ファンタビの世界観を作る二人にインタビュー!

以下は『人間失格』での一節なのですが、

もしもドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えてたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ

→ その後、主人公の絶望シーンへ。シノニム(同義)←→アント。

僕は「罪と罰」は、普通に同義語だと思ってたのですが。だって罪のないところに罰は、在ってはならない。在るとすれば、それは間違った罰、つまり冤罪になる。濡れ衣。

確かに罪は、犯罪者に利益をもたらす。
一方、罰は、犯罪者に損害をもたらす。
   けどその損益は対応してる。お互いが当然の報いでつながる。
無罪の人が受ける「罰」は、存在しない。
無罪の人が受ける、損害は、ただの事故だと思う。
   そして損害という事実を、「罰」と呼ぶか「事故」と呼ぶかは、
人間の主観に過ぎない。
   で要するに、罪と罰は、普通の主観上、互いに対応する、兄弟みたいな同義語じゃないですか。

太宰治が、「わかりかけた」仮説?罪と罰の対義語説?ってどんな可能性がありうるのでしょう?ただの悲劇の主人公の言い逃れ?
自分は罪を犯してきたのに、まだ罰を受けていない?
自分は罪を犯してないのに、なぜ罰を受けるんだ!
絶対に相通ぜざるもの、ドストの青みどろ…って?

僕は「罪と罰」も「人間失格」も両方読みましたが、どんな解釈ができるのでしょう?長く考えてみたいので、締め切りも遅めにします。ご協力ねがう。

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A 回答 (7件)

「罪」の問題は、『人間失格』のなかでも根本的な問題としてあります。



『人間失格』は何を描いた話かというと、罪を負った人間は許されるのか、ということになるでしょう。
罪を負った者は、主人公(大庭葉蔵)です。
そうして、その罪を咎める者、許す者が登場します。

その罪というのはいったいどのようなものなのか。
まず、この角度からもういちどこの作品を読み直してみます。
幼いうちから、葉蔵は自分を偽ってきたことを述べていきます。

それはどうしてか。
手記の冒頭に、こんな文章があります。

>「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」

これは重要な点です。
つまり主人公は生活者ではないのです。

太宰治の作品には『ヴィヨンの妻』や『斜陽』にも出てくるように、「生活者」対「芸術家」を二項対立させていく図式が見て取れます。
ここで葉蔵は「芸術家」であるのだけれど、幼い頃から自分をほかの人間と同じ「生活者」であるふりをしてきた、とある。
内心ではその一員でありたいと望みながら、芸術家である自分は、そのなかに入ることができない。そのくせ、自分を偽ってきた。その「偽り」が、主人公の考える自分自身の罪です。

だからこそ

> 果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。
> 「ワザ。ワザ」

と偽りを見破った竹一の存在を怖れるのです。
竹一は「咎める者」として登場する最初の人物です。
以下、生活者にはなれない主人公を咎める人物(すべて男性)がつぎつぎに登場してきます。

一方で生活者たちは、つぎつぎと罪を犯していきます。堀木、ヒラメ、画商。この罪は欲望を抱いた生活者の罪で、主人公の考えるような観念的な罪とは異なったものです。
このような欲望をもとより抱くことのない(主人公は空腹を知りません)主人公は、こうした罪とは異なった位相にある。

その二種類の「罪」を念頭に置いておいてください。

ドストエフスキーの『罪と罰』における「罪」は老婆殺しを当然指しています。

ラスコリニコフもまた、生活者ではなく、欲望のために罪を犯したのではない。
人間は凡人と偉人にわけられ、偉人は社会の道徳を超越する権利をもつ、と考えたからです。

葉蔵と一種パラレルな位置にあることはわかりますね。

> もしもドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?

罪と罰をシノニムとすると、「老婆殺し」と「罰」は同義語、つまり老婆を殺したから罰を受けた、と直接に結ばれます。
これはむしろ一般的な道徳観といえるでしょう。

「老婆殺し」が罰の対義語であるとはどういうことなのか。
葉蔵の問題意識に引きつけると、老婆殺し、すなわち生活者を殺すこととは、生活者の一員ではないことを自他共に認める、ということにもつながっていきます。
つまり、偽ることをやめることです。
それは、罰の対極にあることではないのか。
救済とは言えないのか。
偽らなければ、よいのか。
偽らなければ救済がえられるのか。

そのように考えている場面であることが読みとれます。

『人間失格』というテクストは構造がものすごくはっきりしているので、構造を取り上げながら細かく読んでいくと、大変におもしろいんですが、あんまり書くとわたしの問題意識になっちゃう。
だから、ここらへんでいったん切ります。

納得がいかない点、もっと知りたい点があればどうぞ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまり主人公は生活者ではないのです。
なるほど、「生活者」という視点ですか、すごい分かり易いですね。
生活者 対 芸術家(=天才、ナポレオン、踏み越えた者
生活者=金貸し老婆、情死した女

>その二種類の「罪」を念頭に置いておいてください。
「生活者の罪」と「主人公の観念上の罪」
これは気づきませんでした。たしかに、だから堀木と主人公の問答が、途中でかみ合わなくなったんですね。罪のアントは、法律、蜜とか。
主人公は、所有欲もなく、その後、貞操権うばわれても黙ってましたもんね。

いや、おかげ様で、凄いモヤモヤがクリアーになって来ました。
あれ?とすると、「罰」アントの「罪」は、「主人公の観念上の罪」かな?「老婆殺しの罪」シノニ「シベリア流刑」?
「情死いきのこり罪」シノニ「サナトリアム送り」
「サナトリアム送り」とは別の観念上の罰を、葉蔵は抱え込んでる?
罪が二種類なら、罰もシノニ罰とアント罰の二種類あるのですか?
シノニ罰は、一般社会だれもが認知できる罰で、アント罰は主人公だけが抱え込んだ「目に見えない罰」?

すんません。ただ後半が、いまひとつ理解できませんでした。
>「老婆殺し」が罰の対義語であるとはどういうことなのか。
>生活者の一員ではないことを自他共に認める
>つまり、偽ることをやめることです。

主人公が、生活者でない、常識を超えた特権的人間だと、ヒラキ直ることですか?俺は当然に、踏み越える、びくびく偽る必要はなくなった、堂々と、一線を越えてやる?

>それは、罰の対極にあることではないのか。
>救済とは言えないのか。偽らなければ、よいのか。

ドスト「罪と罰」では、結局、救済はソーニャの愛だったの?てカンジでしたが。葉蔵への救済は、常識や安定を求める女性からの開放?女がいない世界にいくこと?社会からの期待から、隔離された存在になること?だったんでしょうか?うーん、よくわかりません。

お礼日時:2006/12/04 22:58

せっかくレスポンスをくださったのに、反応が遅くなってごめんなさい。



まず簡単なところから。
ラカンは人の名前、ジャック・ラカンっていうフランス人です。思想家というか精神分析家というか、まあそんな畑の人なんですが、この人の思想を援用しつつ、文学を読みほどいていこうとする「精神分析批評」というジャンルがあるんですね。わたしはこれをほとんど知らないんですが、『人間失格』に表だっては描かれていないけれど、作品の大きな柱である「父親からの承認」、あるいは「なぜ主人公の母親は描かれないのか」ということを見ていこうとするなら、こういう精神分析批評の見方に立つことが有効なのではないか、みたいに思うわけです。おそらく「父親からの承認」ということは、主人公にとってきわめて重要なことであったにちがいない。こういうところから見ていくと、もっと深く見えてくるかなあ、みたいに思っている、ということです。

さて、補足欄でふれていらっしゃる主人公のイノセンスのことなんですが。

作品が成立している時代といまの時代感覚にある「ずれ」を意識しておいたほうがいいと思うんです。

当時は芸術家=イノセント、芸術家から生活者への移行→イノセンスを失う、みたいな認識があった。
これはかなりあとまで残っていく感覚です。

以前カラオケに行って〈「いちご白書」をもう一度〉という歌を歌っていた人がいたんです。確かそのなかの歌詞に、就職が決まって、彼女に「自分はもう若くないんだ」みたいに言い訳した、みたいな内容があって、おもしろいなあと思った。1970年代中期の歌なんですが、まだこんな感覚が残ってたんだ、みたいに思ったわけです。
いまはどうでしょう、わたしたちはたとえ就職が決まっても、企業の一員として働くことになっても、それが「イノセンスを失う」ことだ、みたいには受けとめないのではないか、というより、その前提とされる「自分がイノセントな存在である」みたいな認識を持てなくなってしまっているのではないか、と思うわけです。
そんな、髪を切ったぐらいで失われるイノセンスなんてどのていどのものなんだ、じゃ、お坊さんなんてどうなるんだ(笑)、みたいな。

ここらへんの感覚の大元は、やはり近代の思想を引きずっているのだろうと思います。
つまり、それを大ざっぱに言ってしまえば、こんなことになるのではないかと思うんです。

明治維新によって封建制が滅びて、新しい知識や学問、技術を持っている人はどんどん出世できた。
 ↓
ところが明治も半ばになると、そうした人の数も増えて、競争相手が多くなり、積極的に仕事をしようと思うと、師匠や同業者にぶつかっていく。自分の身についた知識や技術を生かそうと思っても、働くことで人を蹴落とし、あるいは人に蹴落とされ、屈辱的で反人間的な生活を送らざるを得なくなってくる。
 ↓
良心を持ち、汚れのない仕事をしようとする人は、親の仕事も引き継がず、勤め人にもならず、家庭など壊してしまって飛び出したほうがいい。

大正から昭和初期にかけての作家の多くはこういう人々であったし、読者も、「たとえ貧乏をし、破滅しようとも、良心を持った人間の、自己を偽らない生活、または清らかな生活の典型がここにある」(伊藤整『改訂 文学入門』)として読んでいたわけです。

だから、ここで「イノセンス」とわたしが言っているのは、社会規範に対する罪を負わない、という意味ではない、むしろ、そうした社会規範の枠内に入っていくことは、髪を切って就職することに象徴されるように、イノセンスを失うことを自分から選んだってことなんです。だから、カノジョに謝らなくちゃいけない。

いまのわたしたちの感覚からすると、どうして主人公がこんなに「恥」の感覚を抱いているのか、罪の意識はいったいどこから来るのか、たいそうわかりにくいんです。それを「社会規範から逸脱してしまったから」である、と理解するのはちがっている、とわたしは思います(従来の解釈にわたしが納得できなかったのはここです)。

この「罪と罰」は客観的なものではなく、主人公が意識の内で生みだしたものであり、むしろ、主人公は罪の意識、罰を受けているという感覚を必要としていた。罪の意識、罰を受けているという感覚によって、逆に、自分の「イノセンス」を保証しようとしていたのだと思うのです。

自分はひとりきり、特別の、かけがえのない存在である、と認めてほしい。わたしたちはそういう承認欲求を持っています。この承認欲求があるからこそ、わたしたちは勉強したり、仕事をしているのだともいえる。

けれどもこの自分が感じている「自分の特別さ」というのは、社会の中で不断に脅かされているものでもあります。
どれだけやっても自分よりできるヤツはかならずいるし、自分の仕事はだれにでも置き換えられるものではないか、みたいな気持ちが「自分は特別だ」と思った瞬間に、湧いて出てくる。
自分自身に向かって、「特別な自分」を証明してくれる「なにものか」を人は必要としている。

そのうちオトナになってくると、そこらへんは「自分が特別であるように、ひとりひとりがみんな特別なんだ」みたいな意識を持つことで、なんとかバランスも取れるようになってくるし、あるいは仕事だの生活だのが忙しくて、そんなことはどうでもよくなっちゃう人もいるでしょう。けれども、「自分が自分であること」にこだわり続けていくと、不可避的に「自分をほかの人間から区別して成り立たせているのは何ものなのか」ということに行きついてしまいます。

主人公は、生活者の中に混ざった芸術家であるというふうに自分のことを意識しています。ところが彼が芸術家であることを示す具体的な根拠は、いまは存在しない「肖像画」を除いては、どこにもありません。そこで「自分は罪を負った存在で、罰を受けている」という意識が浮上してくる。

何かをやったからではありません。
まず「自分は罪を負った存在で、罰を受けている」という意識がある。
だから、自分は特別なのだ、と。
こんなふうに主人公の特別さの根拠づけとして、主人公が作り上げたものなのだろうと思うのです。
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この回答へのお礼

へんとう遅れすみません。しつこい僕の疑問を丁寧に拾ってくださり、
誠に有難うございます。
>ジャック・ラカン「精神分析批評」■パリのフロイト派の人らしいですね。勉強になりました。
>「父親からの承認」■長兄を使いに出してましたものね。手紙の返事すらも、自ら書かず、人づてに返事かかせた。
>主人公のイノセンス。時代感覚「ずれ」■たしかに、ずいぶん世の中かわりましたね。カラオケの例わかりやすかったです。
『清貧』という美徳は死語化し、『下流』が流行語になりましたし。
僕の思考経路も、無意識にアメリカナイズされているのかもしれません。いや確実にどっぷりですね。
こうして時代を振り替えてみますと、なんだか、物質的には豊かになったけど…ほんとたくさん、何かを失ってきたのだなあ、と漠然とではありますが、時代を感じることができました。それを具体的な言葉に表すのは難しいけど、ゴーストバスターさんの、薀蓄ぶかい長文を拝見しつづけ、なんとなく実感わきました。ゴーストバスターズっていう映画こどもの頃すきでした。

お礼日時:2006/12/22 22:58

何でまとめて(枝葉は刈り込んで)回答を書かないかというと、実は毎日考えながら書いているからなんです。

以前
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2130734.html
で回答したときに、不意に『人間失格』が、きれいにシンメトリーな構造を持っていることには気がついたんですが、それがどういうことなのかはっきりわからなかった。
質問者さんがこの質問を出してくださったおかげで、非常に構造がよくみえてきました。どうもありがとう。

さて、そろそろまとめに入らなくてはいけません。

まず、このシンメトリカル構造、太宰のほかの作品にも二項対立は多用されているけれど、ここまで徹底はしていない。
おそらく問題意識の核には「同義語・対義語」があったのではないか。そこから『罪と罰』の枠組みを借りながらこの作品を作り上げていったのではないか、という感じがします。
それくらい、あらゆる登場人物は「同義語・対義語」の関係にあります。
「シヅ子・シゲ子の生活」対「ヒラメとヒラメの隠し子の生活」のような対応関係もあります。そういうものをいちいち指摘していったらきりがないのですが、重要人物には、かならず、対義語的な存在、あるいは同義語的な存在、さらに竹一と検事のように同義語でありつつ対義語の存在もいます(もしよかったら探してみてください。おもしろいよ)。

主人公の対義語としてあるのが堀木です。
主人公の同義語はヨシ子です。

ここでそれを見ていく前に、たったひとり、きわめて重要でありながら、対義語・同義語を持たない登場人物がいます。だれだかわかりますか?
主人公のお父さんです。
先に言っておきますが、いまのわたしはこのお父さんの存在をうまく解釈できません。
おそらく、たぶん、ラカンを読んだらもっとうまく解釈できるんだろうと思うんです(「父の名」あたりから)。だけど、まだラカンは読んだことがない。だから、ここでは「父」というものにはあまり踏みこむことができません。
ただ、作品にとって、というより、むしろ作者にとって、この「父からの承認」は核心的なテーマだったのだろうということを漠然と感じるだけです。

女性から主人公は何度も許されます。あらゆる女性(ヨシ子を除いて)は主人公を許す(そうしてまた『ヴィヨンの妻』も夫を許す)けれど、主人公が求める「許しを与える者」からの「許し」ではない。だから、許されない。
主人公は一体誰からの許しを求めているんでしょう?
そうです。お父さんなんです。
最後のほうで、主人公の自我は崩壊していきますね。それは、お父さんが死んでしまったから、最終的に、「許し」がもう与えられない、というか、お父さんはもう、ありのままの主人公をそのまま認めてくれることができなくなってしまったからです。
「罪」の許しを与えることができるのはお父さんしかいなかった。
神みたいでしょ? そうです。神なんです。
だからお父さんには対義語・同義語となる人間の登場人物はいない。お父さんが神だから。

さて、いよいよ核心部に入っていきましょう。
回答の核心であるばかりでなく、この作品の核心部でもあります。

「罪と罰」の言葉遊びをやっていた場面をもういちど思い出してください。
このあとに、ヨシ子が出入りの画商に犯されるシーンを主人公は堀木の導きによって目撃することになります。
「罪と罰」が作品の核心的なテーマであるということが、そのことからも明らかであると思います。

さきほど、堀木は主人公の対義語だと書きました。
ともに、社会のアウトサイダーです。けれども、主人公が「芸術家」である本性を隠して「生活者」の一員であろうとしているのに対し、堀木の根本は「生活者」です。彼が持っているのは「生活者」としての道徳である。「生活者」でありながら、「芸術家」を気取って、アウトサイダーぶっているわけです。
だから、彼にとって「罪」の対義語は「罰」、すなわち「法律」としての罰則なんです。
「生活者」の道徳ですね。

一方、ヨシ子は主人公のイノセンスの同義語としての存在です。「芸術家」である主人公がどうして「生活者」になれないかというと、欲望がわからないからです。言葉を換えれば、欲望を持たない、イノセントな存在であるから、ともいえる。

そうして、その分身とも言えるのがヨシ子です。
ほかの「許す者」である女性たちが、それぞれに自立した生活者であるのに対し、主人公の分身であるヨシ子は生活者ではありません。
この時期、例外的に葉蔵は「家長」として、ヨシ子を養っているのです。一時的に葉蔵が「生活者」であった時期でもあります。つまり、ここで一種の逆転が起こっている。

そこでヨシ子が暴行を受ける場面に行きあわせる。

これはもう決定的な場面です。

これまで罪からの許しを求めているばかりだった葉蔵が、逆に許す側に回らなくてはならない場面です。
許す側に回ったら、おそらく葉蔵は、自分がほんとうに求めていた許しが得られたはずです。だって、自分が今度は「お父さん」の側に立つんだから。

「許し」なんてものは、自分が作りだし、自分が「許してくれる人」を勝手に想定したものなんです。だから、どれほどその人から求めようとしたって、得られるはずがない。
逆に、自分が誰かをほんとうに許して、許す立場に立って、初めて、その「許し」が得られるはずなのに。

> (それは世間が、ゆるさない)
> (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

主人公は、堀木との会話のなかで、「(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです」といいます。

これまで受け容れられることを願い、そのために欺いてき、許されることを願っていたのが「世間」でした。主人公が畏れもし、一員であることを希いながら、同時に自尊心からその一員ではない、と考え、「罪を犯した」と意識していたのは、すべて「世間」と漠然と意識していたけれど、実は、世間なんてものは、個人じゃないか、というところまでたどりつきます。
自分が求めていたのは、個人、それも、父ただひとりなんじゃないか、と気がつくところまで、あと一歩です。そうして、その「個人」というのは、ほかならぬ自分の意識が生みだした幻想でしかない、というところまで、あと一歩、というか、実際には手が届いていた。

ところが主人公はそれができない、というか、太宰はおそらく漠然と気がつきながら(気がついてなかったら、こんな場面を設定することはできないでしょう)、それに答えを出すことができなかった。
主人公を成長させて、お父さんの対義語にしなければならなかったのに、そういう展開の筋道を作っていくことができなかった。
だから、ここの点はうやむやになっちゃってます。
何か、すごく残念に思います。手がかかってたのにな、って。
もう太宰は作品を持ちこたえることができません。
あとは主人公を崩壊させるしかなくなってる。
何か、改めて読み返してみて、すごく残念だった。

もしここで主人公が、ヨシ子と一緒に辛がるのではなく、つまり自分のイノセンスが陵辱されたと感じるのではなく、自分の愛する他者が陵辱されたのだと感じることができ、憤ることができ、そうして許しを与えることができたら、そういう筋道を太宰の側が用意できたら、『人間失格』という作品が生まれることはなかっただろうけれど、別の作品が生まれただろう、そうしておそらく作者は死ななくて良かっただろう、と思います。

愛されようと思ったら、愛してほしい、って、相手にどれだけこいねがっても、ダメでしょう?
かといって、膝を屈するのがいやだから、って、自分一人が相手のことを愛していればそれでいいんだ、っていうのも、やっぱりそれはちがう。それも、愛とは言えない。ヘタしたら、ストーカーだ(笑)。
そんなふうに、人間と人間の関係って、相互的なもの、ともに、同じ場に立って生みだしていくものだと思うわけです。
許すことは同時に許されることだし、認められることは、認めることだ。理解されようと思えば、そのまえに相手を理解しようとしなければならない。
そういう関係を、いきなり「世間」を相手にするのではなく、たったひとりの他者とのあいだに築いていくことからしか始められないんだ、って。

なんでそういうふうにならなかったかなあ、って思います。
まぁそんなことをいまのわたしが言えるのは、逆に言うと、太宰がこういう作品を残してくれたからでもあるんですが。

太宰は、『如是我聞』での志賀直哉にくってかかったところとか、芥川賞をねだる手紙とか、井伏鱒二に対する師事とかを見てもあきらかなように、現実でも、父性原理からの承認を求めた人です。
『ヴィヨンの妻』の最後の言葉のように「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」という思想は用意できても、それでは彼の「承認欲求」は満たされなかったんだろうなあ、そうして、それに答えを出せなかったんだろうなあ、って。

『人間失格』が長く読み継がれてきたのは、特に、若い読者から共感を持って読まれたのは、主人公の「自分はほかの人間とはちがう」「けれどもそれを偽って生きている」「だれかにそれを認めてほしい」「偽って生きている自分を、認めて、その上で、許してほしい」という願いが、自我を確立しようとしている時期のティーンエイジャーの気持ちに、何よりもぴったりくるからなんでしょう。

さて、いよいよまとめです。

「罪」を、共同体の規範を逸脱する行為としての罪であると考えれば、外側からそれを裁かれて与えられる「罰」は、対義語です。

けれども「罪」は、他者に行為として働きかける罪、そうして外部から下されるばかりではありません。自分が措定する「罪」と「罰」もあるんです。
『罪と罰』においても、『人間失格』においても、ともに主人公は自分が超越した人間だと思っています。そのために、罪を負っている(他者を傷つける/他者を欺く)のだと考える。そうして罰を受けているのだ(他者に受け容れてもらえない/他者からの承認が得られない)と考える。ここにおいて、罪も罰も「超越した人間」である自分の「聖痕」なんです。だから、同義語と言えます。

最後のところ、わかりにくいかなぁ。

たとえばね、ああ、例があんまり適当じゃないんだけど。
質問者さんがすんごいサッカーがうまい中学生だと仮定してください。
自分でも密かに、おれってすごくね?って思ってる(笑)。
だけど、思いっきりやっちゃうと、周りがひくから、体育の授業なんかのときは、わざと外してみせたり、軽くやっちゃう。あるいは、数学ができないところを強調したり、授業中おちゃらけて「おもしろいやつ」「あるみな君ってサッカーはうまいけど、スカしてなくていい人」って思われるように演技してる。
だけど、内心、ちがうよな、とも思っているわけです。何か周りに、嘘、ついてるよな、って。これが「罪」ね。ずいぶんかわいいけど。
一方で、ほんとの自分、ものすごくサッカーがうまいところを認めてほしいとも思っている。だれもほんとのオレをわかってくれない。オレって孤独だ。これが「罰」。
だけど、「罪」も「罰」も、どちらも生みだしているのは、あるみな君の「オレはサッカーがうまい」っていう思いこみなんです。

あるみな君は「サッカーがうまい」から、自分は「罪」と「罰」を受けなきゃいけない、と思ってるけれど、実は、これ、原因と結果がひっくり返ってるんです。
人間は原因と結果をたいていひっくり返して認識しますから(これはニーチェ以降の定説です)。
ほんとはうまいかどうか、なんてのは、ものすごく不確かなもの、ちょっと自分より巧い人間が出てくれば、簡単に揺らぐようなものでしかありません。それを確かな思いこみとして保障してくれるものが必要なんです。それが「罪」と「罰」なのね。あるみな君の心が「自分はほかの者より優れている」として、そういった幻想の「罪と罰」を作りだしてる。

そういう意味で同義語だって。
なんとなくわかってきました?

わからないところ、ツッコミ、なんでも受け付けます。
ただ、わたしとしては大変おもしろかったです。
いい質問を出してもらいました。どうもありがとう。

この回答への補足

>ただ、わたしとしては大変おもしろかったです。いい質問を出してもらいました。どうもありがとう。

喜んでいただけて幸いです。返答おくれスンマセン。後ほど、消化してまたお返事します。  17:38 2006/12/09■aluminizedman

補足日時:2006/12/09 17:36
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この回答へのお礼

>実は毎日考えながら
■そこまでしてもらって質問者みょうりに尽きます。
>たぶん■ラカン■を読んだらもっとうまく解釈できるんだろう
■すんません、ラカンって何なのでしょうか、初耳です。専門書ですか。略語っぽいすね。

>一方、ヨシ子は主人公のイノセンスの同義語。
>「芸術家」主人公が、欲望を持たないイノセントから。
■イノセント汚れを知らないさま
確かに一人で電車にも乗れず、悪友に振り回され流されつつ共産運動して、世間知らず丸出しの主人公ですけど。一方、幼い頃から女の味を覚え酒を覚えドラッグに漬かり切ってしまう、うーん、かなりアンバランスな存在で、少し無垢とは、思いかねますねー、僕は。まあ、無垢で傷つきやすい、例えば自殺間際、小銭もってなかったくらいで、本気で死のうというところとかは、ホント子供だなあ、という部分はありますが。
僕が思うに、犯されてしまった「ヨシ子」は、主人公と同義になりうるけど。主人公も、無垢な子供時代に、女中に犯されたし。タバコ屋時代の「ウソ、ウソ」と微笑んでた「ヨシ子」と、主人公は、絶縁だと思いました。なぜならヨシ子は、小さな悪でも心底拒絶できたのに対し、主人公は小さな悪から雪ダルマ式に悪に溺れ、自己増幅してしまった。主人公は悪に飲み込まれた。ヨシ子は、飲み込まれまいとしてた。でも最後には激しく抵抗できなかったが…
無抵抗は罪か?って主人公いってました、僕、無抵抗は罪だと思います、イジメだって知ってて見過ごせば、罪だし。共犯だし。そもそも心中だって失敗すれば、自殺幇助罪だし。信頼は罪か?罪だと思います。いや信頼というよりも、無防備が罪だと。無知が罪だと。極論だけど、乞食の目の前でゴチソウを見せびらかす様な、無防備は誘惑だと思う。大人なら、目の前の悪は、毅然として正す義務があると思う。罪は、常にアクティブとは限らないし。主人公の神に対する問いかけは、なんだか、子供の言い訳じみてて、やはりその意味でイノセントのまま年を重ねてしまったのかなあ。

>>堀木との会話で、「世間とは個人)という、思想
■堀木は堀木個人の意見だと自信がない、説得力不足を自覚してたから、世間の代弁者だとなかば虎の威を借るキツネのような…。そこに嫌らしい本音と建前を感じて主人公はイラついてたと思いました。
すんません、お礼欄なのに長々とまた1000字オーバー

お礼日時:2006/12/11 22:19

おはようございます。


最近、聞き手に恵まれないもので、ついおしゃべりになってしまいます。
だけど今日は早出なので、急がなきゃ。

ドストエフスキーの『罪と罰』は、ラスコリニコフのほんとうの動機とか、シベリアに行ってからの瞑想の解釈というのもいろいろあって、踏みこんで話し出すと(おもしろいのですが)いつまでたっても太宰までたどりつけないので、ここは涙を呑んで単純化します。

罪:自分が人間社会から超越していることを示すために他者を殺害した
罰:人間が作り上げた社会秩序よりさらに大きな、生命の秩序から排除されてしまった

あくまでも「罰」というのは、外側から与えられたものではなく、ラスコリニコフの意識が作り上げた感覚なのだということに注意してください。
「罪」も「罰」も、ともに主体の内側から起こっている。
出どころは一緒です。だから同義語と言えるのではないか。
自分の罪に外側から与えられる罰は、対義語となりますが、自分の罪を行為に移した結果、自分の内側から生まれていった感情(罪悪感というにはあまりに激しい感覚)は、果たして対義語なのか。同義語ではないか、と悶々としている(青ミドロ……は、自分の内側から噴出してくるさまざまな感情の混沌を示す描写であるように思います)。

葉蔵は自分を生活者のなかに混じった異分子だと考えています。そうして、生活者のふりをして自分を受け容れられようとしている。表面的にはそれでうまくやっているわけです。それで満足していれば、そもそも『人間失格』の主人公はこの世に登場していなかったでしょう。
一方で、生活者ではない自分を、誰かに認めてほしかった。つまり、ラスコリニコフと一緒です。おまえは特別だよ、おまえはたったひとりしかいない人間だよ、と、カモフラージュを見破って、認めてほしかった。そうすることで、他者を偽る自分の罪(これは単に偽りだけでなく、傲慢の罪でもあります。葉蔵はラスコリニコフをひっくりかえして表現していますが、根本は同じものです)を許してほしかった。

だからこそ、見破った竹一に執着する。けれども、竹一は「許しを与える者」ではなかった。最初はわかりませんから近寄っていき、「許しを与える者」であるかどうか確かめる。そうして、彼は神ではない、というか、自分は彼を神とすることはできないことに気がついて、捨てていくのです(以降竹一の存在は、作品から消えてしまいます)。

さて、主人公が長じるに従って「許す者」は続々と登場してきます。
ツネ子、シヅ子、スタンド・バアのマダム、薬局の女主人……。
「咎める者」が男であるのに対し、「許す者」は女です。
ここにも二項対立が見て取れます。

ここでわたしは「許しを与える者」と「許す者」を使い分けてみました。
(あ、えーと、いまさらながら言うのもナンなんですが、いくつかよりどころにしている本はあるのですが、それをもとに「わたしの解釈」をやっているので、そこのところはどうか踏まえて置いてくださいね。んな、バカな、というところがあったら、どうかツッコミを入れてください)

というのはね、たとえば、あなたが小学生だったとして、教室の花瓶を割ってしまった。クラスメイトが「しょうがなかったんだよ、あるみな君が悪かったんじゃないよ」と言ってくれたら、もちろん気持ちは慰められるでしょうけど、許されたとは思わない。
先生が「あるみな君、今度から気をつけましょうね」と言ってもらって、初めて「許された」と感じますね。
つまり、「許し」というのは外側から与えられるのではなく、自分が「許しを与えてくれる人」を選び出して、その人から与えられて初めて「許された」と思うんです。

葉蔵にとって、こうした女たちは「あるみな君の同級生」であって、先生ではなかった。
そうして、ヨシ子の登場です。

ということで、続きはまた明日、ってこんなこと書いてたら削除されちゃうんだろうか。
削除されたら泣いちゃいますよ、ワタシ。おっと時間だ。

この回答への補足

つづき
>>「罪」を、共同体の規範を逸脱する行為としての罪でれば、外側から裁かれる「罰」は、対義語。「罪」は、外部から下されるばかりではせん。自分が措定「罪と罰」も。幻想の「罪と罰」。

自我をコントロールできなくて、一人で悩んで、自制が効かなくなった若者の暴走としての「罪」ですか。確かに内側から発生した「罪」でしょうけど、その内から飛び出して、他者に危害を加えて時点で、現実に女性を自殺幇助した時点で、個人の悩み・個人の内側だけの問題でなく、問題は拡大し、他者を巻き込む社会的な罪になった。内側からの罪と外側への罪は、つながる。わけて考える事できない。本人は分けられるけど、他人は客観的に分けられない。
個人的な悩みを、悩みそのものを、「罪」と呼べるだろうか?自分の「弱さ」を、「罪」と?個人的な悩みを、他者攻撃の自己正当化の理由に悪用した?
最近、東野圭吾の「放課後」を読んだですが。犯人の女子高生が、教師を殺害した理由をこう述べるんです。
私は目線でレイプされた、だから、エロ教師を殺す。
私は、脱衣所でオナニーをのぞかれてしまった。
私の秘密を知った存在そのものが、許せないだから殺しても良い。
と女子高生は、性の悩み、を自己整理できず、殺人を自己正当化します。ただのリンチですよね。被害妄想の個人に、冷静に罰をくだす、能力はない。その現実を、社会が、大人たちが認めてるから、罰っする権限を限定した。女子高生は子供ですし、社会に一人前に参画していない。そんな子供にリンチ復讐する、それを正当化する権利なんてない。
「罪/罰」というのは、影響力が大きいから、それを認定する人を限定した。
弁護士、裁判官、警察官、そして?神父?牧師?上司?役立たず、左遷だ!
それ以外を、「罪/罰」と呼ぶという事は、私刑リンチ復讐を正当化する事につながる。

僕にとってウソは、日常だし、浮気や、遅刻、陰口は、日常だ。それら日常的な、小さな悪意にまで、一つ一つ「罪/罰」と悩み考え込んでしまうと、自我崩壊、頭パンク、そりゃあ、宗教に入るか、自殺するかしかないのかなあ、と思いました。道徳上の「罪/罰」は主観でしかないし、難しいですね。

話それました、すんません。言葉が考えうまく纏まりませんでした。

補足日時:2006/12/11 22:28
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この回答へのお礼

たびたびの読み応えのある長文、ありがとうございます。返答おくれすんません。

>ドストエフスキーの『罪と罰』は、単純化します。
>罪:自分が人間社会から超越を示すために他者を殺害した
>罰:人間が作り上げた社会秩序より大きな、生命の秩序から排除された
■■■他人の生命を、自己表現の道具に使ってしまったんですね、ラスコは。他人の生命=神の創造を、ラスコは自ら否定した背信者ですね。被創造物の分際で。いやキリスト教は、くわしくは知らないんです…、なんとなし、大それた事したなあ、と。

>「罰」は、外側から与えられたものではなく、ラスコ意識が作りた。>罰」も、ともに主体の内側から起こる。出どころは一緒。だから同義語と言えるか。
■■■主人公だけの、定義づけを後回しにした客観性のない、いや客観を排除した(逸脱したbyザ・ラスコ、forザ・ラスコ、ofザ・ラスコな独善的な「罪・罰」観なんですね。

>葉蔵は自分を生活者のなかに混じった異分子、一方で、誰かに認めてほしかった。
>つまり、ラスコと一緒。おまえは特別だよ、見破って、認めてほしかった。
>で、他者を偽る自分の罪(傲慢の罪。を許してほしかった。
>だから、見破った竹一に執着する。けど、彼は神ではない、と気がついて捨てていく
■■■だから「おばけの絵」を竹一以外に見せなかったんですね。
>自分でもぎょっとしたほどの陰惨な絵<<作中
>これこそ胸底にひた隠している自分の正体<<作中
>道化の底の陰惨を見破られたくなかった<<作中
■■■この「おばけの自画像」これはかなり重要そうなポイントですね、確か後半でもたびたび、後半を読み直して見ます。■■■

>「偉い絵描きになる」竹一の予言が外れた。第三の手記の冒頭でも強調。
だから、竹一は神ではない、と見放されていったのですね。
■■■美術学校に入りたかったけど、父は許さず、官吏にするという意向に歯向かえなかった。

>さて、「咎める者」が男に対し、「許す者」は女。も二項対立。
■■■■画家になる」とヒラメに打ち明けても、相手にしもらえず、家出する。そこで辛うじて、漫画家という道をしめしてくれた、コブつき女編集員に、許されたと感じたのか…。「許す者」この視点は、非常に分かり易かったです。お陰様で、理解が深まりました。

18:14 2006/12/09

お礼日時:2006/12/09 18:26

おはようございます。


補足要求くださったのに回答が遅くなってごめんなさい。ちょっとバタバタしてました。

前回はほとんど触れなかった「罰」について、今回は少し考えてみたいと思います。

前のところには書いていなかったのですが、この『人間失格』という作品は、大小さまざまな二項対立からできています。

ひとつの大きな軸は、下でも言ったように「生活者」対「芸術家」
このサブカテゴリーとしての「生活者の犯す欲望からの罪」対「芸術家の犯す観念的な罪」

そうしてもうひとつの軸は、「罪を犯す者」対「許す者」、これは「神」対「罪人」といってもいいかもしれません。
この「神」対「罪人」と重なりながら、「咎める者」対「許す者」という対立もあります。ただ、これはまったく同じではありません。

さて、ここで「罰」はいったい誰から与えられるのでしょうか?

ここで『罪と罰』の方を見てみましょう。
ラスコリニコフの「罪」は老婆殺しである。
けれども、これは先にも言ったように、欲望からではなかった。自己の卓越性を信じるがゆえに、矛盾に陥った自我の分裂を克服しようと、「自分のために、ただ自分一人のために殺してやろうと思ったんだ」と、凶行に及びます。

もし彼が超人であったなら、この凶行に及んだあと、自我の分裂は克服され、自分自身に確信が生まれるはずです。ところがラスコリニコフはそうならなかった。

ここでジラールという人が大変におもしろい指摘をしているのですが、自己が卓越した存在であるかどうか知ろうと思えば、その自己が軽蔑する他者の評価を通してしか知ることができない、という根本的な矛盾があるんです。つまり、他者に依存してしまうのは、その人が他者に埋没する、だれとでも置き換え可能な人間だからではなく、個性的であろう、非凡であろうとする自尊心の作用の必然的な結果だというのです(ルネ・ジラール『欲望の現象学』)。
卓越した存在であろうとしたラスコリニコフは、その卓越性を他者に認めてもらわなくてはならない。そこで罪を告白し、徒刑囚となります。

ああ、調子に乗って書いてたら話がどんどんそれていく、ごめんなさい。
ググッと戻しましょう。

果たしてシベリア徒刑が「罪」に対する「罰」なのか。
罪と罰を対義語として、あるいは原因-結果として考えるならば、そういうことになります。

けれども、シベリア徒刑はラスコリニコフが自分の卓越性の証明として、自らの身に引き受けたものでもある。罰とは言えないのです。
その証拠に、ラスコリニコフの煩悶はシベリアに行っても続きます。自尊心は刑を受けた段階で満たされたはずなのに。
彼はソーニャに言いますね。「おれは自分を殺したんで、あの婆あを殺したんじゃない!」
つまり、罪を犯すことによって、ラスコリニコフは社会秩序からの逸脱を試みたわけですが、他者の生命を奪うことによって、自分が死んでしまった。社会秩序などよりもっとひろい、生命の秩序のようなものから逸脱してしまったわけです。それこそが、ラスコリニコフの受けた罰なんです。ここでは罪と罰は原因と結果というより、同じことのふたつのちがったあらわれといえるように思います。
そうして、シベリアで瞑想によって自分が犯したほんとうの「罪」と「罰」に思い当たったラスコリニコフは、微かな救済の予感を受ける、というところでこちらの作品は終わる。

うっ、まだ『人間失格』にたどりつけない。
もう行かなくてはなりません。長くなったし、続きはまたあとで。

この回答への補足

失礼して、つづき

>果たしてシベリア徒刑が「罪」に対する「罰」なのか。けど、シベリア徒刑は…罰とは言えない。ラスコ煩悶は続き。「おれは自分を殺したんで、あの婆あを殺したんじゃない!」ラスコは社会秩序よりひろい、生命の秩序から逸脱してしまったそれこそが、ラスコ受けた罰。
■もうひとつの「罰」、アナザー罰は、観念的で確かに難しいテーマですね。
ラスコは、獄中でも煩悶つづけ、罪を犯して、しばらくして、ようやく想定外の大逸脱をしてしまったと。後から気づいた?後悔した?俺はソーニャと平穏しあわせに生きる道があるじゃないか、それを今オレは、自ら踏みにじった、俺ってバカ?人を見下し、愛をしらず、孤高の天才だったラスコが、ソーニャの愛に目覚め、愛そして生命の尊さを、ようやく気づいた?もしも愛するソーニャが、キチガイ暴漢に襲われたら?想像してゾッとした?俺は塀の中、ソーニャを暴漢から救えない?孤高の天才が、客観能力に目覚めて、凡人に戻る?
僕もこんがらがって来ました。うーん、僕は常識の範疇でしか思考できないのか…。

>うっ、まだ『人間失格』にたどりつけない。>長くなったし、続きはまたあとで。
■気長にどうぞ、ご遠慮なく、的外れな返事しかできませんが、ghostbuster さんの長文、たいへん読み応えあり、勝手に楽しみにしとりますです。ハイ。

補足日時:2006/12/06 23:21
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この回答へのお礼

たびたびのご回答ありがとうございます。気をつかってもらって恐縮です。深いですねー。付いていけるかどうか、頑張ってみます。

>「罰」はいったい誰から与えられるか?―――■ううむ、普通に考えると、治安を担当する社会からの「罰」ですよね。すんません、宗教的な思考能力は無いので…。だって殺人は、明確な反社会的な「罪」だから。モラルとかのグレーゾーンじゃないですし。三浦「氷点」の院長が、犯人の娘を養子にしたのは、社会的罪というよりモラル的罪ですし。モラル的罪は、社会の介入の余地はなく、結局当人同士の罪・罰対応となる。男女が浮気した、ケンカした、警察介入できない。すんません、下世話なたとえで。

>ラスコの「罪」は、欲望からではなかった。>矛盾に陥った自我の分裂>(ルネ・ジラール『欲望の現象学』)>その自己が軽蔑する他者の評価 ラスコは、その卓越性を他者に認めてもらわなくてはならない。そこで罪を告白し、徒刑囚と。
―――■天才は孤独のジレンマを抱えてるということですか。むむむ。もしかして、天才やパイオニアを評価できるのは、出会うことのない、後世の人々か。よって天才を凡人は裁けない、天才を社会は裁けない?という事に?ううむ、アナーキーになってきましたね。でもこの論理が通用するのは、社会が未発達で、もしくは、社会の非常時で、天才の活躍が社会への貢献度が飛びぬけてる時だけでしょうし。社会が整備され、平和な時に、曹操やヒトラーの様な天才は、必要ないというか…。ううむ、やっぱり僕は凡人かなあ、常識の発想から、一歩先に進めるかなあ。
1000字オーバーなので、つづき補助欄

お礼日時:2006/12/06 23:20

青みどろとは、池の水面に生い茂る、緑藻のことです。


生物で青みどろって、習いませんでしたか。

殺人を犯す人間の心境をぐじゃぐじゃした汚い藻の姿に例えたのでしょう。また、シノニムかアントか、問答を繰り返す、太宰(主人公)の心中も表現しています。

ラスコーリニコフの話は、トルストイ「復活」と勘違いされているように思います。
「罪と罰」は金貸しの老婆など、社会悪だと主人公が思い込んだ人々を次々と殺害していくというお話だったと思います。最後の方を私も読んでいないのですが、確か罰せられず、路の辻に土下座した接吻した、という話だったように思います。

卒論なら、今は書き方が大学の文学辞典を引くと、何の文献をさらえばよいか、見当が付くようになっています。各大学の紀要(論文集)も見逃さず、よく読むといいと思います。
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この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます。

>青みどろ
りょくそうしょくぶつ りよくさう― 6 【緑藻植物】
だったんすね。理科にがてだったので知りませんでした。

お礼日時:2006/12/04 22:32

私の考えですが、罪には必ず、罰が与えられる、つまり罪を犯したものには、必ず罰によって報いられる、ということを言ったのではないでしょうか。


ドストエフスキーの「罪と罰」という小説からテーマを持ち出したのでしょうが、主人公が最後に、気が狂うか、白痴になってしまうかで、罪に問えない状態で終わると思います。そのプロットから、罪と罰は同義語ではない、なぜならその小説の主人公は罰せられなかったからだ、と言っているのでないでしょうか。
ドストエフスキーの小説のプロットにも言及すると良いように思います。
犯した罪が殺人と、重いものなのに、罰を与えられない(罪に問えない)というところに、アオミドロの苦悩があります。
罪と罰は現実的には、シノニムではないでしょう。必ずしも、罪に罰が報いることはありません。罪が重ければ重いほど、罰が重くなる、比例の関係です。ですから、対義語(アント)と置いているのだと思います。

この回答への補足

あ、書き漏れました。アオミドロの苦悩

『青みどろ』・・・こんな言葉はじめてだったんですが、血みどろ」の「みどろ」が青で、青みどろ、ですね。青がいっぱい?青だらけ?青臭い?幼い、という意味かな。よくわかんなくなてきました。
単純に青だらけで、汚い?汚れきった。濁りきった?

補足日時:2006/11/29 21:10
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この回答へのお礼

さっそくのご助言ありがとうございます。

>主人公が最後に、気が狂うか、白痴になって、罪に問えない状態で終わると思います。罪と罰は同義語ではない、なぜならその小説の主人公は罰せられなかったからだ、と言っているのでないでしょうか

主人公は酒と薬の中毒に苦しみ、精神病院おくりになりました。
以下ラスト抜粋◆◆◆「自分は罪人どころではなく狂人でした。…神に問う、無抵抗は罪なりや?…自分はやっぱり狂人いや廃人という刻印を…人間、失格。もはや自分は、完全に、人間でなくなりました。」◆◆◆

罪と罰が対応しない場合、罰せられない場合を想定して、対義語アントなんですね。

>ドストエフスキーの小説のプロットにも言及すると良いように思います
すんません。うるおぼえです。たしか主人公ラスコは、シベリア流刑かなんかになるんだけど、ソーニャでしたっけ。その娘が健気に、囚人の主人公を待ち続けてくれて、さしいれ、愛に目覚め、かろうじて主人公ラスコは生き延びる希望をつなぐ…という様な結末だったと思います。

お礼日時:2006/11/29 21:07

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Q太宰治 人間失格について

 太宰治の人間失格についてある本に、堀木とヒラメは永遠の悪人として造形された。というようなことが書かれていたのですが、堀木はともかく、ヒラメはどうして悪人なのかよくわかりません。私の読解力不足ですが、よろしければどなたか、見解をお願いします。

Aベストアンサー

> 堀木、ヒラメの、「俗っぽさ」でしょうね。

そうですね。
そうして、この俗っぽさが、太宰の思想にとっての「悪」なんです。お金などは些末なことなんです。

では、視点を変えて、「善」は何なのかを考えてみます。

『駆け込み訴え』はお読みですか。
これはイエス・キリストを裏切ったユダの告白、という体裁で書かれています。一気に語りおろした、という文体で、一気に読めるのですが、なかなか深いものがあります。

ここで描かれるキリストの「正しさ」というのは、非常に立派な、非の打ち所もない、強いものです。ほかの弟子たち、凡庸で、従順で、鈍い、言ってみれば「世間」を象徴するような彼らにとっては、その「正しさ」も、崇める対象でしかありません。

ユダはもうひとりの「葉蔵」です。

イノセントな心のままキリストに近づき、救いを求めます。ところがキリストの「正しさ」はユダに対しては、何の救いともならない。それどころか、逆に、正しく、強いがために、彼のイノセンスを踏みにじる方向で作用します。

ここではキリストが「善」で、ユダが「悪」という、一般的な通念を、太宰はひっくり返しているのです。個人の持つイノセンスを踏みにじるような「正しさ」というのが、真の意味で「善」なんだろうか。むしろ、イノセンスというのは、弱く、脆いもので、そうしたものであるからこそ、まるごと救われなければならないのではないか。

こうした図式は、一貫して、太宰の多くの作品に見て取れます。

『人間失格』のなかにも、「キリスト」は出てきます。

> 検事は四十歳前後の物静かな、(もし自分が美貌だったとしても、それは謂わば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐の気配を持っていました)

この検事は、主人公の擬態を見抜きます。
もうひとり、非常に興味深い「竹一」という登場人物が出てくるのですが、彼に関して説明しようとすると大変なことになるので省略しますが、彼も「聖なるもの」、一種のキリストの変奏であるといってよい、とわたしは思っています。

ともかく、ヒラメや堀木が「悪」を象徴するものとして、そうして検事(と逆転した形での竹一)が「善」を象徴するものとして、主人公をはさんだ形で、対極に現れているわけです。
主人公のイノセンスは、「悪」によって傷つけられますが、「善」によっても傷を負う。

繰りかえして言います。この「善」も「悪」も、いわゆる常識的にわたしたちがふだん考える「善」と「悪」とは異なるものです。
常識に照らし合わせて考えただけでは、堀木やヒラメが「悪」であるのなら、主人公はもっと悪いんじゃないか、ということになってしまいます。

主人公が体現しようとしたもの、それは、人間の持つ、純粋な心であり、無垢な心なんです。そうしたものは、何の力も持たない、汚染されやすいものであるがゆえに、主人公はなんとかそれを守ろうとした。
それを汚し、破壊しようとするから「悪」なんです。
そうして、この「悪」の対極にあるはずの「善」によっても、救われない。
主人公をめぐる「善」-「悪」というのは、こういう構造にあると考えるとわかりやすいんじゃないでしょうか。

で、ついでに書いておくと、その主人公に救いの道を開いてくれるのが、彼を丸ごと受け入れようとする女性たちなんですね。

> 堀木、ヒラメの、「俗っぽさ」でしょうね。

そうですね。
そうして、この俗っぽさが、太宰の思想にとっての「悪」なんです。お金などは些末なことなんです。

では、視点を変えて、「善」は何なのかを考えてみます。

『駆け込み訴え』はお読みですか。
これはイエス・キリストを裏切ったユダの告白、という体裁で書かれています。一気に語りおろした、という文体で、一気に読めるのですが、なかなか深いものがあります。

ここで描かれるキリストの「正しさ」というのは、非常に立派な、非の打ち所...続きを読む


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