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もし本能寺の変がなかったら戦国時代はどうなっていたでしょうか。
想像もつきません。

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A 回答 (10件)

 本能寺の変が無かったら…



 全国統一はして、戦国時代は終わらせたかもしれませんね。
 でもその後安定した政権が作れたかは疑問です。特に後継者が…

・信忠(嫡男)
 かつては暗愚な凡将との評価が有力でしたが、現在ではそれほど暗愚でもないとの評価になっているようです。
 ですが本能寺の変の際、脱出できる可能性がありながらも父と共に散る事を選んでしまったあたりが限界かも…
 
・信雄(次男)
 この人は・・・暗愚だったみたいですね。
 本能寺の変の後の立ち振る舞い…小牧長久手の戦いでの単独講和…移封命令に逆らって改易…関が原の時の立ち振る舞い…
 何と言うか気位が高い”だけ”の無能な二代目になるのがオチかも。

・信孝(三男)
 この人は信長の息子たちの中では一番容貌が父に似ていたと言われています。
 兄・信雄より器量に優れていたと言われてますが、暗愚な兄に比べて…ですからね…。
 本能寺の変の際、自らの兵をまとめることが出来なくて秀吉に『名目上の総大将』とされてしまうあたりが…

・信包(信長の弟)
 この人は兄・信長の為に影が薄いですが、武将としては中々の器量だったようです。でも野望に乏しく、清廉潔白すぎたために、兄亡き後の天下取りには参加しなかった…と言うのが現在の評価みたいです。
 ですが嫡男・信忠の補佐の立場にあった人ですから、それを差し置いて後継者になる事はなかったでしょう。

・長益(信長の弟)
 この人は武将と言うよりも茶人・有楽斎と言った方が良いかも知れません。
 
 う~ん…
 次男は論外。三男もイマイチ。
 信忠&信包のコンビでなら何とか。それでも厳しいかもしれませんね?信長の死後、並み居る大名達との権力争いは。
 
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おそらく、どの道 信長が殺され家康が天下を取ったでしょう。

 
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#3様に限りなく近いですが、荒ならしが済んだあと、不要になった、信長を「時代」が捨てたと考えるので、第2の光秀説です。


ただ、光秀も、生存してるんですよね。思いとどまっただけで。
では、クーデターは、長期化して、光秀も協力しています。
秀吉は、崩れかけた、光秀勢を一気にたたみかけるようなわけににいかず、苦戦します。
その間、山っ気のある、黒田官兵衛も、天下に興味をみせるかもしれないし、長期化次第では、伊達政宗の目もあると思います。
家康以外にもと、いうことです。
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信長という人は、塩辛い物が好きだったといわれています。

さらにあの性格です。きっと高血圧だったと思われます。おそらく50半ばでポックリいってたんじゃないでしょうか。
5年ぐらいで天下統一の後、1587年、脳卒中にて信長没。
3人の息子が跡目争いをしている間に、秀吉と家康が・・・
あっ、でも秀吉は信長にこき使われて覇気を失っていたかもしれません。
するとやっぱり家康か・・・
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本能寺の変がなかったら…



信長が天下を取っていた可能性は十分あると思います。
また、家康なんかは江戸幕府を開いて統治したわけですが、信長だと幕府なんか開かないで、もっと別の、新しい統治のしかたをするような気がしないでもないですね…。となるとNo4様の仰るように天皇家をなくすことになるんでしょうか…う~ん…。
あとは近代化がもっと早く進んだかもしれませんね。信長は新しいやり方をどんどんやる人でしたから、鎖国なんかも無かったかも。

でも、信長が天下統一後すぐに死ぬようなことがあれば、後継者争いで関ヶ原みたいなことになりそうな気がします。信長が天下統一後30年ぐらい生きて地盤固めすれば大丈夫かな、とも考えたいですけどね。
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天皇家を滅ぼし自らが国王となるが、徳川・上杉・伊達の連合軍と毛利・島津連合軍に挟み撃ち。

蜂須賀も秀吉から鞍替え、四国へ逃れるも村上水軍の助けを得られず海の藻屑。前田が小名となり真田が大名に?
実のところ柴田か細川に討たれたかも知れませんね。(1)本能寺の頃の柴田の妻は於市の方。前夫・浅井の恨みが兄にあり。(2)細川の妻は明智の娘。仮に(1)として明智と柴田が変わっただけ。山崎合戦も羽柴と明智になっただけ。
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信長が生き残っていたら天皇家を滅ぼしていたと思います。



その後は多分まったく違った日本になっていたでしょう。
まあ、歴史に「もし」はありませんが・・。
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歴史に もしも~だったら・・・


本能寺の変はあってもなくても、戦国時代は遅かれ早かれ
終わったのでは?戦争ばかりで疲れちゃうし(--)
私は第二の明智が絶対君主の織田信長を殺害すると想像します。

次の時代が鎖国をするかしないかは・・・ウムー解かりません!
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私の想像ですが、本能寺の変が無ければ、数ヶ月のうちに毛利家が織田信長の軍門に下り、中国地方を制覇その後は、豊臣秀吉が雪崩を打つよう

に九州地方(おもに島津家)が平定され、ほぼ天下統一がなされたと思います、盟友関係だった徳川家康は、織田家の臣下として関東地方か、それ以北(蝦夷地、北海道まで)を統治(治める)かもしれませんが、羽柴秀吉の出る幕は無くなったかもしれませんね!江戸時代はもちろん現代も大きく変わっていた事でしょう、私が確実に言える事は、私の好きな大河ドラマの主人公が恐らく半分位になったのでは???山内一豊ってなに??みたいな~~~
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『歴史にifはない』と言います。


でも、歴史について、「もし、こうだったらこうなっていたのかな」と考えるのは楽しいですよね。

自分はもし信長が本能寺の変で死ななかったのなら、天下統一も十分ありえたと思います。
ちなみに、その「ifの話」を主題にした小説があります。
興味があれば読んでみてください。

日本史の叛逆者―私説・本能寺の変 井沢元彦

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4041662125
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Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q仮に本能寺の変がおきなかったら

織田信長の天下で世の中はどうなったと思いますか?若しくはかろうじて信長が本能寺から逃げ出せたら「例えば秀吉が何らかの手段で。。。みたいな」どうなってたと思いますか?

Aベストアンサー

光秀がやらなくても秀吉がやってたでしょう
彼は農民から成り上がって ひょうひょうとした顔をしてますが内面はかなりの野心家です
いずれは信長を殺して天下を奪ったと思いますよ?
まぁ仮に安定して織田政権が誕生していたら日本の近代化は200年は早まったと言われています


ちなみに本能寺の変の黒幕は秀吉と朝廷です
変の計画→秀吉
実行の打診→秀吉→朝廷から光秀
実行犯→光秀

で変が起きれば光秀は謀反人
そこで秀吉がそ知らぬ顔して光秀を討てば自分は主君の敵を討った英雄&光秀の口封じが出来ます

中国大返しなんか明らかに事前に計画してないと不可能
変の事はともかく 事前に準備していたとしたら何らかの理由で秀吉はあらかじめ近畿に戻る予定があったと考えるのが自然です

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Qもし生きていたら天下を取る戦国大名は?

いつもお世話になっております。

【質問内容】
「戦国時代」に生きていた戦国大名が、現在全員生きているとしたら、誰が天下を取ると思いますか?
(ちなみに、私は徳川家康だと思います)

【質問を考えた理由】
現在、私は戦国時代にはまっており、「信長の野望」のように当時の合戦をリアルに再現したものが好きです。また、関ヶ原や桶狭間といった古戦場巡りもしています。

その時、ふと思いついたのです。もし戦国大名が生きていたら誰が天下を取っていたかを。

以上、御回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

武田信玄だと思います。
家康は信玄のものを色々真似してますから、信玄・家康が全く同じ時代に
生まれていたら、家康は天下を取れなかったと思います。

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q本能寺が起こらなかった場合の各方面の攻略について

あくまでIFの話なのですが…。

本能寺の変が起こらなかった場合、信長の指示通り、毛利輝元には羽柴秀吉が、上杉景勝には柴田勝家が、北条氏政には滝川一益が、長曽我部元親には丹羽長秀と織田信孝が、それぞれ攻略に当たっていたと思われます。

本能寺の変が発生した時の前後あたりで、秀吉は備中高松城を水攻めにして陥落、勝家は越中の魚津城を落としたように記憶してるのですが、本能寺の変の発生を知り、後は史実の通りですが…。

ここでお聞きしたいのですが、本能寺の変が起こらなかった場合、各方面の攻略を担当した武将達(ここでは勝家、秀吉、一益、長秀と信孝とします)はそれぞれの攻略相手を支配下に治めることができる力をもっていたのでしょうか?

北条氏や長曽我部氏は秀吉が、最終的に10万単位の兵士を送り込んで配下にしています。

それからすると信長配下の武将達はもちろん有能ではあるでしょうが、動かせても数万の兵士がやっと、というところではないでしょうか。
仮定の話ではありますが、その状況で各歴戦の大名達を攻略する能力を上記の武将達が持っていたか、皆さんの考えをお聞かせいただければ、と思います。

あくまでIFの話なのですが…。

本能寺の変が起こらなかった場合、信長の指示通り、毛利輝元には羽柴秀吉が、上杉景勝には柴田勝家が、北条氏政には滝川一益が、長曽我部元親には丹羽長秀と織田信孝が、それぞれ攻略に当たっていたと思われます。

本能寺の変が発生した時の前後あたりで、秀吉は備中高松城を水攻めにして陥落、勝家は越中の魚津城を落としたように記憶してるのですが、本能寺の変の発生を知り、後は史実の通りですが…。

ここでお聞きしたいのですが、本能寺の変が起こらなかった場合、各...続きを読む

Aベストアンサー

中国攻め
鳥取、高松と力攻めではなく、ゆっくりと攻め落としていきました。
高松が落城寸前になって、信長に援軍を要請したのは有名な話ですが、これはすでに勝利が決定的だったので信長に花を持たせようとしたゴマすりという説と
落城後の毛利本軍との一大決戦に備えてとの説があります。
この援軍は光秀が率いることになっていた(が裏切って本能寺の変になります)ので、順調に攻略は進んでいったかと思います。

北陸攻め
手取り川の戦い直後(1577)では、加賀北部までが上杉勢力圏で南部までが織田勢力となっていました。
が謙信の死後の上杉家のお家騒動により軍事力が急速に低下。新発田重家の裏切りにより越前は大混乱、
本能寺の時点ですでに越中まで織田勢力下になっています。
上杉が新発田重家を攻め落とせたのは本能寺(1582)のはるか後の1588年のことですから、
こちらも本能寺がなければ順調に攻め落としていたであろうと思います。

四国攻め
こちらもあくまでも準備段階の話ですのでまったくわかりません。これからはじめるという段階で
すでに戦端が開かれ天王山も過ぎていたような中国や北陸とはまったく状況が違います。
もしある程度苦戦するようなことになったとしても、とりあえず現状維持をしておけば、そのうち中国側からの援軍もあったでしょうとは思います。

関東攻め?
この時点では北条と織田は同盟関係にあったので攻めていたわけではありません。
基本的には武田氏滅亡の後の空白地域の維持・拡大が目的です。
もちろん武田攻めの折、どっちつかずの対応をとった北条家は次に攻められることは覚悟していたと思いますし、
滝川軍も隙があれば攻め込んでいたでしょうが、実際は本能寺の変で隙を見せたために北条により一方的に打ち破られています。
ということでこちらは四国攻めよりもさらに前の段階ですね。
旧武田家臣団を吸収した徳川軍との共同戦線になると思いますが、北陸からの援軍もあるでしょうし、こちらもそう苦戦はしないのではないでしょうか。

まぁどの戦線においてもこの時点で相当の戦力差がついていますから、武将の能力差以前に戦略レベルですでに決着がついている段階だと思います。

中国攻め
鳥取、高松と力攻めではなく、ゆっくりと攻め落としていきました。
高松が落城寸前になって、信長に援軍を要請したのは有名な話ですが、これはすでに勝利が決定的だったので信長に花を持たせようとしたゴマすりという説と
落城後の毛利本軍との一大決戦に備えてとの説があります。
この援軍は光秀が率いることになっていた(が裏切って本能寺の変になります)ので、順調に攻略は進んでいったかと思います。

北陸攻め
手取り川の戦い直後(1577)では、加賀北部までが上杉勢力圏で南部までが織田...続きを読む

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む

Qなぜ日本は植民地にされなかったのですか?

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに
なぜ日本は植民地にされなかったのですか?
日本の教育水準が高かったからですか?
それとも単に運がよかったからですか?

Aベストアンサー

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。
(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮)
これが砲台場、今の「お台場」です。
これにはペリーも驚いた。
あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで
「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。
こんな人他のアジアの国にはいなかった。

日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。

アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。
松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^

ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ
江川さんがいなかったら大変だったと思うよ
・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ
最後は大分大胆に物事運んだけど。
・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^
・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた
(ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。

兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。
最初、不平等条約だったのもしゃーない。
しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。
まぁ頑張りましたね、当時の日本^^

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。...続きを読む


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