痔になりやすい生活習慣とは?

 関ヶ原の合戦では、始め数で有利だったのに、いつの間にか小早川秀秋とかに裏切られて、徳川家康に負けてしまいましたね。

 なぜでしょうか??ドラマとかだと、忠義に生きた武将で、性格も頭も良さそうですが・・。

 石田三成の欠点って何ですか??

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A 回答 (11件中1~10件)

色々と言われていると思いますが、ボクはたった一つの理由と思います。



嫉妬

です。

単に、他の子飼いの武将から嫌われた理由は、

太閤になってから秀吉に常に傍に置かれ重用されたからです。
※福島、加藤などの7本槍達からは重用されたように見えた。
 彼らは地方に飛ばされ、大坂近くの佐和山を三成は与えられた。

その嫉妬心から、武功の無い三成を目の敵にしていじめたのでしょう。
秀吉に一番の忠誠心を持って仕えたのは、やはり三成です。
太閤殿下の恩義を一番に思い、豊臣家のために考えていたのは、三成です。

その実直な忠勤ぶりが秀吉に認められる反面、他の人間から疎まれたのです。
人間誰しも欲望や野心はあります。しかし三成は決して金欲になど捕らわれません。
だから家康は数的不利であるのを承知で今後の目の上のタンコブである三成討ちを
覚悟したのです。

考えてみてください。家康は三方が原戦いの惨敗を糧にして負ける戦は
仕掛けないと決めています。
なのに関が原へは念には念を入れて望んでおり、それでも勝利は確信できていない。
でもあえて合戦を挑んでいます。そこが家康が三成を恐れていたと評価できる
とこでは無いでしょうか。

もどすと嫉妬心から、朝鮮出兵の事や、監視役(チクリ屋)など言うことで
彼らは憂さを晴らしていた。そこを家康が付け込んで三成を敢えて反目させたと思います。
要は武士の面子ってヤツで有言実行しなければならない点をついた。
そして、彼ら秀吉子飼いの武将が根っからの武士の家系では無いことも察してしていたと思います。
もしも関が原に秀頼の旗印が上がれば合戦は全く逆になったはずです。
加藤清正らも三成を心から嫌っていないと思います。同じ釜の飯を食った中です。
裏腹なイケズな性格もたらした事件かも知れませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/08 14:19

関ヶ原の合戦までの経過を見ますと、会津攻めから戻った東軍に対して西軍は一度も先制していません。

岐阜城陥落、大垣と赤坂の対峙、関ヶ原での会戦に至るまで、いつも東軍が先手を取っています。

私が良くわからないのは、信長が築いた堅城である岐阜城が見殺し同然に陥落したことです。同時に、5千の兵力を期待できる織田秀信軍が消滅しました。この兵力は、関ヶ原で主力となった石田・小西・大谷(組下武将含む)、あるいは立花や長曾我部と同等の兵力です。例えばですが、兵力は千人程度と少ないが日本一の武名を誇る島津義弘を岐阜城に軍監として入れ、織田秀信の5千の兵で守ったとします。東軍の先鋒部隊3万がいくら攻めてもビクともしないでしょう。そうしている間に石田他が西軍の主力で後詰すれば東軍先鋒は岐阜城外で全滅するしかありません。篭城戦の見本のような展開となったでしょう。

石田三成隊が関ヶ原で最後まで勇戦したこと、No7さんが言われるように三成が一般に言われるほど人望がなかったとは思えないことは事実ですが、岐阜城を簡単に失った時点で三成の作戦能力・統率能力には疑問符をつけざるを得ません。

西軍を旗揚げした時点で三成は彼の5千の兵と共に最前線の岐阜城に赴き、親しかったと思われる織田秀信と協力して防備を固め、岐阜城から西軍全体を指揮するべきだったでしょう。

その際に、先述したように島津義弘を「西軍の野戦軍司令官」として担ぎ、「それがしは若輩者にて戦の経験もなく、戦については惟新入道殿に全てお任せします。それがしの兵をそっくりお預けいたす」とやればどうでしょう。島津隊・織田隊・石田隊合わせて1万の兵が義弘の指揮で動けば、東軍先鋒3万を野戦で撃破するのも可能だったのでは?野戦に出ずとも、岐阜城が陥落する恐れは全くありません。この3部隊が岐阜に貼り付いていても、西軍の兵力は潤沢ですから伊勢などの東軍方の城を掃討するのに不足はありません。丹後で篭城している細川などは放置プレイで十分です。

現実はそうはならず、西軍陣営にいる日本一の名将(義弘)は最後まで待機していました。こんな無駄遣いをした時点で、西軍の負けは決まっていたのでは。
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ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/08 14:20

三成の欠点は一本気であった事、自分に近い武将も同じ気持ちと信じ込んだ事、清濁を会わせ飲むという腹芸が出来ない性格であったこと、につきます。



その他は彼の職歴によるもので、彼はあくまでも文系の能吏で武将ではなかったのに信義を貫く為、敢えて武将として行動しようとしたのです。

彼の才能は兵站、輜重、編成という後方勤務に長けており戦場での功名という点では2流、3流でした。
しかも主君である秀吉はこの点に彼の能力を買って使っていました。

彼が不人気だったのは、秀吉は部下に与えた所領に必ず直轄領を置きこれの代官に三成を当て監視役を兼ねさせた為で、この為三成は密告者と見られる誤解をうみました。
彼自身その性格から忠実に任務を遂行しただけですが豊臣恩顧の武断派と決定的な不仲を生じてしまったのは秀吉の不覚といえます。 

近江派と尾張派との分裂、正妻ねねと淀の方の軋轢を放置したのも秀吉に責任があります。
彼の不運はこういった彼の責任でない情勢に腹黒く対処出来ず信義一辺倒で能力以上の大変に挑まざるを得なかった事です。
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ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/08 14:19

当時の武将達にとっては、戦国期に戦場で戦った戦歴が未だにものを言う時代だったのではないでしょうか。


石田三成は豊臣政権下で、ある程度戦さの収まった時代に登場した有能な官僚ですから、戦場で暴れまわった他の武将から見れば、“自分たちの同類ではない”ということになり、それに比べて徳川家康は東海一の弓取りと言われ、秀吉と五分に戦える実力の持ち主であり、当時の武将たちから見たらその存在は老獪にして圧倒的であり、“自分たちの同類の中の最も恐ろしい且つ尊敬する人”という存在だったのではないでしょうか。
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ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/08 14:19

役職・性格上の不利はすでに出ている通りですね。



それでも、家康を敵に回し、上杉・宇喜多・毛利・島津の諸侯を西軍として纏め上げたのは、彼しかいなかったのではないかと思います。好き嫌いは多かったようですが、それでも石田家中は最後まで一枚岩でしたし、大谷・真田・立花など石高は小さくとも器量人とされていた人物が数多く三成に加担したことからも、信頼される人には信頼される人物だったと思います。

ただ、なんにせよ戦った相手が悪かったですね。相手は毛利(120万石)・上杉(120万石)を足してもまだ大きい徳川家(280万石)ですし、秀吉ですら恐れて朝鮮出兵時もまったく兵を出さずに内政と蓄財に専念していた上に、トップは修羅場をくぐってきた家康ですから。

東軍に加担した豊臣恩顧の大名も、「ひょっとしたら、家康はこの戦いを機に豊臣家をないがしろにするつもりでは・・・」という恐れを抱きつつも、280万石の圧倒的な存在を前にして、保身に走った部分もあったのだと思います。
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お礼日時:2006/12/08 14:18

思い込んだら、視野が狭くなることだと、思います。


利休に対してのこと、忍城の攻め方のまずさ、朝鮮での作戦の下手さは、彼のクレバーな脳みそがあり、視点を変えるということをしていれば、違う局面があったと思います。
関ヶ原でも、せめて、ねねさんのおぼえめでたくしておけば、秀吉子飼いの清正、福島正則くらいは、もうちょっとなんとかなったと思います。
好きなんですけでね。
ものすごく。
当時だって、見かねて、忠告した人は、いると思います。
聞く耳は持たないと、知りつつも。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/08 14:18

関ヶ原の合戦は、実際の戦闘が始まる前から、戦いが始まっていました。


家康は、西軍の諸候に、戦わなければ所領を安堵するというような書状を何十枚も書いています。一方三成方は、人質を取ろうとしてかえって東軍の憎悪をあおりました。人の心をつかむという点では、三成は家康に全く及ばなかったようです。
家康にとって最も恐るべき事態は、名目上西軍の総大将である毛利輝元(石田三成は西軍総大将ではありません)が秀頼を奉じて関ヶ原へ参陣することでした。そのため毛利一族で家康シンパであった吉川広家を通じて「大阪にとどまっていれば領地を保証する』というような密約を交わしたらしいのですが、そのためか毛利は動かず東軍大勝利となりなした。関ヶ原の後この約束は反古にされ、毛利は防長二州に押し込められました。
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ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/08 14:18

西軍の中で、毛利と石田を比べると、毛利の方が数倍石高が大きかったそうです。

これでは、石田に味方して石田を勝たせても、ほうびがうまく分配されるかどうか分からない、ということで、島津など西軍側の武将のモチベーションが高まらなかったそうです。
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お礼日時:2006/12/08 14:17

器量はもちろん家康に及ぶわけは無いのですが。

そもそも、年齢からして生きてきた経験が違いますので。
また、当時の織豊政権~江戸前期までは、かなり独裁政治に近いものであると考えてください。独裁政治の最大の欠点は「カリスマ不在で簡単に崩壊」することです。本能寺の後の織田政権しかりです。で、残念ながら光成では一番上に立つことは出来る器量は無いと言うことです。
現代で考えると・・いわば、大臣になれる人と、次官になれる人の違いです。いくら頭が優秀でもこればっかりはどうしようもない。で、権力で考えれば圧倒的に大臣のほうが強い。

また、光成の役割も、大きく影を落としています。彼の役割は「取次」というものです。
はてさて・・・この取次という職は、いわば諸大名の情報を秀吉につたえるのですが、この際に情報の取捨選択を行います。
そして、大きいのは「悪い情報も伝える」ということです。いまでもそうですが、上司にちくる人はあまり好かれませんよね。
また、彼は出頭人とよばれる、いわば主君が直々に見出した人物であり、主君の意思を忠実に履行するものでもありました。つまり、いやがられることも結構やりますし、それ以上に主君の後光の下、政治を牛耳っているわけです。
さらに、本来槍働きで考えられるべき勲功を、その方面では対して活動していないのに高い位置にいるというのは、これはその方面の人からすれば面白くありません。これは、軍人と官僚の対立という、多くの政治機構でみられる衝突の様子です。

もっとも、光成自体の性格も、結構きついところがあり、あまりすかれるタイプではなかったようです。
ですが、それ以上に、その役職によって嫌われるところが大きく、そしてこれは、「豊臣政権」自体の根幹にある問題点でもあったのです。
結局のところ、光成に人望がなかったのも、あっさり裏切られた原因でもあるのです。
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お礼日時:2006/12/08 14:17

この時代の武士は、鎌倉以来の「ご恩と奉公」が色濃く残り、主君は家臣に食い扶持を与え、身分を保証してやり、家臣はその対価として命をかけて主君に尽くします。


現在のプロ野球のフリーエージェントと同じく、自分の能力をより高く買ってくれる主君が現れれば、そちらに行ってしまう、云わば超リアリストの集団です。
徳川家康は、そういった世界で長年生き残り、表も裏も知り尽くした武将で、反りの合わない次男の秀康を捨て駒にしたり、またそういった父親の気質を知り尽くした、4男の忠吉は舅の井伊直政と共に抜け駆けするなど、表に見えない部分で手をうっています。
それに対して、石田光成は情とか正義感といったものを信じる理想主義者で、夜襲やだまし討ちなどを嫌い、筋目を通そうとしたのですから、時代に合わないということでしょう。
彼の器としては、大将の器ではなく、官僚であったということで、現在でもこういったタイプはよくいると思います。
昭和(平成ではどうも当てはまる人がいない)の政治家で言えば、家康は田中角栄、目的のためには手段を選ばず、相手の欠点や付け入る部分を鋭く観察し、清濁併せ呑む大政治家。
光成は三木武夫、高い理念と清潔感がありながら、お金も派閥の力もなく、国民の支持だけを頼りに議会運営を行った。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/08 14:16

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Q石田三成 性格

石田三成は当時の武将間で好き嫌いがはっきり別れてますよね?

福島正則 加藤清正 黒田長政 加藤善明…など おもに豊臣政権内部の武闘派からは嫌われていた。
一方で真田幸村 大谷吉継 などからは親友として慕われていました
さらに筒井家を浪人した島左近は諸大名の誘いを断り 一番禄高の少なかった石田三成に仕えるなど人気が二分していた様に思います

三成は不遜(他人にへりくだる)ところがなかったので嫌われていたと言いますが…

三成の性格は実際はどんな感じであったのでしょう?

Aベストアンサー

毎度どうも。

秀吉の軍事作戦では中国大返しと賤ヶ岳大返しの二つの大返し作戦が有名ですが、このとき兵站計画を支えていたのが三成だといわれています。また、寄せ集めの大軍が割と無計画に進出した朝鮮出兵の兵站業務も三成が支えました。太平洋戦争の日本軍とは大違いに兵站を破たんさせなかったのですから、その力量はたいしたものだと思います。また、そういった業務に明るかったことからも理数系であったのも間違いないと思います。
しかし理系男子の宿命で、人心の機微というのが苦手であったのではないかと思います。また朝鮮出兵の兵站業務では前線からの様々な懇願をあえて無視して優先順位が高いものに対して冷静に対処しなければならず、つまりそれは人の恨みを買う立場でもあったと思います。しかし彼が恨みを買うことで兵站は破たんしなかったであろうし、それによって秀吉自身が守られたとも思います。
つまりなんというか、頭のいいエリート官僚タイプだったのでしょうね。だからこそ、現場からの叩き上げである福島正則や加藤清正とは宿命的に合わなかったと思います。そして頭がいい人にありがちに、他人を見下すような態度をとる人でもあったと思います。プライドは高かったでしょうね。同じような合理的なタイプの人とは話が合った(秀吉も根本的には理系の合理主義者です)でしょうが、話の合わない人には「この、バカ」みたいな目で見ちゃうところがあったでしょう。たぶん、ウソもつける人じゃなかったと思うので、考えていることが態度に出てしまうタイプだったんじゃないかなあ。

ちなみに私は福島正則タイプなので、たぶん三成とは合わないのではないかと思います・笑。

毎度どうも。

秀吉の軍事作戦では中国大返しと賤ヶ岳大返しの二つの大返し作戦が有名ですが、このとき兵站計画を支えていたのが三成だといわれています。また、寄せ集めの大軍が割と無計画に進出した朝鮮出兵の兵站業務も三成が支えました。太平洋戦争の日本軍とは大違いに兵站を破たんさせなかったのですから、その力量はたいしたものだと思います。また、そういった業務に明るかったことからも理数系であったのも間違いないと思います。
しかし理系男子の宿命で、人心の機微というのが苦手であったのではないか...続きを読む

Q豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む

Q淀殿はなぜ西軍に味方しなかったのか

関ヶ原の合戦で東軍が勝利したおかげで、その15年後には大阪の陣で豊臣家は滅ぼされました。関ヶ原の合戦時に淀殿が西軍に豊臣家の正規軍であることを認め、家康を逆賊としていたなら、関ヶ原の合戦で西軍は負けなかったのではないかと思います。加藤清正、福島正則らも東軍に加担できなかったのではないかと思うのですが、なぜ淀殿は西軍に加担しなかったのでしょうか。
1.家康が片桐勝元らを使って、うまく淀殿の動きを封じた。
2.西軍が負けたらどうなるか。淀殿には先が読めなかった。
3.北の政所が反対した。
真実はどうなのでしょうか。僕はこの点で淀殿はまんまと家康にだまされたと思うのですがどうでしょうか。

Aベストアンサー

関が原で西軍に加担しなかった理由は加担したくても加担出来なかったと思います。

まず名目上は
関が原の戦いの前の会津征伐を家康が強引に実行していますが、最終的には豊臣家が
許可をして会津征伐軍に金2万両と兵糧2万石を与えています。
この軍費の支給により会津征伐は家臣同士の戦や家康の暴走ではなく豊臣家に対する謀反人
を征伐する戦となり征伐軍は官軍となりました。
豊臣家が家康の専横を良く思っていなかった事は東軍諸将もわかっていますが
どんな理由(家康の専横に対する弾劾状)があるにしても会津征伐軍の留守の城を
攻めた石田三成らに非があり主人がこれに加担するのは対面上難しいと思います。
自ら惣無事令にて家臣同士の私闘を禁じておいて違反した者に加担は出来ません。
豊臣家が家康を排除したいのであれば正々堂々蟄居なり改易を沙汰致し、従わない場合征伐
する必要があると思います。

次に実際の理由ですが
加担した所ではっきり勝てる賞賛がなかった為加担せず、静観に留め、自分に掛かるであろう被害
を回避し、あわよくば西軍の勝利を望んでいたと思います。
秀吉の死後、次の天下人は家康との思いが各大名にあり、年賀の挨拶は秀頼より家康を先にした大名も
少なくなかった様で、豊臣家は家康を先にした大名と秀頼を先にした大名を観察、記録し家康謀反の際に
どの大名が家康に付くか分析していたと思います。
また、家康が秀吉の命に背き、無断で大名との婚姻を実施しましたが詰問の使者はあしらわれていますが
その際に憤慨する武将、憤慨しない武将を把握して緻密に家康を排除しようとした際の両勢力に
付いて分析してはっきりとした勝てる賞賛がなかったと思います。
結果論ですが関が原以前に、蟄居なり改易の沙汰をしていない事から豊臣家が家康の強大な力を
認識していたと想像出来ます。

関が原で西軍に加担しなかった理由は加担したくても加担出来なかったと思います。

まず名目上は
関が原の戦いの前の会津征伐を家康が強引に実行していますが、最終的には豊臣家が
許可をして会津征伐軍に金2万両と兵糧2万石を与えています。
この軍費の支給により会津征伐は家臣同士の戦や家康の暴走ではなく豊臣家に対する謀反人
を征伐する戦となり征伐軍は官軍となりました。
豊臣家が家康の専横を良く思っていなかった事は東軍諸将もわかっていますが
どんな理由(家康の専横に対する弾劾状)がある...続きを読む

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q石田三成について教えてください!!!

石田三成について教えてください!!!

最近、石田三成という武将が気になり
比較的歴史に詳しい母に
三成について聞いてみたところ
「三成は極悪人として京都の市内を
歩き回された挙句、打ち首になったんだよ」
と聞かされました。

母は三成の事についてはあまり知らないらしく、
それなのに何故か嫌いなようです。
石田三成はなぜ"極悪人"として
市内を歩かされるような事になったのでしょう?

また、石田三成が好きという方は
彼の魅力について教えて頂けると嬉しいです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

三成を嫌いな人は多いと聞きます。
それはやはり、10m10mさんがおっしゃるように
"極悪人"として市内を歩かされたからだと思います。

その理由は、勝利者であった家康の敵であったから
ではないでしょうか?

勝者としては、敵を処刑するというのは
当然のことでしょうし、また、juyjuy さんの
おっしゃるように家康も彼を評価していましたから、
それはなおさらだと思います。


>また、石田三成が好きという方は
 彼の魅力について教えて頂けると嬉しいです。

わたしは、三成が好きで、いろいろな本を読んでいますが、
その中のひとつに、こういった逸話がありました。
(うろ覚えですが……

『人々はお茶を回し飲みしていた。
 回し飲みをしていた一人、 三成の友である
 大谷刑部はハンセン病であった。
 そのため、他の者たちは、刑部の飲んだ後の
 茶は飲んだフリをして他の者にまわすことが多かった。
 
 ある日、刑部の鼻水がお茶の中に入ってしまった。
 そのままお茶を回すことをためらい、
 お茶をまわすことができずにいた。
 それを見ていた三成は、
 
 「拙者は喉が渇き申した。
  刑部殿、早くお茶を回してくだされ」
 
 とお茶を受け取るや、それを一気に飲んだ。』

このあとの記述にもあったのですがこのことから
三成と刑部の友情がうかがえます。

人々から嫌われているというのに
こんなことができるとは……友情最強!

とわたしも思わず拍手をしてしまいました。
この逸話はあまり有名ではないかもしれませんが
わたしが一番好きな逸話です。

(長文失礼致しました。

三成を嫌いな人は多いと聞きます。
それはやはり、10m10mさんがおっしゃるように
"極悪人"として市内を歩かされたからだと思います。

その理由は、勝利者であった家康の敵であったから
ではないでしょうか?

勝者としては、敵を処刑するというのは
当然のことでしょうし、また、juyjuy さんの
おっしゃるように家康も彼を評価していましたから、
それはなおさらだと思います。


>また、石田三成が好きという方は
 彼の魅力について教えて頂けると嬉しいです。

わたしは、三成が好きで、いろいろな本を読んで...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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