http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=251675

↑のつづきです。

●この設問は哲学の初歩だと思います。
 わたしは「命とは」を考える設問だと理解しておりました。
 ひとつの命は地球より重い。
 つまり他者の命を云々する権利など誰にもない ということ。
 この設問にこうするべきだという概念を持ち込むことは命への冒涜です。
 かろうじて 自分がどうするかを 答えることができるのみです。
 良回答を得た回答は
 まず その案にみなが賛成するかどうかわかりません。
 その案で実行して もし生き残っても虚無感だけが残ります。
 ひとの心のあたたかさや 謙虚さを表にだせないまま おわりです。
 第一 命にかかわる問題をGAME的要素を持ち込んで処理しようという
 スタンスがまちがっています。平等であればなんでもいい訳ではありません。

 わたしの前回答は基本であり 他にバリエーションがあるのです。
 ■10人のなかに 愛する人が居る場合。
  栄養剤です。とだましてのませちゃいます。
 ■10人のほかに 愛する人が居る場合。
  こっそり自分が飲みます。

 どんな状況を設定しても答えは簡単に頭をよぎる 哲学の基本問題でしょう。
 皆さんの反論 ご意見 雑感 お待ちしてます。

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A 回答 (11件中1~10件)

 命をどう受け止めるかが問われる所ですね。


 前の設問から読むに、命がどのような質のものかについては問われずにきて
ますから、話を振り出しに戻してみます。

 つまりは「命」が何らかの物質のようなもので、ある寿命が来ると失われ、
やがて分解され、消えて無くなってしまうから、「命」は大切にされるべき
だし、重いものだと主張されるのか。つまりは、生物として「生きること」。
これが命であって、それは「死」と共に失われるが故に、その死へと誘う病か
ら救済される「薬」が貴重視され、設問通りであるとすれば、「生の為の唯一
の手段」=「薬」=「命」=「何よりも大事」という概念は果たして成立する
のか。

 といった所かなと思います。

 まず、観てみますに、物質の生命はあきらかに失われる。そして、物質を
物質足らしめているのが、その生命であり、生命こそが本質であって、それ故
その本質を抜きにしては、その物質は成り立たない。
 だから、地球という物質にとっても、人体という物質にとっても、ゴキブリ
という物質にとってもその本質という面では等価であって、比較する事はでき
ない。

 がしかし、人間やその他、生物たちには「命」の他に「意思」がある。外的
環境から何かを感得し、その都度、「意思」によって行動を決定する。その為
生物の活動は一様ではなく、常に自然と相対してその容器である「物質」に命じ
る事で、日々の活動を決定する。
 意思の要求する「命令」。これこそが、意思そのものであり、もし、意思に
物質と同じ性質があるとするならば、その命令こそが意思の「命」な訳です。

 先の設問は、「命」を問わない事で、パラドックスを生み出していると僕には
見えます。
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閉店間際かもしれませんが、少しお邪魔を。



パート1のご質問を読ませていただいたときに、
ふと、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出しました。
地獄の海でもがく主人公(かんだだ)が、この地獄から救われんとして、
釈迦が垂らした一筋の細い糸にすがりつく。
しかし、他の地獄囚たちも思いは同じ。糸を登り始めた主人公の下に、
われも、われもと群がりくる。
糸は主人公一人分の重みにしか耐えられない。
主人公は群がり登ろうとする他の地獄囚たちを振り落とそうと、懸命に糸を揺する。
その刹那、無情にも糸は切れ、主人公は再び地獄の海へと落ちていく。
この一部始終を見ていた釈迦。
一瞬、悲しそうな顔を見せ、蓮池のまわりを散歩する。辺りは何事もなかったのように、静かな世界に包まれる。

この物語を読んだのは十数年前、おぼろげな記憶ながらも、たしかこのような内容だったと思います。当時は、単に人間の愚かさを謳ったものだと解釈していました。

「回答へのお礼」のなかで、「気付かずに踏み殺してしまったアリに対し、すまなかったなという思いを持つ」と仰られていた点も、かんだだの場合はクモだったという違いはあれ、似たところがあるように思いました。

たとえば、かんだだなら、同じ地獄囚の中に愛する人がいたならどういう行動を取っただろうか。
いや、かんだだが必死になって糸を登ろうとしたのは、地上に愛する人がいたからなのか。
いろいろなことを考えさせられました。

ただ「私自身は」となれば、妙薬を手渡された瞬間、「これはホンマに効くのやろうか。効くのやったら、どうしたら同じものがつくれるやろうか」と、興味と好奇心がワクワク湧いてくるに違いないと思います。そしてそれを研究できる楽しみに、他のすべてのことを忘れるでしょう。
「他の人々を救うための研究だ」なんて大義名分は、そこにはありません。そんなものは一切関係がなく、ただ「同じものをつくってやろう」という欲望を満たすためだけに、懸命に研究するでしょう。

もし、同じものができれば、ちょっとだけ自慢をして、もちろんみんなに飲んでもらいます。「ちょっとだけ自慢」というのは、それができた時点で、私の興味は失せてしまって、多分、何の価値もないものになってしまうからです。今風の言い方をすれば、凝り性の飽き性ですから。

もし、やっぱり同じものができなかったら、そのままみんなと死んでいきます。だって、一回生まれたら一回死ぬのが決まりなんですからね。ただ、面白い興味が持てた充実の人生であったと思って死の床につくのか、できなかったことを後悔して死の床につくのか、それはわかりませんが。何事にも楽観な私は、多分前者であろうと思います。

雑感でした。
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この回答へのお礼

●ロマン派の回答をいただくと ホッとします。

 では わたしもロマン派で 回答し直してみましょう。

 薬をいれた雑炊を作ります。絶対みんな助かる。そう信じることが
 できるまで何回も何回も「みんな助かる」とこころで暗示をかけます。
 ほんとうにそう思えてしまうまで不眠不休で続けて。
 ふらふらになって「みんな たべて きっと直るから。」
 と言って食べさせます。
 わたしの真剣な料理「雑炊」を みなさんたべてくれるでしょう。
 全員死にますが わたしの治したいというこころは 伝わるでしょう。
 (注意:薬のことは決して言ってはならない。全部食べたがる人が出る可能性
 がありますので・・・。)
 自己暗示による 不安軽減の自滅です。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/16 21:38

>わたしは わたし自身をも愛しているけれども


 愛する対象のために 自分を引くということです。

 当たり前。それ自然だよ。おれは自然じゃないかもな。が、おれも自然かもな。
 
>趣味の違いなど関係ありません。
 あたりまえやん(笑。まじ突っ込むとこちゃうで。スルーせな。乗り突っ込みか、スルー。おぼえとき(笑。でも、山派とかあたっとーやろ?(笑。 
>わたしの行い以上に他者の命に干渉しない回答は思い当たりません。
じゃなに?倫理とかはダメなん?最後頼むわ。これだけ応えて。
・たとえば、命に干渉するとはどうゆうこと?ガツンとゆうたって。俺に。
>命はなにものにも侵されない とりでです。
君の目には、命は物質的な面しか映っていないかも感が、俺ン中でけっこうある。
物質的生の側面というかな。
侵されないとりで。干渉できないってことだろ?じゃ、心配要らんやん。
命は流れ「そのもの」。それを断つことなど、しようがない。流れている水は、断つことはできる。が、いかにして流れそのものを断てよう。それは流れているのだ。なんつって(笑。
冒涜しようがされようが、それは流れていく。 
 
・ただな、何故冒涜なのかという所がな、突っ込まれたらなんてゆうん?
侵されないとりでは、冒涜もされえない。のとちゃうの?
それとも、それは意識の問題であるから、命の物質的側面はそれに屈するとでもゆう?
>あなたは あなたを生きればいい。
おれは、おれを、生きない。冒涜かな?
俺なんてすでに無いから。これまじでな。只生きる。そうするわ。よく生きる。そうするわ。おれじゃなくて、命が流れる。生そのものが、生く。生が生きる。
俺が生きるんちゃうねん。命が生きんねん。それが俺か、ちゃうのか、俺にとってはどうでもいいこと。なんでもいいぜ?只生きる。
世界まじ。マジ世界ですよ。フツーの感覚が大事というけど、俺もフツーの人やで。おもいっきし。そう思うやろ?今時こんな十代、おらんで、ほんま。少ししか。(笑。っていうかメタルスライムやん(笑。レアモンスターやで?
君は、君を、生きればいい。なんて、君にはいうまでもねぇな(笑
今時、ちょい面白い人と話できておもろかったわ。でもな、俺らはもっとおもろいぜ?(笑。あーーーー。あ。じゃあな。又くるわ。ちょっとしんどい。生活狂ってもたから(笑。
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この回答へのお礼

>倫理とかはダメなん?最後頼むわ。これだけ応えて。

●倫理とか道徳とか人道とか人権とか 既製の概念にまどわされては
 いけません。あくまでも あなたが考えなきゃだめです。
 わたしは「ひとの道」という概念を持っています。
 「ひとの道」とは言葉であらわしては いけないものです。
 でも ああ今自分は「ひとの道」の上にたっていると はっきりわかります。
 それが「ひとの道」です。例えばこころから友達の成功を祝福したとき。
 困っているひとを助けてあげたいとおもったとき。
 お年寄りが 涙が出るほどかわいそうだとおもったとき。

 「ひとの道」をどうしても言葉にしようとすると
 たとえば「憲法」になります。
 第25条
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 2
 国は、すべての生活部面について、社会福祉、
 社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 卓越された普通の感性のひとつの例でしょう。

●命を「砦」にしなければ わたしたちも地球上のすべての命も
 その存在の「よりどころ」は無くなります。
 よりどころなんて必要ない そんな人はそれでいいでしょう。
 しかし わたしはわたしなんだ わたしをわたしのままでいさせて。
 そう願う命のよりどころは 他者の命を侵してはならないという概念でしか
 まもれないのです。その概念でしか自分の命を守る手立てはありません。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/16 02:55

たまたまあの設問で良回答マークが付いたのでここに登場しました


僕が考えたことを説明します

お察しのように、人は限りなく平等という前提にたった時に出せる解が、自分にとってはあれだったのです。
なぜ前提をそこに置いたかというと、今ここで行われているように状況設定は限りなくあり、それを網羅することは不可能で抽象化する必要があったからです。
そしてもろもろの状況はその時になって初めて出てくるので、そのために話し合いの場を設けることことを条件にしたのです。
そのことも含めて決定権をもつ者は、切札としての公平な分配法も必要だと思ったわけです。
くじ引きにしなかったのは、あのようにすることでそれぞれの人が一時的にせよ生きることに対しての希望が持てるからです。
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この回答へのお礼

●アイディアとしては とても良くわかります。
 ただmcqgogoさんのそのアイディアが出された時点で
 わたしは 偽か本物かわからない薬を飲むことを
 棄権します。また あなたは誰かに脅迫される危険や
 殺される危険がある手段を選んだのだということを
 認識するひつようがあります。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/16 02:32

ちゃうんやって。

趣味がな、あわんねん。
「セロリ」いきまーす。
「育ってきたー環境おーが ちーがうーからぁ~♪ 価値観は否めない!」
「ましてーやおとーことおんーなだーからぁー♪ すれ違いはしょうがない!」
「古風なトコあったり、セロリが好きだったりするのね?」
 
俺、さっそくセロリ、嫌いです(爆。においがな。どうも無理なんだよ。
わかる?
おれ海派。彼女山派(たぶん)。

一緒なとこ、エロいとこ。それぐらい。たぶん音楽の趣味も合わんはず。
そうだろ?君なに聞く?おれ山崎将義。あとビリージョエル。有名なのはそこらへん。サニーデイサービスとかしらんだろ?
ま、そういう趣味の違いがあって。。次。
 
こういう命に関する哲学問題でな、
その意見のきこえがな、
「私の人生は綱渡りです。他に構う余裕などありはしません」
って感じに聞こえるんだよ。それで、謙虚を、自分の小ささをアピールできているが、なんかな、フェイクを感じるんだよ。
ほんまに綱わたってンの?みたいなな。足に磁石ついてんのと違う?みたいな。
で、自分の綱渡りで手一杯なのに、人にどうこういうのはおせっかい。ジャマしてるだけ。っつうんだよ。たぶん。
人のこととやかく言う前に、みたいなな。
空を飛ぶ人がいるってことが、彼女には信じれない。
おれは、信じれる。アニメ見て育ったからな。

現実を見ろっつって。
おれがみるのは夢現。
そのちがい。別に、口が荒いのはいいんだよ。それはそれで楽しいから。
 
一致しそうで、してないのが、
存在に対する姿勢。愛。
おれは、無い事であるからな。
君は、あるものはあるんですよ。
ってかんじだろ?ここがな、ちょいと違う。
命だっておれは無いという。まじで。
愛の姿勢は一致するかもしれんが、対象がな。
彼女は対象がある。おれは無い。
だから、チョイ違う。
このパターンではな、俺の国と彼女の国では戦争は起こらないんだよ。
おれの国には守るものが無いから。
君の国にはあるだろ?
それはそれでいい。おれもおれでいいだろ?どう考えても。
自然環境をどうにか復活、自然環境に無茶しないようにしたい、させたいという意思はおなじようやけど。愛の対象のところでな、チョイ違う。
おれが思うのはそれぐらいかな。
コレは、よゆーで質問に対する助言とさせてくらはい。
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この回答へのお礼

●命はなにものにも侵されない とりでです。
 命が議論される(愛によってでも)こと自体 命への冒涜なのです。
 ただしこの議論(冒涜するな)は冒涜ではない。
 あなたは あなたを生きればいい。

 わたしは わたし自身をも愛しているけれども
 愛する対象のために 自分を引くということです。

 趣味の違いなど関係ありません。
 わたしの行い以上に他者の命に干渉しない回答は思い当たりません。
 これが わたしの望むところなのです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/15 22:26

なんかもう良いみたいですけど私が気になるので書かせてもらいます。


 
権利って何気なく使っていたんですけど、辞書で調べて初めてなんとなく分かりました。(ある利益を主張し、これを享受することのできる資格)

>もともとその薬に 他の人たちは権利がないのです。
 上のに当てはめると利益は間接的には生きることですよね。薬を享受することのできる資格?それで今度は資格を調べると「一定のことを行うために必要とされる条件や能力」これで「薬があることを知っている」という条件を満たさないので権利がないと言うことですね。他にも満たさなければならない条件がありますか?


うーんこんな簡単そうな文章なのに奥が深いですね。(ただ自分が無知なだけですが)

おもしろくなってきたんで気になるところ全部やってみようと思います。

>愛する人に薬を飲ませて 他の人に知らせないことは 他の人達の命に干渉していることには なりません。
 まず干渉ですよね。「他人のことに立ち入って、口出しをしたり自分の考えを押しつけようとすること。 」
 他人のことに立ち入るとは生死の問題ですよね。でも、自分の考えを押しつけようとするというのは
 知らせないということを押しつけてませんか?
知らせないと言うのは権利を発生させるかさせないかをあなたの考えで決めているのではないですか?と言うことで干渉してることになりませんか?
でも、恋人に薬を飲ますことも干渉していることになるんですよね?(上記したことが正しいとするのならば)


心中するという事を話すことに対してまさにその通りだと思います。一緒に死ぬことを強制させるようなもんですもんね。ということはよっぽど心が一つの(あり得ると思えませんが)人間とでなければ心中できませんね。進んでやることないですけど。

自分なりによく考えたつもりですけどなにか矛盾点があったら教えてください。
(質問者に質問するのはおかしいですけど話し合いたいようなので)

余計なことだというのは分かりますがchihokoさんとhiroyaさん「ハネた女子高生」や「ご都合哲学者」とか書かないでください。
意味がないと思います。
わたしもふつうに書いたつもりですから皮肉は含まれていませんからね。
(今までの文章の中にそれを感じるのならそれは私の文章力(国語力?)のなさです)
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この回答へのお礼

●愛するひとに薬を飲ませるということは 干渉していることです。
 しかし 愛するひとの命に干渉してはいません。わたしが言っていることは
 後者をしてはいけませんよ。といっているのです。
 愛するひとは死にたいといっているわけではありません。
 普通は生きたいものでしょう。それを生かしてあげてるんだから命への干渉では
 ありません。(大切なのは普通の感覚です。)理屈ではありません。

>知らせないと言うのは権利を発生させるかさせないかをあなたの考えで
 決めているのではないですか?と言うことで干渉してることになりませんか?
 ●権利もない知らない者に 知らせないことは あなたの言うような意味では
 かかわりにあたるでしょう もしくは 単なる関係です。
 しかし ここでわたしが述べているのは命への干渉です。
 薬の権利の無い 死ぬ運命の者に 薬の存在を隠して死に至らせることは
 罪の意識があっても 命への干渉ではありません。
 罪の意識は 愛で打ち消されます。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/15 22:14

なに?怒ってんや?


頭オープンリーチか?(笑。
うそうそ。ま、おこるな。君が怒るようなことゆってないだろ?おれ。
>自己犠牲を「良し」とするひとたちに・・・
俺は犠牲じゃないんだよ。なぜなら、俺の捧げるものは、自分じゃない。全てだ。だから、犠牲じゃないし、失われるものもない。良くもないし、悪くもないよ。
そうなだけだ。どうしたん?
>死ぬために用意されたポジションです。
そうそう。俺は死に続ける。みんなのうしろにな。俺は死ににきたんだよ。死ぬ事で生きる。死に対して嫌悪感を抱いているように見えるが?
>自己犠牲は美しく ありませんよ。
君は美しければええんか?
おれはいやだ。君の言うとおり、俺は真っ先に死のう。俺はな、人の後につくんだよ。なぜなら、今生きている人は、生きながらに死んでるから。俺がなんでしんがりになってるか。それが、俺にできることだからだよ。おれはたぶん、最後の人間だよ。皆もな。俺にできることだ。
あなたがた 真に心配すべき事など 何も無い。
なぜなら、しんがりがいるからです。ほんとだぜ?
>お礼など言われたくも ありません。
なにこれ?君の質問やろ?(笑。いいたくないってこと?
まぁ、ええわ。よーわからんが。なんでもええわ(笑。
あとおれは、なんでもねぇぜ?哲学者でもない。
>己の命の残虐性を
 反省していただきたいものです。
まぁな、男は一回オナニーして、3億の命を水のない所に放たなきゃならんからな。ただな、残虐性というけれど、喰われることに、充足があり、小さき者が、しらずに踏み潰される事で、なにが妨げられ、何が失われるというのですか?
なんにも失われねぇよ。命は、流れてるだけだから。
俺は君と心中できるぜ?(笑。
元気だしな。
 
命は捧げられたものであり、それを自分の命というには私にはできない。

命は捧げられたものであり、また、捧げるものです。
あなたがた。私。流れの粒子たち。粒子を持ち続けていて、流れますか?
ながれます。なぜなら、持っている私達もまた、流れの粒子だからです。
だから、もう、もつのはやめなとはいわない。命もだ。持っててもいい。
ただ、それは流れている。流れを持っているという事を知っておいて。
流れを持っているのです。流れの粒子とはそういうものです。
あとな、勇気はもっていて始めて役に立つ。
だから、勇気はもっときな(笑。
>わたしを たべたときは お礼を言うのではなく 己の命の残虐性を
 反省していただきたいものです。あなたのような ご都合哲学者に
 お礼など言われたくも ありません。
 
いみわかった。そういうことなん?俺に喰うてほしい?(笑。うそうそ。
あのな、詫びいれて、反省しましたっつって、それでなに、ゆるしてもらうん?そらむりや。もらった命は命で返せ。
それに、毎日食事の時に泣くん?それはまじりっぱな食事だな。いいもんだ。
 
かえるが蟷螂食べる時に、「ほんまごめん!」とか「ああ、俺って残虐ぅ。(泣」
なんて、言い訳して喰うか?くわねぇよ。「ありがとう」って喰うか?喰うわけねェ(爆
彼らは、無言で、命を得、命を返す。
それは犠牲じゃない。命は、得たり、失ったり、するものじゃないんだよ。ほんとは。捧げたり、捧げられたり、するものじゃないんだよ。ほんとは。流れてるだけだ。
人間だけだぜ?命をもらって、俺のだって意固地に「言い」はるの。
そんなに自分の生がおしいのかよ。くだらんわ。そのくせ、「うっかり落としちゃった」とか言うんだぜ?(爆。死人も口ぐらい聞くかもな。生前の勢いで(笑。
生きることは、しがみつく事じゃない。
あるがままであるという事だ。あんたがいってるんじゃねぇか。
命を軽んじてるんじゃないよ。おれは。あんたの言いたい事は、わかってるつもり。それをふまえて、俺の言いたいこといってるだけだから。
ねぇさん?(笑、自分のために生きろと言われて、生きれない人もいるんだよ。
それくらいわかってくれ。それが本質的でないと、誰に言える?
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この回答へのお礼

●アリを知らぬまに踏み潰した時。なにもできません。
 踏み潰した時 「わるかったなあ。」と思えるのが 人の道です。
 牛を食べる時 そのつど残虐性を反省しないでしょう。
 オイシー!でおしまいですよ。いただきます。(おいしそう)
 ごちそうさま(おいしかった)です。
 でも ときどきかんがえる うしさんを殺してたべているんだなあ・・・と。
 うしさんの分もいきてるんだなあって。
 どういうふうに 考えていきるのが一番 いけてる流れか
 それが わたしの基準です。

 心中はもちろん 命にかかわる事柄を他人にどうこう言うのは 悪です。
 そのひとの命はそのひとの命として 尊重されるべきです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/15 21:59

えらいおきらくやな。


>>君と心中した方が幸せかもしれない。
 >他者の命をトヤカク考察する権利は親とてありません。
あんな、心中した方が幸せかもというのと、他人の命の考察の権利と、どう関係すんねん。深く愛し合ってたら、極限状態(精神的にであろうが肉体的にであろうが)で心中したいと思うのは当然。共感はできるやろ?そんな思いしたことあんのか?
親子にしてもな、親は子どもの幸せを考えて、子ども育てるやろ?それは他人の命の考察か?
親の自己満足ちゃうの?親の子を思う気持ちは本物だろうが、そのこの幸せのためにできることなんて無い。でも、親は子の幸せを思っていろいろするだろ?それは自己満足だよ。ただのな。他人の命の考察とかの問題じゃない。親にできるのは愛する事だけ。人間にできる事はもしかすると、愛することだけかもしれないな。
>こどもはなぜ自分が助かったのかすら知らずに生きるでしょう。
そんなんわからん。

生かすことも、死なすことも、生きることも、しぬことも、命だ。
生きてることだけが命じゃねぇよ。


命はな、他の命と関わって生きるんだよ。一つ命を取り出して、どうやってそれが輝けるねん。一つの命は一つの命でできてるんじゃない。なのに、いかに「他人の命、自分の命」と、とやかくかたれんだよ。
それはな、絡まった一本の釣り糸の様であり、様々模様の織物でもある。一本の糸が、考える事を得た。だからといって、他の糸のあり方を考察するのが冒涜とはならん。他人の命の考察は命に対する冒涜って、そんな簡単に、人間の考える涙がぬぐえるとは思えんな。こういう問いを考えずにはいれないという事は、結構苦しい。
>牛を殺して食べても罪の意識が残ります。でも 自分の身体への愛により
 その罪の意識を乗り越えているのが わたしたちの現実です。
 
それはただのエゴイストやろ?自己愛のためには何でもってな。自分の注ぐ愛の対象のためにはなんでもってな。なんやねん。命の冒涜?ようゆうわ。
牛を食うときはな、その牛への愛でそれを乗り越えるんだよ。すべて命への愛で乗り越えるんだよ。ごめんなさいごめんなさいって謝罪して喰うんじゃねぇ。
ありがとうありがとうって、「感謝して喰え」
俺が食われるときは、感謝して食われよう。それは自殺じゃない。他殺じゃない。
命が流れた。それだけだ。
生きることは辛い事だ。生きることは素晴らしい事だ。
何時までもがめつく生きようとしてんじゃねぇ。
命は誰のもんでもないんやで。
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この回答へのお礼

●あなたの ような 自己犠牲を「良し」とするひとたちに
 いまの ひとたちは支えられているのでしょう。
 そういう考え方もあるとするくらいが ほどほどというものです。
 あなたのようなひとが なにかあると 真っ先に死ぬ方です。
 警官隊の突入 軍隊の白兵戦での「しんがり」 戦術として
 死ぬために用意されたポジションです。自衛隊幹部の方とお話したとき
 そのように伺いました。

 自己犠牲は美しく ありませんよ。
 それぞれが エゴを認識して はじめて「恐れ」を知り。
 他人・他者・自然の 領分を侵してはいけないことに気が付くのです。

 わたしを たべたときは お礼を言うのではなく 己の命の残虐性を
 反省していただきたいものです。あなたのような ご都合哲学者に
 お礼など言われたくも ありません。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/15 17:21

なんかchihokoさんは話し合うということに重きを置いていない気がするんですが


話し合いをすることが無駄だからですか?

相手を生かせる場合をのぞいて心中しようと思ったときそれを相手に話してやれば良いんじゃないですか?
それで相手がそうしようというなら薬を他の人に託せばいいし、
また、相手が嫌というのなら哀しいけれども相手にのませてあげればいいじゃないですか。(相手の幸せを願うということでは一貫しているから)
あと残される人にしっかりと生き残ることの意味を教えてあげた方がいいんじゃないですか?(子供にしろ恋人にしろ)
それは責任を押しつけるようで勝手なことかもしれませんがただ生き残るよりはましだと思います。

他人の命を云々するときの権利はないと言っているのに
10人の中に愛する人がいたならば優先順位をつけているじゃないですか。
(当たり前だとは思うのですが矛盾していることは矛盾していると思います。)
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この回答へのお礼

●まず薬があることは 自分だけが知っているこれが大前提です。
 ちゃんとこの前提を押さえて考えてみてください。

 どんなに愛しあっていようとも 相手の死に結びつく選択は間違いです。
 そして心中しましょうと 持ち掛けることは 相手の命にかかわることですから
 持ち掛ける権利は ありません。
 あなたは あなたのお好きなようにすればいいです。
 ただ あなたのやろうとしていることは 愛する相手の生きれる可能性を
 みすみす奪う行為として わたしには映るのです。

>他人の命を云々するときの権利はないと言っているのに
 10人の中に愛する人がいたならば優先順位をつけているじゃないですか。
 ●愛する人に薬を飲ませて 他の人に知らせないことは
  他の人達の命に干渉していることには なりません。
  もともとその薬に 他の人たちは権利がないのです。
  こういう薬があるけど どうする?この時点で権利が発生します。
  それを ああだ こうだと 決める権利はないですよ と言っているのです。
  殺しあって その薬を我が物にしようが だれも責められません。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/15 17:09

愛の哲学なんか?


ただ、
>栄養剤です。とだましてのませちゃいます。
の場合、愛する残された人は、さぶいんじゃないの?
両想いの場合。君は死ぬだろ?10人の内そのひとだけ一人生き残るわけだ。
そのひとが虚無ってしまうやん。かなり。
君は愛する人を生かす事で、満足するか知らんが納得して死ぬだろ?
生き残った愛された人はどうすんだよ。
又、他に愛する人を探すのか?幸せになるとは限らない。
君と心中した方が幸せかもしれない。おれは男だからな、女のほうを生かす。子どもできるだろ?オンナだったら自分が生きなきゃなんねェンじゃないの?君の言う命の観点からするとな。恋人同士の場合、女を生かす。
愛する人が恋人でない場合、又いろいろなるな。自分の子どもだったら子どもに飲ますだろ?君の場合。俺なら子どもにたぶん飲ますと思うが。
>■10人のなかに 愛する人が居る場合。
  栄養剤です。とだましてのませちゃいます。
 ■10人のほかに 愛する人が居る場合。
  こっそり自分が飲みます。
 
これ、どこが哲学なん?これだけやったら、ハネた女子高生の回答やん。ほんま。
愛の哲学をもうちょい補足してよ。
哲学的判断なのか、感情的な判断なのか、どっちかってゆうと感情的な判断だろ?コレは。頼むから補足して。ぜんぜん納得できんわ(笑。共感するけどな。
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この回答へのお礼

>■10人のなかに 愛する人が居る場合。
  栄養剤です。とだましてのませちゃいます。
●愛する人が自分の子供だと考えると多くの親はわたしと同じ行動をすると
 思います。こどもはなぜ自分が助かったのかすら知らずに生きるでしょう。
 >君と心中した方が幸せかもしれない。
 他者の命をトヤカク考察する権利は親とてありません。

>■10人のほかに 愛する人が居る場合。
  こっそり自分が飲みます。
●生き残っても虚無感は まったくありません。
 罪の意識はあるでしょうが 愛により乗り越えられます。
 牛を殺して食べても罪の意識が残ります。でも 自分の身体への愛により
 その罪の意識を乗り越えているのが わたしたちの現実です。

 哲学に基づく わつぃの無意識の選択です。
 ■ノーマルな場合
 ●自分だけたすかった時の 虚無感を知ってますので
 他の九人に薬を 託します。
 九人も わたしと同じ考えで くじ引きになってしまって
 もし わたしが飲むことになったのなら
 ありがたくいただきます。

お礼日時:2002/04/15 08:10

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Q蜘蛛の糸

芥川龍之介の蜘蛛の糸は、どうして糸が切れたんですか?

Aベストアンサー

自分だけが助かろうとした罪の重さで切れたのです。自己愛、自己中心が仏の道に逸れたからです。作品の最後に龍之介自身の言葉で書かれています。再読してください。

Q哲学は人の命を救えるか?

世界中で悲鳴が上がっています

実際に殺される人や事故で死ぬ人、自殺する人もいます。

宗教もありますが 今の世の中宗教だけでは救われない気がしませんか?

哲学は社会の役に立てるか 人の命を救えるか?

ここに来る人なら一度はその様な事を考えた事があるのではないでしょうか

哲学は人間の命を救う力があるのでしょうか?それとも無用の長物に終わってしまうのでしょうか?

もしよかったら あなたのご意見をお聞かせ下さい。少しでも可能性があれば・・・

Aベストアンサー

わたくしこと、いつも早合点したり、単純化しすぎたりする癖がありますので、話し半分で聞いていただいて結構なのですが、以前どこかで書かせてもらったとおり、学問としての科学が価値観を持たず、したがって人間のしあわせなどとは無関係に暴走する状況が見られるのとは正反対に、近代哲学においては価値観の転換が決定的に人間の側へもたらされたとおり、人間の人間による人間のための価値観の探求という大きな目的となりました。つまり哲学とは「善の研究」そのものであり。善い、良い、好い、佳い というあわおどり的酔いの感覚がしわわせ生命(よくいきること)にごく近いものである以上、哲学は人の命を救う力は充分にあるといえます。簡単ですが一言申し上げました。

Q蜘蛛の糸を信じますか

芥川龍之介「蜘蛛の糸」の話を信じますか

Aベストアンサー

これ↓ですね!(^^)
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html



>「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」

 
 これは、現実世界でも、実に多い。(><)

信じるも何も、「事実」です。(私の小さな経験上)

 
 やさしさ・思いやり、感謝、といったものが、消えると、自らを〝そういう世界”へと導きます。


 「自分に負ける」とは、こういうことなのでしょうか・・・・・?



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「利己主義」と「個人主義」の違いは、難しい・・・。

 利己主義:自分本位で、他人を見下す。
 個人主義:個を尊重し、相手も「尊重」する。

----------------------------------------------(余談)-----

Qもし宇宙人が居たとしたなら彼らの宗教観・哲学観は

宇宙人が居たとしたなら彼らの宗教観・哲学観はどの様な物だと思われますか?(暇つぶしにお聞きしてますからお気軽にお答えください)

Aベストアンサー

地球人と殆んど変わらないか或は宗教・哲学という概念全くないか・・・。。でしょうか。

Qゴダイゴ「モンキー・マジック」の蜘蛛の糸について

ゴダイゴの「モンキー・マジック」の途中で、ヴォーカルのタケカワユキヒデさんが蜘蛛の糸と出すパフォーマンスがありますよね(「With a little bit of monkey magic~」のあたりから)。

あの蜘蛛の糸は、元々は歌舞伎で使用するものであると聞いたのですが、それは一般のお店に売ってますか?また売っているとしたら、どのようなお店に売ってますか?

回答御願いします。

Aベストアンサー

検索するとパーティーグッズとして「蜘蛛の糸」とう名前で売られてますね。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&lr=&q=%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%83%E3%82%BA+%E3%82%AF%E3%83%A2%E3%81%AE%E7%B3%B8&start=10&sa=N

> 一般のお店に

パーティーグッズや大きめの文房具店、ウケ狙い商品を扱うお店なら
ありそうですね。

東急ハンズにあったとの声が。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q129025187

Q命は命で償えるのか?

京都府福知山市と言えば、明智光秀の居城があったところで有名ですが、2005年のJR脱線事故、去年の花火事故といい 災難に見舞われ、むしろ こっち方が連想されるようになった ちょっと可愛そうな町です。もっとも、明智光秀も 豊臣秀吉を裏切ったというので ネガティブな印象を持つ人も多いかもしれませんが。
さて、前置きはそのくらいにして、福知山の花火事故でも 事故を起こした店主に 禁固5年の実刑判決が下されましたね。
遺族としては 自分の子供を失ったのに 店主が助かって しかも禁固5年で済みましたが、遺族も理性で考えれば それで我慢せざるを得ないと思いつつも 感情的には到底許されない気持ちでいっぱいだと思います。さぞかし、店主が憎らしく感じるでしょう。
しかし、もし、店主も事故で死亡した場合は 遺族が納得できたでしょうかね。私は 憎しみの矛先を向ける相手もいずに 虚しさを感じ、むしろ、「あの時、わざわざ人が仰山いるところに 子供を花火に連れて行かなければ 子供も死ぬことはなかった。子供が死んだのは自分のせいだ」と自分を余計に責めて却って苦しんでいたのではないかと思います。
ケースは違いますが、東日本大震災の際 大川小学校で多数の児童が犠牲になった事件でも 裏山への避難を阻止した教頭先生も死亡してしまっただけに、やるせなさを感じ、遺族たちは 市や県に訴訟を起こしたのかもしれません。

そこで質問です。死刑は凶悪人を社会から排除するために必要だと認めるとし、ここでは 死刑の存廃の是非については問わないことにましょう。 しかし、殺人事件で犯人が死刑になったところで、遺族はどれくらい 気が晴れるもんでしょうか?

京都府福知山市と言えば、明智光秀の居城があったところで有名ですが、2005年のJR脱線事故、去年の花火事故といい 災難に見舞われ、むしろ こっち方が連想されるようになった ちょっと可愛そうな町です。もっとも、明智光秀も 豊臣秀吉を裏切ったというので ネガティブな印象を持つ人も多いかもしれませんが。
さて、前置きはそのくらいにして、福知山の花火事故でも 事故を起こした店主に 禁固5年の実刑判決が下されましたね。
遺族としては 自分の子供を失ったのに 店主が助かって しかも禁固5年で済みましたが...続きを読む

Aベストアンサー

”気が晴れる”の逆で遺族が悩む例もあるようです。
遺族として死刑を望み、実際に死刑になったことで自分の意見が命を奪うことになったのではないか、と悩み苦しむ例もあるらしいです。

Q「蜘蛛の糸」

芥川龍之介は、ポール・ケーラスの『カルマ(因果の小車)』所収の「蜘蛛の糸」(1894年)を独特の世界に仕立て直しました。
芥川龍之介はなぜ、結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせたのだと思いますか?
、、、というところから一歩進めて、哲学カテゴリで聞いてみますので、作家・表現・宗教などにからめてご自由にお考えを頂戴できればと思います。

青空文庫から「蜘蛛の糸」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html

ポール・ケーラスの作品から芥川が削除した教訓
『・・・カンダタの心には個我のイリュージョンがまだあった。彼は向上し正義の尊い道に入ろうとするまじめな願いの奇蹟的な力を知らなかった。それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々をはこぶことができる。そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。しかしいったん人間の心に「これは私のものだ。正しさの幸福をひとりじめにして、誰にだってわけてやるまい」という考えがおこるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態におちてしまう。利己主義selfhoodとは呪いdamnationであり、真理truthは祝福である。地獄とは何だろう。それはエゴチズム(利己心)に外ならず、ニルバーナ(涅槃)は公正な生活a life of righteousnessのことなのだ。・・・』

芥川龍之介は、ポール・ケーラスの『カルマ(因果の小車)』所収の「蜘蛛の糸」(1894年)を独特の世界に仕立て直しました。
芥川龍之介はなぜ、結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせたのだと思いますか?
、、、というところから一歩進めて、哲学カテゴリで聞いてみますので、作家・表現・宗教などにからめてご自由にお考えを頂戴できればと思います。

青空文庫から「蜘蛛の糸」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html

ポール・ケーラスの作品から芥川が削除した教訓
『・・・...続きを読む

Aベストアンサー

先日、山田晶先生の『アウグスティヌス講話』(新地書房)を再読する機会があり、以前は気にもとめなかった箇所がひどく気になりました。それが芥川の『蜘蛛の糸』で、以来、とつおいつ考えていました。ご質問を拝見して、質問者さんが求めておられる回答となるかどうか不明ですが、奇縁ということで。

『アウグスティヌス講話』を質問者さんはお読みになっておられるかもしれませんが、一応ここで話の筋道をご紹介しておきます。

山田先生が言及しておられるのは「煉獄と地獄」という章です。
聖書にははっきりと述べられていない「煉獄」という場所が果たしてあるのか。あるとすればどのようなところなのか。それは地獄とはどうちがうのか。地獄へ堕ちるというのは、いったいどのような罪がそれにあたるのか。そこからキリスト教における罪と罰、というふうに話は展開していくのですが、ここでは簡単に、煉獄に行った魂は、非常に苦しんでいるけれども、それは絶望的な苦しみではなく、浄化の苦しみである、あるいはまた煉獄に行った魂に対して、われわれは祈ることができる、それに対して地獄とは、全くの絶望であり、地獄に堕ちた魂にたいしては、われわれの祈りも届かない、と、非常に荒っぽくではありますが、まとめておきます。

やがて仏教に話は進んでいきます。
仏教においては、キリスト教におけるように、煉獄と地獄の区別がない。それでも、地獄についての記述のうちに、煉獄の思想と地獄の思想が混在している、と指摘されます。

「 仏は摂取不捨といわれますが、それには、「もし仏を念ずるならば」という条件がつきます。仏を念ずるならば、いかなる極重悪人も仏の功徳によって救われないことはありません。その条件なしに、何もかも救うというのであれば、念仏しなくても救われることになり、念仏の意味もなくなります。のみならず、救いも意味がなくなり、地獄も極楽も無意味となります。これらのことがらが切実な意味を持つためには、地獄は実在しなければなりません。また、その実在する地獄を「見た」人にしてはじめて、真実の念仏をとなえることができるのであると思います。そして地獄が実在するということは、仏さまにもどうすることのできない魂が実在するということです。これは恐ろしいことですが、真実です。この真実をみつめないと、センチメンタルな仏教観になります。」(p.80)

その上で、芥川はこの真実をみつめた文学者であった、として、『蜘蛛の糸』が出てくるのです。もう少し引用を続けます。

「この話(※『蜘蛛の糸』)は、仏の慈悲はいかなるものであり、地獄とはいかなる場所であり、そこに墜ちるのはいかなる種類の人間であるかを、端的に表現しています。

 この男は、仏さまによって地獄へおとされたのではなくて、自分で墜ちていったのです。…煉獄と区別された地獄の世界を、仏教の中に明確に読み取ることのできた芥川は、素晴らしい作家であったと思います。」(p.81)

芥川が「地獄の世界」を描くことに主眼を置いたとすれば、カンダタがどうしていれば救われたか、カンダタがどこで誤ったかについて述べられた、教訓にあたる箇所を削除した理由も非常に納得ができるかと思います。

わたし自身は、芥川というと、ご質問の『蜘蛛の糸』や『芋粥』あるいは『トロッコ』や『白』、『魔術』や『アグニの神』などを通じて、かなり幼い時期にめぐり合った文学者のひとりでした。当時親密な関係を結んだ作家たちの多くは、成長する過程で別れていきましたが、芥川とは「つかず離れず」といった体で、折に触れては繰りかえし読んできました(なにしろ短いですからね。『夜明け前』だとそんな具合にはいきません)。

かといってすきだとか心酔しているとかいうのともちがう。かなり長い間、芸術家生活について饒舌に語る「芸術家作家」という印象を持っていたのです。ざっと思いつくだけでも、『地獄変』や『戯作三昧』『不思議な島』『枯野抄』『河童』などが即座に浮かんできます。しかも、「ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作に出来る事ではない。」(『雑筆』)という一節などにも典型的に見られるように、「世間」と「芸術家」を対比させ、、自分はまぎれもなく芸術家の側にあると自覚して(あるいは選び取って)いた。芸術家の一員であることを自覚しつつ、芸術家であることが関心の中心を占めるという、一種の自家撞着を起こしている作家である、というふうに。

それが、あるとき見方が変わった。中村光夫が芥川を論じたごく短い文章があるのですが、そのなかに正宗白鳥と芥川のやりとりが紹介されているのです(以下は『中村光夫全集 第五巻』筑摩書房 p.18-21によるものです)。

まず白鳥は、作家生活をスタートさせたその年(大正五年)に芥川が書いた『孤独地獄』と、大正十年に書いた『往生絵巻』を結んで、「芸術としての巧拙は問題外として、私には作者の心境が面白かつた。孤独地獄にくるしめられてゐる人間が、全身の血を湧き立たせて阿弥陀仏を追掛けてゐると思ふと、そこに私の最も親しみを覚える人間が現出するのであつた」と書く。

さらに、「五位の入道の屍骸の口に白蓮華が咲いてゐたといふのは、小説の結末を面白くするための思付きであつて、本当の人生では、阿弥陀仏を追掛けた信仰の人五位の入道の屍骸は、悪臭紛々として鴉の餌食になつてゐたのではあるまいか。古伝説の記者はかく信じてかく書きしるしてゐるのかも知らないが、現代の芸術家芥川氏の衷心からかく信じてかく書いたであらうかと私は疑つてゐた。芸術の上だけの面白づくの遊びではあるまいかと私は思つてゐた。」と「白い蓮華」を本気で信じているのか、信じていないのならなぜ書くのかと問いつめるのです。

芥川はそれに対して手紙を書いて「白蓮華を期待し得られるらしく云つてゐた」という。けれどもその手紙に白鳥はたいそう不満だったらしく、そこからこう断定します
「氏は、あの頃(※この文章を書いた時点は芥川の死後)「孤独地獄」の苦をさほど痛切に感じてゐた人でなかつたと同様に、専心阿弥陀仏を追掛けてゐる人でもなかつたらしい。芥川氏は生れながらに聡明な学者肌の人であつたに違ひない。禅超や五位の入道の心境に対して理解もあり、同情をも寄せてゐるのに関はらず、彼等ほどに一向(ひたむ)きに徹する力は欠いてゐた。」

この白鳥の指摘に対して、中村光夫は

「芥川が、ただ「聡明な学者肌」といふだけの人であつたら、彼はあのやうな死を選ばず、晩年の作品も生まれなかつたでせう。彼自身の言葉をかりれば、「見すぼらしい町々の上に反語や微笑を落しながら」気のきいたまとまりのよい小説をかいて、天寿をまつたうすることができたでせう。

 しかし彼の裡には、正宗氏がその文学的出発にあたつて見抜いたやうに、ひとりの「孤独者」がすんでゐたのです。それは芥川自身が、その人生とむかひあふとき、彼の生活を破り、芸術を破壊するはずであり、その時期は思つたより早くきたのです。」

としています。遺稿となった作品群は「彼自身が禅超になり五位の入道にならねばならないとき」が来た芥川が、必死のあがきを見せたものである、と。

さて、まとめに入りましょう(笑)。

山田先生の「実在する地獄を「見た」人にしてはじめて、真実の念仏をとなえることができるのであると思います。」というご指摘に即していうなら、芥川はまさにその「地獄」を「見た」人であったのだろうと思います。そうして、それは「孤独地獄」というものとしてあった。

『孤独地獄』と『往生絵巻』を結んで、その脈絡のなかに『蜘蛛の糸』を置いてみると、おもしろいことに気がつきます。カンダタは、五位の入道のそっくり裏返しなのではないか。だとすると、カンダタがどうしようもなく地獄に墜ちていくように、五位の入道の口には「まつ白な蓮華が開いてゐ」なければならなかったのではないか、と思うのです。

もし芥川がカンダタのなかに、救われない自分、自ら孤独地獄のなかに墜ちていく自分を見たのだとしたら、どうすれば助かったか、という教訓など、蛇足以外の何ものでもなかったはずです。「真実の念仏」を唱える以外にそこから逃れるすべはない。そうして、そこから逃れようとしても、五位の入道ほど専心の思いをこめて唱えることもできない自分に気づいていたのではないか。

以上、長くなりましたが、何らかの参考になれば幸いです。

先日、山田晶先生の『アウグスティヌス講話』(新地書房)を再読する機会があり、以前は気にもとめなかった箇所がひどく気になりました。それが芥川の『蜘蛛の糸』で、以来、とつおいつ考えていました。ご質問を拝見して、質問者さんが求めておられる回答となるかどうか不明ですが、奇縁ということで。

『アウグスティヌス講話』を質問者さんはお読みになっておられるかもしれませんが、一応ここで話の筋道をご紹介しておきます。

山田先生が言及しておられるのは「煉獄と地獄」という章です。
聖書にはは...続きを読む

Q命は命で贖うべき

人を殺すということを償うには、自分の命を捨てるしかない。そう思います。
殺人を犯した人間が得をする今の世の中は間違っているというよりは、狂っていると思います。
もしも自分の家族が殺されて、殺した本人が釈放されたのちに結婚したり、子供ができたりとかで幸せになっていたら、僕だったら我慢できません。
結局は死刑廃止派の人たちは被害者の心の傷を無視して、命を尊ぶ自分カッケーなやつらです。
そして、いざ自分の方にそんな不幸が訪れるとすぐ手のひらを返して死刑賛同派になる。
全くもって気持ち悪いですね。
死刑廃止派は殺人者と同等に無価値だと僕は思っています。

そこで質問です。私は高卒で馬鹿ですが、有識者の皆様は 命を命で贖うことについて 哲学的見地から いかが考えですか?

Aベストアンサー

死刑廃止は、冤罪回避ですよね。
冤罪により失った時間は取り戻せないですが、命まで失ってしまったら
無実の人が死ぬように追い込んだことになります。

つまり新たな殺人が行われてしまうと言うことです。

冤罪だと分かった時、冤罪をきせられた人の為に
次は誰が死刑になるのでしょう。

裁判長? 裁判員に選ばれた一般の人? 死刑執行に判を押した大臣?
死刑支持者の誰か? それともスイッチを押した被害者の家族?

もし、あなたの家族が逮捕され冤罪で死刑になったとします。
そうなった時、気持ちのやり場はどこでしょうか?

そういう事が誰にでも起き得るので、廃止は常に話しに上がります。


憲法は、恨みを晴らす「仕返し」として
定められているのではありません。

仕返しであれば、日本も中東のように仕返し合戦
つまり内乱が頻発し、常に暴力により罪のない人が殺されるのです。
仕返しの発想でしたら、必ずそうなって行きます。

仕返しを多くの人が取り入れて行けば、争いは絶えません。
そういう世界に住みたいのか? が問われてしまいます。

仕返しは、暴力が次の暴力を生み出します。
それを真摯に考えて生きなければ
日本も暴力が日常的に行われた時代に逆行してしまいますよね。

死刑廃止は、冤罪回避ですよね。
冤罪により失った時間は取り戻せないですが、命まで失ってしまったら
無実の人が死ぬように追い込んだことになります。

つまり新たな殺人が行われてしまうと言うことです。

冤罪だと分かった時、冤罪をきせられた人の為に
次は誰が死刑になるのでしょう。

裁判長? 裁判員に選ばれた一般の人? 死刑執行に判を押した大臣?
死刑支持者の誰か? それともスイッチを押した被害者の家族?

もし、あなたの家族が逮捕され冤罪で死刑になったとします。
そうなった時、気持ちのやり...続きを読む

Qネットに『蜘蛛の糸』の英文テキストありますか?

外国の日本語学習者に参考資料として芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の朗読のページと青空文庫のテキストを紹介していますが、『蜘蛛の糸』の英文テキストがあれば更に効果的かとおもい信頼性の高い訳のテキストを探しています。ご存じでしたらお教えください。
支払いなどむつかしいので、できれば無償の方がいいのですが……なにとぞ宜しくお願い申しあげます。

他の言語のものも、あれば。

Aベストアンサー

No.1 です。

アドレスが正確でありませんでしたので訂正いたします。

http://www.edogawa-u.ac.jp/~tmkelly/research_spider.html

Q命を命で償うことの不条理性

他人の命を奪ったら 自分の命で償うのは 当然と考えるのは 私だけでなく、日本人の多くがそうだと思います。
しかし、死刑反対の人は 命を命で償うこという 私たちが至極当然だと見做していることを どのように解釈しているでしょうか? どのような不条理があるとお考えでしょうか?
私と同レベルの愚かな同調意見は不要です。聡明な反論をお待ちしております。

Aベストアンサー

他人の命を奪ったら 自分の命で償、、つまり目には目を、、、の考え方は、まったく時代錯誤だと思います。

泥棒されたら、泥棒仕返してよいのいか。
障害で手を失ったら、加害者の手を切ってもよいのか、、。
これらは、残虐な行為であって、被害者の失ったものはそのままです。
これでは恨みに恨みがつのる「し返し」であって、建設的ではありません。

泥棒されたら、失った額の変換を求めるべきでしょう。
手を失ったら、例えばそれまでの仕事ができなくなり、そのことによって失う障害所得の弁償を求めるべきでしょう。

失ったものを、なるべくもとに戻す行為、これが「償い」です。
償いと、仕返しは、厳しく区別されなければなりません。

結局No3さんの回答のとおり、死刑は犯人から償う機会をうばう、残虐行為に過ぎません。


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