司馬遼太郎の「関ヶ原」には、家康が、上杉景勝攻めに、東北へ遠征している間に、改易で不満の多い越後の土豪たちを先導して一揆を起こさせ、家康が、中部地方まで取って返したとき、側面から家康軍に攻撃を仕掛けさせるような戦略のプランの記述があるのに、実際その一揆は起こったのか、顛末が書いてありません。書には越後のだれそれに三成が書状を送り、先導するようなことを書いてありますが。

 どなたかご存知ですか?実際の関ヶ原では、吉川広家や黒田長政、毛利輝元などが動かず、さらに小早川秋秀の裏切りで、勝負は決したと有りますが、もし越後州が、側背から家康軍に襲い掛かっていたら?と想像が膨らみます。

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A 回答 (6件)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80% …
旧臣による一揆はあった模様です。

何か事が起こると、一揆が起こるのはその時代の基本というか、ない方がおかしいようで、
本能寺の変の時も、その直前に信長に粛清されていた安藤守就が一揆というか挙兵しています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4% …
他者にそそのかされて一揆というと葛西大崎一揆があります
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF% …

上杉家の会津移転は、基本的には栄転、越後に残置された旧臣は少なかったかと思います。
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この回答へのお礼

 いろんなURLをありがとうございました。結局、動きはあるにはあったが、すぐ鎮圧されたということですね。

>上杉家の会津移転は、基本的には栄転、越後に残置された旧臣は少なかったかと思います。

 このことに関しては、上杉氏改易の後、越後にはかなりな土豪が居残り、所領をかなり削られ、不満がつのっていたと、司馬遼太郎の書にはありますが?

お礼日時:2006/10/29 08:23

ええっとですね、まずお気づきいただきたいのですが、戦場が関ヶ原になったのは事の成り行きでそうなったのです。

最初から、「関ヶ原で決着をつけようぞ」とお互い決めて集まったわけではありません。ですから、越後兵がまっすぐに関ヶ原を目指すってこと自体が不自然になりますよね。

また、一揆というのはいってみればある種の「立て篭もり」です。遠くへ出張は出来ません。だって、自分たちが家を留守にしている間に家族が殺されたら意味ないでしょ。
かつて越後兵が関東に信州に北陸にと縦横無尽の活躍を見せたのはひとえに稀代のカリスマ謙信公のリーダーシップによるものです。
それから関ヶ原のルートとして飛騨越えを提案されていますが、あそこ、今だってろくな道路がありませんよ。当時はそもそも道なんてのがほとんどありません。人跡未踏の山岳地帯を地図の上を見て「ここを通れば近い」と考えてやってみるとどうなるかは後の太平洋戦争で日本軍がスタンレー山脈を越えてポートモレスビーを目指したリ号作戦やあの悪名高きインパール作戦がどうなったかを考えるとおわかりいただけると思います。
そもそも、質問者さんも歩いて北陸から飛騨を越えて岐阜になんか抜けられないでしょ。ましてや、合戦するなら武器を持って鎧を着て歩かなければならないんですよ。

島津兵が関ヶ原で活躍したのは、あの有名な撤退戦のときです。実際の合戦の間じゅうは、日和見を決め込んで戦いには参加していなかったことはご存知だと思います。
実際、家康は旗本として約3万の兵を率いていましたし、それは実質的に関ヶ原では無傷だったのですから、多少越後から援軍が来たとしても大勢に影響はなかったのではなかったかと思われます。

また官兵衛ですが、おそらく野心家の彼のことですから、これでもしあわよくば家康が戦死するようなことでもあればまた自分も大大名のチャンスあるかもと考えていたのではないでしょうか。伊達政宗も最上救援の後は上杉と停戦したりしてなんかキナ臭い行動をしています。ただ、官兵衛も政宗もたった一日の合戦で決まるというのは「予想外」で「シンジラレナーイ」だったでしょうね。
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・・・越後と関ヶ原はかなり遠いと思うのですが・・・?


行程からしても早馬であっても数日はかかりますし、軍として動くとなると進めるのは日に12km(古来より中国ではこれを1舎として、1日に進める距離としています)かそこらですから(それ以上進むとなると、強行軍となり、明らかに戦力に影響が出ます)。となると、越後~関ヶ原は20日くらいはゆうにかかります。
さらに、問題として、越後~関ヶ原でもっとも短いルートは越中~越前の北陸街道を通ることですが(それでも20日近くかかります)、これは、前田領とその他東軍の領地であるため、普通に考えて通してくれませんから、越前まで到達できません。第1前田は兵力が関ヶ原本戦のときはその場にいないでまだ領国を移動中でしたから、越後から進入した場合取って返されるのは当然で、金沢付近で一戦交えないと抜けられませんから話になりません。
当たり前ですが抜けるのは勝つのが条件です。しかし、前田だけで戦力は25000。越後の土豪どもがいくら束になろうと相手できる数ではありません。まして相手の庭である金沢付近でなんて・・・。
で、他のルートとなると、いずれも絶望です。越後はもともと北陸を抜ける以外は移動が困難な陸の孤島でして、信濃に抜けるには川中島(湿地地帯で非常に動きにくい)を通る必要があり、上野に抜けるには山越えが必要です。しかもかなり時間を食います。
さらに信濃は、西は真田親子くらいであとはほとんど東。しかも真田に足止めされた秀忠率いる徳川本隊が進軍中です。街道で迎撃されたら越後の土豪の寄せ集めではどうしようもありません。
かといって上野に抜けてもこれは関東に入るルートですから意味はありません(関ヶ原に向うとなればどっちにしても信濃を通らないといけないため。わざわざ東海道に出るのは距離的にもありえません)。
以上、越後から兵が関ヶ原にいくのは困難と言わざるを得ません。

なお、黒田官兵衛についても、完全にしたがっていたかは書からは不明ですが、たとえ九州程度を統一しても家康と一戦するのは無理です。戦力がいかんせん少ない。これを実際にやってみたのがゲーム「決戦」ですが、ゲームですら戦力比を無理やり合わせないと成り立たない状態ですから、現実世界でも・・・というわけです。
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この回答へのお礼

 たびたび申し訳ありません。私も地図を見ましたが、越後から、旧佐々成政の所領である越中を通り、旧織田家所領の美濃へ抜ければ、前田家の越前を通らずとも、関ヶ原へ行けるのでは?

 また小大名では有りますが、その才能を秀吉から高く評価されていた、大谷吉継も越前に所領を持つ大名でしたし、また、島津義弘や宇喜田秀家など、関ヶ原からは越後よりはるかに遠くから駆けつけてますよね。

 また、義弘など(実は私の地元の大名ですが)わずか1600 の手勢で、あれだけの活躍を見せたのですが、結局、越後衆の兵力が千でも二千でも集まっていれば、戦局は大きく変わっていたと思うのです。

 大谷吉継のごときの兵力たるや、わずかに500 です。その小勢で、秀秋をあわや押し返すほどの活躍を見せたわけで、秀秋などのような無能な将が、一万五千もの兵力を擁したとしても、吉継のような優秀な将を前には烏合の衆と化してしまうのでは?と思うのです。

 また官兵衛は、自ら、家康には伍しがたしと悟っていて、あっさり、奪った所領は家康に返しています。ただ彼の心は、決して家康に従ってはいなかったとのことです。

 まあこうした議論は、自分の周りでは、無理ですので、とても楽しいひと時をありがとうございます。

お礼日時:2006/10/30 19:39

西軍、東軍の配置図を手に関ヶ原で、タクシーの運転手さん(割と詳しい人と、指定させてもらいました)で、実際の地まで行って、見下ろして満足というような、行動をしたことがあります。


歴史サイトでは、あなたは、東軍派?西軍派?
という、投票では、3:7くらいで、西軍有利です。
滅びたものに愛惜を感じるのは、日本人特有なのでしょうか。
既回答が完璧で、雑感になってしまいました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。私は九州在住なのですが、いつか同じことを
 >西軍、東軍の配置図を手に関ヶ原で、タクシーの運転手さん(割と詳しい人と、指定させてもらいました)で、実際の地まで行って、見下ろして満足というような、行動をしたことがあります<

 私もしてみたいです。うらやましい!

お礼日時:2006/10/30 18:52

とりあえず、司馬は「歴史書」ではなく「歴史小説」なのでそこのところははっきりさせておきましょう。

これ重要です。

それと、黒田は完全に東軍です。長政は小早川とかかなりの量の取り込みを担当しているので。また、つながり的には家康の養女を継室(つまり後妻)にしており、完全に東軍なのがわかります。また、父親の官兵衛が攻めていたのも明らかに西軍大名ですので、黒田一丸となって家康を立てていたのが分かります(ウィキの記述は少々中立性を欠いていますね。)

さて、上杉が関ヶ原までくると言うのは、まずありえません。なぜならば上杉は、西は前田、東は最上伊達に逆包囲されているからです。

まず、上杉は手始めに最上と戦端を開きます。
最上は庄内にも手を回していたため、山形付近の戦力が少なく、その戦力差は10倍近くです。緒戦は上杉が圧倒、そのまま山形城に攻め上る勢いでした。が、最上は大量の鉄砲を保有(2000といわれていますがちょっと多すぎですかね。とりあえず結構な量を保有していたのは確かです)、また、持久戦に持ち込んでとにかく持ちこたえます。360名あまりの小城を落城させるのに上杉は(数万の兵をもってして)3日かかる始末です(一説には500の兵にたいし2日)。そして、要所であり難攻不落の長谷堂で完全に進軍はとまってしまいます(上杉撤退までの半月、1000程度の兵で持ちこたえました)。
もともとこの最上家当主義光は「出羽の驍将」とあだ名されるほど有能な人でして、「伊達の馬打ち(保護領)」とまであだ名された没落領主であったのを何とか立て直した父(義守)を隠居させて(彼は父親にとんでもなく嫌われており、廃嫡寸前、というか父はする予定でした)、弟を殺し最上家を継いだ人物です。そして知略と武略で最大版図を築いたひとかどの人ですから、なかなかどうして強い。しかも、このとき「上杉と戦っているのは最上だけ」と言う状態です(それでも上杉は押し切れない)。
そして、戦力は最上どころではない、文字通り奥羽の覇者である伊達は1人も死なずに健在。で、こっちを率いているのは言わずと知れた伊達政宗。上杉の旗色は、兵力で勝ってはいますが明らかに悪いです(誤算は最上が異様に強かったこと。その間に伊達は最上領に到着)。そして、西よりだったといわれる安東(秋田氏)は動きませんでしたし、陸奥の南部氏と津軽の津軽氏は東。
ただ、最上は戦端を開く前に直江に対して和睦を申し出ているのですが、直江は拒否しました(人質は出す、上杉の指示で出兵するとまで最上は譲歩したのですが・・・)。で、最上攻めとなったのですが・・・まあ、ここで和睦しても上杉はその状況から動ける状態ではないですから、中山道にいたるのがそもそも困難。
なお、最上は西とのパイプもありましたが、それ以前の動向を見れば東寄りなのは明白です。秀吉に愛娘を殺されている上(秀次に嫁いでいたのですが、秀次事件に連座して殺されました)、家康とは小田原の陣で遅れたのを秀吉に取り成してもらったりと恩も深かったですし。上杉との和睦については、戦力差から当然試みるべきことですし・・。

なお、下の人が言われておりますように、家康を弾劾した書である通称「直江状」と呼ばれるものは、偽書の可能性がある(人によっては言い切る場合もあります)といわれている代物ですから、鵜呑みにするのは困難です。
また、上杉にとっては真っ向から対立したにもかかわらず改易されなかったのは栄転といえましょう。

参考URL:http://www12.plala.or.jp/getaway/mogami/,http:// …長谷堂城の戦い
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この回答へのお礼

詳しい説明や URL をありがとうございます。最上氏の奮闘については、まったく存じませんでした。貴重な資料やご説明いたみいります。

しかし、

>父親の官兵衛が攻めていたのも明らかに西軍大名ですので、黒田一丸となって家康を立てていたのが分かります(ウィキの記述は少々中立性を欠いていますね。)

については、果たして、官兵衛が、家康を心から支持していたかについては、疑問が残ります。息子の長政が家康に完全に仕えていたのは、明らかですが、その我が息子の所業が気に入らぬと、親子で対立していたというのは、虚構なのでしょうか?
 実際官兵衛は秀吉からも恐れられていたほどの野心家で、それゆえ、九州に遠ざけられたという事実もありますし、その彼が、家康にそうやすやすと、加担するとは考えにくいと思うのですが?長政の場合は朝鮮出兵のおりの、三成との確執があり、家康につくのは自然で、縁組までしてますから、当然でしょうが。

 また私は、越後の動きを知りたかったのです。関ヶ原に地理的に近いですし、合戦に影響を与えやすいと思ったからです。

お礼日時:2006/10/30 07:54

直江兼続ですね。

実際に東軍側の最上義光の領地であった山形に進撃していますが、思いのほかに早く東軍の圧勝に終わったために大きな動きにはなりませんでした。wikipediaにも若干記載があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F% …

直江以外にも、中津城に隠居していた黒田官兵衛(如水)も九州で挙兵しています。さすがは秀吉の下で天才軍師と言われた官兵衛だけあって、手持ちの兵隊が全く無かったにも関わらず一万人あまりの農兵を引き連れて破竹の勢いで進撃しました。あと一ヶ月の余裕があれば九州の統一に成功し、上洛して家康と覇を争うことになっていたかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0% …

それ以外にも挙兵こそしなかったものの上田城で徹底して徳川秀忠の進撃を妨害した真田昌幸が虎視眈々と機会を伺って居りました。関が原の合戦が僅か一日で終わらなかったら家康の天下は危なかったかもしれません。

しかし、直江と石田三成の書状は話としては有りますが史実でない可能性が高いと言われています。黒田官兵衛、真田昌幸も石田三成を毛嫌いしており、三成を助けたいと言う気持ちは無かったでしょう。この辺のアンチ家康派の分裂まで読んだ上で関が原の合戦を仕掛けたのでとすれば、やはり天下を取った家康の器はたいしたものであり、歴史がひっくり返る可能性は薄かったような気がします。
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この回答へのお礼

 詳しい解説ありがとうございます。兼続の山形への進撃については、司馬遼太郎の書には記述がありませんが、官兵衛の九州での動きについては、記述があります。また昌幸のことに関しても記述されており、三成を嫌っていたということも記述があります。仰せのとうり、

 >関が原の合戦が僅か一日で終わらなかったら家康の天下は危なかったかもしれません。

 その一日で終わらせないように、もし越後衆が駆けつけていれば?と想像してみたのです。

 昌幸に関しては、司馬遼太郎の書によると、信州の小大名の真田氏が厳しい戦国の世を生き抜くため、息子のうち一人は(信之)は徳川方、もう一人(幸村)は、豊臣方につくよう指示したとあります。結果的に、幸村は、大阪の陣で亡くなりましたが、信之は家康に重宝され、そのおかげで、昌幸も、命を永らえてますから、彼の大局観はかなり優れたものであったようですね。

お礼日時:2006/10/29 08:17

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Aベストアンサー

北条氏に対抗でき、なおかつ上杉家に血縁、縁のある武将だから。

当初、上杉憲政は佐竹氏を頼り、上杉の名と関東管領職を渡し保護を受けようとしました。
かつて佐竹氏の第12代の当主をつとめた佐竹義人は山内上杉家から婿養子に入った人であり、佐竹氏も上杉憲政と血縁関係にありました。
しかし、当時の第17代当主、佐竹義昭は源氏の家名である佐竹の名を自分の代で終わらせるわけにはいかないと断ります。

そこで上杉憲政が次に頼ったのが長尾影虎でした。
長尾影虎も上杉の血をひいています。

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北条氏に対抗でき、なおかつ上杉家に血縁、縁のある武将だから。

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先日,ラジオで加来耕三氏の話を聞きました。

関ヶ原の戦いで、東軍の徳川秀忠軍は中山道において手間取り、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。秀忠軍は、信州の真田軍との戦いで、不覚を取ったから、と言われていますね。

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まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。
徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
江戸に戻った家康は、諸大名に対して50通近い書状を送り、懐柔の策を施し、一月後に東海道を登って行きます。
この間、秀忠軍の工程を並列すると、秀忠軍の方が先に美濃に着いてしまう事になります。そこで、時間的帳尻を合わす為、真田昌幸の上田城を攻めたわけです。これももちろん家康と正信の示し合わせた作戦でしょう。
もし、美濃で合流するつもりであれば、上田には後詰を残して無視してと東山道を登り、木曽を抜けた中津川辺りで駐屯して連絡を取り合えばいい事ですから、主力の徳川軍は温存させるという意図がありありです。
小山では、上杉軍に対応する為、次男結城秀康を残してます。

では、何でそんな作戦を立てたのか。
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最後に勝つ為の戦略という事だと、私は確信しています。

まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。
徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
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しかし島津だけは薩摩 大隅75万石を安堵されました
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ことをしました また島津を頼った 宇喜田秀家も処刑はされず八丈島への配流で済んでいます

豊臣家でさえ65万石の一大名に成り下がったぐらいなのになぜ島津は無事だったのか?

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これも石高が減っていないので実質国替えです

家康は東軍の大将だったのだから島津や佐竹を潰せたはずですが
なぜ助けたのでしょうか?

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのあと豊臣氏が滅ぼされるまでに何年かかったか調べてみてください。

 関ヶ原の戦いの実態は豊臣政権内の覇権争いであり。加藤・福島などの武断派=東軍と石田に代表される文治派=西軍の争いです。徳川氏は名目上は豊臣秀頼の臣下であり、徳川氏対豊臣氏という図式は成り立ちません。

 しかも、東軍が勝ったとはいえ徳川氏の本隊は家康旗下の旗本が戦闘に参加したくらいです。徳川氏本隊は中山道で足止めされて戦闘には加わっていません。結局、福島そして最後には小早川という豊臣秀吉子飼いの大名たちの戦闘で西軍に勝利しました。

 確かに歴史の転換点にはなっているのですが、この時点で徳川氏の覇権が成立したと見るのは勘違いです。まあ学校教育がよくないんですけどね。そのため豊臣子飼いの大名たちにたくさんの加増を余儀なくされます。福島、加藤、小早川等々が最たる例です。

 というわけで、関ヶ原の戦いのあとも徳川氏が全国を手中にしたわけではありません。もし、西国まで徳川郡が遠征すると東国では上杉、伊達の脅威があり、豊臣秀頼を中心に福島、小早川、毛利などが反徳川で再結集する可能性もあります。

 そんな理由でとても遠い薩摩まで軍事的な圧力をかけることはできないし、動員力もなかったということです。すべては関ヶ原で徳川氏は日本の支配権を得たという勘違いから起きていますね

 関ヶ原の戦いのあと豊臣氏が滅ぼされるまでに何年かかったか調べてみてください。

 関ヶ原の戦いの実態は豊臣政権内の覇権争いであり。加藤・福島などの武断派=東軍と石田に代表される文治派=西軍の争いです。徳川氏は名目上は豊臣秀頼の臣下であり、徳川氏対豊臣氏という図式は成り立ちません。

 しかも、東軍が勝ったとはいえ徳川氏の本隊は家康旗下の旗本が戦闘に参加したくらいです。徳川氏本隊は中山道で足止めされて戦闘には加わっていません。結局、福島そして最後には小早川という豊臣秀吉子飼い...続きを読む


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