あまり詳しいことは知りません。素朴な疑問なのですが、ヘーゲルにおける弁証法で、大きな役割を果たす「止揚」は、これはこうだ、という必然的な原理なのでしょうか、それともこうあってほしい、という道徳的な要請なのでしょうか。的外れな質問かもしれませんが、どうか意見を聞かせてください。よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

 申し訳ありません。

逆質問になります。「必然的原理なのか、道徳的な要請なのか」というご質問は、『法哲学』序文に見える「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」との命題に関連したものでしょうか?

 ご質問そのものに関しては、「ヘーゲルは現実を《~すべき》という当為(道徳的要請)を乗り越えて《~ねばならない》という必然・義務において捉えようとした」とお答えできます。『論理学』の第二部「本質論」の「現実性」に見える記述、ならびに『法哲学』における「道徳性」の位置付けから、そのことははっきりと申し上げられます。

 どのような問題関心をお持ちなのか、もう少し詳しくお示しいただけたら、他にも何ごとか語れると思いますが、いかがでしょう?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
なるほど、すこし整理された気持ちです。
ところで、serpent-owlさんの回答で、また疑問が湧いてきました。
もう少し勉強してから、また補足説明と質問をしたいと思います。

お礼日時:2002/04/12 12:13

必然的な原理だと思います。

少なくともそう習った(笑)
ヘーゲルにとって、自然界や社会の「運動法則」の一部が止揚です。
自然界や社会は「神が形を持ったもの」であり、
弁証法は「神の運動法則」です。
キリスト教の影響をかなーーーり受けているので、
キリスト教の考えを知らないと究極的に理解できないのかもしれないです。

以上素人より。
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ttp://books.google.de/books/about/Die_Kant_Kritik_des_jungen_Hegel.html?id=2hFB6PXxSWAC&redir_esc=y

カント批判 - ヘーゲルの若き日々

Ingtraud Goerland

「Die Kant Kritik des jungen Hegel」

Qヘーゲルの弁証法

ヘーゲルの弁証法についてですが、
教科書では「正」を蕾、「反」を花、
「合」を実としています。
この例えが一体何を意味しているのかが分からないのですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3通りほどの「弁証法的運動」が語られています。それに、彼は何でもかんでも三拍子のリズムに無理やり押し込んでしまうクセのある人ですから、押し込んだモノによってはどうしようもない無理が出てワケがわかんなくなったりもしております。たぶん、彼自身、わかってない。

 が、きわめて大まかではありますが、「より全体的・包括的な見方、考え方へと上昇していく運動」とは言えようかと思います。「より全体的・包括的な方へ」です。それ考えますと、「蕾=正」「花=反」「実=合」という説明は適切とは思えません。「実」が「全体」であるかのように読めてしまうからです。No.2のkequさんが引用されている箇所は、そうは言っていません。「蕾と花と実は、同時に両立せずに交代するが、それらはその植物にとって一時的なあり方であり、それらが生まれ、消えていく過程そのものがその植物の全体である」といったあたりです。「その植物」とは蕾「だけではない」、花「だけではない」、実「だけではない」、しかして、そのすべてである、と。
 この「だけではない」というのが aufheben です。このドイツ語の動詞は、「捨てる」という意味と「保持する」という意味の両方を持つ、実にややこしい言葉なのですが、ヘーゲルはここに大きな意義を認め、好んで多用しています。「前段階の見方、考え方では、絶対的で固定的で自立的なものに見えていたものが、次段階では相対的・流動的・従属的なものとして、より全体的な認識のごく一部にすぎなかったことがわかる」、と、そんなときに、前段階の認識が「aufhebenされた」と言うわけなんです。大きく脱中心化され、価値を減じられたけれども、でも保持されているというわけで。

 ということですので、その譬えの意味は、実は「蕾も花も実も、それだけでは植物の全体ではない、それらが交代するサイクル全体こそが、その植物の全体像である」といったあたりです。

 このへんの説明で、実は別のところに書いた「仮面ライダー編」てのもあるんですが…すいません、ちょっと見つからなくて。

 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3...続きを読む

Qヘーゲルの哲学

ヘーゲルの哲学やその主要な著作を詳しく解説したドイツ語の解説書を探していますが、どういうものがいいか調べる手段を教えていただけませんでしょうか?

Aベストアンサー

調べる手段/入手の手段を書きます。
わたし自身ヘーゲルなど読んだこともありませんが。

1. Gutenberg Project という計画があります。古来の資料をディジタル化し、無料ダウンロードに供しようという計画です。http://www.gutenberg.org/ へ行って下さい。
Book Search をクリックし、例えば Georg Wilhelm Friedrich Hegel をキーワードに入れれば、ヘーゲルの論文は出て来ます。

ニュートンの論文も、ガロアの論文も探せます。著作権の切れた物しかありません。

2.欧米では、店を構える古書店はどんどん減っています。代わりにインターネット古書店が大きくなってきました。接続してみると買わなくても、自分の持っている本の値段が分かって楽しいですよ。
http://www.zvab.com/index.do
http://www.eurobuch.com/
http://www.powellschicago.com/

3.探しておられるのはヘーゲルの論文ではなく、ヘーゲルの解説、評論ですね。私なら、本屋さんに行き日本語の本を立ち読みし、参考文献の頁をメモしてきます。その上で、1項、2項の方法で、望みの本を入手します。

大都市にお住まいなら、ジュンク堂では、立ち読みならぬ、座り読みが許されていますね。
国立/都立/県立/大学図書館で、参考文献欄をコピーすればもっと便利です。

4.ヨーロッパの公立施設、例えば図書館や博物館や大学は親切ですよ。私は(自然科学の分野ですが)参考文献などについて質問を送り、色々教えて貰いました。

ヘーゲル記念博物館などはありませんか。ヘーゲル生誕の町にある市役所などは役に立ってくれますよ。

注:Gutenberg Project はどのような組織がやっているか調査中ですが、まだ判明しておりません。どなたかご存じでしたら教えて下さい。
活版印刷機の発明者 Gutenberg とは関係ないようです。

調べる手段/入手の手段を書きます。
わたし自身ヘーゲルなど読んだこともありませんが。

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Qヘーゲルの弁証法

ヘーゲルの弁証法で、

正⇔反
 ↓
 合=正⇔反
    ↓
    合

というカタチのわかりやすい例を教えてください。
 

Aベストアンサー

次のような例はどうでしょう。

貴族制⇔封建制
     ↓
  絶対王政⇔共和制
        ↓
       立憲君主制

Qヘーゲル・カントの哲学

私は現在大学でへ-ゲルとカントについて学んでいます。ですが、どうも自分なりに次のことが理解できずに悩んでいます。よろしければ分かる方がいらっしゃったら教えてください。
-ヘーゲル-
『経験』にかんすることで、経験の成立過程とそれに伴う真の主体とはなんなのかがよくわかりません。
-カント-
『現象』にかんすることで、ア・プリオリとか経験的自我とか超越論的自我の関連が難しいです。とくにその成立過程についておしえてください。

漠然とした質問で答えずらいと思いますが、よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

体調があまりよくないので、長い文章を書くのが少ししんどい状況にあります。
少しずつ書いていきますので、途中、レスポンス、ください。
回答が少し遅くなるかもしれませんが、レスポンスをくだされば必ず答えますので、よろしく。

まず、質問者さんが、いったいどのくらいの知識をお持ちの方かよくわからないので、少しお聞かせください。

まず、カントの方から片付けていきましょう。
〈ア・プリオリ〉がなんなのか、〈ア・プリオリ〉な総合判断はいかにして可能か、というあたりを聞いてらっしゃるわけではないんですね?

これは「純粋統覚」あたりのことを聞いていらっしゃると考えていいのかしら。

えとえと、わたしが教わった先生は、「経験的自我」「超越論的自我」というふうにもんだいをたてずに、「経験的統覚」「純粋統覚」として、「時間は純粋統覚という意識の自己認識であり、意識の可能性の条件そのものである」というところから、ここを読んでいます。

十年たつと、問題の立て方も変わっちゃうのかもしれませんが(笑)、そこらへんを説明したらいいのだったら、そうおっしゃってください。

むずかしいところだから、どこまでできるかわからないんだけど。
わたしも普段、全然使わない領域なので、一緒にぼちぼち読んでいきましょう。

あと、どこらへんまでわかってるか、できれば教えてくださると助かります。

体調があまりよくないので、長い文章を書くのが少ししんどい状況にあります。
少しずつ書いていきますので、途中、レスポンス、ください。
回答が少し遅くなるかもしれませんが、レスポンスをくだされば必ず答えますので、よろしく。

まず、質問者さんが、いったいどのくらいの知識をお持ちの方かよくわからないので、少しお聞かせください。

まず、カントの方から片付けていきましょう。
〈ア・プリオリ〉がなんなのか、〈ア・プリオリ〉な総合判断はいかにして可能か、というあたりを聞いてらっしゃる...続きを読む

Qヘーゲル弁証法なんですが

「ヘーゲルの弁証法とはある意見(正 テーゼ)に対して、それの反対意見(反 アンチテーゼ)とが対立するなかで、それぞれのいい点を合わせたもの(合 ジュンテーゼ)を考えだす論理」なんですか??学校でこう習ったのですが納得いかないんで・・・。わかりやすく教えてください。

Aベストアンサー

思想の例がいいんじゃないかと思って、参考程度に
自由は追求するととてつもない差別が生まれます。
一般的に貧しいものはより貧しく富めるものはより豊かになりますね。富の差が生じますね。
一方、平等は追求すると一切の自由を束縛します。
自由は制限され一番多い貧しいものにあわせると貧しくなりますね。貧しさの平等ですね。
そういう意味で自由と平等は。正と反ですね。
この正と反の壮大な文明実験が自由主義国家アメリカと共産主義国家旧ソ連の例と考えてよいでしょう。
この自由と平等を正と反とすると合とはいかなるものかということですが、自由で平等な足して二で割ったような国家は現実的に存在出来るかといえば、それはないでしょう。自由と平等の矛盾を内在し、それを乗り越える第三の道、それが合というものでしょう。
でも200年の文明実験でもいまだに解が無いところをみると合はわりと難しいことなんですよね。東洋的には中道とか中庸ですね。簡単にいいとこどりしたものが合というものでは無いということですね。

Q歴史哲学の必読書を教えてください

歴史初心者です。
ヘーゲル以降の歴史哲学の必読書を教えてください。
検索した限り、「歴史哲学」の名を冠した書物はヘーゲルが最後のようで、探すのが困難です。
教えてください。一定の歴史観に通底された通史でもいいです。

Aベストアンサー

残念ながら、日本では「歴史哲学」という分野ははやってないんですよね・・・。
それでも、何人かの歴史学者及び哲学者が歴史哲学の本を書いていますので、以下に紹介します。

『 歴史の哲学―現代の思想的状況』 渡辺 二郎 (著) 講談社学術文庫

古代ギリシアから、現代に至るまでの歴史家・哲学者が「歴史」についてどういった認識を持っていたか、それが現在にどう影響しているのかが述べられた本です。
歴史哲学について、一通りの基礎的事項が学べます。



『 歴史とは何ぞや 』ベルンハイム (著), 坂口 昂 (翻訳), 小野 鉄二 (翻訳) 岩波文庫

「歴史学」の重要なことの1つが「歴史の叙述」という行為ですが、この「歴史の叙述」について、ベルンハイムは3つに分類しています。すなわち「物語的歴史」「教訓的あるいは実用的歴史」「発展的あるいは発生的歴史」の3つです。
それぞれどういったものなのかが著述されています。



『ドイツ・イデオロギー』カール・マルクス,フリードリヒ・エンゲルス (著) 岩波文庫

言わずと知れたカール・マルクスの唯物論的歴史観を確立した本。
別名「発展史観」とかヘーゲル・マルクス史観とか呼ばれたりします。
日本は未だにこの史観を中心に学校教育が行われていたりします。(蛇足ですが)



『歴史とは何か』 E.H. カー (著), 清水 幾太郎 (翻訳) 岩波新書

日本において近現代人の歴史哲学としては、一番読まれている本かもしれません。
著者は、英国の外交官として活躍。
その経験から、現実主義的な歴史哲学を展開。
「歴史とは現在と過去との対話である」という名言は有名。



『 思考としての歴史と行動としての歴史』 ベネデット クローチェ (著), 上村 忠男 (翻訳) フィロソフィア双書

第二次世界大戦前後に活躍した、イタリアの哲学者及び政治家。
ムッソリーニのファシスト独裁に対してペンでもって対抗したことで有名。
彼は「歴史とは全て現代の歴史である」と延べ、「歴史叙述」という行為は「歴史的事実」を記すのではなく、「現代の必要性」によって行われるとして批判している。


『史的觀念論の諸問題』三木 清(著) 岩波書店

京都学派を代表する大家の一人。『史的観念論』以外にも多数の著書があり、どれも根底には「生の存在論としての歴史」、「生の批評としての歴史」という歴史哲学が流れている。



『社会科学の方法――ヴェーバーとマルクス』 大塚久雄(著) 岩波新書
『歴史と現代』 大塚久雄(著) 朝日新聞社

丸山眞男の「丸山思想史学」とともに、「大塚史学」として並び称された、大塚久雄の代表的著作です。
著者は経済史学が専門ですが、それらの根底には彼なりの「歴史哲学」が流れています。


・・・と、こんな所でしょうか。
他にも、レーヴィットとかマックス・ヴェーバー、ヤースパース、ニーチェ、ハイデガー、西田幾多郎、リュシアン・フェーヴルetc,,,と紹介したい人は居ますが、この辺りで自重しときます^^;

ではでは、参考になれば幸いです。

残念ながら、日本では「歴史哲学」という分野ははやってないんですよね・・・。
それでも、何人かの歴史学者及び哲学者が歴史哲学の本を書いていますので、以下に紹介します。

『 歴史の哲学―現代の思想的状況』 渡辺 二郎 (著) 講談社学術文庫

古代ギリシアから、現代に至るまでの歴史家・哲学者が「歴史」についてどういった認識を持っていたか、それが現在にどう影響しているのかが述べられた本です。
歴史哲学について、一通りの基礎的事項が学べます。



『 歴史とは何ぞや 』ベルンハイム (著), 坂口 昂...続きを読む

Qカント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)

カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。
理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。
『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。
この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。

カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。
理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。
『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるな...続きを読む

Aベストアンサー

もんだいになさっているところがやっとわかりました(と思うんだけど、まだずれているかもしれない)。
おそらくそれは、昔から議論され続けている「理性の事実」問題ということになるかと思うのですが。

『実践理性批判』一の「純粋実践理性の原則の演繹について」の81-82に

「道徳律はいわば、われわれがア・プリオリに意識しているところの、必然的に確実であるところの純粋理性の事実として与えられている。……それゆえ道徳律の客観的実在は、いかなる演繹によっても、理論的で思弁的な、もしくは経験的に与えられた理性のいかなる努力によっても証明されえない。それゆえ、必然的な確実性を断念しようとしても、その実在が経験によって保証されるわけではないし、したがってア・ポステリオリに証明されうるわけでもない、それにも拘らず、道徳律はそれ自身で確実である」

という部分があります。
この部分は一般に「理性の事実」と称され、道徳律は演繹されない、というカントのこの主張をめぐってさまざまな批判や解釈がなされてきました。
本や紀要論文も数多く出ています。
あるいは、ヘーゲルは直接この部分ではないのですが、カントの「普遍立法」や「自由」「理念」をめぐって批判しています。

そうした本が参考になるかと思いますし、あと、学部生の方であれば、こういうところで質問しないで、先生に聞いてください(笑)。
答えているわたしの方は畑違いの文学屋です。パンキョーで興味を引かれ、『判断力批判』の講読ほか、いくつか授業を取った経験はありますが(『純粋』と『実践』は岩崎の『カント』と併せて講読についていくために読んだ)、基本的にシロートです。
そういうことで、院試がんばってね♪

もんだいになさっているところがやっとわかりました(と思うんだけど、まだずれているかもしれない)。
おそらくそれは、昔から議論され続けている「理性の事実」問題ということになるかと思うのですが。

『実践理性批判』一の「純粋実践理性の原則の演繹について」の81-82に

「道徳律はいわば、われわれがア・プリオリに意識しているところの、必然的に確実であるところの純粋理性の事実として与えられている。……それゆえ道徳律の客観的実在は、いかなる演繹によっても、理論的で思弁的な、もしくは経験的...続きを読む

Q「ヘーゲル流の対置」とは?

半田元夫、今野國男著「キリスト教史」
このようなところから、テュービンゲン派の人々は、宣教の中心地=イェルサレムとアンティオキア、宣教内容=律法主義と福音主義、宣教対象=ユダヤ人と異邦人、宣教の担い手=直弟子とパウロに分け、前者を「ユダヤ人キリスト教」、後者を「異邦人キリスト教」と対比的に捉えた。この彼らのヘーゲル流の対置によって、錯雑として理解しにくい発生当初のキリスト教の動きは、明快な見取り図の下に整理、分析されることになった。

さて、質問です。
「ヘーゲル流の対置」の意味が分かりません。1、2のどちらかだと思うものの、どちらもしっくりしません。
1 観点の選定の妥当性は問わずに、「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」の違いを4つの観点で対置したこと自体がヘーゲル流だというのか
2 対置する際の4つの観点の選び出し方がヘーゲル流だというのか

常識の範囲で言えば比較検討する際にはヘーゲルであろうとなかろうと対立点を鮮明に明示するでしょうから、1ではぴったりしなそうです。一方、対置する観点は誰が選んでも上の記述と大同小異になりそうで、ヘーゲル特有の観点とは言い難く、2ともぴったりしなそうです。著者は何処に着眼して「ヘーゲル流の対置」といっているのでしょうか。

日頃から「ヘーゲル哲学は難しいらしい」ということだけが念頭にあって、ヘーゲルの何たるかを全く知らずにほったらかして来た私が、この文章に出合って「この対置は誇張があるにせよ、図式化し過ぎているにせよ、ただの比喩であるにせよ、何らかの意味でヘーゲル哲学の特徴を表しているらしい」と察知したことから生じた質問です。つまり、この引用文を教材としてヘーゲル哲学を端的に、かつ実感を伴った印象として残せるよう解説して下さる方が居られまいかという(虫のよい?、無謀な?)お願いです。ヘーゲルの全体像を述べるという無理ではなく、著者がここで「ヘーゲル流の」と入れておきたくなった気分を代弁して下さるだけでも結構です。
よろしくお願いします。

半田元夫、今野國男著「キリスト教史」
このようなところから、テュービンゲン派の人々は、宣教の中心地=イェルサレムとアンティオキア、宣教内容=律法主義と福音主義、宣教対象=ユダヤ人と異邦人、宣教の担い手=直弟子とパウロに分け、前者を「ユダヤ人キリスト教」、後者を「異邦人キリスト教」と対比的に捉えた。この彼らのヘーゲル流の対置によって、錯雑として理解しにくい発生当初のキリスト教の動きは、明快な見取り図の下に整理、分析されることになった。

さて、質問です。
「ヘーゲル流の対置」の...続きを読む

Aベストアンサー

ヘーゲル読みですが、分かりません。

一般論として指摘できるのは、なんでも中間値を取ればヘーゲル式だという短絡的な思考の人がいること、マルクス主義の縮小再生産の先に正・反・合によるスキームのみが残る傾向があることだと思います。

> 1 観点の選定の妥当性は問わずに、「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」の違いを4つの観点で対置したこと自体がヘーゲル流だというのか

いいえ、これはヘーゲル的ではありません。違うものを2つ並べ立てただけであり、その2つの要素が真の和解に達していないからです。和解どころか、議論も発生していない状況では、弁証法が稼動していません。2つの立場の間に議論が稼動してこそ、弁証法が動き出すのです。

> 2 対置する際の4つの観点の選び出し方がヘーゲル流だというのか

いいえ、これはヘーゲル的ではありません。単に物事の要素を並び立てるだけの思考様式は、ヘーゲルが嫌うところのものです。要素が4つだろうと、5つだろうと、6つだろうと同じです。3つの場合についても、ある種の哲学者が若干の三分法を使うからと言ってカントに似ているなどとするのは、笑うべき浅薄な考え方だとヘーゲルは言っています。

ところで、この半田氏の本を読んだことがないので分からないのですが、かなりの疑問がいくつかあります。

*ヘーゲル本人の一番弟子ガンスがユダヤ人であることをどう思っているのか?
*ヘーゲル本人はプロテスタントだが、プロテスタントとカトリックを分けずに議論していいのか?
*半田氏はどこから「ヘーゲル的」という言葉を仕入れてきたのか?ヘーゲルの影響を受けた人物に、「宗教は麻薬だ」と述べたマルクスや、物象化論で著名なフォイエルバッハがいることを、どう評価しているのか?
*チュービンゲン派という語を、純粋にヘーゲルの後の世代のキリスト教概念として使っていると考えて良いのか?まさか、ヘーゲルやシェリングと友人だったヘルダーリンを念頭においていることはないと断言してよいのか?

というわけで、半田氏の文章を読んでみないと、回答いたしかねる部分や謎が多数あります。

ヘーゲル読みですが、分かりません。

一般論として指摘できるのは、なんでも中間値を取ればヘーゲル式だという短絡的な思考の人がいること、マルクス主義の縮小再生産の先に正・反・合によるスキームのみが残る傾向があることだと思います。

> 1 観点の選定の妥当性は問わずに、「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」の違いを4つの観点で対置したこと自体がヘーゲル流だというのか

いいえ、これはヘーゲル的ではありません。違うものを2つ並べ立てただけであり、その2つの要素が真の和解に達し...続きを読む

Q経験論の原理的問題点(生得観念の必然性について)

「原理的に、経験から全ての観念が生じる」という考えの問題点について考えています。
特にこの考えの立場を徹底した人物としては、ヒュームが挙げられると思われますが、ヒュームに対するカントの批判などについても、どこか「空回り」の感が避けられません。
超越論的解釈を退けうる経験論の人間(人性)理解の限界について、あるいは、生得観念の必然性について、何らかのご意見をください。
もちろん、カントの立場からの批判も歓迎します。私の理解が及んでいない可能性が大いにありますので。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 詳しい議論は知りません。
 あえて 次のような経験事実を挙げてみます。なぜならその経験事態において あたかも先験的な(超越論的な)事象が与っているように思われるからです。
 ○ うそをついたり偽りをおこなったりするとき ひとは こころにやましさを感じる。(慣れっこになっている状態の以前には このような経験事態をほぼ誰もが持つと言えるでしょう)。
 ○ 次の事例は必ずしも上の《うそ∽やましさ》といった一筋の相関関係にあるとは限りませんが それでも ひとによっては恥づかしいという思いにつれて 顔が赤くなります。あるいは 恥づかしいという思いを覚えるより前に 赤面や吃音といった身体の変化が生じることがあります。
 ○ わたしたちはかなり面の皮が厚いようで やがて慣れっこになると このような顔のほてりややましさにうろたえるといった経験を隠しおおせるようになりますし それどころかこれを操作して都合のよいように見せかけるという演出さえするようになります。
 ○ それでももしそのようであるなら 何を隠そう そのような自分の中での制御や操縦という事態そのものが 初めの《うそ∽やましさ》にかかわる良心の問題を――ひとの先験的な自然本性の問題として――語っているのではないでしょうか?

 ☆ 論証しえぬまま 公理としてよいのではないでしょうか? 新知見やあたらしい理論が出たなら そのときに考え直しても遅くはないというべき事態ではないでしょうか?
 言いかえると このような単純な《良心・信教の自由――ないしひとの自由意志――》の命題を互いに共同の主観として共生していくことに特別の間違いはないし 差し支えはないと言えると考えます。

 というのは 哲学の詳しい探究は――むろんこれを自由にいとなんで行くのですが―― いま現在この公理をもとにして社会生活をいとなむ過程においてこそ 進められるべきだと考えられるからです。
 言いかえると 経験論による命題にしろ超越論的な生得観念などの命題にしろ それらの認識が先行するのではなく いま・ここの実践(生活)が先行すると捉えなければならないと考えるからです。この先行性は 時間的なそれであるよりは 考え方の上でのそれです。

 こんにちは。

 詳しい議論は知りません。
 あえて 次のような経験事実を挙げてみます。なぜならその経験事態において あたかも先験的な(超越論的な)事象が与っているように思われるからです。
 ○ うそをついたり偽りをおこなったりするとき ひとは こころにやましさを感じる。(慣れっこになっている状態の以前には このような経験事態をほぼ誰もが持つと言えるでしょう)。
 ○ 次の事例は必ずしも上の《うそ∽やましさ》といった一筋の相関関係にあるとは限りませんが それでも ひとによっ...続きを読む


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