No.1
- 回答日時:
もともと仏教は土着の神々を取り込んで拡大していった経緯があります。
その日本独特の形が神仏習合なのではないかと思います。
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F% …
No.2
- 回答日時:
宗教の問題は表現が難しいのですが,もともとは#1さんが書かれているように,神と仏を一体化するように日本の宗教観は育ってきた経緯があります.
例えば,天照大御神(神)と大日如来(仏)は,同一であるとされています.
このような考え方は,全ての神の本当の姿は仏であるというような思想から始まっています.日本人の宗教感は,生活の全てに神性を見出す傾向にありますから,それを上手く利用して説明をし,合理化してきたわけです.
一方で,明治以降には天皇家の宗教(実際には,天皇家にとっては宗教ではなく,自らが歩まれた系譜の一部ですね.天照大御神は天皇家の祖神です)を,国家宗教として位置づけるために,神仏分離策がとられるようになって,神と仏が人為的に分離されるようになります(もともとは別のものなので,意図的なものを除けば原点回帰したということでしょうか).
この辺りのことについては,「国家神道」のキーワードで検索してみてください.
以上のようなことで,そもそも別のもの(仏教は日本の宗教ではありませんから.歴史の年号を覚えるときに,仏教伝来というのがありましたよね)が,仲良く,都合良く理解され,利用しあって,民間に根付いて今日一般に理解されるような,神と仏の不分離の宗教観が形成されてきたのです.
このような考え方というか,言葉を選ばずにいうと,目の前にあるもののいいとこ取りのようなやりかたは世界でも類を見ないものだと思います.
結果として,日本人には宗教というものの感覚がうすれてくるわけですね.
日本人で寺に墓参りに行くことを宗教活動だとは思いませんし,年末年始に寺や神社を訪れること,クリスマスを祝うことなどを宗教活動だと思う人は,ほとんどいないでしょう.
長い日本の宗教の歴史の中で,明治から昭和の初めにかけての一時期を除くと,仏教伝来からのおよそ1000年は,神と仏が同一視された時代なのです.
このことが,今日見られる不思議な光景に行き着く理由です.
No.3
- 回答日時:
あまり詳しくは知らないのですが、(マンガ『日出る処の天子』を読んだくらいで、とほほ)
争いましたよ、神社派と仏教派。
聖徳太子のお父さんの頃だと思いますが、
豪族の物部(もののべ)氏が神社系(というのも大雑把な言い方ですが・・・)で勢力を誇っていました。
仏教が大陸から入ってきて、仏教を支持した蘇我氏と権力争いになりました。
結局のところ蘇我氏が強くなりまして、仏教に帰依していた聖徳太子なども協力して、仏教系の国家を作ります。
仏教が神道を取り込むような感じになったのは、うまく日本に仏教を根付かせるためだったんじゃないでしょうか?
キリスト教も、たぶんイスラム教もだと思いますが、広まるときにそこの土地にもともとあった風習や宗教と融合することがあります。
権力者または宣教者がそのようにして庶民に受け容れやすくするのか、自然に混ざっちゃうのか・・・両方かもしれませんが。
日本では明治時代までずっと神仏習合していましたので、お寺と神社は共存していました。
明治時代になんだったっけ、社会科でやったんですが・・・・は、はいぶつきしゃく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F% …
廃仏毀釈でなくて、「神仏分離令」のほうが元でしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F% …
関連付かせて一緒に拝んでいたものが、途中で分離させられて、今日に至っているので、「どうして寺と神社がこんな近くに」みたいなことがあるのでしょう。
同じ山に、仏教系と神道系の修行があったりして。
でもウィキペディアの「廃仏毀釈」に、一部の過激な人々がお寺や仏像破壊をしたが、一般にはそれほど普及しなかった地方もあり、現代でも神社と寺院の違いが判らない者も多いというような話が書いてありますが、たしかにそうかもしれません。
仏壇と神棚が両方ある家も珍しくありませんから。うちの周りなんかみんなそう。
大晦日にお寺に行って、初詣は神社だし。
No.4
- 回答日時:
「もともと神社だったところで, お寺も作った」というのは, 「神宮寺」としばしば呼ばれますね. まあ, 地理的に中なのか, 近いけど離れているのかはわかりませんが.
けっこういろんな神社が神宮寺を持ってました. 実は伊勢神宮も持ってた....
No.5
- 回答日時:
日本人が仏教を受容していく過程で、中央的な視点と民衆側の視点とを考慮する必要があるでしょう。
ただ気を付けなければいけないのは現代人的感覚の宗教観で、当時の信仰世界をとらえることが妥当であるかどうかです。
つまり日本の神祇に対する信仰を「神道」とし、それを現代人的思考で「宗教」としてくくりますが、当時の日本人にとっては、神を祭祀する行為は生活の一部ではなかったでしょうか。
であれば、中央の仏教側からすれば、神祇信仰は批判の対象にはならない。つまり神祇信仰は仏教の教理・教学そのものを否定する存在ではないから、ことさら対立する必要性もない。僧侶も日本人ですから神祇信仰で日常生活の平穏を祈り、日常が平穏だからこそ修行や学門に打ち込むことができる。
また神祇を信仰する民衆側も、日本人の信仰する神々のパンテオンのなかに新たに、「ホトケ」という信仰対象が加わったととらえたのではないでしょうか。それは『続日本紀』や『日本霊異記』などに山で修行する仏教者の活躍がみられます。日本古来のカミがまつられる神聖な場所だからこそ、仏教修行者はその地で修行を行い、また人々に新たに伝えられた仏の教えを説く。教えを受ける側はその絶大なるホトケの利益を求め信仰する。ことさら仏教・神道と明確にする必要性もない。重要なのはいかに“平穏な生活が行えるかどうか”です。
仏教伝来当初は、日本の神祇は霊験はあるが仏には及ばない存在で、仏の力を求めている存在だとされ、時代がたつにつれ奈良・平安期は仏教の守護神と、中世には仏が日本人を救済するにふさわしい姿として神祇となって現れるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」思想が起こります。神祇信仰は仏教思想の影響を受けるに従い、神道という立場を明確にしていきます。先の本地垂迹思想では、本地である仏は威光が強すぎるが、日本人を救済するために、あえて俗にまみれた姿となり垂迹した神祇こそ、日本人にふさわしい信仰だという思想にまで(それも仏教側から)発展し、そのことが現在あるような「神道」を生み出す基盤ともなりました。
ただ、いわゆる近代的な「宗教」という概念が、極めて西欧的・ユダヤ・キリスト教神学的でもあります。だからこそ、信仰の対象は「ひとつでなければいけない」的固定観念で日本の信仰をとらえて「不思議な宗教観」と見てしまいがちではないでしょうか。でもそれは本来は不思議でも何でもない行為でしょう。
>>寺の中に神社
これは鎮守社といい境内や寺内の安穏を祈るための寺院の堂宇の一つです。仏教系の守護神(毘沙門天・大黒天・鬼子母神など)がまつられる場合や、日本の神祇が祭祀されます。寺院によってはこの鎮守に対する信仰が大きくなって、本堂よりも有名なものもあります。豊川稲荷(妙厳寺)や最上稲荷(妙教寺)、秋葉権現(可睡斎)などは、鎮守社への信仰が大きくなった寺院です。金刀比羅宮も本来は松尾寺の鎮守社「金毘羅権現」でした。明治の神仏分離で寺院が廃されて神社になったものです。
>>神社の中に寺のある場所
明治までは大半の神社には、神社を維持管理する「神宮寺」や「別当寺」、神社で仏事を執り行う「法楽所」や「本地堂」などの、仏教によっての神祇祭祀場が存在しました。しかし明治の神仏分離で神社内の仏教施設の大半は分離、あるいは破棄されました。修験系統の寺院はほとんどが神社となりました。
現在も神仏習合時代の名残をとどめ、神社境内に仏教施設が残っているところは、ほんのわずかにある程度です。また仏教施設から仏像・仏具などを取り除き、そのまま神社の施設として流用しているところもあります。出羽三山神社や談山神社、金刀比羅宮や英彦山神宮など修験系に多くそれは見られます。
神宮寺と称する寺院も現存しますが、それらもかつては神社に所属していましたが、現在は神社とはまったく別の宗教施設です。
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
本地垂迹思想は、法華経の本迹二門(本体の教えと仮りの教え)説や、密教の本地身・加持身(本源の姿と、救済のための具体的姿)説などの影響を受けて、表層的には相反する姿でありながら、本源は同一であるという思想を、仏教の仏・菩薩と神道の神祇との関係を語る際に用いられた理論です。
つまり、仏・菩薩(本地)が日本人を救済するために、日本の地で現れた姿が神祇(垂迹)である。この思想の片鱗は日本ではかなり早い時期に見られましたが、具体的な理論展開が進んだのは、平安中期以降。飛躍的に発展したのは鎌倉期です。
特に鎌倉・室町期の仏教説話では、日本の神々は本地は仏・菩薩である。そして仏は日本人を救済するために(仮の姿として、申し子として)人間となりこの世に現れる。そして俗にまみれた人間となり、そこでさまざまな艱難辛苦を受けて、神仏の力で苦しみを脱し、最終的には自身も人々を救済する神となる。それが日本の神祇であるという筋書きが多いです。
俗世より解脱した仏・菩薩のままでは威光が強すぎて、俗にまみれた日本人は救済できない。だからこそ、光を和らげ俗にまみれた姿となり、そして現実世界で苦しむ人間同様に、仏も人間となって悩み苦しみ、より日本人に身近な神の姿で救済する。これを和光同塵(わこうどうじん:威光を和らげ、俗塵に等しくなる)といいます。
ではこの本地垂迹説はだれが始めたのか。正直分かりませんが、少なくとも民衆に身近な修験者(山伏)や下級宗教者などが、日本人が古来持っている神観念と、仏教との整合性をつけ、より身近に仏の教えを受け入れやすくするために説かれ、また同時に中央の寺院も、布教を行う上でそれをより具体的に理論展開していったのでしょう。
本地垂迹については決して上から下へと押しつけられた物でなく、それを受け入れる素地が日本人側にも存在していたと見るべきでしょう。
具体的には以下の神仏が本地垂迹の関係となります。()内が本地仏。ただし時代や地域によって別説があるので、一定しているわけでもありません。
天照大神(大日如来<或いは観世音菩薩>)
八幡大菩薩(阿弥陀如来<或いは釈迦如来>)
熊野三社大権現(阿弥陀・薬師・千手観音)
住吉大明神(薬師如来)
日吉三社大権現(薬師・釈迦・阿弥陀)
稲荷五社大明神(如意輪・千手・十一面観音・不動尊・毘沙門天)
天満大自在天神(十一面観音)
八坂大明神(薬師如来)
富士浅間大権現(大日如来)
愛宕大権現(地蔵菩薩)
明治までは大半の神社には、当該の祭神の本地仏を祀る「本地堂」などがありましたが、前述通り神仏分離で破棄されました。
この回答へのお礼
お礼日時:2006/11/09 13:59
「本地垂迹については決して上から下へと押しつけられた物でなく、それを受け入れる素地が日本人側にも存在していたと見るべきでしょう。」
この一句に興味を覚え、大変勉強になりました。
回答ありがとうございました。
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