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武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

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A 回答 (8件)

歴史は変わっていたと思います。


1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。
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1467年、応仁の乱に始まる百数年に及ぶ戦国時代を治めたのは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です。

 しかし、その背後に『鉄砲』という新兵器の存在も無視できません。 

武田信玄がこの新兵器にどれほどの意欲を持っていたのか。 果たして、甲斐の国から堺の港へのルートを持っていたか。 信玄が軍馬による従来の戦法に長けた武将である事に異論を唱える人はいないでしょう。 しかし鉄砲の威力なくしては戦乱の世は平定できなかったと思います。 

ですから、早かれ遅かれ信長の軍門に下る運命にあったと考えます。
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私も、ほとんど変わらなかったと思います。

そもそも、元亀三年の出兵は信玄の卓越した戦略の集大成のような作戦です。しかし、このとき朝倉義景が勝手に撤兵しており、それを信玄は激しく非難しています。もし朝倉軍が撤退していなければ信長は兵を動かせず、非常に苦戦したと思います。
実際は死期が近いことを悟った信玄は強引に西に兵を進めますが、もし自分の健康にまだ余裕があるならもっと慎重に事を進めたはずです。三方が原もまんまと家康をおびき出すのに成功しましたが、かなりリスキーな作戦です。実は、あそこで城から出た家康の判断は決して間違いではないのです。
もし信玄の健康に余裕があれば、三河を蹂躙して家康と信長を分断させていったん兵を引いたでしょう。武田軍の組織からしても長期作戦は不可能です。そして上杉謙信も信濃や関東にちょっかいを出してくるはずですのでそこでやっぱり時間を取られます。結局、大勢に影響はないということです。
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大局的、長期的に見てあまり歴史は変わらなかったと思います。



当時の武田軍の兵制では他のご回答にあるように、農繁期の戦闘は出来ませんからどうしても短期決戦型になります。
従って三方が原で家康軍を撃破して進軍しても三河、尾張を占領して停止でざるを得ないし、この占領地を自己の戦力化するには数年では短かすぎます。  この地方は群小領主が林立し、離合集散の激しい土地柄で彼らを信服させるには絶えず武田軍の勝利を見せつける必要があります。

信長包囲網も強力な武将はなく信玄頼みの傾向が強くて武田軍の進出なくしては頼みになりません。

従ってもし5年の寿命があっても、北条、上杉を考慮すればとてもそれ以上の進撃は無理だったでしょう。

恐らく10年以上の寿命がなければ上洛はかなわなかったとみるのですが・・・

その間に織田軍の態勢も強化されるでしょうし、ますます時間が必要になる筈です。 
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こんにちわ。



信玄があと5年長く生きていれば、大きく変わっていたかもしれませんね。
ちょうど信玄が死んだとき、対信長包囲網が最盛期でした。
信長は信玄の死によって窮地を脱していますから、これを考えると信玄があと5年生きていたら、信長は・・・。

その後の体制についてはどうなっていたでしょうかね?

信玄は三方原の戦いの際、家康の首はどうでも良かった節があります。
その後の体制は、三方原の戦いの後信玄の配下に入ったであろう家康を中心に回って行ったのかもしれません。
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天下統一はできなかったかもしれませんが、変化はあったかもしれませんね。


信長/家康にとってはかなりの脅威でしたから、思うようには動けなかったでしょう。であれば、信長の天下統一への動きに大きな影響が出たかもしれません。
そして、信玄から勝頼への世代交代がうまくゆかなかったとも言われていますが、あと5年生きていたら違ってきたかもしれません。そうなれば、信玄が死んだ後も信長/家康にとっては脅威であり続けたかもしれません。
でも、そうなると光秀が信長を討つタイミングもなくなったかもしれませんね。結局大差なくなったかも?
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武田信玄はあくまで中世の人間であり、織田信長は、近世の扉を開いた人間と思います。

武田軍は兵農未分離の農兵が主体であり、信長は傭兵による専用の軍隊を持ち、最新兵器である鉄砲を活用しました。長篠の戦いは、信玄がもし存命であっても、同じ結果になったと思います。
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ほとんど変わらないでしょう


理由
農閑期しか戦ができない体制であった
兵站に関する認識が無いため、食料は無償現地調達(略奪)で長期間にわたる戦線の展開などできる状態ではない

要するに、戦略的な構想が無いから、局地戦では勝利できても、それが体力を消耗する結果にしかならない(恩賞を与える原資が確保できない)

真田幸村と同じです、局地戦で戦果を挙げてもそれを活用する戦略が伴わないから、あだ花に終わるだけです

質問者の主張するように負けなかったかも知れませんが、絶対に勝てません
ある時期を過ぎればたいした脅威にはなりませんから、相手にしなければ良いだけです
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Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
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もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
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 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
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 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
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 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Qもし武田信玄が長生きしたら・・・

武田信玄に関してお聞きしたい事があります。

私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。
ただ52歳で亡くなっており、短命でした。
京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが
もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を
打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら
どちらが勝ったでしょうか?

織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか?

また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか?

それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。
皆殺し、人質を売ったり等…
これは事実なのでしょうか?

皆さんの予想をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しなければなりません。
そうなると他勢力に対抗する為の力が0になるか、もしくは畿内での小勢力を拠り集めて力を再建するしかありません。
旧来の武田軍団の「鉄の結束」が畿内勢に適用出来るとは思えない故に信玄は「天下人」にはなれない。
成れたとしてもその地位を維持出来ない。と推測します。

仮に信玄と信長の直接対決が成ったとして戦場は美濃の岐阜城周辺
全軍団を美濃に集結させられない程敵に囲まれた信長とは言え、不要な戦闘は避け、動員出来るだけの兵と鉄砲で岐阜城に立て篭もれば信玄とて足踏みせざるを得ないハズ。
そうやって時間を稼いで北条や上杉に武田の背後を脅かす様にもっていけば、事態は信長有利に働きます。
ましてや武田軍は遠征軍ですから兵站の確保に難があるのは明白。
三河で家康に止めを入れていないのですから兵站の運ぶにも障害が0%になった訳でもありません。
信長も苦しいでしょうが、信玄も一気決戦に持ち込めない場合は相当に厳しい状況に追い込まれます。
また、信玄が信長の首を上げたとしても、信長包囲網の一翼を担った「将」の立場であり、足利義昭が信玄を如何に扱うか?は推して知るべし。です。
つまり、武田軍団としては犠牲は多いものの信玄自身が即天下人になれる保障はどこにもない。と言う訳です。

小生が武田信玄の一番優れていると思う点は「工夫により」破綻寸前の後進国甲斐一国から『戦国時代最強』と言われる軍団を作り上げた手腕です。
信玄が甲斐の事実上の宗主になった時の国の実情は相当に厳しいモノでしたが、天下に認められる程の軍団を創出するに至りました。
クセのある軍団ではありますがその強さは天下屈指。
信長の様に経済力で押し切るのではなく、様々な工夫を凝らし軍団を運営増強していった所は素晴らしいと思います。

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しな...続きを読む

Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q前田利家が後15年生きていたら?

NHKドラマで利家が諸大名より大きな人望があるように描かれていますが、秀吉末期の家康との位置づけはどうだったのでしょうか?又、仮に後15年前田利家が生きていたら、関が原、夏の陣など世の中が  どう変わっていたと思いますか?ご意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 前田利家が擁護派とならざるを得なかったのは、領地力差が大きく開いていたからと考えることもできます。
 もしも、家康と利家の領地をひっくり返していたら、利家は豊臣を擁護したのか、などなど。
 当時としては、力を失った主家に取って代わるのはあたりまえの考え方があり、私としては、もしも、家康より長生きしたとしても、徳川との実力差から保身に走ったと思います。また、擁護派を貫き、徳川を滅亡に追いやったとしたら、最大の実力者として豊臣の滅亡か無力化に奔走するということとなったと考えます。

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
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Q武田勝頼体制はなぜあそこまで脆かった?

武田勝頼は人間的にも問題なく、能力は高かったとの話を聞きますが、家督をついでからは裏切りが多くて、長篠の戦い以後はさらにそれが加速して組織はがたがたでしたね。。
出生が良くなくて繰り上げ当選で家督についたということと、もともと武田は中央集権体制ができてなかったこともあるのでしょうが、それは
上杉景勝だって家督相続の時に泥沼化して、武田と同じく越後の国の豪族連合の盟主的な立場から脱してなくて同じことですよね。

なぜ他の大名家に比べて武田勝頼の元での組織は脆かったのでしょうか?

Aベストアンサー

「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。

さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。

ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返っている史実があります。
※ 岩波新書「武田信玄と勝頼」197ページに記載。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31863126

この松田新六郎が、武田家の滅亡後にどうなったのかは分かりませんが、1581年末の段階でも、武田勝頼の勢力はとりあえず揺るぎないもの、北条家を捨てて武田家に寝返るに足るものと認知されていたということを示します。

武田家があまりにも急速に崩壊した理由ですが、

(1) 木曽義昌、穴山信君という二人の「信玄の娘婿」が、いち早く織田・徳川に寝返ったこと。
穴山信君は、武田家の中でも有数の知行と兵力を持ち、江尻城主として駿河を預かっている立場でした。この穴山が裏切ったとなれば、徳川と北条の連合軍が駿河から甲斐へ一斉に攻め込んでくることになります。

木曽義昌の寝返りと共に、織田信忠が率いる織田主力軍が伊那方面から武田領国に侵入し、3月2日に高遠城を攻め落として諏訪付近に達しました。この段階で武田領国は甲斐と信濃の二つに分断されたことになります。後は「掃討戦」となり、勝頼とその一家は3月11日に天目山で織田信忠麾下の滝川一益の軍勢に討ち取られました。

ここまで迅速に武田家が崩壊した理由ですが
「木曽殿と穴山殿が武田家から離反した以上、武田家に織田・徳川・北条に戦う力は残されていない」
と武田麾下の諸武将が判断した結果といえます。実際その通りでした。
ただ、木曽と穴山の寝返りを受け入れた織田信長が、他の武田諸将の寝返りは受け付けず、降伏して出てきた武田諸将をことごとく処刑したのは予想外だったと思いますが。

(2) 1582年、本能寺の変がなければ、他に3つの大大名が織田家に潰されるか軍門に下ることが確実でした。

越後の上杉景勝:
武田家の滅亡後、北陸を進んで能登と越中を制した柴田勝家率いる「織田家北陸方面軍」が、本能寺の変の当日に越中魚津城を攻略し、越後に乱入する所でした。
上杉景勝は、魚津城を救援するため出陣しようとしましたが、武田家の滅亡によって織田領となった信濃の北部から、別な織田軍(森長可など)が上杉家の本拠地の春日山城を襲う恐れがあり、動くことができませんでした。
同時に、上野にいる滝川一益が、三国峠を越えて越後に攻め入る構えを見せていました。旧暦の6月、真夏ですから、冬は雪に閉ざされる三国峠も容易に通行できます。小田原の北条氏は、明確にではありませんが織田家の軍門に下った状況でしたので、一益の越後侵攻を妨げる者はいません。
本能寺の変がなければ、越後一国を領するに過ぎない上杉景勝は、恐らく武田家よりもっとアッサリと織田の大軍に三方面から押し潰されていたでしょう。

中国の毛利輝元:
本能寺の変の時、備中高松城は羽柴秀吉率いる「織田家中国方面軍」の水攻めを受けていました。
毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が率いる毛利のほぼ全軍が救援に来ていましたが、高松城を包囲する築堤と水が障害になること、「織田家中国方面軍」と兵力が近似していたこともあり、毛利家側は手を出せない状況でした。
この状況で、信長が「毛利を倒す時が来た。畿内にいる明智光秀以下の諸将を信長自らが率いて出馬する」と決断し、その準備のため京都の本能寺に滞在している時に起きたのが本能寺の変です。
本能寺の変がなければ、信長率いる主力部隊が備中に到着するという知らせと前後して備中高松城が陥落し、毛利軍は安芸へ退き、羽柴秀吉に領国の大幅割譲を条件とする和睦を申し出たでしょう。実際、高松城の包囲戦の段階で和睦交渉が進んでいました。
この和睦は、毛利家の領国の過半を信長に譲る過酷な者であったとされています。

四国の長曾我部元親:
元親は四国全体を概ね勢力下に収めていましたが、織田家の四国遠征軍(織田信孝、丹羽長秀)が本能寺の変の時点で大坂に集結し、まさに淡路島経由で四国に渡ろうとしていました。

四国には織田方についている三好氏の勢力があり、スムーズに渡海が出来たでしょう。元親の勢力は60万石程度と見積もられますが、織田軍の前では「鎧袖一触」に潰されたはずです。

(3) 本能寺の変がなければ、歴史には
「1582年 織田信長が武田勝頼と上杉景勝と長曾我部元親を滅ぼし、毛利輝元を降伏させた」
となったはずです。

この結果、毛利家と北条家を麾下に従えた織田家の勢力は、
東は越後、上野まで
西は長門と四国全域
まで広がり「残すは奥羽と九州のみ」となったはずです。

武田家滅亡後に、織田家が3つの大大名を同時に滅亡させる(降伏させる)体制に入っていたことから分かるように、1582年の織田家の兵力は、他の大名家の数倍に上る隔絶したものでした。ちょうど、今日のアメリカ軍のようなものです。

仮に武田家の諸将が叛かずに最後まで勝頼と共に戦ったとしても勝ち目はなかったと言えましょう。

「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。

さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。

ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返ってい...続きを読む

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む


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