戦前、赤城と加賀は戦艦、重巡として建造途中だったものを軍縮条約により空母へ変更されたものですが竣工当時赤城は3段甲板だったと聞きました。
上段は着艦専用、中段は艦爆発艦、下段は戦闘機発艦と記憶しています。
しかし、搭載機数は少ないし、それほど効率はよくないのですぐに一枚甲板に改装されたようですが3段甲板は事実だったのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃればお答えをお願いいたします。

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A 回答 (5件)

「赤城」自体は八八艦隊案により計画された巡洋戦艦です。


ワシントン条約により空母に計画変更されました。

当時空母の運用実績が乏しく、空母は「鳳翔」が有るのみでした。
それで、上段は発着艦、中段は20センチ砲甲板、下段は発艦専用となりました。
「加賀」も同様ですが、煙路、アイランドなどに違いがあります。
3段甲板は、艦載機の大型化も含め使い勝手が悪く、のちにフラッシュデッキとされました。
同時期に改装されたアメリカの「レキシントン」「サラトガ」は最初からフラッシュデッキでありこちらの方が先見の明が有ったといえそうです。

余談になりますが、当初は巡洋戦艦の「天城」「赤城」を空母へ改装する予定でしたが、「天城」が震災で破壊されたため、戦艦「加賀」が改装されました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。いまいち記憶がはっきりしなかったのですがすっきりいたしました。

お礼日時:2002/04/18 19:24

「赤城」のみのことを質問されたと勘違いしていたため、少し補足しておきます。



「加賀」もまた八八艦隊案の一艦です。
「長門」「陸奥」の拡大改良型である「土佐」型戦艦の一艦です。

なお誤解が少し有るようなので説明しておきます。
「加賀」→戦艦です。
「赤城」→巡洋戦艦です。巡洋戦艦とは戦艦より砲門数を減じ、場合によっては装甲を減じて、その分機関出力を増し高速化したものです。
先に説明したように、アメリカの「レキシントン」「サラトガ」のように同型艦よりの改装ではなく、違う艦種よりの改装となりました。

中段甲板ですが、私の記憶に間違いがなければ同レベルに羅針艦橋があり、艦載機の発着艦はできなかったように記憶しております。

フラッシュデッキ化された2艦は、「加賀」の低速なのを除けば艦載機も多く極めて強力な空母でした。
「蒼龍」、その拡大改良型の「飛龍」、大和」型と共に建造された新鋭の「翔鶴」、「瑞鶴」と共に真珠湾を攻撃し、その運用上の不手際から「蒼龍」、「飛龍」と共にミッドウェーの海に沈んだのはご存知のことかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。いまいち記憶がはっきりしなかったのでこれですっきりいたしました。

お礼日時:2002/04/18 19:03

はい,当初は戦艦として建造され,後に空母に改装されました。


そして,効率よく運用するために三段甲板にしたのですが‥
実際には使い勝手が悪く,一枚甲板とされました。
戦艦からの改装艦ですから,空母としての機能は実はあまり高くなかったのですが,姉妹艦の加賀と共に連合艦隊を代表する空母となりましたネ。
以上kawakawaでした
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。いまいち記憶がはっきりしなかったのですがこれですっきりしました。

お礼日時:2002/04/18 19:29

空母赤城


で検索かけると、かなりhitします。


参考URLです。どぞ。
http://www.sumomo.sakura.ne.jp/~asahi/IJN/PROFIL …
http://www.biwa.ne.jp/~yamato/akagigata.htm

参考URL:http://www5a.biglobe.ne.jp/~gomenmar/syowa/akagi …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。いまいち記憶がはっきりしなかったのですがこれですっきりしました。

お礼日時:2002/04/18 19:31

その通りです。



上段は着艦専用、下段は発艦専用、中段は状況に応じて発艦に使用する、という予定だったようです。
ところが中段は艦橋の拡張で早々に使えなくなり、やがて大型艦載機の運用には飛行甲板が短すぎる、という欠点が露呈しました。
そこで1枚甲板に改装し、その長さも190メートルから250メートルへと延長され、近代空母として生まれ変わったというわけです。

参考URL:http://www5a.biglobe.ne.jp/~gomenmar/syowa/akagi …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。いまいち記憶がはっきりしなかったのですがこれですっきりしました。

お礼日時:2002/04/18 19:34

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Qワシントン軍縮条約における、代艦建造について

1921年~1922年まで行われた、ワシントン会議において、
「ワシントン海軍軍縮条約」が締結されています。
その中で、艦年齢が20年に到達した戦艦に関しては、代艦の建造が認められています。

その代艦の建造に関してですが、
戦艦(当時巡洋戦艦)の「金剛」は、1913年に竣工しているので、
1933年で、艦年齢が20年に到達します。その為、代艦の建が可能となる予定でしたが、
その際、
(1)1933年に艦年齢が20年に到達するので、1933年から、代艦の建造を開始出来る。
(2)1933年に艦年齢が20年に到達するので、1933年に、代艦が竣工出来るように、建造可能。
のどちらの方式で、建造が認められていたのでしょうか?

色々、ネットでも見てみたのですが、分からずじまいでした。

ご存知の方がおられましたら、お手数ですが、ご回答をお願いします。

Aベストアンサー

実態ではなく、当時の条約上の問題として捉える御趣旨の場合、

旧艦の二十年満了を待つまでもなく代換新艦の事前着工が可能な事は、
条約規則「第三節 代換/第一款 代換ニ関スル規則/(イ)」において
代換新艦の龍骨据附は旧艦の完成日より十七年経過で可能と規定されています。
なので、(2)がほぼ近いとは言えますが、
条約規則上の「主力艦ノ代換及廃棄 日本」の第二款・表を見ますと、
当時の条約規則上では(2)も少し違うようです。

主力艦ノ代換及廃棄 日本
<年度>一九三一/<起工代艦>「い」/
<年度>一九三四/<完成代艦>「い」/<廃棄艦(括弧内ノ数字ハ艦齢)>金剛(二一)

詳細は下記などの原本画像にて御確認いただければと思います。

〇件名:御署名原本・大正十二年・条約第二号・海軍軍備制限ニ関スル条約
[階層]国立公文書館>内閣>御署名原本>大正>大正12年>条約>
御署名原本・大正十二年・条約第二号・海軍軍備制限ニ関スル条約
[レファレンスコード]A03021484300[画像数]43
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03021484300

<11/43>
第二節 軍艦廃棄ニ関スル規則
第二條及第三條ノ規定ニ従ヒ処分スヘキ軍艦ノ廃棄ニ関シテハ左ノ諸規則ヲ遵守スヘシ
<12/43>
四 軍艦ノ廃棄ヲ実行スヘキ期間左ノ如シ
(ロ)…廃棄スヘキ軍艦ニ付テハ本節第三号ニ従ヒ爾後戦闘任務ニ堪ヘサルモノト為スノ
作業ハ其ノ代艦完成ノ日以前ニ之ヲ開始シ右完成ノ日ヨリ六月内ニ完了スヘシ
該軍艦ハ其ノ代艦完成ノ日ヨリ十八月内ニ本節第二号ニ従ヒ確定的ニ之ヲ廃棄スヘシ
但シ新艦ノ完成遅延スルトキハ本節第三号ニ従ヒ旧艦ヲ爾後戦闘任務ニ堪ヘサルモノト為スノ
作業ハ新艦ノ龍骨据附後四年内ニ之ヲ開始シ該作業開始ノ日ヨリ六月内ニ之ヲ完了スヘク
且旧艦ハ爾後戦闘任務ニ堪ヘサルモノト為スノ作業開始ノ日ヨリ十八月内ニ本節第二号ニ従ヒ
確定的ニ之ヲ廃棄スヘシ

<13/43>
第三節 代換
主力艦及航空母艦ノ代換ハ本節第一款ノ規則及第二款ノ表ニ依リ之ヲ行フヘシ
第一款 代換ニ関スル規則
(イ)…右新艦ノ龍骨ハ第八條及本節第二款ニ別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外代換セラルヘキ
旧艦ノ完成ノ日ヨリ十七年ヲ経過スルニ非サレハ之ヲ据附クルコトヲ得ス…
<14/43>
第二款 
<19・20/43>
主力艦ノ代換及廃棄 日本
<年度>一九三一/<起工代艦>「い」/
<年度>一九三四/<完成代艦>「い」/<廃棄艦(括弧内ノ数字ハ艦齢)>金剛(二一)

第二款ノ一切ニ適用スヘキ備考
前記ノ軍艦廃棄順序ハ艦齢ニ依ル尤モ前掲諸表ニ依リ代換ノ開始スルトキハ
各締結国ハ其ノ軍艦廃棄順序ヲ任意ニ変更スルコトヲ得
但シ各年度ニ付表中ニ規定スル艦数ヲ廃棄スルコトヲ要ス


以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

実態ではなく、当時の条約上の問題として捉える御趣旨の場合、

旧艦の二十年満了を待つまでもなく代換新艦の事前着工が可能な事は、
条約規則「第三節 代換/第一款 代換ニ関スル規則/(イ)」において
代換新艦の龍骨据附は旧艦の完成日より十七年経過で可能と規定されています。
なので、(2)がほぼ近いとは言えますが、
条約規則上の「主力艦ノ代換及廃棄 日本」の第二款・表を見ますと、
当時の条約規則上では(2)も少し違うようです。

主力艦ノ代換及廃棄 日本
<年度>一九三一/<起工代艦>「い」/
<年...続きを読む

Q徳川家康はそれほど脅威だったのか?

昨日、仇討ちについて質問させて頂いた者です。皆さんの豊富な知識を是非お借りしたく、新たな質問(長年の疑問でした)をさせて下さい。

戦国の世を最終的に征した徳川家康ですが、どうして三河の小領主、徳川があの時代を生き抜き、最終勝者となったのでしょうか?
まず駿府人質時代はさておき、信長の同盟者となった後、あの信長がこれほど厚遇したのは何故でしょうか?(息子は死を賜りましたが)甲斐武田の存在だけなら、武田滅亡後か弱体後にでも家康は用済みなのでは?(すぐに本能寺ですが)

更には秀吉です。小牧・長久手で争いながら、何故に妹、母までだして妥協したのでしょうか?仮にそのあの場はそうしても、北条滅亡、伊達の恭順後には滅ぼせたのでは無いでしょうか?結局、我が子を死なす結果となるような強敵を放置しておいたのか、理解出来ません。

信長にしろ秀吉にしろ、そんなに家康が脅威だったのでしょうか?あるいは脅威として、どうして排除しなかったのでしょうか?
どなたか、ご意見をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

信長が家康と同盟を結んだのは、京都への進出をするために当方の守りを
固めたかったからです。

武田氏が滅亡しても、上杉や北条といった有力な戦国大名が残っており、
東方への押さえの要として期待していたのでしょう。

また、実際に家康率いる徳川軍は強かったんですね。戦力として大いに期待し
ていたのでしょう。
兵農分離を断行した結果、織田の軍隊は1年中稼動できるようになりましたが、
素性の悪い人を雇うことが多かったようで、粘りが全然なく、大規模な白兵戦
になると脆さを出すことがたびたびありました。

そのことがよく現れたのが、姉川の戦いです。
浅井・朝倉vs織田・徳川の連合軍が姉川で戦いますが、織田軍は白兵戦に弱く
浅井軍に攻め立てられ、信長の本陣までせまる勢いでした。
それに引き換え、三河のビンボー田舎侍であったけれども、主従の結束が強かっ
た徳川軍は兵数を上回る朝倉軍を追い散らした後、苦戦している織田軍を助け、
浅井軍を敗退させることに成功しました。

しかし疑い深い信長は、機会あらば徳川を潰そうとしていたかもしれません。
天下統一の途上で役に立つ間は生かしておくでしょうが、有力な敵がいなく
なった時点で、家康を潰しにいく可能性は大いに考えられます。
実際、家康の正妻と長男が自害に追い込まれたのは、信長の猜疑心ゆえの結果です。
幸いにして、信長が天下統一を果たす前に本能寺の変で倒れたために、徳川家は
潰されずにすみました。


一方の秀吉ですが、信長と違い敵対する大名を滅ぼすようなことは積極的にせず、
むしろ相手を降参させて自分の陣営に取り込む方法で天下統一を成し遂げました。
これは天下を統一するまでの秀吉の美点だと思いますが、人を殺すことを好まな
い性格によるものと思います。

小牧・長久手の戦いで破れた秀吉は外交で家康を取り込みますが、自分の方が
勢力が大きいにも関わらず人質を出すことまでします。
これは家康の猜疑心を解くためでもありますが、むしろ今後天下統一を進める
上で、自分の方針(味方になれば領国は安堵し、命をとるようなことはしない)
を他の戦国大名にアピールするためでもあったかと思います。

それまでの戦国大名の戦いは、信長のように相手を攻め滅ぼし一族全てを抹殺
する方が主流でしたから、秀吉が自分の考えを天下に示すよい前例になったよう
に思います。

一方の家康も、秀吉が「生きている」間は彼によく仕え、相手に猜疑心を抱かせ
るような素振りは見せませんでしたので、豊臣政権下での実力No.1の位置を保つ
ことができたのではないでしょうか。

信長が家康と同盟を結んだのは、京都への進出をするために当方の守りを
固めたかったからです。

武田氏が滅亡しても、上杉や北条といった有力な戦国大名が残っており、
東方への押さえの要として期待していたのでしょう。

また、実際に家康率いる徳川軍は強かったんですね。戦力として大いに期待し
ていたのでしょう。
兵農分離を断行した結果、織田の軍隊は1年中稼動できるようになりましたが、
素性の悪い人を雇うことが多かったようで、粘りが全然なく、大規模な白兵戦
になると脆さを出すことが...続きを読む

Q護衛艦は駆逐艦?それとも・・・

 国防とか軍事のカテゴリーがありませんので、カテゴリー違いかもしれませんがお尋ねします。
 海上自衛隊の「護衛艦」は、旧海軍の軍艦に当てはめれば、何に相当するでしょうか。
 昔の軍艦には「格」というものがあったと思います。大東亜戦争末期には、駆逐艦も大きいのが出てきて、戦力では軽巡より上というのもありましたが、菊の御紋もなく駆逐艦は駆逐艦でした。
 米海軍には現在でも戦艦、巡洋艦、駆逐艦などの呼称が使われているようです。(戦艦は太平洋戦争時代の骨董品を仕立て直して使っていたように思いますが、もう退役してるかもしれません。したがって戦艦はもう存在しないかもしれません。)
 旧日本海軍との比較が困難であれば、現在の米海軍の何に当たるかでも結構です。
 それと護衛艦の艦長の階級も教えてください。

Aベストアンサー

駆逐艦あるいは護衛艦と呼ばれる現代の戦闘艦についてのご質問ですが、回答の前に簡単に現在のアメリカ海軍の状況を説明した方が分かりやすく、また基準にもなるかと思います。

現在世界最強の海軍国といえば、アメリカがその代表というのは異論のないところだと思います。一時は旧ソ連がアメリカに拮抗するほどの海軍力を持っていましたが、ロシアになってからの海軍力は見る影もありません。

現在アメリカ海軍には空母、潜水艦、巡洋艦、駆逐艦、そしてフリゲイトなどの戦闘艦が在籍していますが、ご質問の駆逐艦にはDDとDDGという2種類があります。

DDは汎用駆逐艦という、主に対潜戦能力に長けた駆逐艦の事を指し、DDG(Gは誘導ミサイルの頭文字)は対空戦能力に長けた強力な対空レーダーシステム(イージスが有名ですね)を備え、最新の対空ミサイルを装備しています。

アメリカではDDとDDGを強力な対空戦能力を持つ駆逐艦をDDGと呼び、そのほかをDDと呼んでカテゴリー分けしています。とはいえDDであっても短距離対空ミサイルや対空対水上艦砲を持っていますし、逆にDDGも対潜兵器をちゃんと持っています。

では何が違うのかといえば、つまるところ中長射程の対空ミサイルを持っているかいないかの差であると考えてください。この対空ミサイルは現在北朝鮮の弾道ミサイルで脚光を浴びているスタンダードミサイルですね。

ただDDであれDDG,もしくはFF、FFGでも艦体はほとんど遜色のないほど似通っていますし、DD,FFであってもトマホーク巡航ミサイル、ハープーン対艦ミサイルそしてシースパーロー短SAMなどを標準装備しているので、年々その棲み分けがかなり怪しくなってきています。そしてその状況は他の国々の海軍でもそれほど変わりはなく、自国の艦船の艦種呼称をどうするかの判断はそれぞれの国が自由に決めています。つまり現在では艦種の呼称にきちんとした基準はなく、みんなそれまでの慣習や伝統にのっとって勝手に決めているということです。

そこでご質問ですが(前置きが長くなってすみません(-_-;))

>海上自衛隊の「護衛艦」は、旧海軍の軍艦に当てはめれば、何に相当するでしょうか。

旧日本海軍の艦種に当てはめるならば現在の護衛艦は地方隊にある護衛艦が(これは従来のフリゲートクラスで、国際的にはDEとなっています)、当時の水雷艇や海防艦、駆潜艇クラス、護衛隊群に所属する護衛艦DD、DDGが当時の駆逐艦、巡洋艦クラスと考えて良いかと思います。
DD、DDGを駆逐艦、巡洋艦に区分けする根拠としては、排水量と装備する各種兵器の違いです。詳細は長くなりますので省きますが、現在の海自のなんでもかんでも護衛艦と呼んでしまう現状はいくらなんでもちょっと無理があるのではないかと思っています。
ちなみにDD,FFという呼び名ですが、DDはデストロイヤーなのでD、FFはフリゲートなのでFと頭文字は1個でいいのに2個もつけていますよね。これは書類上の混乱を避けるためと艦上での伝達をはっきりと伝えさせるためにこうなっています。つまり海軍では公式文書にD123とかいってドキュメントの頭文字と番号をつけますが、これだと駆逐艦123番艦と間違えられることもありますし、戦闘中の混乱の中で敵艦や味方艦を呼称するときに一文字だと聞きづらい、発音しづらいという理由からこうなったといわれています。

>旧日本海軍との比較が困難であれば、現在の米海軍の何に当たるかでも結構です。

ちょっと乱暴な例えですが上から言えば、「こんごう」型イージス艦が米海軍の「タオコンデロガ」級および「アーレイ・バーク」級。「あまつかぜ」型が「オリヴァー・ハザード・ペリー」級。「むらさめ」型および「はつゆき」型が「スプルーアンス」級と考えていいかと思います。残念ながらヘリコプター護衛艦の「はるな」型は日本特有の艦種で、強いて言えばヘリ空母と言えなくもないですが、それに近い艦種は米海軍にはありません。

>それと護衛艦の艦長の階級も教えてください。

これはいちがいにこのクラスの艦ならこの階級の艦長が収まる、なんてことはいえません。なぜなら現在海上自衛隊は陸空と同じく士官が多く、逆ピラミッド状態になっています。つまり将校が余っている状態ですので、数少ない護衛艦の艦長のポスト争いは熾烈です。また普通なら司令や幕僚クラスになれる士官でも頭がつっかえているため、ある意味不本意ながら現場に残るという場合もあります。
このため艦長の階級と聞かれれば、その艦その艦の艦長を個々に調べるしか手はありません。ただ護衛艦なら他の回答者さんが言われているように3佐以上の士官であると思っても間違いではないと思います。

長くなりましたがご参考になれば幸いです。

駆逐艦あるいは護衛艦と呼ばれる現代の戦闘艦についてのご質問ですが、回答の前に簡単に現在のアメリカ海軍の状況を説明した方が分かりやすく、また基準にもなるかと思います。

現在世界最強の海軍国といえば、アメリカがその代表というのは異論のないところだと思います。一時は旧ソ連がアメリカに拮抗するほどの海軍力を持っていましたが、ロシアになってからの海軍力は見る影もありません。

現在アメリカ海軍には空母、潜水艦、巡洋艦、駆逐艦、そしてフリゲイトなどの戦闘艦が在籍していますが、ご質問...続きを読む

Q加藤友三郎の軍縮

加藤友三郎は海軍の人なのに、なぜワシントン会議で軍縮を認めたり、シベリアや山東省から軍を撤退させたのでしょうか。

Aベストアンサー

海軍大臣は軍人であるとともに、政治家でもあるのです。
当時の海軍予算は国家予算の32.5%に達していました。
陸軍予算を含めれば国家予算の約半分が軍事費に消えていたのです。
これはあまりに異常な事態です。これを無視して軍拡を続ければ国は破綻します。
日露戦争、第一次大戦と戦争費用は国債を発行して調達されていました。
このときもっとも多くの日本国の国債を引き受けてくれたのはアメリカでした。
アメリカを敵に回せば、国債による資金調達ができなくなり、日本は立ち行かなくなります。
アメリカとの軍事力バランスを取りながら、当面軍事費を削りながら、いずれは訪れるだろう対米戦争に備えて国力を蓄えなくてはなりません。そのためには軍事費以外のことで国を豊かにするために税金を使わなくてはならなかったのです。
このことを理解していた加藤全権は、あえて自分が提唱していた八八艦隊計画を辞めてでも、対米関係の維持を考えなくてはならなかったのです。

Q大正軍縮について

大正軍縮とは、山梨軍縮と宇垣軍縮がありますが、その理念はスクラップ&ビルドで、軍縮によって余剰に出来た資金を軍の近代化のために使うということなんですか?
また、その実態は近代化は十分にできなかったわけで・・・

大正軍縮の理念とは何ぞやというのを上記に付け加えることなどありましたら教えていただきたいのでよろしくお願いします。おおざっぱに言うなら上記のことでいいとは思いますが・・・

Aベストアンサー

大正軍縮の理念とは何ぞやということですが、簡潔に言えば陸海軍首脳の主導によって中途半端な政策で終わったとしかいえないと思います。

大正時代の終わりに始まった、第1次世界大戦の終了と戦争特需の終焉による反動でおこった日本の経済不況は、国家予算の大部分を占める軍関係の出費をワシントン会議を契機になんとか抑制しようとする政府側の提案に繋がったことはすでにご承知のことだと思います。

軍部は第1次大戦がすでにこれまで経験した日清日露戦闘の形態を旧態化してしまい、近代戦に備える必要性を切実に感じていました。とはいえ政府や国民の厭戦気分と経済不況による軍備整備、いわゆる軍縮の必要性も理解するというジレンマに陥っていました。

そのため軍部は大正11年7月に軍備整理要領を制定し、海軍は主要艦船の建造削減を行い、陸軍は不要人員および不要教育施設の整理、海外守備隊及び派遣部隊の撤収や要塞などの整理、そして各種演習の消滅や兵役期間の短縮などを行いました。これによって陸軍は5個師団相当の人員を整理出来ました。これが第1次軍備整理です。

次に大正12年3月に陸軍の鉄道材料廠、師団軍楽隊、独立守備隊、各地の陸軍幼年学校の廃止という1次に比べれば軽微な軍備整理要領を制定しました。これが第2次軍備整理要領で、当時の陸軍大臣の名前をとって「山梨軍縮」といいますね。

その後大正12年8月の関東大震災と1次2次の軍備整理に対する政府と国民の不満から、さらに4個師団の廃止を行う「宇垣軍縮」と呼ばれる第3次軍備整理要領を制定しましたが、陸軍の自画自賛にもかかわら
ず昭和に入っての山東出兵や満州事変によって有名無実になってしまいました。

結論から言えば、この陸海軍のいわゆる軍縮はそれと同時に、海軍は主力艦の不足を補うために巡洋艦以下の艦艇の増強に力をいれ、陸軍は廃止する施設と変わらぬ程度の新しい施設などを新設するなど、そういう意味ではあなたの仰るようにスクラップ&ビルド的な軍備整理でしかなかったとしか言えないですね。

ただその余剰金を近代化のために使った形跡はなく、年々ある程度の予算の削減は進んでいたことは事実です。

軍備、つまり兵器の近代化という視点から言えば、予算という経済的な問題は別として、軍部そのものに世界の軍隊の近代化と兵器の進歩に、思想及び技術的な面からまったく追いつけていけなかったことは、後の太平洋戦争が如実に証明していると思います。

大正軍縮の理念とは何ぞやということですが、簡潔に言えば陸海軍首脳の主導によって中途半端な政策で終わったとしかいえないと思います。

大正時代の終わりに始まった、第1次世界大戦の終了と戦争特需の終焉による反動でおこった日本の経済不況は、国家予算の大部分を占める軍関係の出費をワシントン会議を契機になんとか抑制しようとする政府側の提案に繋がったことはすでにご承知のことだと思います。

軍部は第1次大戦がすでにこれまで経験した日清日露戦闘の形態を旧態化してしまい、近代戦に備える必...続きを読む


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