蒋介石は1928年北京を占領し、名前を過去の名称である北平に変更したそうです。
どうして北京のいにしえの名称に戻したのでしょうか?
確か永楽帝が応天府から遷都したときに北の都ということで南の都である南京と対比させて北京となったんですよね?
で、中華人民共和国の成立とともに北京に戻された。

[孫文死後、中華民国を引き継いだ蒋介石は中国南部(南京、上海)を制圧し、北伐(北の軍賊を制圧する行動)を開始。1928年北京を制圧して中国統一をやってのけた。]

A 回答 (2件)

北京は万里の長城あるようにもとは「周辺の僻地」です。

蒋介石は南京に国民党政府、南京脱出後、武漢、次いで重慶に臨時政府置いた。

永楽帝から辛亥革命(1911年)後も「北京」、孫文死後は中央政府はない。1928年国民党政府成立(首都は南京)「北平」に、1937-1945年日本軍占領中は北京(国民党政府も1940年北京に)、
1945年日本敗北とともに「北平」にもどす(首都は南京)、1949年中華人民共和国成立首都は北京、、現在に至る。
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簡単です。

蒋介石政権下で首都でない都市が北「京」であるのは不自然だからです。

逆に、蒋介石政権の首都である「南京」は、「北京」に対比した地名ですから、「南京」も唯一の首都であることを示す別な名称、例えば「京師」に変えても良かったかもしれませんね。何でそうしなかったのかは蒋介石にでも聞かないと分かりませんが。
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Q孫文-蒋介石

孫文=中山
中正=蒋介石=中山記念堂
それと中正紀念堂・・・

中山が孫文なのに、中山記念堂は中正の蒋介石。
そもそも、比較と疑問が誤りなのでしょうか?
何か良く分からない・・・
どなたか教えて下さい。

Aベストアンサー

広州にある中山記念堂が孫文(孫中山)、
台湾にある中正記念堂が蒋介石(蒋中正)です。

中山は中山、中正は中正ですね。

Q蒋介石は「南京大虐殺など存在しない」と言った?

この真相について、ご存知の方、教えて下さい。
参照: http://shupla.w-jp.net/datas/Nanking.html

どこで、誰に対して言ったのでしょう? 出典はどこになるのでしょうか。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

再度No.4です。

「この発言が真実かどうかを知りたいのです」との事ですので、ネットで色々検索していたら面白い事実に気づいたので、ご参考までにお知らせしておきます。興亜観音のHPにある会報バックナンバーを見ると、蒋介石の発言に関して2つのバージョンがあるのがわかります。一つは、質問にあるHPが引用しているもの(15号)、もう一つは10号(平成11年10月18日号)です。(既にお気づきであれば、無視してください。)これに気づいたのは、偶々、その二つを併記して引用しているブログを見つけたからです。比べやすいので、ご参照下さい。↓
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/07c55f5c57b95d4a09d5512a4dda9f6f

両方とも蒋介石は「(松井石根に)申し訳ない事をした」と言った事になっていますが、大きく違うのは、何応欽の『軍事報告書』や、松井大将が冤罪だったという部分は、10号では(田中が考える)事実として、15号では、蒋介石自身の発言として、書かれているという所です。これから推測できる可能性としては、
1.蒋介石は実際に「松井石根には申し訳ない事をした。南京大虐殺はなかった。何応欽軍司令官の軍事報告書を見ればわかる。」と言ったが、10号ではそれを蒋介石の発言としてではなく、(少なくとも田中の主観としては)『事実』として書いた。
2.蒋介石がいったのは、「申し訳ない」だけで、15号のそれ以外の部分は田中の『脚色』

私は、この2つの中では、2の方が妥当に思えます。(勿論、蒋介石が言った事は全く別のもので、『申し訳なかった』ですら脚色、という可能性は別にして、です。)元々、「何応欽の軍事報告書に南京大虐殺の記載が無い。よって、南京大虐殺は無かった」というのは田中正明自身の説です。その説自体の当否はここでは無視して、後に田中正明が「大虐殺は無かった」説の根拠に使う事になるものと同一の書類を、1966年の時点で蒋介石があげるのは、あまりに出来すぎています。例えば、「ここにいる何応欽もよく知っている」でもいいし、なにせ自分が指導者だったのですから、「自分が資料の捏造を指示した」でもなんでもよかったはずです。

そういう「おそろしい偶然」以外にありうるのは、蒋介石に言われて、田中正明がその資料を調べる気になった、というパターンです。しかし、蒋介石のこのような発言が田中正明が「軍事報告書」を調べるきっかけになったのなら、田中にとってそれは強力な「宣伝文句」になる、と私には思えます。(実際、質問者の方が質問にあるWEBに注目されたのも、蒋介石が根拠をあげて、はっきりと「南京大虐殺が無かった」と言っている事からだと推測します。)
しかし、田中正明自身は、自分の主張と蒋介石の発言をつなげるような主張はしていません。例えば、↓では、資料を貸してくれた中国問題の評論家(客家とかを研究し、風水学のビデオまで出している大学教授の事か??)の発言を出して、自説を補強しようとしていますが、どう考えても、「蒋介石が、これを見ればわかると言った」の方が迫力があるでしょう。田中正明が軍事報告書を見た時点(ほぼ間違いなく1966年以降)では、田中は蒋介石が「何応欽の軍事報告書を見ればわかる」と言ったとは知らなかった、と考えるのが自然でしょう。(つまり、『脚色』)
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason10.html

まぁ、所詮推測に過ぎませんが、前々回「何を信じるか」と書いたのは、歴史において、矛盾した資料が仮に見つかった場合、他の資料と合わせて、合理的な説明が可能な方法を選ぶしかない、という意味です。歴史は、「理科の実験」ではないので、「100%確実に、どちらが正しいか」というのは、突き詰めると『不可能』です。言い方はよくないですが、それぞれ個人が「何が一番合理的な説明か」を考え、その個人の説明が、他人にとっても合理的に聞こえる場合、それが定説になり、「無理な仮定を重ねての結論」に聞こえれば、誰も見向きもしない、そういう事だと思っています。この場合、田中正明と一緒に蒋介石にあった人の証言が入手できれば、状況は変わるのでしょうが、(私が)入手可能な資料からすれば、これが一番合理的な説明に思えます。

尚、蒋介石が単に「申し訳ない事をした」と言っただけならば、「東京裁判の際に、連合国側の首脳としてスケープゴートにしてしまった」という意味に解釈すれば、他の資料、特にアジア主義者だった松井と国民党との心理的な親密感を考えると、とりたてて矛盾も無いので、積極的に否定する必要はないと思います。しかし、それが「南京大虐殺がなかった」という議論に結びつかないのは言うまでもありません。

しかし、田中正明のこういう所(「過去の事実」で、新たな発見などありようもないのに、一見内容が似ていて、実は意味がまるっきり違う説明をしてしまうところ)からも、あまり近づかない方がいい評論家に思えます。せっかく、蒋介石と会って直接話を聞いたのに、これでは資料としては使えません。

再度No.4です。

「この発言が真実かどうかを知りたいのです」との事ですので、ネットで色々検索していたら面白い事実に気づいたので、ご参考までにお知らせしておきます。興亜観音のHPにある会報バックナンバーを見ると、蒋介石の発言に関して2つのバージョンがあるのがわかります。一つは、質問にあるHPが引用しているもの(15号)、もう一つは10号(平成11年10月18日号)です。(既にお気づきであれば、無視してください。)これに気づいたのは、偶々、その二つを併記して引用しているブログを見つけたからで...続きを読む

Q日中戦争の発端は、北支派兵ですか?それとも、蒋介石の上海事変ですか?

支那事変の原因は、
近衛文麿が、現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)
結ばれるにもかかわらず、北支派兵を決定して、
進軍したことが原因だということが良く
NHKなどで言われているそうですが・・・
それは、蒋介石らのしつこい挑発に、日本がしびれをきらしたから
だと言われています。

また、最近では、蒋介石の上海事変での日本人租界への爆撃が
支那事変の本当の原因であるという話も聞きます。

本当のところは、どうなのでしょうか?

北支派兵は、日本の合法的な駐兵権による派遣軍なので、
それが、支那事変の原因だとするのはおかしいという人もいます。
是非、教えて下さいませ。よろしくです。

Aベストアンサー

少し調べてみましたが、関連はあるようです↓
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rokyoujikennseifuseimei.htm

ここまでムチャ言い張ってたんですねえ。勉強になりました。
以下は上記URLからの引用

ところで盧溝橋事件の前年の1936年、日本は、「支那駐屯軍」の兵力を約1,800人から約5,800人へ3倍もの増強していた。当然、中国は強く抗議したが、それを無視した日本は、増強部隊を盧溝橋にも近い北京近郊の豊台に駐屯させた。ここは北京の守備の要で、すでに中国軍が配備されていました。互いの兵営の距離はわずか300メートル、挑発行為であることは明白であった。

ということで、御考えの通りのようです。

参考URL:http://www9.plala.or.jp/kikujiroh/prog/rokoh_kyoh_jiken.html

Q日中戦争時、南京占領について

南京に侵攻した日本軍はどの程度の
規模だったのですか?

Aベストアンサー

第3師団先遣隊
第9師団
第16師団
第13師団歩兵第103旅団(山田支隊)
第6師団
第114師団
第5師団歩兵第9旅団(国崎支隊)

約12万です

Qひとつの国に北京と南京が並立するケースは中国成立以降だけ?

歴史上、ひとつの国に北京と南京という「京」という漢字が地名につくような都市が2つ以上存在するケース(中国限定しての話です)は中華人民共和国の成立以降だけでしょうか?

Aベストアンサー

宋は四京だと思って検索してみると、すでに前漢の時代に落陽を「東京」と呼んでいたようです。
http://www.actv.ne.jp/~yappi/timei/timei013_tokyo.htm
ただ、長安が「西京」ではなかったようですので両立では無いですね。
なお、宋の「北京大名府」は今の北京ではありません。現在の北京付近は当時は「燕京」。


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