鎌倉時代に活躍したという大江広元に関してなにかいい資料はあるのでしょうか?生い立ちや考え方、実績等に関してです。京都の公家出身なのになぜ鎌倉幕府のシステム作りに関わったのか、当時の鎌倉武士団同士の争いの経緯を見ると相当重要な人物と認識されていた気配は伺えるが、どの程度の政治力を持っていたのか、鎌倉幕府創設のどこまでが大江広元の仕事だったのか?なぜ子孫が中国地方の毛利なのか?等々、謎が深まるばかりです。いい資料があればお教えいただきたくお願いいたします。

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A 回答 (3件)

 大江広元と源頼朝とのつながりは、広元の義兄の中原親能が、幼時を相模の国で送ったので親しく、その線から関係ができたのではないかということになっています。

また、広元は安芸権(副の意味)介をしていたので、安芸に赴任し、そのときの子供が毛利氏の祖にあたります。
          (歴史と旅昭和54年6月号)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。お礼が遅れてすいません。なるほど、京都の貴族の大江広元が、当時、海のものとも山のものともわからない実力しかなかった源頼朝をはじめとした関東の自衛農民団(武士)に参加したきっかけには、そんな説があるのですか。律令制度は京都貴族を地方に出す効果があったことを考えると、うーん、なるほど。参考になりました。

お礼日時:2001/01/11 11:31

以下の参考URLサイトは参考になりますでしょうか?


「人間・毛利元就のおもしろさ」
更に、以下のサイトは
1.http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100039_5.html
(虹の礎)
2.http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mouri.html
(毛利氏)

検索すると沢山HITするようです。

ご参考まで。

参考URL:http://www.mmjp.or.jp/askanet/supplementaryofmot …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。うーん、確かにそう、黒幕とか冷徹のイメージで語られることの多い人です。この参考URLの人ほど明快に大江論を展開している人も珍しいので、この人が参考文献にしたのか調べてみたいと思っています。

お礼日時:2001/01/08 18:21

下記の検索サイトで"大江広元"で検索すると、色々な情報があります。



参考URL:http://www.google.com/intl/ja/
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この回答へのお礼

ありがとうございます。すごい量がhitしました。やはりほとんどの記載が、主にあることが別で、ちょっと大江広元がからんで出てくるという形のものが多かったです(ただ私の知らなかった事柄が多く非常に参考になりました)。綿々と続いてきた従来の体制を破壊し現実に即した新しい体制を作るのに苦心した人と思われるのですが、仕事の結果が残り、人物像そのものは歴史から消えているような、不思議な透明感が、やはり、この人の魅力なのかも知れません。

お礼日時:2001/01/08 18:15

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 石橋山の戦いで源頼朝を救った梶原景時、
その子である梶原景季が、
源頼朝と源義経の不仲の原因の一つと聞きましたが、
そうなのでしょうか?

Aベストアンサー

梶原景季は一の谷の戦いや、屋島の戦いで義経の援将として頼朝におくりこました。
しかし自分の作戦が義経に却下され、面目をつぶされた景季は頼朝に華々しい戦果を過小に評価をし報告しました。


景季は頼朝の愛臣だったので、頼朝は信じてしまいました。
そして頼朝は義経の荘園を没収し鎌倉の出入りを禁止しました。

その後、義経は有名な腰越状を発ましたが意味もなく
ついには頼朝打倒の兵を揚げてしまいます

Q戦国時代の北条早雲って鎌倉幕府の北条氏の子孫ですか?

鎌倉幕府の北条氏は室町幕府に倒されたと思いますが、戦国時代に出てくる北条氏はどんな関係なのでしょうか?
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どなたか教えてください。

Aベストアンサー

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲自身は最後まで伊勢氏を名乗り、北条姓に変わるのは2代の北条氏綱からですが。
この改姓は非常に重要な意味を持ちます。つまり鎌倉幕府の実質上の主であったあの名門、北条氏の流れを汲む者であると名乗れることは、大きなハクがつくことになるからです。このような権威付けは当時では非常に重要なことと思われます。由緒ある家柄だということは、支配者としての「資格」のあることを意味するからです。もちろん資格があっても実力がなければすぐに亡ぼされてしまいますが、実力があっても資格がないと、人々は支配者としてなかなか認めたくはない。室町幕府の権威が低下し、実力の世となっても、人心の変化は、まだまだそういった古くからの権威をあがめ、由緒を尊ぶ気風は十分に残っていました。戦国時代、下克上の三羽烏とも言われる北条早雲、斎藤道三、松永久秀のうち、道三と久秀はまもなく滅んでしまったのも、このあたりに原因の一つがあるのではないでしょうか。

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
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Q源頼朝の絵について

最近源頼朝の画像が違うって言ってますが、徳川家康も例の画像を頼朝と思ってたのですか?結構昔から間違えてたのでしょ?

Aベストアンサー

あの京都の神護寺が持っているあの絵のことですよね。

あれについては本当に頼朝のものかどうかは論議の的でした。ですからいちよ源頼朝であろうと伝わっているとして”伝源頼朝”と紹介しています。

歴史のことですからこんなことは日常茶飯事です。なんせ言われ不確かなものなんてあるのが当たり前。ですから後から説が修正されるのも当たり前です。

家康だってこれがそうです言われればそうかと思うでしょう自分にそれを否定するものがなければの話しではありますが。

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
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Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
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結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
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最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

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500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
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Q源頼朝について困っています。

初めまして。初めての質問です。私は今学生で、授業で源頼朝のことについて調べていますが、いいことが見つかりません。何でもいいので、源頼朝のことについて教えてください。

Aベストアンサー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
の「評価」に歴史的業績がまとめられています。

(末弟・義経を死に至らせた事から、人間的には一般的に悪評
のようですが)歴史的業績はすこぶる高いようです。

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Aベストアンサー

足利幕府は鎌倉公方をここに置き、尊氏は弟の直義を成良親王を奉じて鎌倉に下向させますが、その直義と不仲になり、これを平定した後には次男の基氏を鎌倉公方として派遣します。その意味では副首都的な意味を持ちますが、管領の上杉が実権を握り、さらにはその家臣が上杉に叛乱を起こすなどして収まりがつかなくなり、鎌倉公方が廃止されて以降は戦国の争乱の中に埋没してしまいます。そして関東は小田原に本拠を置く北条氏の手に落ちてしまいます。

Q源頼朝の所領の歴史

源頼朝の所領の歴史を教えて下さい。

源頼朝の所領の話って聞いたことがありません。
頼朝の人生の中で彼はいつに所領をこれくらい手に入れて、いつこれくらい失ったみたいな
頼朝の人生の所領の歴史を教えて下さい。

あと頼朝の死後彼の所領は彼の息子に譲られたのでしょうか、それとも北条家に掠め取られてしまったのでしょうか?

Aベストアンサー

subetenoaruji さん、こんにちは。

どうやら、彼は所領をもっていたようです。問題はそれらの所領が古文書の散逸により詳細が不明であることです。
頼朝が鎌倉幕府を開府する以前に持っていた所領を関東御領といいます。これに平家滅亡後に朝廷から与えられた所領を平家没官領といいます。これらの所領にさらに源家将軍がいなくなった後に承久の変以後に組み入れられた所領もあるようです。

詳細は下記のURLを参照ください。
関東御領

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%BE%A1%E9%A0%98


平家没官領
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E6%B2%A1%E5%AE%98%E9%A0%98

Q徳川幕府期の皇族・公家の生活

彼らはどのようにこの時代生活していたのでしょうか??

Aベストアンサー

 おはようございます。

 江戸時代においては、天皇は政治的実権を奪われ、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかったようです。
 また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限されていました(学校で習いましたね。)。庶民の尊敬の対象は大名や征夷大将軍に向けられ、天皇や公家は非現実的な雲の上の存在的に敬意が払われる程度であったと考えられてもいいようです。
 しかしながら、公家は実権は失ったものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたことを初め、将軍や大名の官位も、形式の上では全て天皇から任命されるものであり、権威の源泉として重要な意味を持つ存在でした。
 
 一番象徴的なのは、「赤穂浪士」の事件ですね、この事件は、浅野匠守が、天皇から将軍へのお使いの者をお迎えする役をおおせつかった事が発端で、天皇ではなく天皇のお使いに対しても、これだけの敬意を払っていたと言う事ですね。
 
 なお、一万石(三万石でもいいですが)と言うのは、当時の外様大名(あまり将軍から信頼を得ていなかった、新参者の大名ですね)程度の収入ですから、経済的には恵まれていなかったと言う事ですね。

 おはようございます。

 江戸時代においては、天皇は政治的実権を奪われ、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかったようです。
 また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限されていました(学校で習いましたね。)。庶民の尊敬の対象は大名や征夷大将軍に向けられ、天皇や公家は非現実的な雲の上の存在的に敬意が払われる程度であったと考えられてもいいようです。
 しかしながら、公家は実権は失ったものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威...続きを読む

Q源頼朝の流人生活はどのようなものだった?

源頼朝の流人生活はどのようなものだったのか詳しく教えてください

頼朝はそのころに政権の構想や平家打倒の計画をじっくり練っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは

頼朝の流人時代は、所領もなく、乳母の関係者、母親の実家の熱田大宮司家、家人の一部、そして監視役の伊豆の武士(在庁官人)の伊東氏・北条氏などが面倒を見ていたとされます。ただ、流人時代の生活については、史料が少なく、後代の『吾妻鑑』などに断片的に記述された記事によることが主になっています。

まず、なぜ頼朝が死罪ではなく流罪になったかということですが、従来の説では清盛の父の正盛の後妻の池禅尼の助命嘆願だけが言われていました。これは、平家の都落ちに平頼盛以下の池一門は同行せず、後に頼朝に対面していること(『吾妻鑑』など)によっても裏付けられます。池禅尼に加えて、現在、頼朝の生母の実家である熱田大宮司家の一族の子女が、後白河院と上西門院の近臣や女房として仕えていたことの影響(上横手雅敬・元木泰雄)との説があります。さらに、源頼政が伊豆の知行国主であることの影響から、配流地が伊豆に決定したのでは(五味文彦)と言われています。
*上西門院=統子内親王。鳥羽天皇と待賢門院との間の皇女で、後白河天皇准母。なお、頼朝の生母の由良御前(熱田大宮司藤原季範のむすめ)は、上西門院の女房であったとの説あり。また、姉妹には上西門院と待賢門院の女房がいた(『尊卑文脈』)とされています。
次に、伊豆までの道中ですが、長田資経が一族の長田資家を従者として付けてくれたことが知られています。この長田資経ですが、因幡国高庭郡の郡司であったようですが、頼朝との関係は分かっていません。平氏の家人で、平治の乱に参加し、捕虜になった頼朝を見て、憐憫の情を催したようですが、少年期(数え13歳)の頼朝は、人を引き付ける魅力があったということなのかもしれません。
さらに、熱田大宮司家では、由良御前の弟の祐範が、従者を1名付けたことが知られています。ただ、熱田大宮司家では、祖父の熱田大宮司藤原季範・母の由良御前は平治の乱当時には死去しており、また、季範の長子であったと思われる範忠は、頼朝の同母弟*希義を駿河で捕らえ、平氏に引き渡しています。季範と範忠の関係は悪く、季範は熱田大宮司の職を五男とされる範雅に譲っています(後に範忠が就任)。同じ大宮司家でも、範忠と由良御前・祐範・範雅は母を異にしているようで、それが行動の差になって表れているように思われます。特に由良御前と祐範は、祐範の行動などから、同母の兄弟であると考えられます。
*希義=土佐国へ流刑になり、後に挙兵しますが敗死します。

流刑地である伊豆に着いた頼朝ですが、頼朝には生活を支える領地はなかったとされます。これに関して、Wikiの関連記事である「関東御領」の記述の、「(*関東御領の)起源は、鎌倉幕府成立以前に源氏(源頼朝)が本家・領家として所有していた荘園群や国衙領である。これに平氏滅亡の際、平氏一門が持っていた荘園(平家没官領)を組み入れて継承した。」の部分は、紛らわしい表現で、「鎌倉幕府成立以前に源氏(源頼朝)が本家・領家として所有していた荘園群や国衙領」は、平治の乱後、平氏により没官されており、頼朝が流人時代には存在せず、平家の所領に組み込まれ、後に平家没官領の形で回収され(石井進・『国史大辞典』)、流人時代の頼朝には所領が無かったことになります。
流人時代の頼朝を支えたのは、まず、熱田大宮司家の祐範です。祐範は月に一度使者を頼朝のもとに派遣したとされています。当時は子の面倒は、母方がみる例が多いので、使者を遣わしただけではなく、なにくれの生活の面倒もみたのではないでしょうか。

次は、乳母のグループです。頼朝の乳母としては、摩々尼、山内尼・寒川尼・比企尼の四人が知られています。これもWikiは山内尼=摩々尼説ですが、摩々局が母、摩々尼が娘で、土肥氏の一族の女性であり、山内尼は山内首藤俊通の妻で、俊綱の母の女性で、山内尼と摩々尼は別人説が主流となっています。
さて、この乳母の中で頼朝の流人時代の生活の面倒をみたとされているのは、比企尼で、彼女は夫の比企掃部允と共に武蔵国の比企郡に下り、その後頼朝の挙兵までの*20年間面倒をみたとされています。
さらに、比企尼の長女の婿の安達盛長は、流人時代の頼朝の従者として側近に仕えたとされます。
また、どの乳母なのかは不明ですが、頼朝の乳母の妹の子である三善康信(*後の問注所執事)は、月に三度京都の情報を頼朝に送り届けたとされます。康信の情報が、頼朝の挙兵に影響を与えたともされています。
*20年間面倒をみた=能員姨母、号比企尼、当初為武衛乳母、而永暦元年御遠行于豆州之時、在忠節余、以武蔵国比企郡為請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋、廿年之間、奉訪御世途(『吾妻鑑』寿永元年10月17日の条)

次に、家人と分類されるべきグループが存在します。
第一に上げられるのが、佐々木四兄弟です。近江源氏(宇多源氏)で、近江に所領を持っていた佐々木秀義は平治の乱で敗軍となり、所領を失います。その後、関東を通って、奥州に落ち延びる途中、相模の渋谷氏に引き留められ、そのまま居つくようになります。その子息の定綱・経高・盛綱・高綱は、流罪中の頼朝の家人として仕えたとされています。ただ、常時頼朝に近侍したわけでもないようです。
それ以外にも、伊豆や相模の武士が頼朝の下を訪れていたとの話もありますが、軍記物語などの話が多く、確実な資料とは言えない部分があります。
頼朝の日常生活ですが、法華経への信仰が知られています。父母や源氏一門の菩提を弔う毎日で、読経・暗誦・写経などをしていたようです。さらに、箱根権現・伊豆山(走湯)権現を信仰していたとされます。
それ以外には、弓が挙げられると思います。石橋山の戦いでは強弓により敵を射殺していますし、鎌倉に落ち着いたのちには、弓の故実を知る武士に故実を問うなどしています。当時の武士の表芸である弓と馬(弓馬の道)は、当然ですが鍛錬していたものと思われますし、狩などもしていたようです(物語作品にある話として)。
さて、伊豆国の知行国主は源頼政であることは前記しましたが、伊豆国の国守も頼政の嫡子の仲綱(その後は頼政次男頼兼など、知行国主として当然ですが頼政の影響下の人物が任命されています)であり、以仁王の挙兵の失敗で、この親子が敗死するまで、比較的自由な行動が許されていたとの見方もされています。流罪初期には伊豆国府に近い場所(一般に蛭が小島と言われています)にいたようですが、伊豆山権現や伊東氏の領内など、伊豆の国中を移動できたようです。しかし、知行国主が頼政から平時忠(*清盛の妻時子の弟。公家平氏)に変わり、流人生活は激変し、挙兵へ進むことになります。

頼朝の流人時代の生活については、史料が少なく、『吾妻鑑』の記録、それも当時のものではなく、頼朝が関東制圧後に、流人当時の関係者やその縁者についての記述に、断片的に記録されたものがほとんどです。それ以外は、『曽我物語』などの文学作品に出ているなどになります。上記は、『吾妻鑑』の記述にある事柄をもとにしましたが、一部は軍記物語なども参考としています。ともかく、わからないことが多いので、参考程度に。

こんにちは

頼朝の流人時代は、所領もなく、乳母の関係者、母親の実家の熱田大宮司家、家人の一部、そして監視役の伊豆の武士(在庁官人)の伊東氏・北条氏などが面倒を見ていたとされます。ただ、流人時代の生活については、史料が少なく、後代の『吾妻鑑』などに断片的に記述された記事によることが主になっています。

まず、なぜ頼朝が死罪ではなく流罪になったかということですが、従来の説では清盛の父の正盛の後妻の池禅尼の助命嘆願だけが言われていました。これは、平家の都落ちに平頼盛以下の池一門は...続きを読む

Q鎌倉時代の幕府・天皇の「二頭政治」で怒った天皇が戦争で幕府に負けた

 13世紀だったと思いますが、後鳥○(正確な名前忘れました)天皇がたぶん京都にいて、そして関東にある鎌倉幕府と、同じ日本で二つの支配層があるような政治形態だったと思います。

 その天皇が統幕を企てるも、戦争に敗れ、勝者としての幕府と、応援した武家たちが、西日本に大挙として押し寄せた。どうやら、褒美として西日本の政治的・経済的な支配権をそうした武士達に与えるという趣旨だったようですが、そもそも西日本は天皇側の京都もあり、戦争に勝ったとはいえ、にらみを利かせる意味で武家を幕府が配置したのでしょうか?

 関東から西日本に行くというよりは、行かされる(縁のない地域に住んで自分の代から子供や孫までその地域に住む覚悟だったと思います)という気持ちはなかったのでしょうか。各々の武家は、何を基準に、西日本の地域のあるところは、武家Aで、またこちらの地域は武家Bという風に決まったのでしょうか。サイコロですか?

 

Aベストアンサー

承久三年(一二二一)後鳥羽上皇がかつがれておこした「承久の乱」ですね。

制圧した鎌倉幕府は「応援した幕府たち」への恩賞として上皇方旧領の地頭職を与えました。
その配分規準は知り得ませんが、上皇に加担した武家の地位と、その旧領へ送り込む幕府方の武
家の功績とのバランスをみて決めたと思われる例が多いようです。
また、そのとき「にらみを利かせる意味で」京都に設けられたのが、六波羅守護(六波羅探題)です。

頼朝の「平家討伐」のときも、東国武士たちに西国の平氏没官領が与えられています。
もともと東国などに地頭職をもっていたので、初め代官を送って支配に当たらせた例もあったようで
すが、庶家(分家)が増えれば東国の本領だけでは扶養しきれません。
やがて、新所領に移転して支配に当たるようになりました。
 


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