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ユダヤ教はほぼユダヤ人(ユダヤ教徒)の為の宗教だと思うのですが、その経典である旧約聖書が、非ユダヤ人を含むキリスト教の経典でもあるのはどう説明されるのでしょうか?。例えば旧約聖書には「救世主がいずれ、約束の土地を与える」という事が書かれているそうですが、それは「ユダヤ人に対して」なのではないのでしょうか?。であれば、非ユダヤ人であるキリスト教徒がこの旧約聖書のこの部分をどうして受け入れられるのでしょうか?。

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A 回答 (7件)

イエスがユダヤ教徒であったことはご存知だと思いますが、どちらかというと、厳格な形式主義にとらわれ本質を見失っていた当時のユダヤ教を改革しようとしていた感があり、自らの教えが後世にユダヤ教と全く異なる宗教として認識されるようになることは認識されていなかったように思われます。

それは、主イエスが旧約聖書(トーラ)を全て肯定していることからも見受けられます。そう理解して貰えれば、何故、旧約聖書の流れの延長に新約聖書が位置付けているかが、お解りになるのではないでしょうか。
但し、付け加えると、全てのキリスト教が旧約聖書を同等に扱っている訳ではありません。ローマに起源を発するカトリックでは、旧約聖書は用いておりません。わたしはプロテスタント系ですので、カトリックの細かい教義は良く存じませんが、若しかしたら、旧約聖書を信仰するユダヤによってイエスが迫害を受け、ローマがその執行の片棒を担がされたという憤りや、ローマすら異邦人扱いする教義自体を受入れられなかった可能性は否定出来ません。

では、非ユダヤ人であるキリスト教徒が旧約聖書をどのように受け入れているかというご質問についてですが、わたしは、ユダヤ教とキリスト教では旧約聖書の解釈の仕方に大きな違いがあるものと理解しています。
ユダヤ教の経典には、旧約聖書(トーラ)の他にもその解釈等を規定するタルムード等がありますが、イエスが正当としたものはトーラのみであり、タルムードは含まれておりません。タルムード故に解釈が固定化されてしまっているユダヤ教に対して、キリスト教では文脈や言葉の裏に隠れている神の本質を重視します。
旧約聖書に書かれている神の祝福も、一般には、ユダヤ民族に限定されるというのが通説にはなっておりますが、全知全能の神が何故?という疑問は誰もが感じることでしょうし、旧約聖書にも、アブラハムとエジプト人奴隷ハガルの間に生まれたイシュマエル(イスラム教ではアラブ人の祖先とされる)に対しても祝福を約束しています。
これを以ってイエスが当時のユダヤ教の形式主義的な解釈に異論を唱えたのかどうかは知る由もありませんが、現代の我々キリスト教徒は、旧約聖書に主イエスの道に通じる足跡が隠されており、主イエスの教えを自身の中でより深める意味で旧約聖書を受け入れています。

この回答への補足

みなさまありがとうございました。

補足日時:2006/11/05 15:22
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうですよね。誤解されがちですが、イエスは反旧約聖書ではなく、むしろ旧約聖書を正しく読もうと訴えた。ですので、旧約聖書と新約聖書は反しない事は充分理解しております。私の疑問は非ユダヤ人にもフレキシブルに対応している文面だったのかな?。というものです。ですので本質的な疑問というより些末な文章表現上の疑問ですね。ところで、大変驚いたのは(無知なだけですが)カトリックでは旧約聖書を用いていないんですね!?。そうなんだ。でも、理由を聞けばなるほどそれも納得ですね。
旧約聖書についてまずは「ユダヤ民族に限定されている」という通説があるのですね。だいぶすっきりしました。しかし、それでは神らしくないし、イシュマエルの例からして、異邦人は必ずしも排他的ではないと言えるわけですね。といってもキリスト教徒にとってあくまで新約聖書が主役であり、イエスがその考えの基礎としている旧約聖書を共有する意味で受け入れているということですね。

お礼日時:2006/10/29 15:40

>アメリカ大陸もキリスト教徒にとってある意味「約束の地」と考えられているという話を聞いたことがありますが、これはではアブラハムが神に言われた話とはちょっとかけ離れているわけですね。

どうなのでしょうか。

アメリカ大陸に渡ったユダヤ人にしてみれば、数千年前から約束の地はカナンということになっていたので、そのようなことはなかったと思います。
またアメリカ大陸に渡ったキリスト教徒にしてみても、宗教迫害や貧困から逃れやっと辿りついたアメリカ大陸で自由な生活を始めたときは、たしかにそのような考えもあった可能性もありますが、前の解答で書いたようにキリスト教には現世にはそのような者には捕われないという考えがあったので、やはりここでは新天地という呼び方が一番しっくりくるのかもしれません。ちなみに新大陸当時はキリスト教徒はいくつかの宗派に分かれていましたが、有名な清教徒やクエーカー教徒などは、アメリカを約束の地という捉え方ではなく聖なる地という見方をしていました。その影響もあってアマリカの州の名前は聖書から取った地名が多く、代表的なものではエルサレムの英語読みがマサチューセッツ州に、ベツレヘムがペンシルバニア州、アンティオキアがカリフォルニア州などなどで、ほかにも町や川などにも多く使われています。

>「救世主」についてですが、旧約聖書に「救世主とは国家を建設するもの(=約束の土地を確保するもの)」と記載されているのでしょうか?

そこまではっきりと書かれていないと思いますが、ユダヤの民がそれを叶えてくれる人物を待望していたという記述はあります。ただメシアという言葉自体が救世主というのは少々異論があるところです。つまりキリストという名前を考えれば分るのですが、これがギリシャ語から来ていて、旧約聖書に出てくるヘブライ語のメシアと同義語です。ではそのキリストの意味はと言うと「油を注がれた者」という意味があります。これはある人物を人生の特別な役目に選定するための儀式ということで、王や司祭などがこれにあたると考えられています。
つまりこの時点ではメシアとは国家を建設する者とはみなされてはいなかったということです。しかし時が経つに連れユダヤ人は、神がイスラエル民族に政治的宗教的栄光を取り戻してくれ、自分達の国土から外国の圧制者を追い出してくれる軍人の王こそ、それがメシアだと信じるようになっていきます。当時は我こそはメシアだと言いふらして信徒を集める人物が何人もいましたが、その全てが欺瞞的な行為を非難されて消えていったり、弾圧されたりして簡単に転向していました。

>ユダヤ人はイエス・キリストが結局国家を建設できなかったので救世主として認めないという理屈が生まれ、処刑に至ったと。

この考え方はあまり聞いたことはありません。イエスの磔刑はパリサイ派やサドカイ派の既得権を失うかもしれないという恐れから、処刑に気が進まない当時の総督ピラトを焚きつけた結果だというのがほぼ間違いのない説だと思います。ただその当時ユダヤ人たちからは、イエスこそが自分達の土地からローマ人を追い出してくれる真のメシアだと信じられ始めています。しかしイエスはそれに対して「わたしの国はこの世にあるのではありません」と、その期待に応えようとはしませんでしたので、ある意味多くのユダヤ人がイエスに失望したことは考えられることかと思います。

>ユダヤ教徒にとってダヴィデが英雄なのは国家を建設したからだと聞きました。

もちろんダビデはユダヤ王国を建設した偉大な王ですが、英雄という称号は彼の前の初代王、サウルの時代にペリシテ人との戦いにおいてペリシテの英雄ゴリアテを倒したことから英雄と呼ばれたのだと思います。
いろいろ私生活では問題の多い王ではありましたが、神と民には寛容で誠実、そして忠実であったため、愛される王という称号が一番ふさわしかったのではないかと思います。今で言うと憎めない人だったんですね。

>現在のイスラエルはその約束の土地を確保した事になっているのでしょうか?であれば、聖書のお告げを成就した事になり、成就してしまえば、なんとなくストーリーが完結し、「ある意味」聖書はその部分において役割を終えたと思えるのですが、

ユダヤ教において現在のイスラエルはカナンの地であることは論を待たないので、その意味ではイスラエルはようやく約束の地を手に入れていることになります。ただそれが聖書のお告げを成就したとか、聖書の役割をある部分終えているということにはならないと思います。
聖書はユダヤ人やキリスト教徒にとっては神の意志の絶対的啓示と捉えていますが、一方で日常生活やその考え方のすべての規範書であると言ってもいいと思います。これはユダヤ人においてはとくに顕著です。つまり誤解や批判を恐れずに言えば、聖書に役目が終わるということはなく、ユダヤ人あるいはキリスト教を信じる全ての信徒にとっては、信仰や人生に必要な永遠の書物ということだろうと思います。だからこそユダヤ教にしてもキリスト教にしても、歴史や時代の変化、そして人々の要望に応じて柔軟な変化を遂げているのだと思います。

もっともその意味において、聖書の解釈や位置付けに反発することで様々な宗派が生まれ、それが深刻な宗派対立を起こしてきた歴史を生んだのは皮肉としか言えませんけどね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
アメリカが約束の土地というのはなかったんですね。それにしても、マサチューセッツ、ペンシルバニア、カリフォルニアがそんな聖なる名前だったなんて驚きました。

イエスの存命中には「救世主=国家建設者」というわけではなかったのですね。ただ、国家建設者でないことが、のちのちまでユダヤ教徒がイエスを救世主と認めない理屈にはなっているかも知れませんね。多くの人が失望したつまり、希望の国家が現実の国ではなく天国だと言った事をアリとするかナシとするかでイエスの評価が分かれたようですね。とにかく信じるものからすると救世主なものが、そうでないものからするとそうでないわけですからね(あたりまえですが)。

おっしゃる通り信仰は争いを激化する面において皮肉であります。そもそも、灼熱の不毛の砂漠で流浪する民にとって宗教は生きる為に不可欠だったと思います。救世主を待望したり、約束の土地を待望する「希望の言葉」は厳しい砂漠の環境において、多くの人命を救ってきたと思います。確かに全ての民にとっての規範となる書物であると言う事は十分認めた上でなお、灼熱の不毛の砂漠での流浪の民という聞き手を前提として語られた言葉がそのまま「温暖湿潤気候」や「ツンドラ気候」の民にまで、全てにフィットするのか?に注意点があり、そのフィットが少しズレた場合に主張がぶつかり、争いが激化する気がします。
時代に合った「柔軟な変化」が「邪教」と呼ばれる場合もあったり、戒律絶対主義がこれまた「偏屈」と捕らえられたり、そういった信仰のもつ「難しさ」は人類の手に余る場合も往々にしてある。おっしゃる通り、その存在意義から信者にとり聖書は永遠であると思います。だからこそ人類の平和と聖書の永遠性が仮にマッチしなくなった場合にどうなるのかが危惧されるところです。ですので、部分的に役割を終えればどうなるのかが気になりました。

お礼日時:2006/10/30 12:35

旧約聖書の中で「異邦人」と言う言葉が出てきますが、これはユダヤ人意外の人々を指す言葉で、ほかにも「非ユダヤ人」「諸国民」「異教徒」と呼ぶこともありました。



これから見ても旧約聖書がユダヤ教の経典であることが分りますが、当時ユダヤ教預言者の中には、「異邦人も将来イスラエルの神に仕えるだろう」と示唆した人達もいました。
ただユダヤ人キリスト教徒の中にはキリスト教徒になることはユダヤ人になることであると主張する人々もいました。そのエピソードのひとつに割礼があります。
当初キリスト教徒はその全てがユダヤ人でしたが、異邦人の信徒が増えるにつれ割礼の問題が起きました。つまりキリスト教徒になる男子は割礼を受けなければならないという問題です。このキリスト教を分裂させかねない問題は、使徒や教会、そして長老達が開いたエルサレム会議において、キリスト教徒になるための必要条件ではないことが確認されました。
しかし最終的にはキリスト教徒はこれらユダヤ人教徒の考え方に反発し、またユダヤ人教徒も異邦人教徒が増えるにつれ、これを嫌い避けるようになり結果的には袂を分かつことになります。

ユダヤ人である使徒パウロはユダヤ人と異邦人の古い垣根を取り壊したのがイエス・キリストであるといっています。つまりこれで既得権を得た異邦人達は堂々とキリスト教を信仰し、旧約聖書(イスラエル人はこれをヘブライ語聖書と呼びますが)をキリスト教の経典としてあがめているということです。

また「約束の地」ですが、当然この地はカナン、今のイスラエルですが、これは神がアブラハム(イスラエル人)に対して約束された土地です。当然あなたがおっしゃるようにユダヤ教を信仰する者に対するものであって、キリスト教徒にすれば、言ってみれば何の関係もないことであるかもしれません。

実際キリスト教では聖地は存在しないことになっています。神やキリストはどんな土地、都市、建物にも拘束されない存在です。新約聖書では当時約束の地の習得は一度も成就しなかったと位置付けて、より大いなる将来、これから実現さるるべき将来があると唱え、イエス・キリストが自身の民を天上の地にて完全なる休息に導くとしています。つまり我々が日常に使っている天国のことなんですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。割礼のお話、興味深いですね。いずれにせよ、元々排他的であった旧約聖書をイエス・キリストが垣根を壊したというご説明でよく理解できました。アメリカ大陸もキリスト教徒にとってある意味「約束の地」と考えられているという話を聞いたことがありますが、これはではアブラハムが神に言われた話とはちょっとかけ離れているわけですね。どうなのでしょうか。又、「救世主」についてですが、旧約聖書に「救世主とは国家を建設するもの(=約束の土地を確保するもの)」と記載されているのでしょうか?(そう聞いた事があります)。そこからユダヤ人はイエス・キリストが結局国家を建設できなかったので救世主として認めないという理屈が生まれ、処刑に至ったと。逆にキリスト教徒はイエス・キリストは人々の心の中に愛の国家を作ったと解釈していると聞いた事があります。これは拡大解釈すると教えていただいた「天国」の事かもしれませんね。ユダヤ教徒にとってダヴィデが英雄なのは国家を建設したからだと聞きました(正確には国家を建設したのはダヴィデの父親かもしれませんが)。それからもうひとつ、現在のイスラエルはその約束の土地を確保した事になっているのでしょうか?。であれば、聖書のお告げを成就した事になり、成就してしまえば、なんとなくストーリーが完結し、「ある意味」聖書はその部分において役割を終えたと思えるのですが、そういうものでもないのでしょうか?。

お礼日時:2006/10/27 15:34

えっと、、、あくまでほんとに参考程度に聞いてください。


一応 歴史の本を読んだ結果の私の解釈ですから。


ヨシュア記を読むと、モーセの後継者ヨシュア(イエス)がカナン(現在のパレスチナ)に既に住んでいた人たちから「ここは我々に与えてくれた土地」だとして奪った(侵略)んだったと思います。
http://www.butsuryushu.or.jp/2004/jp/quest/issin …
【カナンとは、神がアブラハムに「このカナンの全ての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼ら(子孫)の神となる」(創世記)と約束をされた土地であり、そこで元々カナンに住んでいた民族は「息のある者は、一人も生かしておいてはならない」(ヨシュア記)】

南北王朝ができましたが、北は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされました。
南は紀元前586年にバビロンによって捕囚された人びともいました。
この時ユダヤ教というものが急速に確立するようになり、創世記の話もこの頃成立したと思えます。

その後開放され、捕囚された人びとはパレスチナの地に戻る人もいれば、バビロンでの生活になじんでそのまま戻らずにいた人たちもいた。

いろいろありまして、ローマの属州になってしまったのですが、それでも占領されたというより、ヘロデ王の働きにより、ローマとは友好関係にあったようですが、選民意識が強い過激派にひきずられ完全なる独立を希望しメシア(油を注がれもの)の待望気運がものすごく高まった。

まだいろいろとあったようですが(統治者の悪政など)、反乱を起こし、鎮圧をしようとしたが、逆にやられてしまうありさま。
本気でやらねばならぬと、指揮官が自ら鎮圧にあたるまでになりました。
<エルサレムに神殿が建つ限り反乱を起こす>として、神殿は破壊されました。

でも、それでもローマの指揮官は歩み寄りを示したのですが、それを拒否。
それでこういったそうです。
「もうこれからは投降しても保護を求めても無駄である。お前達がどうしても生きながらえたいのであれば、死にもお狂いで闘うが良い。私の今後の行動は戦争の掟に従う」

戦争の掟となったので、捉えられた人たちが奴隷として捕獲され、各地に売られていった。

その前からディアスポラしていたユダヤ人たちですが、イエスはそのユダヤ人たちをこの約束に地とされた場所に帰還させ、この神に帰依させようと活動していたと思えます。

彼が言っていた異邦人とは、ディアスポラしていたユダヤ人のこと。
10支族のことだと私は思います。
汝の敵を愛せよという例えとしてサマリア人の話がでてきますが、サマリア人は北王朝 つまり10支族のことだと思います。
つまり同族。
やはり異邦人とはこの10支族のことを言っていたと私は推測します。
イエスの磔刑後、弟子達がやった布教活動も、各地に散ったユダヤ人たちに対する布教でした。


それがなんで、異邦人がローマ人やギリシャ人などと捕らえられるようになったのかは、私にはわかりません。

約束の地に帰還する運動は今も行われております。
日本に住む10支族の末裔がいたとしても、自分がその末裔であると知っているとは思えません。
しかし、ネパールだったか忘れましたが、どっかの地方に住むある集団は、過去を調べると自分達はディアスポラしたユダヤ人だ と思った人たちがいて、イスラエルへの入植を希望しているそうです。

イスラエルにもし神殿が建つことがあれば、約束の地を再度得たことになると思えます。
だから断固建てさせるものかとやっているのが、、、、なわけです。

イスラエルに神殿を建てることができた人が、救世主となると思っているのではないかと。
ユダヤ人たちの油を塗られしものの待望の救世主とは、そういう概念のようです。


キリスト教の言う救世主像とはまったく違うようです。
キリスト教の方々は、この流れを知っているのか、知らないのか。
知らないというより、新しい救世主像を作ったのではないかと思います。
だから、旧約の救世主の概念は、新しい契約によって取り壊され、新たに作られたと捉えているのではないかと。
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>>初期はユダヤ人ばかりだったキリスト教ですが、その後ユダヤ人以外のキリスト教徒が発生し、彼らが旧約聖書を読んだ場合、自分が含まれないと事をどう理解するのでしょうか?。



それこそ「新」と「旧」の違いではないでしょうか?ユダヤ民族のための「民族宗教」から、民族枠を超えた世界宗教として新たな教えであるキリスト教に変貌したことでユダヤ人に限らず、他民族まで世界に広まったわけでしょう。(まあ、実際には武力というか科学の力も大きい気もしますけどネ)

そして、「昔はそんな教えもあったんだよ」というか、もしくはユダヤとキリストって別物って言えば済んじゃいそうな気もします。新約聖書を丹念によめば、それ自身が突っ込みどころ満載です。なお「そんな霊的なことがあるはずない」という批判ではなく、「こっちの人はこう書いているけど、あっちの人はちがうこと書いているよ」「これってキリスト教の一般見解に反するんじゃない?」っていう意味での突っ込みです。

それから、グーテンベルグが印刷機を発明するまでは、聖書は聖職者の独占物であり、一般信徒が読むことはできませんでした。

さらに、信者は、客観的な批判精神を持っていないことが多いので、教えに大きな矛盾があっても、指摘しないことが多いです。それを指摘する人は、不敬な輩って排斥されることが多いですからネ。でも、その批判は一般商品へのクレームと同じで大切にしないといけない事だと思っています。
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聖書を丹念に読んだわけではありませんが。

「ユダユ人のために・・・」って記載は無かったと思います。
だいたい、ユダヤ人として民族形成されるのは。、ユダヤ教成立後ですから、そんな記載が有ると思えませんし、現在のイスラエルにおいては、ユダヤ人の定義として、「ユダヤ教を信仰する者」とそれています。
つまり、ユダヤ人の民宗教がユダヤ教なのではなく、ユダヤ教を信仰する者が、ユダヤ人なのです。
ですから、ユダヤ教徒にとっては、神を信仰する者=ユダヤ人となるのですが、キリスト教徒にとっては、神を信仰する者=キリスト教徒となります。
キリスト教は、当然の事として、ユダヤ人の中には広まらず、ギリシャ人の中に広がり、後にヨーロッパ中に広がります。
(最初の布教の成功地は、アンティオキアと言われています。そのため、後のローマの5大教会にアンティオキアが入っています)
このギリシャ人の間に広がる過程で書かれた文章が、後にまとめられて新約聖書となります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうしますと、おそらく、「ユダヤ人に」ではなく「信者に」約束の土地を与える、と記載されていたのでしょうね。であれば、非ユダヤ人にもフレキシブルに対応できますね。

お礼日時:2006/10/26 17:29

ユダヤ教はキリスト教よりも古く、イエスはユダヤ人であり、初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったともいえます。

つまりユダヤ教が分派してキリスト教が生まれたともいえます。
ですので、ユダヤ教の立場からすると、「俺たちの経典をキリスト教徒が盗んだ!」ってスタンスでしょう。

物理や科学技術が過去の研究成果や技術の歴史をベースに発展するように、宗教という分野でみても、キリスト教には、先輩であるユダヤ教はもとよりエジプト神の影響も受けています。これは、ヨーロッパの宗教芸術をみればわかると思います。
つまりキリスト教は「受け入れた」というよりも「受け入れられる教義については、本家の教えを引き継いだ」っていうことでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。本家の教えを引き継いだのはわかるのですが、もしも旧約聖書に「ユダヤ人に土地を与える」とか「ユダヤ人の為に救世主が現れる」という表現がなされていた場合、初期はユダヤ人ばかりだったキリスト教ですが、その後ユダヤ人以外のキリスト教徒が発生し、彼らが旧約聖書を読んだ場合、自分が含まれないと事をどう理解するのでしょうか?。

お礼日時:2006/10/26 09:47

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