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殺人は悪だと思いますか?

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A 回答 (43件中11~20件)

 おお、ゼノンの逆説が出るとは!


 私が「その質問は、その前提の中で
有限の長さの無限分割と再統合を通し
世界の性質や法則が不変としている」
と秒殺手段を提案したあれですね。

 『ゼノンの逆説』とは?
「アキレスは亀に追いつけない」
証明:「残距離半分まで進む過程」を
   何回重ねても追いつけないから
・・・いんちき証明の代表なんです

 『ゼノンの逆説』では二分割でした
が、これを十分割にすると・・・?

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0.999   残り:0.001
0.9999  残り:0.0001
・・・     ・・・

 常識が許す行為の本質はこれです。

 「有限を無限回数分割する」の類の
異常な考えや行動を突然フリーパスで
通しておいて、それに由来する問題を
相手にごねるという『ゼノンの逆説』
の流儀は実際に「常識」として普段は
罷(まか)り通っていて、それが法や
正義の整合性の問題としての判断から
罷免(ひめん)される=逃げることを
許さない問題に会うまで手付かずです。

 この問いこそまさにその問題です。
さ、自称世界の警察を裁きましょう!
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回りくどい言い方になってしまうのですが,「罪を晴らす」というのは,被害者,加害者(及びその近親者),そしてそれ(罪)を情報として受け取る第三者の満足という形を取る以外ではない,と僕はしばらく前から考えています.


(「悪」と「罪」を混ぜちゃっていますが,問題ないでしょうか?)

死んだ人は生き返らないし,その償いというのは,結局世論そしてそれに含まれる個人感情への訴えかけでしかない,という,僕の周囲でも殆ど共感して貰えない,何だか,救いのないものの捉え方です.

でも,この視点に立つと,次のことが言えると思うのです.「殺人が悪だと言うのも,結局はそれを悪と見なす人の感じ方の問題でしかない」と.
世論という言い方をすれば,殺人がどうして罪なのか,人に説明できなくても,そう感じる自分の心を偽る必要がないというその必要のなさは,常識という「当たり前」に,自分が合致しているという安堵がもたらすものではないでしょうか.例えば電車で化粧をする女性をマナー違反と見なす風潮があります.僕は,電車の中での通話はマナー違反(不愉快)に感じますが,化粧に対しては,言われれば気になる,というくらいで,不愉快には感じません.
殺人が,斯くも世界共通に不愉快に感じられる原因については,ここで触れると収拾がつかなくなるので割愛しますが,僕にとっても殺人は,不愉快です.反対です.なんか,軽いですが.

人は論理で動くものではない,というのは,一般論でも格言でも何でもなく,中立的な事実だと思います.論理といえば数学ということで,例えば「無理数」.0.9999999…と1は等しいということを証明するこの拡張数学理論は,自然界では起こりえない,ひとつの「考え方」でしかありません.専門家ではないので,是非補足・反論を頂きたいところなのですが,数学上の理論も結局は,人によって,数学の権威によって承認されます.無理数という「考え方」が数学界に受け容れられた過程に,例の「ゼノンのパラドクス」に有効な回答を与える,という点が評価されてはいないでしょうか?このパラドクスなしに無理数が,理論としての魅力を発揮する機会はどれ程のものなのでしょうか.
論理というのは,人を納得ではなく,説得する手段です.数学の価値を認めるところで,我々は数学に説得されていますが,本当にそれに納得している人がどのくらい存在するのか?一方,我々は自分を魅了するものごとについて,論理性をどの程度求めるのか?…もしこの問いに何らかの共感を抱いて頂けるなら,以下の結論にも,拒絶以外の対応をして貰えると思います.

共感の抱ける相手を,「人」と呼びます.故にそれはアニメのキャラクターの場合もあるし,愛車である場合もあります.一方,一切の共感が抱けなければ,それがホモ・サピエンスだろうがネアンデルタールだろうが,その人物にとっては人にはなりません.
故に,戦争などで「殺人」をせねばならない場合,相手を人と見なさいことでそれは可能となります.相手を人と,相手の中に人格を認めつつ,それを殺害することは,人が自分を人扱いする以上,不可能ではないのか?というのが僕の考えです.

時事ネタで言えば,今鈴木宗男議員が死んだとして,それ(を知った瞬間)に同情を覚える人は,不謹慎な程少ないでしょう.ただ注意しなければならないのは,それがあくまで「自分の中の感情」である以上,神妙な顔つきのニュースキャスターの顔を見ているうちに,急に同情を思い出すことも多分にあり得るということです.
自分の中に湧き起こってしまった感情に逆らうことは困難です.特にそれが周囲と同調してしまった場合には.

故に,如何なる事情があれひとつの人殺しが,悪と見なされ続けないのは非常に稀なことと思います.そのようなものはしかし,大抵語り継がれるので,あまり稀なこととは考えづらいかも知れません.
ただそうだからといって,吉良上野介を人扱いしていない自分を,許容する理由にそれは,僕の場合ならないのですが….

結論:
殺人が悪にならないためには,その被害者が世界同時的,歴史上恒久的に,人でなしであり続ける必要がある.
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その行為の対価がなにかに依存していると思います。


一番分かりやすいのは生き延びる為の殺人が容認される例がありますが、
これは、殺人の対価として自分の命を得ているのだと思います。
##ちょっと言い回しが変ですね。
##言い換えると、誰かの命が要求されている状況下で
##自分の命の提出を拒んだってことですかね。

死刑がいろいろ議論されていますが、死刑を求刑されたのは、
被告が十分な対価の支払いを行わずに相手の命を奪った事に対し、
充足する為の対価を被告の命としたのだと思います。

ということで、不正な利得が大きい場合の殺人は悪なのだと考えます。
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戦争など状況によるのでは?とりあえず生きるために必要な人殺しならいいのでは?職業的な殺しです。

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「殺人」は直接的であろうと間接的であろうと、また


本人が意図的かどうか関係なく、自分以外の他者を殺
す結果となれば、理由はどうであれ「悪」です。

もっと言えば、人間以外の動物、植物を殺した場合で
も同じ。つまり、我々人間が生き延びていくために
は、本質的に他者(動物、植物を含む)を殺さなけれ
ばならないので、この世に存在すること自体、悪なの
です。

ちなみに、このような本質的な「悪」が裁かれるの
は、死後の世界なので、みんなそろって地獄行きで
す。それでは、あんまりだということで、ひたすら阿
弥陀如来に救いの道を求めたのが仏教(真宗?)の原
点です。「他力本願」の他力とは、他人のことではな
く阿弥陀如来のこと。

以上、受け売りです。
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私の正しさの尺度同士の優先順位は不明です。


(つまり行き当たりばったりに生きてます)
私の殺人経験は死刑だけとなっております。
http://homepage2.nifty.com/shihai/

有名な本の読書感想文入選作(一応中立)
http://www.jobu.ac.jp/~library/japanese/lib-lett …

『死刑議論への準備ノート』にある通り、
賛成=死刑制度復活運動は現在不要です。
http://sy.vis.ne.jp/sikei/prep1.html

参考URL:http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2001/12/01120 …
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再び補足ありがとうございました。



「覚悟」とは、多くの死者に対する「責任」であると読み替えてよろしいですか?

そこでまた疑問なのですが、midgardさんが「生存者=殺害者」の図式の根拠として挙げられている、「法的には『殺人』はしていないが、『殺人』をして生きているという事実」はどうして「確か」なのでしょうか?具体的な例をあげていただけると嬉しいです。

哲学はモノローグ(独り言)の学ではなくダイアローグ(対話)の学ですから、のんびりいきましょう。私も殺人が悪なのかどうなのか知りたいのです。
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ものごとの善悪は、そのもの自体に内在してあるというより、時代や地域性というある枠の中で意味付けされるものです。

殺人の是非についても、ある思考のパラダイムという評価の枠を設定した中で限定的にしか論じられないもの、なのではないでしょうか。
私はなにも、「何ごとも相対的善悪でしかないのだから、意味がない」という意味でこう申し上げているのではありません。むしろ逆に、ひとは好むと好まざるとを問わず、この場所・この時代に存在するわけなのですから、その中における善を実践すべきだと思っています。
また、思考は無限に広げることができますが、社会との現実の接点であるこの身体は有限のものであり、私たちはこの身体のうえにしかどんな些細な思想をも実践できないことを忘れてはならない、とも思っています。

その前提を踏まえたうえで、あえて考え方のひとつの足がかりとして、「動機の語彙」という言葉をご紹介させてもらいます。

人間は「意味への渇き」を持った動物だと言われます。世界のありとあらゆる事柄を理解したい、日常の生活の全てを意味の秩序の中に位置付けたい、という根源的な欲求が人間にはあるのだという意味です。
わかりたい、という「意味への渇き」が社会の人間関係に適用されると、「動機」というものが重要になってきます。他人の行動を理解するということは、その動機を理解するということを意味するからです。

C.W.ミルズという社会学者はこの「動機」に注目した人で、動機を互いに理解し合うための社会的ツールとして捉えました。それぞれの社会には、類型的な「動機の語彙」がある、というのです。
自分ひとりの勝手な思いというのは、他人に理解してもらうという点では意味がありませんから、人が何かをする時の「動機」は、その個人のなかから新しく生み出されるのではなくて、むしろその社会に共有知識としてストックされたパターンの中からしらずしらず選択されているのだ、と考えたのです。
(ちょうど私たちの思考が、自由なようでいながらその言語のもつ構造や概念のわくを超えられないように)個々人の選択は自由なようであっても、実は社会的な意味の網目からは抜け出られないのだということでもあります。

大事なことは、この見方にたつと、行為者本人もあらかじめ他人を説得しやすい動機によって自らの行動を規制しているはずなので、「動機の語彙」は社会的な統制機能を持つことになる、という点です。
つまり、ある行動について自分も他人も納得させられる動機を前もって見つけられない(つまり社会にそういう「動機の語彙」がない)場合、ひとはそういう行動をなるべく避けようとするに違いない、という風に考えられるのです。

「殺人」の価値判断も、このような文脈にたって考えるとはっきりしてきます。人を殺すということは、「殺人」そのものではなく、「殺人」という動機の語彙がみあたらない、つまりそうする理由がないことによって回避されてきた面が多いと思うのです。
裏を返せば、何かしら適当な動機が社会のなかで提供されれば、殺人も必ずしも否定されないということになります。実際、国のため、理想のため、あるいは宗教のため……といった動機が何らかの理由で社会の語彙に加われば、簡単に殺人が肯定されてきたという多くの事実をみれば、殺人が「動機の不在」によってむしろ消極的に回避されてきたことを示しているように思えます。
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 どうも焦点が曖昧なせいで、この質問は行き詰まっている感があります。

前回したNo.18は、焦点を明確にしたいという意図を持っていましたがどうも失敗したようです。そこで、もう一回前回の反省も踏まえて、再回答してみたいと思います。

 No.18の回答は、質問者は「殺人は悪である」と規定する基準に疑いを投げかけている、という前提で行ったのですが、質問者の補足を慎重に見ていくと、疑いより一歩進んで、「殺人は悪ではない」という結論に繋がる回答なりヒントなりを欲しているように見えます。そういうことだと仮定すると、「殺人は悪である」と規定する基準を否定せずとも、「殺人は悪ではない」と規定する基準を打ち立てることは可能だ、と指摘したいと思います。

 「殺人は悪ではない」と規定する基準を打ち立てる場合、他の基準の正当性を持ち出す必要はないです。いや、むしろ、持ち出せないでしょう。基準の正当性は、それぞれの範囲内でのみ通用する話と考えるので、他の基準にまで通用しないし、そうする事は越権行為と思います。

 野球のストライクゾーンの基準を例として挙げます。仮に、セ・リーグとパ・リーグで、ストライクゾーンの基準が異なったとしましょう(実際若干違ったような…しかし、記憶が曖昧なので仮定の話とします)。このとき、パ・リーグのストライクゾーンは正しくない、とセ・リーグの規準を持った人々が指摘するのは的を得ているでしょうか?
 セ・リーグの基準を持った人々が行っている試合で、パ・リーグの基準ではストライクだが、セ・リーグの基準ではストライクではないボールをストライクと判定する。その場合、正しくないと指摘する事は的を得ているでしょう。しかし、パ・リーグの基準を持った人々が行っている試合の、パ・リーグの基準を満たすストライクに、セ・リーグの基準を当てはめて正しくないとは指摘できないはずです。

 悪を規定する基準だって同じ事でしょう。「殺人は悪である」と規定する基準を持っている人が、「殺人は悪である」と判断する事は正しいです。同様に、「殺人は悪でない」と規定する基準を持っている人が、「殺人は悪ではない」と判断する事も正しいです。しかし、その正しさは無限定に振りかざせるものではなく、基準内で有効と考えます。「殺人は悪ではない」と規定する基準を打ち立て、そしてそれを広めたいならば、正当性を持ち出すのではなく、No.3やNo.7の補足のように情に訴えかけたり、利便性を説いて行うべきではないでしょうか。

 以上の観点を認めれば、「殺人は悪だと思いますか?」という質問に、「悪である」と「悪ではない」という回答以外に(ここまででは後者の回答はありませんが)、「悪を規定する基準次第で答えが変わる」という回答も導き出せると思います。私個人が何の条件もなく、ただこの質問を受け取った場合は次のように答えます。
 「殺人一般を認めはしないが、死刑を慎重に支持し、安楽死を認め、緊急事態の殺人はやむなしと考えます。行動の上では日本の法律を受け入れ、それをそのまま正しいものとして行動する事にしています。善悪の概念を用いては判断していません。」


 善悪や正しさという話を聞くと、どうも過剰に反応してしまうので、少し噛み付き気味の文になっていたら申し訳ありません。私は不遜な善人が怖くて仕方ありません。そのせいか、善悪や正しさという言葉から絶対性の香りを嗅ぎ取った場合には、異議を唱えたくなるようです。私は、思想を記した本をあまり読まず、誰かと議論しているわけでもないので、この回答もとうてい打ち鍛えられたものとはいえません(そんな言い訳などしなくても、見る人が見れば文章自体からお里が知れるでしょう)。書いてる本人が、なんか穴がありそうだと感じているぐらいですので、是非批判的な意見でこの回答を打ち鍛えていただければ幸いです(キタエルイゼンニオナクナリニナルノデハナイダロウカ?)。
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補足、ありがとうございました。

midgardさんによれば、悪とは、つまり

>「覚悟のない者」

だそうですが、まず「覚悟のない"者"」で本当によろしいですか?もしそうなら、「覚悟のない者」と名指された人は、ずっと「悪」なのでしょうか?あるいは「覚悟のない"事"」のほうがよくないですか?

それから、「覚悟」とは何に対する覚悟でしょう?法律や人権を侵すことで、裁かれる「覚悟」でしょうか?「殺人」を肯定することで自分も殺されかねないということを認める覚悟でしょうか?前者であるなら、「今ある法律的、道徳的、宗教的規範は本当に正しいのでしょうか?」と問うあなたの態度と矛盾が生じます。また後者であるなら、No.22さんがおっしゃるような自分が殺されることは不当だと思う個人の感性が多数を占めるような秩序を求める社会的要請からある程度まで承認されると思います。これはNo.23さんがおっしゃるホッブズの考え方に近いものだと思われます(社会契約論でしたっけ?)。

ちなみに現代アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは、「無知のヴェール」とかなんとかいう話を持ち出して、これを説明していたような気がします。自分たちが一回死んで、どんな風に生まれ変わるか全くわからない原初の状態に置かれたと仮定してみる。その時、最も善いと思われる状態がいわゆる「正義」だ、という話だったような…。個別の状況を全く無視して考えると、まぁ生まれた以上死ぬのは嫌だと普通は考えるはずですから、人を殺すのは正義ではありませんね。midgardさんは、一回死んで生まれたとき、何も知らないような状態で死にたい!とか殺したい!とかたぶん思わないですよね。むしろ、生物学的には生きたい!と思う気持ちのほうが強いんじゃないでしょうか?

ただ、生物って死に向かって生きてるからなぁ…。最終的には一般的な答えを導くのは難しそうです。

この回答への補足

smitheeさんの補足の欄に書いたことは、生存者=殺人者、という図式が成り立つのではないか?ということです。私がいう「覚悟」とは法的には「殺人」はしていないが、「殺人」をして生きているという事実は確かなのだから「気高く生きる」とか、「責任をもって生きる」とかそういうことです。

補足日時:2002/04/19 20:13
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