が考えられます。このような条件が不足しますと、5-HT(セロトニン)の分泌によって、我々の脳はなるべく早く元の楽な状態に戻ろうとします。

このNA(ノルアドレナリン)の脳内広域投射といいますのは、環境からの直接刺激だけではなく、大脳辺縁系の情動反応によっても行われます。例えば、旦那さんが何を言っても別に気に留めることはないのですが、お子さんが何かをすれば、質問者さんの注意力は一気に高まり、脳内にNAが分泌されて覚醒状態が亢進されます(失礼な例えで申し訳ありません)。
只今申し上げましたように、学習というのは自分の意思で行っているのではなく、どちらかと言いますならば必要に応じて学習させられているといったようなものです。ですが、情動反応といいますのは、このような無意識の選択を、自分にとって必要なもの、自分にとってより大切なものに向かって必然的に突き動かすという働きを担っています。ですから、最愛の我が子に対してはより多くの行動が選択され、最愛の我が子に対しては無条件で学習能力が高まります。このような反応が親の愛情であり、我々の学習や行動の原動力とは、正にこれではないでしょうか。

二十歳を過ぎて何年も経ち、それなりに学習・経験は積んだといいましても、60代、70代のひとから見れば、我々はまだケツの青い若造です。「もっと大人になれ」なんてのは、幾つになっても言われ続けるのではないでしょうか。質問者さんだけじゃありませんよ。私の知っている会社の会長さん(70代現役)なんて、課長さんクラスを捕まえてまるでガキ扱いです。
「もっと大人でありたい」
「高校時分の意識が残っている」
「体力の衰えを感じる」
もしかしたら、このようなことは質問者さんが子育てを体験することによって現れた意識の変化ではないでしょうか。だとすれば、それは成長ではないですか?
甘えは許されないのだから、若かりし頃のバイタリティを取り戻してでもがんばらなければならない。だけど、そうそう体力が言うことを聞かない。
理性的な行動というのは感情に影響を受けないということです。ですが、子供に対する愛情とは情動反応以外の何物でもありません。ならば、子供の将来を考えるならば自分はもっと冷静でありたい。これは、子育てを体験する質問者さんの意識の中に産まれた「自覚」ではないでしょうか。
お子さんを、ほんとうに大事に思っておられるのですね。たいへんでしょうが、子育て、がんばって下さい。

この回答への補足

・・・お礼の続きです。

> どうやら学習というのは我々の意思に従って行われるものではないように思います。ですから、その原動力とは意思とは切り離されたものであり、我々は学習をしているというよりは、学習させられていると考えた方が近いのではないかと思います。

なるほど、そうですね。私は生後学習の原動力は「感動」とか「好奇心」が学習する意欲を掻き立てているのかな?と思ったのですが、早とちりな質問でした。
大脳辺縁系と言うのはそういうものではないのに、前回は理解力の無さからこのような質問をしてしまいました、すみません。
大脳辺縁系というのは個人差が無い物なんですよね。感情が大幅に欠落している人なんていないですものね。
(感動や好奇心は「快」に分類される情動反応ですよね、たしか)むしろ感動や好奇心にかき立てられて学習するのは大脳皮質のほうですね。
でもそれは外的要因があったとしても内的要因が無ければ効果が無いのですねー、なるほどです(わかりやすい例をあげていただいたので、わかりやすかったです。)

まとめますと、精神的に大人というのは、時と場所と立場を考えて振る舞える人(大脳皮質が活躍している人)大半の人が出来ていますね。
感情剥き出しでダダッコになっている人はあまりいないですからね。

私は「精神的大人な人」について、もう一つ考えている事は「自立」している事と自分の言動に責任が取れる人だと思っているのですが、これに関しては私もそうですが出来ていない人がけっこういると感じています。
自立していないがために「自分は自分、他人は他人」と考える事が出来ずに(大脳皮質を活躍させているにもかかわらず)周囲を不快にさせたり翻弄させている人がいると思います。
「依存」という言葉が頭をかすめるのですが、私は「依存」を読みかじった本によると、愛されるべき時期に足りなかった愛を大人になってから“他人”で清算しようとしようとする事と解釈しています。(簡単に言うと、心のおっぱいから卒業できない人。)
そのような事を清算されようとしている“他人さん”にとってはたまったものではありません。
大人になっても自立できない人は何か大脳辺縁系の生後学習の辺りで言葉では言い表せないような「不快感」を刻んでしまったのだろうか・・・と、思いました。※「依存」については、この「精神的に大人とはQ&A」と関係がありそうで無さそうですが、これはこれで独立した問いだと思うので、いつか機会があったら出してみたいと思います。

「精神的大人」について自分の思っていたイメージと皆様の回答を掛け合わせて大分はっきりとしたイメージが出来上がりました。普段は意識していない脳についての知識も深まり大変参考になりました。ありがとうございました!

私の薄っぺらい大脳皮質でなんとか理解しましたが、「いやいや そうではなくって!」と思う所がありましたら、どうぞご指摘ください。

補足日時:2006/11/05 05:06
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この回答へのお礼

大変遅くなり申し訳ありません。再び早速のご返答ありがとうございました。
回答歴を拝見した所、興味のあるQ&Aが結構ありまして読んでいたら止まらなくなってしまいました。
その中で、『「愛」って何ですか。』『「心」って何ですか。』(余談ですが、このQ&Aとても面白いです)の回答が関連がありそうだったので読ませていただきました。
脳のどの部分がどのような役割をしているのかが、こちらのQ&Aで更に理解を深めることが出来ました。
フロイトを掛け合わせると、(脳幹以下脊髄まで・大脳辺縁系)がエス。(大脳皮質)が自我と超自我ではないかと解釈いたしました。
大脳辺縁系は生後直後にほぼ出来上がっているというのは、快・不快を感じ取り喜怒哀楽として発生させる機能が生得的にあるという事ですね。
ただ「何が」快・不快かは体験してみないとわからない、それが生後学習ですね。
それが3歳ぐらいまでに脳の中で「神経結合の強化」がなされていくという事ですが、なるほど納得です。(うちに4歳児がいるので)
そういわれてみれば人間は3歳くらいまでに食事、歩行、排泄、睡眠のリズム等、生きていく基本中の基本が出来る様になりますね。
時間も季節も男女も意味も理屈も何も理解していない時期に学習していった価値判断基準は何か特別な感じがしますね。
その3歳辺りまでに獲得していった「3歳までの価値」を軸にして今度は「3歳以降の価値判断」が作られていくのですね。
(余談ですが、何故小学校は7歳からか。という育児コラムで、読み書き算数に適す脳が7歳なのだそうで、それまでは五感を十分感じさせてやりなさい。という記事があったので7歳も発達の節目っぽいかなと思います。)
そして大脳皮質では「快・不快をもたらす物」は何であるかというのが大脳皮質で獲得していくのですね。(色、形、名前、損・得かなど)

>「性的欲求」といいますのは我々人間が動物として持つ生得的な反応ではありますが、それに対する価値判断といいますのは生まれ育った社会環境から学習獲得されるものです。
 わかりました。そうですね、「性的欲求」に関しては相手があってこそ欲求するものだからですね。ただ相手がいなくても価値判断は学習されるという事ですね。

続く・・・

(とりとめもなく長く、大変読みづらくなり申し訳ありません(汗)1000文字越えたので補足に書かせて頂きます。)

お礼日時:2006/11/05 04:52

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