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織田信長は桶狭間での大逆転で一気に天下に躍り出ました。
また秀吉・家康という後の天下人も信長の躍進によって表舞台
に出られたといえます。
それでは信長が桶狭間で負けていたら天下はどうなっていたのでしょうか?
単に上洛して室町幕府を再興して、第一人者になるという程度の事
ではなく、新時代を開ける可能性をもった人物はいたでしょうか?

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A 回答 (15件中1~10件)

戦国時代の勢力争いが膠着化していたのは、武力闘争の構造が変化してしまい、いずれの勢力も決定力が持てなくなった事によります。


例えば源平時代や南北朝時代の戦いでは、動員何万人という軍記がありますが極めて疑わしく、実際の戦闘人数は少ない形で行われていました。
足利尊氏が自分の本拠地から京都に出て、関西で後敗北して九州に逃げ、その後巻き返して九州から京に攻め上ったのは、補給線等の問題が戦国時代とは全く異なっていた事を示します(世界史的にはアレキサンダーの転戦もそういった面がある)。
戦国時代には各国が戦いに明け暮れていましたが、戦闘員の大半は農業従事者であり、田植え・稲刈りの期間に大規模な戦闘を行うには困難が伴いました。
今川が単に隣国織田家を飲み込む戦争を企画したのと同様に、力により全国を征服する(天下布武)を考える様な大名は皆無であったのが実情の様です。
従って、軍事専門集団を活用した信長の制覇事業が、ある程度実現していった中で彼がいなくなった場合には秀吉・家康の様な後継者が現れたでしょうが、桶狭間の時点で信長が敗れていれば、全く違った大名が機会と才能に恵まれて統一を実現するまではかなりの期間がかかったでしょう。
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>信長が桶狭間で負けていたら天下はどうなっていたのでしょうか?



今川義元は馬にも乗れず、蹴鞠(けまり)に興じ、公卿趣味だった由。 とても乱世を治める器量の持ち主とは思えません。 

信長に代わる強くて賢い武将が、中原に覇を唱えてやって来るでしょう。 場所的には上杉謙信ですが、彼は鉄砲を上手に使っていない。 

私は西国の毛利元就が、水陸両面の武力を背景に京に登って来るとみます。 彼が倒した大内義隆は副将軍と呼ばれ、足利家からも篤く奉じられていた名門です。 安芸周防一帯を治めていた大大名で、知恵者としても名高い元就ですから、上手に日本を平定したと思います。 
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度々すみません。


2訂です。
今川義元は、1回目の奇襲は、不成功でしたが、いくらなんでも、用心深くなったはずですので、2回目は、成功するとは、思えなくなりました。
故に、12番さまに同意します。
ミクシィには、120余人の「織田信長」がいるそうですから、今でも支持のある、魅力のある人物だと思います。
「デスノート」でも持っていたんじゃないかと、疑いたくなる、大量虐殺、粛清が長政さんにできるだろうか。
は、かすかな、疑問です。
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 ―歴史のIFですから、楽しみつつ読んでください―



 人物の器と京都に近い土地に根拠を持つ点から考えると、浅井長政と徳川家康でしょうか。

 浅井長政が、朝倉氏について織田信長に反旗を翻したのは、歴史の定説とはかなり違いますが、浅井長政に戦国大名としての野心があったからだと考えています。

 徳川家康が、後に天下をとることが出来たのは、織田信長と同盟を結びつつ、今川義元が死んだ後の今川領を自力で切り取っていったからです。
 同様に、浅井長政は織田の支配する畿内と反対側の北陸へ進出することを考えていたと思います。そのために、織田家が朝倉氏を攻めない約束を結び、自分が朝倉氏を自力で滅ぼすつもりだったのだと。

 朝倉氏が、織田信長に滅ぼされると、浅井領は周りをほぼ織田の勢力圏・織田領に取り囲まれることになり、浅井家が領土拡張する方向が失われます。つまり、織田の一部将として家来扱いとなり、徳川家康のような未来への可能性が失われます。そのため、信長に敵対するという一大勝負に出たと考えるのです。(もし、浅井長政の決断の理由がこれであっても、これからの織田信長と戦いに朝倉氏の援助が必要な以上、朝倉氏に恩義を持つ父親の浅井久政に同調したという態度を取らざるを得ません。)

 明智光秀・豊臣秀吉・滝川一益を抜擢し、徳川家康を同盟相手に選んだ織田信長は、当時にあっては武将・政治家の器量を見抜く、超一流の選定眼を持った人物といえます。
 浅井長政は若いまま織田信長に殺されたため、その器量は歴史の上で明確にはなっていませんが、織田信長が見込んでその妹の結婚相手に選んだ人物ですから、徳川家康級の人材である事は間違いないでしょう。
 信長が桶狭間で負けていたら、徳川家康(そこそこ有能であったといわれる今川義元の部将として、それ以上目が出なかったかもしれない。)よりも、京都に近く凡将朝倉義景の下に納まらない(織田家と同盟を結んで朝倉家と距離を置く事が可能であったくらいですから。)浅井長政の方が天下統一に近かったと思います。

 信長がもし今川義元に殺され、美濃の斉藤氏を浅井長政が滅ぼして、美濃を領することになっていれば、彼は天下に最も近い大名の一人になっていたでしょう。
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答えを訂正します。


「第2の信長が現れて、私たちの知っている通りのシナリオが進む」
に、します。
前回の推理は、私たちが知っている人物だけで、構成しようとしたので、無理があります。
自分でも「甘い」とこぼしています。
戦国時代は、特に顕著に「天は、うまい配材をしたな」と、思わずにいられません。
あの局面では、どうしても信長は、必要です。
第2の桶狭間は、第2の信長が奇襲に成功します。
その人物に心あたりがないので、その人物は、本物の成功によって、天から、不要と判断されたのか、才覚を世に出すチャンスに恵まれず、野に埋もれたままなのです。
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桶狭間の戦いは後から見ると一大転機になっていますが、その当時は単に三河遠江を


支配する勢力と尾張の勢力による国境紛争だったと言われています。
今川義元は上洛の意思はなく、従って桶狭間で勝ったとしても武田信玄、長尾影虎と
後背地の北条氏を含めた4者で東国の勢力争いをしていたことでしょう。
信長が天下を意識するきっかけになったのはやはり足利義昭の接近によるものと
思われますので、仮に信長が出て来なくても細川幽斎、明智光秀が信長に代わる
足利幕府再興に使える有力武将を見つけ出したのではないでしょうか。
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信長の野望をコーエーが作った理由その1ですね



自分で武将作ってそのキャラに天下統一させてるから…

天下人は自分?w
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現在の我々から見ると戦国大名たちは誰もが天下取りを目指していたように思い勝ちですが、実際にはほとんどの大名は、自分の領土を守り、隣国に攻めこんで領土を広げるということだけを目指していただけと云われます。



上洛しようとした今川義元にしても武田信玄にしても自分が天下人になろうとした訳ではなく、単に足利将軍家を助けて幕府を再興することが目的だったように思われます。
当時、明確に自分で天下を治めようと目指した武将は織田信長だけではなかったのかと思われ、信長の天下取りに刺激されて、他の武将も勝った者が天下人になるという風潮になったように思われます。

信長のように旧体制を全て無視し、否定できるような人が現れない限り、誰が上洛しても精々足利幕府体制を再興する程度のことしか思いつかないように感じます。
したがって、信長が早い時期にいなくなっていれば、当分はこのまま戦国時代が続いていたと思います。
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勝手に歴史を変えてしまうと、現在の私たちが存在しなくなるし


「歴史の管理者」の逆鱗にふれますので、信長の不慮の死を
なんとか繕わなければなりません。

信長が桶狭間で滅亡した後、戦乱は続く。
今川の配下にいた松平が名を「徳川」と改めて、今川義元の上洛に
従い室町幕府再興を誓い、(同時に大儀名文を得て)三河・尾張・美濃
と着実に支配地を広げる。
そのころ、九州を征服した「島津」と中国を征服した「毛利」四国を
征服した「長曾我部」は、武田と北条を滅ぼし強大な力を持った
「徳川」に対抗するために、連合を組む。
1600年、京・大坂に入るために大軍を引き連れてきた「徳川」と
「島津」「毛利」「長曾我部」連合軍は、関が原で激突。
元来、無理な連合を組んだ西軍は、「徳川」の老獪な切り崩しにあい
敗北する。
「長曾我部」は滅ぶが、「島津」「毛利」は統一を急ぐ「徳川」から
領地縮小だけで滅亡は避けたが、250年後に復讐を誓う・・・。

これで、とりあえず歴史の大筋は崩さずに済みます。
あっ!朝鮮への侵攻とそれによる明の衰退は、どうしよう・・・。
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結局、ここでああだこうだと出るようにどの大名も「決定打に欠く」事となり、戦乱の世が続くのではないでしょうか。



今川が上洛して天下に号令する可能性は高いと思いますが、新時代を拓くという可能性はないでしょう?室町将軍に変わって天下に号するだけであって、それまでと何ら変わることのない乱世が続くと思います。

ただ、そんな中で松平、北条、毛利などが頭角を現す可能性は高いと思います。
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Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Q信長がいなかったら

下で本能寺の変が無かったらという話題が出ていますが、もしも信長がいなかったら、
あるいは桶狭間の戦いで負けて滅びていたら、どうなっていたのでしょうか?
信長がいなくてもいずれは誰かが天下統一をしているでしょうが、
具体的にどの武将、どの大名家が天下を取る可能性が高いでしょうか?
またその時期は史実と同じ頃になるでしょうか?

Aベストアンサー

以前質問者様に回答したことがあるものです。
ですので前回と同じような回答になることをご容赦下さい。



100万石をボーダーラインとして地理的要因を踏まえ、家督相続がうまくいった大名に焦点を当てていきたいと思います。
ある地域に権勢を振るった大名は多かったですがそれにプラスして家督相続スムースに行われた大名となると意外と数が絞られます。
いくら屈強な兵を擁しても
莫大な収入があろうとも
絶対的なカリスマを持つ武将がいようとも
家督相続がうまくいかず内紛が原因で凋落していった大名家は数多いです。

前置きが長くなりましたが信長がいなかったら?
ということですと天下に号令をかける可能性があるのは以下の五雄を挙げます。


○奥羽の伊達
○関東の北条
○中部の武田
○中国の毛利
○九州の島津


上記の五雄は信長・秀吉・家康に領土拡大を禁止されたり、
領国を減らされたり、滅ぼされた大名です。
そのため実際の歴史では地方の覇者として名を馳せたものの
天下に号令をかけるには至りませんでした。

しかし信長がいないとなると話は変わります。
天下人の介入が無い訳ですから実際の歴史よりプラス100万石。
うまくいけば倍以上領地が拡大しても不思議ではありません。
前書きの通り家督相続もうまくいっているため大きな混乱もなく、
さらなる飛躍も十分可能でしょう。

日本は200~400万石の大名が割拠する
群雄時代に突入したかもしれません。


実は挙げた中に今川家を加えたかったのですが泣く泣く外しました。
今川は義元が信長に討ち取られました。
しかし当時今川家は駿河・遠江・三河を領有し
100万石に迫ろうかという勢いでした。

信長がいなかったとなると桶狭間の戦いも起きず、
尾張も支配下に置くことは確実です。
商業が盛んな尾張を手中に収めることによって、
もしかすると信長に代わって戦国時代の主役に
上り詰めたかもしれません。
そう考えると歴史って本当に面白いですよね。

しかし実際の歴史ではあまりに早く表舞台から消えているために
その後が想像できないのです。
義元の嫡男である氏真が大変優秀であったとしても歴史では
家が滅びた代の殿様ですから評価を低くせざるを得ません。
そのため泣く泣く外すことにしました。


挙げた大名の中に「あれ?上杉がいないじゃないあか!?」
と思われるかもしれません。
すみません。
独断と偏見に基づいて外しました。

上杉は家督相続がうまくいかなかったからです。
御館の乱で上杉家は真っ二つに割れました。
謙信が実子を作らず、跡継ぎを決めたかったのが原因ですが...
やはり戦国時代において実子がいないというのは、
マイナスにはなってもプラスにはなりません。


そうなると「あれ?武田は信玄が父を追放して家督を奪ってるじゃないか!?」と思われるかもしれません。
しかし信玄の場合は有力豪族が信玄を後押しする形で
父・信虎を追放しました。
有力豪族がバックについていたため
比較的スムースに家督相続ができたのです。

よく武田凋落の槍玉に挙げられる勝頼ですが凋落は勝頼の責任
というより信長があまりに強大であったのが一番の原因です。
また勝頼は子・信勝が成人するまでの名代であり
次の跡継ぎも決まっており家督相続もうまくいくでしょう。


五雄の中に近畿地方の大名はいません。
あえて入れませんでした。
理由は今川と同じで「想像できない」からです。
すみません。

近畿一帯は完全に織田の勢力圏だったので信長がいないとなると
どこの大名が成長するのかまったく分からないのです。
しかし近畿で全国に影響を与えるキーパーソンはいます。

天下の将軍・足利家です。

なんと言っても将軍家ですから。
没落した言っても将軍家ですから。
先代が暗殺されたと言っても将軍家ですから...
そんな踏んだり蹴ったりでも将軍家なので、
他の大名にはないアドバンテージを山ほど持っています。

義昭を擁し上洛したのも、室町幕府に終止符を打ったのも信長です。
信長がいなければ足利家は細々とですが存続し続けたかもしれません。
歴史どおり要所要所で転換点となるタクトを振り続けたかもしれません。

そうなればどの大名が義昭を擁して上洛するかが重要になってきます。
となるとやはり武田・毛利が筆頭候補でしょう。
武田・毛利なら地理的にも実力的にも上洛は可能です。
将軍の後ろ盾となり高位の官位を頂きさらなる権勢を振るったでしょう。


武田と同じく京に近い毛利ですが、
武田よりも有利な点があります。
堺に近いことです。
当時堺は日本一の商業都市であると同時に日本一の鉄砲生産地でした。
堺を押さえることにより周辺諸国より格段に有利になります。
地中海経由で輸送することにより物資を迅速に本国に運ぶことも可能です。

鉄砲の大量導入・野戦築城で長篠のような戦いが西国で起こったかもしれません。
長篠合戦図屏風のようなものが残り、そこに毛利本家と共に
両川、吉川家・小早川家が両脇を固めている構図になっているでしょう。


足利や徳川に代わって幕府を開いてしまいそうな。
幕府を開けるだけの石高・地理的条件を持っている大名がいます。
北条家です。
歴史では秀吉に滅ぼされてしまいました。
実際は
全国諸大名 vs 一大名
でしたので敗れるのは当然だったかもしれません。

小田原攻めの頃の北条家当主は早雲から数えて5代目の氏直でした。
氏直代に北条家は絶頂を迎えます。
関東制覇目前の240万石という圧倒的な石高を誇っていました。
北条家が特筆すべき点は石高だけではありません。
北条家は正室から嫡男が全て生まれています。
兄弟も同じ母から生まれているため結束が強いです。
当主は嫡男が若いときに家督を譲り
自らは後見人となって領国をうまく治めていました。

正室の長子が全て当主となっていることは
戦国時代には極めて稀なことです。
側室から生まれた長男と正室から生まれた次男が争ったり、
養子を迎え入れてゴタゴタが起きたり等は戦国時代に地上茶飯事でした。

家督相続が磐石だと強大になれる良い例ではないでしょうか。
信長がいなければ周辺国を併呑し続け、
400万石の大台に載せられるかもしれません。
征夷大将軍就任の条件である東国(関東)を領有しているため
幕府を開くことも夢ではないはずです。


そんな北条家と同じように親兄弟の結束が強いのが島津家です。
秀吉に攻められた北条家と同じで、
秀吉がいなければ九州制覇は間違いありませんでした。

伊達と同じく京から遠いことが難点ですが、
逆に言えば中央のイザコザに巻き込まれたりせず
領国拡大に専念できる環境であると言えます。

九州制覇後は毛利・長宗我部くらいしか敵はいません。
毛利とは宥和政策を取り数倍する国力を背景に
長宗我部の四国を切り取れば近畿進出も見えてきます。

逆に長宗我部と結託して一気に毛利を攻め、
邪魔者を排除するかもしれません。
毛利はの北九州の一部を領有し関門海峡を押さえているため
衝突する可能性は長宗我部より高いはずです。
自らの裏庭に他人が陣取っている事ほど嫌な事はありません。
主人が留守の際に家を乗っ取られてしまうからです。

毛利は強大ですが島津は地理的利点があります。
背後を気にせず全力を傾けられることです。
毛利は近畿・四国・九州に戦力を分散しなければなりません。
島津は中国・四国のみであり長宗我部と不戦の約定を取り付ければ
毛利攻略に専念できます。
強敵を攻める際は周辺国に不戦の約定を取り付けてから行うのが
戦国時代の通例です。
(というか周辺国に約定取り付けず、憂いがありまくで
目的国に攻め入るアホな大名はいませんが)
背後の憂いを絶って攻める例
・尾張を攻めるために三国同盟した今川。
・徳川を攻めるために上杉と停戦した武田。
・西へ勢力を広げるために徳川と同盟した織田。
etc...


中央から遠く離れているのは奥羽の伊達にも言えることです。
会津を手中に収めた頃の伊達の周りには伊達の腰巾着大名と
敵対する弱小大名しかしませんでした。

唯一渡り合えるのは常陸の佐竹くらいのものです。
その佐竹に対しても敵の敵は味方の論理で
北条が伊達と協力体制を敷くため安心できます。

後は切り取り放題で正に奥羽は伊達の草刈場でした。
20万石クラスの大名もいましたが、奥羽では圧倒的な国力を背景に
伊達は周辺大名に号令をかけ着実に勢力を広げていったでしょう。
奥羽平定後は島津と同じく背後を気にすることなく京へ攻め上ります。
しかし島津と違い道中に
佐竹、北条、上杉、武田と強国が多いのが難点ですが...


以上、
○地理的要因
○家督相続
の2点を中心に考えてみました。
稚拙な長文失礼しました。
質問者様のお力になれば幸いです。

以前質問者様に回答したことがあるものです。
ですので前回と同じような回答になることをご容赦下さい。



100万石をボーダーラインとして地理的要因を踏まえ、家督相続がうまくいった大名に焦点を当てていきたいと思います。
ある地域に権勢を振るった大名は多かったですがそれにプラスして家督相続スムースに行われた大名となると意外と数が絞られます。
いくら屈強な兵を擁しても
莫大な収入があろうとも
絶対的なカリスマを持つ武将がいようとも
家督相続がうまくいかず内紛が原因で凋落していった...続きを読む

Q交際期間どの位でセックスする仲になるのか?

彼氏が「ホテル行かない?」と言って彼女が「いいよ」と返事をする。
皆さんはこんな会話をした事がありますか?
現在の結婚相手、もしくは昔付き合っていた人とセックスをしたい事を意思表示する会話をした事がありますか?
男は女性とキスをしたい、エッチをしたいと思う性的な欲求を持っていると思います。女性を大事にしたいと思う気持ちと早くエッチをしてみたいと思う欲求が頭の中を駆け巡っていると思います。女性の気持ちはどうなのでしょうか?男性と違い一緒に過ごす時間を重視ているのでしょうか?会話を楽しみたい、一緒に楽しく食事をしたい、一緒の部屋にいる事が好きなどを重視しているのでしょうか?

デートを重ねるとお互い気を許したり、信頼関係が生まれると思います。そして恋愛感情も深まると思います。そうなると自然に男女の関係になると思います。その男女の関係になる時は男性から声を掛ける事が多いのでしょうか?食事の帰りに「ホテルに行かない?」、家でキスやハグをしている雰囲気でセックスに至るなどでしょうか?

どの位の交際期間で男女の関係になるのでしょうか?
女性はデートする事に「今日は何かあるかもしれい」と思ってデートに出かけたりしますか?
男性は「今日はエッチしてみたい」と持って出かけたりしますか?

彼氏が「ホテル行かない?」と言って彼女が「いいよ」と返事をする。
皆さんはこんな会話をした事がありますか?
現在の結婚相手、もしくは昔付き合っていた人とセックスをしたい事を意思表示する会話をした事がありますか?
男は女性とキスをしたい、エッチをしたいと思う性的な欲求を持っていると思います。女性を大事にしたいと思う気持ちと早くエッチをしてみたいと思う欲求が頭の中を駆け巡っていると思います。女性の気持ちはどうなのでしょうか?男性と違い一緒に過ごす時間を重視ているのでしょうか?会話...続きを読む

Aベストアンサー

主婦です。

「どれくらいの期間」というのは、人によってマチマチでしょうが、歳を取る連れセックスに至るまでの期間が短くなる傾向にはあると思います。


質問者様は、女性がセックスまで時間を置きたい理由に「セックス以外で一緒にいる時間を大切にしたいから」の様な事を考えていらっしゃる様ですが、女(特に若いコ)の本音はちょっと違う所にあるかもしれません。


『あんまり早く身体を許して、軽い女扱いされたくない』
『付き合う前にセックスをすると、遊び用の女に格下げされる』


って理由も多いんじゃないでしょうか。




ちなみに私は、セックスしてから付き合った事しかありません。でも、どの元カレも長く付き合ったし、大切にしてくれました。始まりなんて、付き合っちゃえば関係ないですから。



私がまずセックスをする理由ですが、セックスをしないとその男の本質が分からないからです。


男性は、好きな女性ができたら付き合う為にあのテこのテで頑張ってくれます。

素敵なお店を予約してくれるし、気を遣ってくれるし、プレゼントをくれるし、とにかく最善を尽くしてくれます。…が、それじゃその人の「素」が見えなくて、正直つまらないんです。取り繕った姿を鵜呑みにしたら、付き合ってから「こんなだらしない人じゃなかったのに」ってなりますから。


男性は一回こちらが身体を許すと油断する傾向にあります。だから、さっさと化けの皮を剥いでやりたくてセックスします(笑)


…気取った顔よりも、無事にセックス出来て、安心仕切って眠りに落ちた時の素の顔(ちょっとバカ面w)の方がカワいくて好きなんです。



セックスに至るタイミングは、キスした時に彼が舌を入れて来たら、『興奮してます』サインにちょっとだけ「んっ…」て息継ぎします。

もう、あとは説明いらないですね(笑)

主婦です。

「どれくらいの期間」というのは、人によってマチマチでしょうが、歳を取る連れセックスに至るまでの期間が短くなる傾向にはあると思います。


質問者様は、女性がセックスまで時間を置きたい理由に「セックス以外で一緒にいる時間を大切にしたいから」の様な事を考えていらっしゃる様ですが、女(特に若いコ)の本音はちょっと違う所にあるかもしれません。


『あんまり早く身体を許して、軽い女扱いされたくない』
『付き合う前にセックスをすると、遊び用の女に格下げされる』


って...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む


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