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 日本語を勉強中の中国人です。中国語の「風花雪月」は日本語で「花鳥風月」というようです。興味を持っておりますが、なぜ雪を外すのでしょうか。それから、中国語の「風花雪月」は「自然の美しい風景」という使い方のほかに、「美辞麗句をならべただけで中身がなく、没落階級の情緒を反映した詩文をさす」という比喩の使い方もあるのですが、日本語の「花鳥風月」にもそういう貶す時に使う比喩の使い方があるのでしょうか。

 また、日本語に不自然なところがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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A 回答 (9件)

awayuki_ch さん、こんばんは。



★「花鳥」は、「花を見、鳥の声を聴く風雅な心」のことを言います。
★「風月」は、「自然の風物」とか、「清風や名月を題材として詩歌を作ること」とか、「心を和らげるものとしての自然界の風物」などの意味があります。

このような「花鳥」と「風月」が合わさって出来た【花鳥風月】は、【風流の対象として眺められる自然界の景観の代表的なもの】とか、「風流な遊び」のことを言ってます。

*風月を友とする⇒風流な生活を送る

このような意味に使われています。

「雪」が使われていない理由はわかりませんが、ここで述べられているように、「風流な生活」、「風流の対象として眺められる景観」という観点から見てみますと、「梅の木に啼く鶯」などの風流さを白一色の雪景色より上に取り上げたのではないでしょうか。

「花鳥風月」に、【美辞麗句をならべただけで中身がなく、没落階級の情緒を反映した詩文をさすという比喩の使い方】は無いと思います。

この回答への補足

「花を見、鳥の声を聴く風雅な心」という考え方はすばらしいです。確かに鳥の鳴き声によって、響き続ける感銘を覚えます。単調の雪景色よりいいのですね。なぜ「鳥」を入れるのかわかるようになりました。

ただ、私が感じた「風花雪月」の「雪」は静かな雪ではなく、動く雪です。大きな雪の中で、一人の剣客が広い天地で剣を振り回しています。雪は彼の周りに舞い上がって、地面に達した瞬間、「そそそそ……」のように聞こえます。それが「降り積もる」という感じです。まさしく人間の心にそっと降り積もるこの雪。私は「降り積もる」という言葉が大好きです。

>「清風や名月を題材として詩歌を作ること」

「名月」は「明月」のタイプミスでしょうか。中国では、よく「清風明月」のように使いますから。私は「清風」という単語がとても好きです。日本語でも「清風」でよろしいでしょうか。「せいふう」と読みますか。「清風」の美しい表現がありましたら、ぜひ教えてください。「清らかな風」はばかばかしいですね(^-^)。

「風花雪月」という言葉は恋愛を批判する文にもよく使われます。たとえば、次の二文は「花鳥風月」を入れることができるのでしょうか。

1.高校生の息子が最近同じクラスの子と付き合い始めた。それに気づいて、息子に『いま「風花雪月」というどころではない。ちゃんと勉強しなさい!』と。

2.ラブ小説を読んでいる娘に『また「風花雪月」のものを読んでるか。ちゃんと勉強しなさい!』と。

No.1さん、No.2さん、No.3さんの補足欄もご覧になっていただければ幸いです。何かご意見を聞いていただければ嬉しいです。

補足日時:2006/11/30 03:23
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この回答へのお礼

 shigure136さん、こんばんは。ご回答ありがとうございます。ちょっと興奮して眠れなくなりました。「風流な遊び」というと、この前、晋代の有名な書道家の王羲之の「蘭亭序」の中の「曲水流觴」の場所へ見学しにいってきました。感動されました。「風流な遊び」をしたいのですが、雑念が多すぎてなかなか難しいです(^-^)。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/11/30 03:53

awayuki_ch さん、こんにちは。


お礼と補足を読ませていただきました。

どうも中国の「風花雪月」における、「風」「花」「雪」「月」の捉え方には、自然界の美しいものという捉え方のほかに、もう一つの捉え方があるような気がしてきました。
awayuki_ch さんのご説明にあるような、【恋愛を批判する】言葉として使われていることから考えると、これらの四つは、確かに美しくはあるけれども、「風・花・雪」は、ふわふわとして実体のない、どこか儚くしっかりとしてないものというイメージも共有しています。さらに「月」も美しいとはいえ、自らが光を発しているのではなく、これまた実体のない美しさという点で共通していると考えられます。

このような意味で捉えると「風花雪月」は、美しさに潜む、浮ついて儚く、実体のない虚構の世界に喩えられるものとなるのではないかと思います。

このような面から「花鳥風月」とを対照させると、両者は似て非なる「四文字」なのかもしれません。

日本語の「花鳥風月」は回答文に記したとおりですが、ここには「風花雪月」のもつ「恋愛に対する揶揄」という意味合いは全く入っていないと思います。
「花鳥風月」の四文字は、それぞれが単純に「風流」、「自然」などを代表するものとして捉えられていますが、「風花雪月」の四文字は美しい自然のもと、実体のない美しさというものを代表するものとして捉えられているのだと思います。

これは awayuki_ch さんの例文や解説文を読みながら感じたことで、全く自信はありません。

したがって、私が考えるには、例文の「風花雪月」を「花鳥風月」と置き換えることは出来ないと思います。

私も「雪」は大好きです。
降り積もる雪を見上げるとき、また、降りしきる雪の中を歩くとき、月の明かりの中で静かに眠る雪見るとき、太陽の光を浴びて雪の結晶の一つ一つが輝きだすときなど、白一色とはいえ様々な顔を持っている雪を見るのはとても楽しみです。
特に、雪化粧をしはじめ、日々異なった顔を見せるこの時期の富士山を見る時は、「花鳥風月雪」と「雪」を一文字追加して欲しいと思います。

awayuki_ch さんの挙げた「剣客と雪」
こちらは風流というより厳しさ、冷たさ、鋭さなどを感じさせてくれます。
やはり、雪は、特に動く雪から受けるイメージは、風雅、風流よりも、「厳しさ」「忍耐」「艱難辛苦」などのイメージが先行してしまいますね。

ご質問にあった、「名月」はタイプミスではありません。
★「名月を 取ってくれろと 泣く子かな」
夜空に浮かぶお盆のようにまん丸な美しい月を見ながら、あれが欲しいよと駄々をこねている子供の様子を詠んだ俳句です。
「中秋の名月」・・・陰暦8月15日、9月13日の夜の月を「名月」称します。
十五夜といい、この月を見ながらお月見をする「月」が「名月」です。

「清風」は「せいふう」で、「すがすがしい(清々しい)風」「清らかな風」
「清らか」はばかばかしくはありません。
「清らか」という名詞は、「さっぱりとして汚れのない様子」を表現するものです。
「清らかな谷川の水」とか「清らかな澄んだ瞳」など。
このような意味のある名詞・「清らか」はもちろん「風」にも使えます。
「清らかな五月の風」⇒新緑の香りをたっぷり運んでくる、爽やかで清々しく透き通るような五月の風。

余談ですが、日本には「風花」と書いて「かざはな」と読む言葉があります。
これは、自分のいる所は雪が降ってはいないのに、何処か遠くで降っている雪が、風に舞って飛ばされて「はらはら」「ひらひら」と振ってきたときに使う言葉です。
「あれ、雪かな?」「そうじゃないよ、風花さ」
このような雪には風流を感じますね。
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この回答へのお礼

 shigure136さん、こんばんは。いつも鋭い考え方に感心しております。中国語の「風花雪月」の捉え方はとても共鳴できます。ふわふわとして実体のない、どこか儚くしっかりとしてないものというイメージなのですね。私はなぜか自分の中で、「風花雪月」から、静かな画面ではなく、「揺れる」、「そよぐ」などのような動的な感じばかり浮かび上がるのか、やっとわかってきたような気がします。「風花雪月」の四文字は美しい自然のもと、実体のない美しさというものを代表するものとして捉えられているのですね。恥ずかしいです。大変助かりました! 
 
 shigure136さんも雪が大好きなのですね。いろいろな雪の姿を紹介していただきありがとうございます。みんなとても美しいです。雨にぬれるのがいやですが、雪にぬれたら幸せなといつも思っています。先日、旅日画家の水墨画展へ見にいきました。富士山の絵はたくさん出てきました。富士山の頂きの雪はとてもきれいに書かれました。そこの部分を眺めながら、いつのまにか、自分もそこに飛んでいったような気分になりました。私も「花鳥風月雪」を新語としての申込書を書きたいです。「剣客と雪」は「厳しさ」「忍耐」「艱難辛苦」などのイメージでしょうか。そう言われれば、確かにそうですね。「凛とした」という表現も浮かび上がりました。

 「名月を 取ってくれろと 泣く子かな」は子どもの俳句でしょうか。可愛いですね。中国の漢詩でも同じような表現があります。やはり十五夜の名月は食欲をそそるものですね。「名月」について勉強になりました。ずっと勘違いしていました。「清風」をたくさん届けていただきありがとうございます。気持ちよかったです。「風花」でもいいからと神様にもう一度願います(^-^)。

 本当にありがとうございました。大変参考になりました。

お礼日時:2006/12/01 02:10

前回の回答中で、「死語」などといったのは、過激すぎる発言でした。

「ホトトギス」の流れを引く俳句の一派、日本画家の中には「花鳥風月」をテーマに立派な作品を作っていらっしゃる人々がありますから、「死語」という発言を取り消してお詫びいたします。
 しかし、質問者が言われるような、一般人の話の中にはまず出てこないでしょう。
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この回答へのお礼

 度々ありがとうございます。了解いたしました。
 心より厚くお礼申し上げます。

お礼日時:2006/12/01 00:12

 No.3です。

補足質問への回答。
 このような言葉は、ほとんど死語で、たまに評論家などが批判的な意味を込めて使用することはありますが、一般人は殆ど使いません。ただ、文学史を習う時には、教科書にも出てきます。
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この回答へのお礼

 再びご親切に回答していただきまして誠にありがとうございました。

お礼日時:2006/12/01 00:06

#1です。

ご返事ありがとうございました。

・『虞美人』、教えていただいたURLで拝見しました。
美しい漢詩ですね。
漢字の並びを見ているだけで、何か独特の感傷を覚えます。
解説を読んで正確な意味を理解するのに少し手間取りましたが、趣のある内容と感じました。
私の好きな作家の一人である夏目漱石に「虞美人草」という小説があります。
「虞美人草」は「ひなげし」という花の別名ですが、awayuki_chさんがこの詩を紹介してくれたので中国との関連を少し調べてみました。
項羽の愛した「虞妃」という美人がいたのですね。
この虞妃が項羽を追って自害した後に咲いたのが「ひなげし」だという由来をネットで見つけました。
私は「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ」などの方が作品としては好きなのですが、「虞美人草」は非常に丁寧に作られた小説という印象があります。
気品はあるけれども、やや高慢で一途な女性が登場しますが、「虞妃」のイメージと勝手に重ねてみたりしました。

・タゴールがノーベル文学賞を取ったインドの詩人だということは知っていましたが、作品に触れるのは初めてです。
中国語訳の「使生如夏花之絢爛,死如秋葉之静美。」も良い意味と響きを持っていますね。
日本では「夏の花」という表現になりますが、「夏花」と言えばやはり一番最初にイメージするのは「ひまわり」です。
ご存知かもしれませんが「向日葵」と書き、花自体も太陽を連想させるような形をしていますよね。

・「春暁」は漢詩に疎い私でも知っていました。
「春眠不覚暁」という出だしに、「国は違っても眠いのは同じなんだ」と変なところで感心したことを覚えています。(^^;)

・「風月」が本来は恋愛ごとを指していたというのは面白いですね。
日本ではあまり関連性が無いかもしれません。

・「風花雪月」に対する中国の方のイメージはお蔭様で良くわかりました。
日本でも軟弱な姿勢を厭う同様の感覚はありますが、「花鳥風月」が比喩的表現として登場することは殆んどありません。

・awayuki_chさんは雪がとても好きなんですね。
私は日本でも比較的雪の多い北海道という地方に住んでいるので、遠くの山に積もった雪景色などを美しいと思って見る事はありますが、身近な存在として美しいと感じる機会は少ないようです。
子供の頃は、雪合戦や城(かまくら)作りを楽しんだものですが、今では毎年、「雪かき」で体力を消耗します。
http://www.town.yuzawa.niigata.jp/overview/kamak …
運動不足の解消になると思って諦めていますが、awayuki_chさんに少し分けて上げれたらいいですね。(^-^)
ただ、天から降ってくる雪はいつ見ても心が洗われるような感覚を覚えます。
黒っぽい服を着ている時に、そこに着いた雪を(溶けないうちに)良く観察すると六角形の結晶が肉眼でもはっきり見えますよ。
「雪は天から送られた手紙である」と評した中谷宇吉郎という物理学者がいました。
あの対称性はとても神秘的です。
機会があったら一度試してみてください。

参考URL:http://www.sci.osaka-cu.ac.jp/phys/crys/ice/lect …

この回答への補足

 次はお礼の部分に属します。お礼の部分の字数オーバーなので、お気になさらないでください。

 いま『飛鳥集』をもう一度捲ってみたら、「The bird-song is the echo of the morning light back from the earth.」(鳥の歌は暁が大地に達してから反響した音である)という文を思い出しました。なかなか「花鳥風月」の「鳥」の存在感が理解できたような気がします。

 「春暁」の「春眠不覚暁」はやはり国境を越えて、人を眠くさせる魔法がありますね(^-^)。

 雪が名産物のところに住んでおられるのですね。城作りは面白そうです! 作るのも面白いし、あの洞窟にも入ってみたいです。「雪かき」は大変ですか。お手伝いしたいのですが、遠方の水はまぢかの火事を救うことができないですね(^-^)。雪という字は「セツ」という読み方もありますね。雪がいっぱい積もった地面に踏んだ瞬間の音はたぶん「セツ」に近いかと私はいつも思っています。「雪は天から送られた手紙である」はとても素敵な言葉です! 参考サイトは拝見しました。雪の花には「六花」という言い方もするのですね。万華鏡を見るのが好きで、本物の雪の結晶は万華鏡よりずっと美しいです! 雪の匂いがたっぷりの文章を届けていただき本当にありがとうございました。

補足日時:2006/11/30 23:21
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この回答へのお礼

 再びありがとうございます。日本では「花鳥風月」はやはり比喩的表現として登場することはほとんどないのですね。大変参考になりました。

 恥ずかしいですが、日本の国民作家の夏目漱石の作品はあまり読んだことがありません。hakobuluさんの愛読の作品をぜひ心がけます。最近芥川龍之介に少し興味を持って読んでいます。虞美人草はどんな植物なのか、ネットで写真を見ました。「紅顔薄命」(美人には薄命が多い)の「紅」の影響を受けたのか、思ったとおり赤です。項羽と虞妃の話もご存知ですね。熱い涙を流された尊敬する悲情英雄の一人です。『虞美人草』もぜひ読んでみたいと思います。ちなみに、前回貼った「虞美人」は漢詩ではなく、詞です。難しい話になるのですが、詞には普通題名がありません。「虞美人」はただの詞牌名です。詞牌名は詞の内容と関係なく、詞の構造(字数、句数、押韻など)を決めます。前回の詞は虞美人と関係がない詞で、文末の人間の愁思を東に向かって滔々と流れている春の川の水の流れにたとえる表現は名文として知られています。この詞を書いた人は亡国の君主です。彼は亡国後、囚われものとなり、故国や昔の生活を思いながら、その詞を書いたのです。新しい国の君主がこの詞を読んだら怖くて、すぐ殺す命令を下しました。黄泉の国への詞にもなりましたね。中国の文化に興味を持っていただきありがとうございます。

 日本では、「夏花」と言えばやはり一番最初にイメージするのは「ひまわり」なのですね。勉強になりました。タゴールの詩はあれ以来、たくさん拝読しました。特に、『飛鳥集』と『新月集』が好きです。想像力はすごい詩人だと思います。『飛鳥集』の言葉はロマンチックで哲理的です。『新月集』はすごく童心、母愛が感じられました。

・Sorrow is hushed into peace in my heart like the evening among the silent trees.
・I am like the road in the night listening to the footfalls of its memories in silence.
・The night's silence, like a deep lamp, is burning with the light of its milky way.
などなど、好きな文はいっぱいあります。

お礼日時:2006/11/30 23:14

花鳥風月は、室町時代の能の大成者、世阿弥の造語です。


たぶん、詩歌の世界、つまり漢詩の様式美である、風化雪月に対して、舞台芸能である「能」のあるべき姿として花鳥風月を定義したものと思われます。(芸術論で読んだ記憶があります)
ということで、世阿弥の視点は、「自然の美しい風景」ではなく、「自然に擬人化された、織り込まれた」舞台上の登場者の心象風景をいかにして表現するかにあります。
なんで、雪が無くなって鳥になったのか?というのは、私には回答できません。
詩歌において、花鳥風月を芸術論で使うのは、日本における芸術論の嚆矢がが世阿弥の風姿花伝であるからです。

おまけ
課長風月と言って、会社の中間管理職程度の美意識と揶揄することもあります。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。能と関係があるのですね。なかなか奥深いです。課長風月は笑えました(^-^)。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/11/30 22:01

 日本語の場合も、「花鳥風月」の外に「雪月花」という語も使われ、「雪」を無視しているわけではありません。

詩歌や絵画の題材になるものの代表として言われてきました。「ホトトギス」という俳句のグループの代表であった、高浜虚子は「花鳥諷(風)詠」といって、こういう風景を写生するのが俳句だと主張したりしました。
 こうした言葉も、わたしの推測によれば唐宋時代の詩文とともに日本に入ってきたと思われます。「古今和歌集・仮名序」にも「春のあしたに花のちるを見、秋のゆふぐれにこのはのおつるをきき、あるは、としごとに、かがみのかげに見ゆる雪と浪とをなげき、草のつゆ、水のあわを見てわが身をおどろき、」など何箇所にも書いてある内容も、その影響と考えられます。
 中国では「風花雪月」に過去の詩を批判する意味を持たせて用いることがあると、質問者はおっしゃっていますが、実は高浜虚子の師の正岡子規は、古今集以後の歌集が「花鳥諷詠」に偏っていると批判して、短歌や俳句の写生論を展開したのですが、その後にももっと徹底的に「花鳥諷詠」を批判した作者が多く現れています。
 

この回答への補足

「雪月花」もあるのですね。「雪」を無視しているわけではなく、安心できました。お伺いしたいのですが、「花鳥風月」と「雪月花」と、この二つの言葉自身は、単純に四季における美しい風景をさすという使い方でしょうか。恋愛、文章を批判する言葉として使えるのでしょうか。たとえば、次の三文にぜんぶ「花鳥風月」あるいは「雪月花」を入れることができるのでしょうか。

1.A作家は「風花雪月」しか書かないので、読む価値がない。

2、高校生の息子が最近同じクラスの子と付き合い始めた。それに気づいて、息子に『いま「風花雪月」というどころではない。ちゃんと勉強しなさい!』と。

3.ラブ小説を読んでいる娘に『また「風花雪月」のものを読んでるか。ちゃんと勉強しなさい!』と。

No.1さん、No.2さんの補足欄もご参考になっていただければ幸いです。

補足日時:2006/11/30 02:09
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この回答へのお礼

 ご丁寧切に教えていただきありがとうございます。
 「花鳥風月」の外に「雪月花」という表現もあるのですね。中国語は「花鳥虫草」という言葉がありました。でも、「風花雪月」ほど美しい言葉ではありません。普通の表現です。「花鳥風月」と「雪月花」は両方とても美しい感じの言葉ですね。大変参考になりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/11/30 02:43

こんにちは。


どちらの言葉も4つのものを合わせたものではなく、2つの言葉を組み合わせたものではないでしょうか。
No.1さんがおっしゃっているように、「花鳥風月」は「花鳥」と「風月」が組み合わされた言葉です。
「花鳥」と「風月」はそれぞれ違う情景を表しています。
おそらく、「風花雪月」も「風花」と「雪月」に分けられるのではないでしょうか。
しかし、日本で生まれ育った私が「風花」と「雪月」と言う言葉で思い浮かべる情景は、「風に舞う桜の花びら」であり、「降る雪の向こうに朧に見える月の明かり」です。
一方は、春めいた暖かさを感じさせる風であるのに、もう一方は、静寂と寒さを感じさせます。
それにもかかわらず、この二つの情景はどこか似ているところもあります。
「月明かりの下で風に舞う雪は、風に舞う花びらのようにも見える」ということかも知れません。
「雪月」という言葉からは、また、豪雪地帯で雪に閉じ込められる厳しい冬の季節を思い浮かべる人が多いでしょう。
日本でも、雪見酒など、雪を愛でる言葉はありますが、どちらかというとやっかいなものであるという認識のほうが勝るのではないかと思います。
日本では、育ちの良い子女を揶揄するときに、「花よ、蝶よと」と言いますね。
きれいなものに囲まれて、保護されて育ってきたようだけれど、現実の世間の厳しさを知らないのだ、というような、「甘やかされてきた」、「世間知らず」という意味です。
「花鳥風月」も、「良い面、美しい部分だけを見ている」という意味で、「世の中は花鳥風月だけでは通らない(汚い面もある)」というような言い方はするのではないでしょうか。
私もよい勉強になりました。

この回答への補足

>どちらの言葉も4つのものを合わせたものではなく、2つの言葉を組み合わせたものではないでしょうか。

確かにネットで検索してみたら、「雪月風花」という表示も出てきて驚きました。一つの新しい発見です。根拠はありませんが、現在の「風花雪月」はなんとなく「風が雪の花を携え、月が雪に照り映える」のような感じがします。ですから、「雪月風花」と「風花雪月」は両方あるのです。

>「月明かりの下で風に舞う雪は、風に舞う花びらのようにも見える」ということかも知れません。

そうですね。まさにこんな感じです。ここの花はたぶん植物の花と思わず、おっしゃるどおり、雪の花だと思いました。「風花雪月」という単語を見て、なぜか、季節は冬だけ浮かび上がりました。静かな銀世界で、白い粉雪が舞い上がっています。まさしく雪に咲く花のように。誰もいないその広い空間で恋人二人が月の光を浴びて二人っきりの国にいるように、追いかけたりしています。手のひらを広げると、雪が優しく届きます。「風花雪月」からとてもロマンチックな感じを受けます。ですから、現在余計よくない意味が発生したのではないかと、いま考えております。こんな寒い天気に雪遊びをするなんてローマンチックすぎて、現実から遊離しますね。この二人の両親も現場にいるなら、きっと「そんなとこで何をしてるんだ。さっさと部屋に入りなさい」と怒られるでしょう。

お伺いしたいのですが、「花鳥風月」からどんな修飾語は想像できるのでしょうか。勝手に推測してみましたが、「うららか」と「侘しい」であっていますか。

>「花鳥風月」も、「良い面、美しい部分だけを見ている」という意味で、「世の中は花鳥風月だけでは通らない(汚い面もある)」というような言い方はするのではないでしょうか。

面白いです。中国語の「風花雪月」はこんな使い方はしません。いまほとんど恋と文章を批判します。

No.1さんの補足欄も参考していただければ幸いです。

補足日時:2006/11/30 00:45
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。雪はどちらかというとやっかいな感覚ですね。雪がめったに降らないところで生活しているので、雪に憧れます。雪が降ると、みんな珍しく窓に目を向けます。「あっ、雪だ♪」と喜んで叫んでしまいます。去年は確か二回粉雪が降りましたが、地面に達したら、すぐ溶けてしまいました。数時間も降っていなかったし、とても残念でした。今年も降ってほしいなと神様に願っておりますが、なかなか叶えてくれません(^-^)。
 「雪月」、「雪見酒」、「花よ、蝶よと」、「世の中は花鳥風月だけでは通らない(汚い面もある)」のお話は大変参考になりました。いろいろ考えさせていただきました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/11/30 01:35

不謹慎かもしれませんが、クイズのようで面白いご質問だと思います。


全くの推測でしかお答えできませんが、
なぜ日本では「鳥」で中国では「雪」なのか、という点について考えてみました。


まず日本の場合は、「花鳥」で春を表わし、「風月」で秋を表わしているように思います。
つまり、最も暑い夏と最も寒い冬は除外されているのではないか、という気がします。
ご存知のように、日本では古くから恋の表現として短歌が良く使われていました。
こういった歌を詠む心理になるのは、恐らく、「冬を抜けて水温む春」と「猛々しい夏が過ぎ、枯葉散る侘しい秋」が最も多いのではないかと勝手に想像しています。
これが夏の「陽」や、冬の「雪」が仲間はずれにされた理由かもしれません。

中国の場合は良くわかりませんが、重厚で壮麗な漢詩などに接したわずかな経験からすると、
人の感情もさることながら、純粋に自然そのものを愛でるという習慣が早くから根付いていたのではないか、という気がします。

以上は当てずっぽうの推測ですから鵜呑みにされませんよう、あくまで一感想としてご参考程度に留めてください。


「花鳥風月」が「貶義詞」として使われることは、日本ではありません。


添削箇所はありませんが、文意に応じて、句点の後で少し改行を取り入れるとさらに見やすい文面になるでしょう。

この回答への補足

 「風花雪月」は自然の一番典型的な美しい風景を列挙しただけだと思って、春夏秋冬に対応すると考えてみたことがありません。考えてみたら面白いです。たぶん、「春風」、「秋月」、「冬雪」のように思います。「花」は春と夏に、どちらに属しても良いような気がします。

春花秋月何時了,往事知多少。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/liyu1.htm
日本の民謡「荒城の月」に似ている心境の有名な『虞美人』という詞です。

使生如夏花之絢爛,死如秋葉之静美。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1553706.html
「夏花」について、私が以前聞いた質問を思い出しました。「使生如夏花之絢爛,死如秋葉之静美」という中国語はよく本で読みます。美しいなといつも思っています。個人的には、「夏花」という言い方は「春花」より好きです。作者は中国人だとひたすら思いましたが、調べてみたら、タゴールの名文だと分かりました。もとの文は中国人のではないので、参考になれないかもしれませんね。

 日本語の「花鳥風月」は「花鳥」で春を表わし、「風月」で秋を表わしているのですね。

 「花鳥」について孟浩然の「春暁」という有名な漢詩を思い出しました。確か小学生の時に先生に習ったのです。その中で「花鳥」を上手に春色を表現しました。
http://www.saitama-u.ac.jp/kanshi/moukoune/syung …

 「風月」で日本語の場合は秋を表わしているのですね。なかなか「風月」で秋を表わす漢詩は思い出せませんが、辞書を調べてみたら新しい発見がありました。中国語の「風月」は「1.風と月。広く景色をさす」。例文はまさにhakobuluさんがおっしゃった秋に関する例文です。「初秋の涼しい夕、風月の景色がとても美しい。」という意味の文です。もっと驚いたことは、中国語の「風月」のもう一つの意味は「<旧>恋愛ごとをさす」です。おそらく、この意味は日本語の「風月」にはないでしょう。質問文に書き忘れてしまいましたが、「風花雪月」にもこのような意味があります。

 確かに昔は「自然の美しい景色」を表す「風花雪月」なのですが、なぜか、現代の中国ではほとんど「貶義詞」として使われています。ローマンチック過ぎて、現実から遊離します。特に、恋愛、文章を批判する場合は多いように思います。英語訳はromantic themesだそうです。少年時代の恋は中国の両親はほとんど反対します。『いま「風花雪月」というどころではない。ちゃんと勉強しなさい!』と怒られます。また、「美辞麗句をならべただけで中身がない文章」には「風花雪月」と批判します。

補足日時:2006/11/29 22:26
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この回答へのお礼

 hakobuluさん、いつもお世話になります。「花鳥・風月」のように分かられ参考になりました。最も暑い夏と最も寒い冬は除外されているのですね。「風花雪月」の中で、一番美しいのは舞い上がっている雪だと思うので、雪は除外され、ちょっと落ち込んでいます。ロマンチック度は少し割引したような気がします。雪が降らないところで生活しているくせに(^-^)。
 要するに、日本語の「花鳥風月」は恋と文章を批判する使い方をしないのですね。ちょうど友人から「花鳥風月」という名前のCDを借りてきました。表紙の「花鳥風月」というタイトルに惹かれました。日本語の場合は昔のままの極単純の使い方なのですね。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/11/29 22:57

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Q花鳥風月?

花鳥風月という言葉は、英語ではどう言うのですか?
分かる方いらっしゃいましたら、回答お願いします。

Aベストアンサー

英語にはしにくい言葉ですね。
一応、英語で説明すると こうなります。

花鳥風月(kachofugetsu) : Literally, 花(ka)=flower; (鳥)cho=birds; 風(fu)=wind; 月(getsu)=moon
Figuratively, the distilled aspects of nature enjoyed by haikuists and
Japanese in general; not the wilderness as is. "花鳥諷詠(Kachofuei)" refers to the
act of composing haiku or tanka about kachofugetsu.

Q*フランス語など「お花」に関するかわいい響きありませんか?*

お花に関する意味でフレンチなかわいい響きの単語はありませんか?
他、フランス語に限らず、日本語でも英語でもいいので
お花に関する、簡単でかわいらしい響きの言葉を探しています。

ちょっと名前を付けるのに参考にさせて頂きたいので、
どうかよろしくお願いします。
(読み方とつづりもお願いします♪)

Aベストアンサー

『花』に関係した言葉を、辞書で引くと、

La fleur 花(フルール)
La Flore 花の女神フローラ(フロール)
floral  花の (フローラル)
fleurette 小さい花(フルーレット)
fleuron  小さい花(フルーロン)
freuriste 花屋(フルーリスト)
fleurage  花(古語)(フルラージュ)
fleurir(e) 開花する、花が咲く(フルーリール)
fleuri(e)  花の咲いた(フルーリ)

発音は、カタカナでは表しずらいですね。

ちょっと気になったのですが、No.4の方。
dans le Jardin (庭の中)
dentdelion(たんぽぽ)これは、英語。フランス語では、pissenlit(ピッサンリ)と言いますが、子供のおねしょの意味もありますので、御注意下さい。

Q道路の白線・黄色線は「はみ出し禁止」?「追い越し禁止」?車線変更は?

道路の白線・黄色線について疑問に思っています。過去の質問を拝見しましたら、白・黄色の実線について
「はみ出し」を禁止している
「追い越しのためのはみ出し」を禁止している
「追い越し」を禁止している
との回答を眼にしました。

1)どの見解が正しいのでしょうか?


2)1)の回答にもよりますが、車線区分線としての白・黄色の実線の場合には、車線変更は禁止なのでしょうか?

「はみ出し」禁止であれば当然ダメでしょうが、「追い越し」禁止であれば車線変更は可能なような気がします。しかし、その場合は「追い越しのための車線変更」と「ただの車線変更」との区別がつかず、どこから違反とされるのかわかりません。

宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

少し噛み砕いて書いてみます。
(学科のテキストには明記されていないと思われるので)

◆白色実線の中央線

主に、片側に複数車線ある場合の中央線で、(原則として)絶対にはみ出し禁止。

(複数の車線があるため、駐車車両や道路工事などがあっても、中央線をはみ出すことなく回避できるから)

中央線が2本線で引かれている場合は、それが中央線であることと、はみ出してはいけないことを、より強調するため。

◆黄色実線の中央線

主に、片側1車線の道路に引かれており、追い越しのための右側部分へのはみ出しは禁止。

(道幅が狭いため、駐車車両や道路工事、また軽車両を追い越すなどやむを得ない場合には、中央線の右側へはみ出すことが出来る)

「追い越し禁止」の標識がある場合は、右側へはみ出すことはもちろん、はみ出さずに済む状況であっても、追い越しそのものが禁止されます。


次に

◆実線の車線境界線(白色・黄色とも)

実線部分では、車線変更そのものが禁止されます。白・黄色ともに。

※交差点(内部)と、その手前30メートル以内はもともと「追い越し禁止」場所ですから、仮に点線(破線)の車線境界線であっても、追い越しのための進路変更(車線変更)をすることは出来ません。
(優先道路を走行していて信号機のない交差点の場合は除外。←あまり考えなくて結構です)

テキストには、「追い越しが禁止される場所」として7項目の記載があると思います。
それらの場所では、追い越しをしようとして進路変更(車線変更)しただけでも違反行為と考えられます。

●「追い越しのための車線変更」と「ただの車線変更」との区別 について。

クルマはその速度に応じた車間距離を必要としますが、最低限必要な距離としては、前車が急停車した場合に追突しない距離と考えられます。
次に、追い越す動機としては、速度差があるため前車に対して、最低限必要な距離程度までに近づいてしまったから、という理由が挙げられると思います。
(勿論、急いでいる場合もあるでしょう)

追い越す意識(目的)があるかどうかという心理は、遠目には分かりませんが、車間距離がギリギリまで近づいていた場合には、意図していたと判断されるのではないでしょうか?
追い越す必要がなければもう少し車間距離を取るでしょうから。
特に速度を上げて接近していった場合には、その速度差から、追い越す意識があったと判断されると思われます。

現実的には、追い越しのための車線変更自体が違反行為となるケースが多いと思いますが、単純に追い越す意図があるかないか、を判断する材料はギリギリの車間距離か十分な車間距離か、また、前車と同じ速度であったか、速い速度で接近中であったか、だと考えます。

前車と十分な車間距離があり、速度も同程度の場合には、単なる車線変更と見なされると思います。

どうぞご安全に。(元、指導員より)

少し噛み砕いて書いてみます。
(学科のテキストには明記されていないと思われるので)

◆白色実線の中央線

主に、片側に複数車線ある場合の中央線で、(原則として)絶対にはみ出し禁止。

(複数の車線があるため、駐車車両や道路工事などがあっても、中央線をはみ出すことなく回避できるから)

中央線が2本線で引かれている場合は、それが中央線であることと、はみ出してはいけないことを、より強調するため。

◆黄色実線の中央線

主に、片側1車線の道路に引かれており、追い越しのための右側部分...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q「ビバ」とはどういう意味か?。

 「ビバ」
 という言葉がありますが、どういう意味でしょうか?。
 
 用例
 ビバ!埼玉
 ビバ!兄弟

 などなど・・・。

Aベストアンサー

イタリア語でバンザイですね。「viva」

Q電車に飛びこんで自殺した方の親族は本当に多額の賠償金みたいなのをはらうのでしょうか?

電車に飛びこんで自殺した方の親族は本当に多額の賠償金みたいなのをはらうのでしょうか?

 そのまんまです。よくそういう話は聞きますけど、噂以上にわかりません。家族だからと言って連帯保証人でもないと思いますし、仮にそうでも額がでかいと即自己破産なきもしますし、死者の財産を放棄すれば債務放棄ということにもなるような気がしますが、良く分かりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

以前聞いた話しでは実際に請求、支払までいくことはないと言ってましたが・・・

自殺→電車に飛び込む→通常の精神状態では出来ない

のような理由だそうです。一億円以上等、高額の賠償金や
慰謝料の話しは鉄道関係者がある程度意図的に流しているようで(そう簡単に電車に飛び込まれては困る)。
それよりも飛び込まれた電車の運転手さんの精神的ショックのほうが大きくて事故後強制的に1ヶ月の休暇をとらされるようです。

いずれにしろ、電車で飛び込み自殺なんて絶対にいけません!!

Q「先日」はいつまで?

お世話になります。
会社の営業先に挨拶文を送りたいのですが、2月初旬にお会いした事を「先日はお忙しい中・・・」はおかしいですか?

2ヶ月近くのことを「先日」というのはどうでしょうか?

適切な言葉があれば教えて頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は社会人になってから結構長いですが、その経験をもとに回答します。

「先日は」は、1ヶ月ぐらいまでならOKです。
現在(3月)は、2月上旬から1ヶ月以上経過していますから、「先日は」は、無理に近いです。

「先日」を超えて、とっさのときに話す言葉としては、たとえば「いつぞやは」があります。
しかし今回のケースは、前回会った日付がわかっていて、しかも、落ち着いて書き言葉で書けるのですから、「いつぞやは」とするのは失礼です。

現在(3月)から2月初旬を指して、

「先月はお忙しい中・・・」

とするのが適切です。


なお、
前々月以前の場合は、何月かを具体的に書く、
年を越えたら「昨年は」とする、
です。

Q煩悩ってどういう意味ですか?

煩悩(ぼんのう)ってどういう意味ですか?
辞書で調べても難しくて理解できません。
具体的に、わかりやすく教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
 
  煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。
 
  仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。
 
  しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。別に和服でなく、洋装でも構わないのです。また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。
 
  あるいは、仏教では、イスラム教と同様、精神の安定や、日常の心の状態を興奮させたり、おかしくする飲み物などは禁じています。例えば、麻薬などは無論駄目ですし、煙草やお酒も駄目なはずです。しかし、日本の坊様は、何時頃からか、「般若湯(はんにゃとう)」と称して、酒を店で買って飲んでいたりします。坊様が、良い酒を味わいながら飲みつつ、何という味わい、この酔い心地、さすがに銘酒は違う。極楽じゃ。しかし、考えてみれば、これも「煩悩、煩悩……仏様よ、お許しあれ、南無阿弥陀仏、いやもう一杯、何ともうまい」などと云っていると、どこが、煩い、悩みの煩悩か分からないでしょう。
 
  また仏教では、生き物のいのちを大切にせよと教え、殺生を禁じ、従って、動物の肉は無論、鳥の肉も、魚も食べてはならないことになっているのですが、それも何のことかです。酒のさかなに、コイのあらいを食べつつ、いい気分になって来て、坊様が、いや、浮き世もまた楽しいぞよ、酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ……などと歌っていると、「生臭坊主」ということになるのですが、以上は極端に戯画化しているので、日本では、昔から、坊様が、妻帯し、子供がおり、酒は飲み、魚も食べ、それで別に社会から糾弾などされていません。
 
  大酒を飲み、酔っぱらって、寺の本堂で乱交パーティを開くような坊様は、それは別に坊様でなくとも、普通の人でも社会から糾弾されます。
 
  仏教の坊様にとっては、女性と触れたり、メイクラヴすること、酒を飲んだり魚を食べたりすることは、仏教の教えに反することで、こういう「欲望」を、修行の妨げになる「煩悩」と呼ぶのですが、煩悩というのは、多くの坊様の日常生活から云うと、自然なことのようです。
 
  もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。これも煩悩か」などとなります。
 
  「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。
 
  これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。
 
  煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。(ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。
 
  煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。
 
  肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。
 
  人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。
 
  「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。
 
  世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。
 

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
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Q「引導を渡す」という言葉について

「引導を渡す」という言葉について、教えていただけますか。
この言葉は、(とどめを刺す)様な意味で使われることはあるのでしょうか。
例えば、
「(壊れかけの)会社の車に、おれが引導を渡してやった。」
とかいう使い方をすることがあるでしょうか。
(壊れかけの車を、ごまかしごまかし使っていたのを、もう諦めて、廃車にする)
ような意味では使われるような気がするんですが、
ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか、
教えていただけますか。
なんとも分かりづらい質問で、申し訳ありません。

Aベストアンサー

 
「引導」というのは、元々中国で古くから使われていた言葉で、特に「道教」では、一種の気息術か、呼吸法で、大気を吸い込むことを言いました。しかし、普通の言葉として、「手引きする」「案内する」というような意味をあいます。

仏典を漢訳するとき、サンスクリット語 parikarsana の訳語に、この「引導」を選んだのです。「法華経」では、人々を導いて仏道に入らせる意味で使われています。また、死者を済度する意味でも使います。

後に、死者の葬儀の時、導師が、棺の前で、法語や仏教の教えの詩(ガーター)を語って、死者を、迷界から浄土へと導くよう試みる儀式のことになります。

これを、「引導を渡す」と言います。「迷界から浄土へ導く」とは何かと言うと、これは、死者に、「死んだ事実」を確実に認識させ、現世への執着を棄て、悟りの仏道へと進むよう説くことだとも言えます。

つまり、「お前は間違いなく死んだ」ということを、死者に宣言する儀式にもなります。民主主義的とか何とか関係なく、端的に「事実」を語り、事実を宣言する儀式だとも言えます。死の不可逆性を悟って、始めて、浄土への道も開かれるからです。

最初に、こういう「引導を渡す」という形の儀式をしたのは、中国黄檗集の祖、黄檗希運で、彼は9世紀頃の人です。

仏教用語から転じて、「最終的な宣告をして、諦めさせる」という意味があるようですが、これは「最終的な宣告をする」にウェイトがあります。引導を渡しても、相手が納得するとか、諦めるとは限らないからです。

仏教なら、「お前は死んだのだ、そのことを知り、成仏せよ」と引導を渡しても、死者が納得せず、この世への未練から、亡霊などになったり、輪廻に落ちるということは、別に珍しいことでもないからです。

他方、「止めを刺す」というのは、殺したはずの相手を、生き返る余地などないように、念を押して、首を突くとか心臓を刺して、死を確実にすることです。ここから転じて、念を入れて、終わらせるという意味になります。

「敵の攻撃に止めを刺した」というのは、単に攻撃を撃退するだけでなく、もう攻撃できないよう、念を入れて撃退・壊滅させることでしょう。またこれで、最後の最後だということで、「日本画のあの分野では、現代ではA氏がとどめを刺した」という風に使います。

>「(壊れかけの)会社の車に、おれが引導を渡してやった。」

これは用法としてあると思います。「引導を渡す」というのは、かなり転用されます。

>ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか

「引導を渡す」と「とどめを刺す」では、意味が元々違います。しかし、或る場面だと、二つの言い方で、どちらでも使える場合があります。「総務にかけあって、あの車は、おれがとどめを刺してやった」というのは、同僚などに語る場合は使うと思います。

そもそも車に向かい、「お前はすでに死車だ、そのことを知り、迷わず成仏せよ」などというのはおかしい訳です。この場合の「引導を渡す」は、「もう無用の車だと宣言する」ということでしょう。車に擬人的にこう言っているのだとしても、車に同意や納得を求めている訳ではありません。

だから、もう壊れかけ、実は廃車となっているはずの車に、最後の止めを刺して、実質廃車にした、という意味で、「止めを刺した」はありえると思います。

会社か総務の方針かなどで、とっくに廃車(死者)になっている車が、迷って、この世にいるのを、お前はもう廃車だ、この車はもう廃車だ、と宣言することが、「引導を渡す」であり、またそのことは「とどめを刺す」ことにもなるからです。

(もっと偉い人が、車を廃車にしない総務の担当に、廃車にしなさいと、引導を渡す、ということはあります。しかし、担当にとどめを刺すとは言いません。担当に引導を渡し、車にとどめを刺した……というような言い方になるでしょう。無理に例を作ると)。

「引導を渡す」と「止めを刺す」は、元々の意味が違いますから、特定の場面でしか、この二つの表現は成立しません。それも、かなり口語的で、「砕けた表現」の場合に、両方使えると思えます。

だから、この場合は、あれは廃車だと思っている同僚に向かい、軽く言う場合は、「おれが引導を渡した」「おれがとどめを刺した」は使えますが、上司に向かい、「課長、私が、あのぼろ車にとどめを刺しましたよ」というのは、酒の席だとかで冗談めかして言うならともかく、ちょっと使わない方が適切です。

>ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか

ここでは、話す相手や場面によりますが、「引導を渡す」は、「止めを刺す」という意味で使えると思います。しかし、この二つの表現は、本来起源が違うので、一般的な使用の慣習などで、判断しなければならないと思います。

口語調で、少し乱暴に言う場合以外は、基本的に、違う表現・言葉だと考えた方がよいと思います。
 

 
「引導」というのは、元々中国で古くから使われていた言葉で、特に「道教」では、一種の気息術か、呼吸法で、大気を吸い込むことを言いました。しかし、普通の言葉として、「手引きする」「案内する」というような意味をあいます。

仏典を漢訳するとき、サンスクリット語 parikarsana の訳語に、この「引導」を選んだのです。「法華経」では、人々を導いて仏道に入らせる意味で使われています。また、死者を済度する意味でも使います。

後に、死者の葬儀の時、導師が、棺の前で、法語や仏教の教えの詩(...続きを読む


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