出産前後の痔にはご注意!

宮沢賢治の作品、永訣の朝ですが、
Ora Orade Shitori egumo
の部分・・・。
何故頭文字でeだけ小文字なのでしょうか?
オーとエスは大文字でも小文字でも形は変わりませんがそれも何かのからくりなのでしょうか・・・・?
それと、
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
の所で、この文が示すせかいとは何なのでしょうか?

詩歌なのである程度解釈に差が出るかと思いますが・・・。

A 回答 (3件)

推測でしかお答えできませんが、


1、
「妹 としこ」の心情を慮れば、この部分は弱々しくつぶやくように発音するだろうというイメージになったのではないかと思います。
音楽で言うとピアニッシモといったところでしょうか、そういうニュアンスを小文字で表現したような気がします。

2、
「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを」と続くわけですが、「せかい」は端的に言うと「宇宙」というイメージでしょう。

雪の生まれた場所を単に「空(そら)」とするのではなく、
大気圏、太陽系、そして銀河系というように限りなく広がっている果てしない宇宙につながる空、と認識することで「雪」に永遠性、神秘性を付与させているように思います。
    • good
    • 2

全くの私見ですが



「おら おらで 一人行く(逝く)も」
ってことで、"一人"に続く術語としての egumo なのでは?
って気もします。
「私は私で、一人で行きますよ」
今までいつも一緒に生きてきた兄妹だったのが
とうとう、妹が一人で先に逝くという事態になり、
深い信仰心を持ちながら寄り添って生きてきた二人でしたが
最期だけは無念にも別々に行く(逝く)のだ、という
この詩の核心を突く言葉なので、
ここはローマ字にしたのではないかな、という気がします。
    • good
    • 1

賢治はドイツ語を知っていたので、それにならって「名詞を大文字にした」のかな。

    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q宮澤賢治「永訣の朝」の解釈

宮澤賢治「永訣の朝」の下記部分の解釈を教えてください。

1.「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
 あめゆじゅとは霙(みぞれ)のことですか?本当にそんな方言があるのでしょうか。
2.「これらふたつのかけた陶椀に」
 なぜふたつなのか?一つは賢治のぶんでしょうか。とし子が2椀欲しがったのか。
 お金持ちなのに、欠けた陶椀を使い続けてきたのはなぜか。
3.「ふたきれのみかげせきざいに」
 御影石材でしょうか?どうして「ふたきれ」なのか?
 ふたつの陶椀、雪と水とのまっしろな二相系など、意図的に「二」を使っているのか?
4.「わたくしはそのうへにあぶなくたち」
 御影石材が踏み石や飛び石のことならば、あぶなくはないので、これは別のものと考えるべきなのか。
 水のたまるような形状をした庭石のことでしょうか?
4.「松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべものをもらっていかう」
 これは霙じゃなく雪ですよね。松の枝に霙はたまりませんから。
 みぞれがたまっているのは「みかげせきざい」の上。
 みぞれは、「雪がとけかけて雨まじりに降るもの。」広辞苑
 半分溶けた雪のことを「あめゆじゅ」というのか?
 それとも、とし子はみぞれを所望したが、賢治は気を利かせて雪をとってきたのか。
 あるいは、雪ではなく、松の枝から滴り落ちる水を陶椀で受けたのか?
 「たべもの」「アイスクリーム」という表現があるので雪と思いますが。
5.「(Ora Orade Shitori egumo)」
 「おら、おらで、一人、逝くも」と解釈しますが、どうしてローマ字表記なのか?
 「おらおらでしとりえぐも」では通じないと考えたのか、現代的感覚を読者に訴えたかったのか。


けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

宮澤賢治「永訣の朝」の下記部分の解釈を教えてください。

1.「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
 あめゆじゅとは霙(みぞれ)のことですか?本当にそんな方言があるのでしょうか。
2.「これらふたつのかけた陶椀に」
 なぜふたつなのか?一つは賢治のぶんでしょうか。とし子が2椀欲しがったのか。
 お金持ちなのに、欠けた陶椀を使い続けてきたのはなぜか。
3.「ふたきれのみかげせきざいに」
 御影石材でしょうか?どうして「ふたきれ」なのか?
 ふたつの陶椀、雪と水とのまっしろな二相系など、意図的に「二...続きを読む

Aベストアンサー

1.「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
 私はネイティブではないですが、岩手県花巻の方言で、「雨雪取ってきて欲しいな」、といった
 ちょっと甘えた言い方らしいですね。
 
2.「これらふたつのかけた陶椀に」
 死去のとき、「妹」は24歳。 病床で彼女と賢治は昔の思い出話などしていたのでしょう。
 「欠けた陶椀」は二人が子どもの頃、あるいはママゴト遊びの中で使用したものと推測。
 1のセリフも、もしかしたらその思い出話の中に出た言葉だったのかもしれないですね。
 その昔の事を再現してくれという願いにも読み取れます。

3.「ふたきれのみかげせきざいに」
 「2」が繰り返されるのは私と妹の「二人」を暗喩する数字でしょう。
 「2」から「1」になるという事を際立たせています。

4.「わたくしはそのうへにあぶなくたち」
 濡れた御影石の表面は滑りやすいので、アブナク、です。

4.「松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべものをもらっていかう」
 「あめゆじゅ」は雨と雪。賢治が採ったのは松の枝に積もったみぞれ交じりの雪。

5.「(Ora Orade Shitori egumo)」
 草稿では平仮名だったそうですね。
 妹の今際の言葉として、文字の意味ではなく「音として記録」した、という解釈ができるでしょう。


~~~
言葉の美しさを愛した詩人で、「永久の未完成これ完成である」なんて言葉が残されてますが、完成した作品に何度も手を入れていたような方です。改稿も本人にとっては「そうしたほうが好ましい文章になった」というだけのことで、作品は彼のフィーリングがその一時結晶化した結果に過ぎない。作品を売って金にしたわけでもなし、彼の念を文書に表せればそれで十分、「解釈」なぞは後の人が勝手にすればいいというのが彼のスタンスではなかったでしょうか。

彼の作品は各人が思い思いに韻を楽しみ、言葉に酔えばいいのでしょう。

参考URL:http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/13616/1/16_p175-191.pdf

1.「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
 私はネイティブではないですが、岩手県花巻の方言で、「雨雪取ってきて欲しいな」、といった
 ちょっと甘えた言い方らしいですね。
 
2.「これらふたつのかけた陶椀に」
 死去のとき、「妹」は24歳。 病床で彼女と賢治は昔の思い出話などしていたのでしょう。
 「欠けた陶椀」は二人が子どもの頃、あるいはママゴト遊びの中で使用したものと推測。
 1のセリフも、もしかしたらその思い出話の中に出た言葉だったのかもしれないですね。
 その昔の事を再現してくれという...続きを読む

Q永訣の朝の訳

宮沢賢治の永訣の朝について質問させてください。

その一文に、「あめじゆとてちてけんじや」というものがあったと思います。
※記憶があいまいなので、多少違うかもしれません。

当時、高校で習った時、先生が意訳を「雨露を取ってきてください」だと言っていました。
しかし、それは「あめじゆとてちて」までではないですか?
最後の「けんじや」とは、作者の賢治に対する呼びかけで、僕なりの解釈では、「雨露を取ってきてください、賢治さん」みたいな意味になると思うのです。

この場合、「けんじや」とは、どういう意味になるのか、教えてください。

Aベストアンサー

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-686.html

で紹介されている、山本太郎氏の「賢治兄さん」説は、私も、とても魅力のある説だと思います。

 「あめゆきを取ってきて、賢治兄さん」と、名前で呼びかけられることは、「永訣の朝」と同じ時に作られた「松の針」という詩に、

   ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
   ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
   わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
   泣いてわたくしにさう言つてくれ

と書いた賢治にとって、どうしても妹のために、何をおいても、他ならぬ自分がせねばならないことになるからです。
 「あめゆきを取ってきてください」と一般的な言い方で頼まれるより、どんなにか痛切な響きをもつはずです。

〈参考〉
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html
http://blog.hix05.com/blog/2010/02/post-1304.html



 しかし、他の方の回答にもあったように、(残念ながら)「けんじゃ」は岩手県花巻地方で一般的に使われる言い方のようです。


「あめゆじゅとてちてけんじゃ」って、言葉として今でも通用しますか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q108166145


という質問に対する「ベストアンサー」をご覧になってみてください。


 私はネットでこの回答を見ただけで、きちんと裏付けになるような調査をしたわけではありませんが、

> 花巻出身の人(50代:かなりなまってます)に聞いたら
> 「花巻弁だども、いまどぎ、そんなこどばは、ずさまどが、ばさますか、つかわねでば」

と、知り合いの方の発言を引用するベストアンサーの回答は、信頼してよいだろうと判断しています。

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-686.html

で紹介されている、山本太郎氏の「賢治兄さん」説は、私も、とても魅力のある説だと思います。

 「あめゆきを取ってきて、賢治兄さん」と、名前で呼びかけられることは、「永訣の朝」と同じ時に作られた「松の針」という詩に、

   ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
   ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
   わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
   泣いてわたくしにさう言つてくれ

と書いた賢治にとって、どうしても...続きを読む

Q詩:永訣の朝で・・・

こんばんわ 先日の国語の授業で永訣の朝をやったんですが少し読み取れない部分が2点ほどあったんです。
1つ目は 「びちょびちょふってくる」を「みぞれはびちょびちょ沈んでくる」という表現に変えた理由
2つ目は 「おまへとみんなと」と最後から3行目に書かれているんですが、「おまへ」は「とし子」をさしているとして、「みんな」とは誰を指しているんでしょうか?
お分かりになる方 気軽に教えてください。回答よろしくお願いします。
                 

Aベストアンサー

> 1つ目は 「びちょびちょふってくる」を「みぞれはびちょびちょ沈んでくる」という表現に変えた理由

6行目では
みぞれはびちよびちよふつてくる
と言っていますね。目線は水平か上にありますが
"わたし"が実際、外に出てみると
みぞれが足元で沈むように降っていて
今度は目線は下になっています。
おそらくそこには、"わたし"の悲しみの深さや、
若くして逝ってしまう運命となった妹への無念の気持ちが、「沈んでくる」という表現になって
投影されているのではないでしょうか。

> 2つ目は 「おまへとみんなと」と最後から3行目に書かれているんですが、「おまへ」は「とし子」をさしているとして、「みんな」とは誰を指しているんでしょうか?

(生まれ変わったら、今度は自分のことで苦しまないように生まれてくる)と言っていますよね?
兄も妹も深い信仰心を持っていたと思われますので、
これは、生まれ変わったら、自分ではなく人のために身を呈したい、と思っていることの
表れだと思います。
取ってきたみぞれが、天上のアイスクリームのようになって、
妹だけではなく、他の、同じような状況で天上の人となったみんなにも
聖い潤いをもたらすごちそうになって、
苦しまず安らかに永眠して欲しい、と思ったのではないでしょうか。


全くの私見ですが、気軽に書いてみました。

> 1つ目は 「びちょびちょふってくる」を「みぞれはびちょびちょ沈んでくる」という表現に変えた理由

6行目では
みぞれはびちよびちよふつてくる
と言っていますね。目線は水平か上にありますが
"わたし"が実際、外に出てみると
みぞれが足元で沈むように降っていて
今度は目線は下になっています。
おそらくそこには、"わたし"の悲しみの深さや、
若くして逝ってしまう運命となった妹への無念の気持ちが、「沈んでくる」という表現になって
投影されているのではないでしょうか。

> 2つ目は 「お...続きを読む

Q永訣の朝 をつくった日はいつ?

新潮社の文庫「宮沢賢治詩集」の目次には、「永訣の朝 1922・2・27」と記されていますが、妹のとしさんが亡くなったのは、1922・11・27とすると、亡くなる前になってしまう。「永訣の朝」が作られたのは、いつでしょう?「 春と修羅」の出版は、1924・4・20のようですが。

Aベストアンサー

現品は未確認ですが、1991/08/01発刊の新潮文庫「新編 宮沢賢治詩集」の目次では、
「永訣の朝 ((一九二二、一一、二七))」となっています。
http://www.shinchosha.co.jp/book/109207/

また、実際に関根書店版「春と修羅」(大正13年4月20日発行)の中では「無聲慟哭」5編の内「永訣の朝」を含む3編は縦書きの漢数字で(一九二二、一一、二十七)となっています。この一一月が、うっかり二月に見えたのかも知れません。ちなみに「風林」は一九二二、六、 三)となっており、これは明らかに(一九二三、六、 三)の誤植です。

ともあれ「永訣の朝 」が1922年11月27日付けであることはどちらにおいても整合しています。


人気Q&Aランキング