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アテナはアテネの都市の神様ですよね。ギリシア都市国家にはそれぞれの都市の神がいたようですが、これはオリエントの先進文明(エジプトやメソポタミア)での都市の守護神という概念の影響があるのですか?隣保同盟などについても説明いただければ幸いです。

A 回答 (2件)

 


  アテーネー(アテーナー)が、アテーナイ市の守護神であったことは事実ですが、ギリシア諸都市(ポリス)が、それぞれの都市の守護神を持っていたかと言うと、それはあまり聞いたことがありません。オリュンポスの十二神の秩序は、ホメーロスの辺りには大体原型があり、古典期には確立していましたが、ヅェウスが最高神であるとは言え、特にヅェウス信仰が顕著な都市があった訳ではないと思います。アテーナイと並ぶスパルタでは、都市の守護神が別個にいたかと言うと、浅学で聞いたことがありません。
 
  西アジア(オリエント)の古代文明の都市守護神は、都市の主神で、バビロンのマルドゥクなどは、これが最高神だったはずです。それぞれの都市の守護神が最高神で、最高神同士で力を競い合い、都市と都市の戦いで、或る都市が勝利すると、その都市の守護神が相手の都市の守護神をうち負かしたことになり、より高次の神・最高神だったという証明になったはずです。都市の戦いと興亡は、守護神の戦いと興亡と同じ意味で、もっとも強い都市の主神が、オリエントの最高神だったとも云えるでしょう。
 
  オリエントの場合、都市の守護神というのは、民族の神であった訳で、それは海の民ペリシテのバールや、ヘブライ人の神ヤハウェも、部族の守護神、主神であったと云えます。古代オリエントでの都市国家のあいだの戦争は、相互の主神のあいだの戦いでもあったと云えます。民族の主神はすべて、形や姿があり、像があったのですが、例外が、ヘブライのヤハウェで、この神は、像がなかったようです。彼らの神聖な神の像が、他民族に焼かれたので、それ以来、神の像がなくなったという話もありますが、真偽不明です。
 
  エジプトの神々は、イシス・オシリス・ホルスの系譜に纏められている他方、古くからある太陽神ラーや、新興のアメンなどが、勢力を持っていました。母なる神はイシスですが、他にハトホル女神なども平和と愛の神として崇拝されていました。エジプトは国家統合が古く、エジプト神王パラオの称号に「上下エジプトの王」とあるように、多数のナイル河畔とデルタ地域の都市がまず上下でそれぞれ統一され、その後、下エジプトが上エイプトを統一したのだったと思います。つまり、体系的なエジプト神話が古くから成立しており、他方、都市の守護神も色々に存在したということです。(というか、勢力のある神の中心神殿のある都市が、その神の都市となったようで、統一神王パラオを上に置く以上、神殿間の勢力争いはありましたが、オリエントの都市国家や、ギリシアの都市と違い、互いに戦争するというような状況ではなかったということです。エジプト統一前の紀元前3000年以上前なら、エジプト都市国家は戦争をしていたかも知れませんが、統一後、ヒクソスの侵略はあったものの、統一帝国内部での大きな内戦はなかったということです)。
 
  エジプトの神々は、頭が動物などで、身体が人間という奇怪な姿のものが多いですが、これは、幻覚薬草などの幻覚だという説と、信仰勢力の「トーテム生物」と人間の合成だという説と、こういう表現様式なのだという説など、色々あります。
 
  エジプトにもオリエントにも、守護神などと並んで、太母神・大地女神がいる訳で、エジプトでは、それはイシスやハトホルということになり、オリエント地域では、都市主神を越えて、広く、オリエントの太母神として、イシュタルなどの信仰があったことになります。
 
  アテーナイの守護神に戻ると、紀元前1500年か、それより古く、アテネーは、アテーナイのアクロポリスの守護神であったようで、かなり古くからの女神であったことになります。ギリシアへの印欧語族のギリシア人の南下は二度に渡り、最初は紀元前2000年頃から、アカイア人が先住民を押しのけて、この地に勢力を築き、これらの人々が、ミュケーナイ文明を立てました。アテーナイは最初の移住者と同じ祖先で、アカイア人は分化して、アテーナイや、アッテイカ地方で有力なイオーニア人が生まれます。トロイア戦争は、ミュケーナイ文明のギリシアのアカイア人と、小アジアのトロイエーのあいだの戦争で、紀元前1500年か、もう少し古い時代と考えられます。
 
  女神アテーネーは、アカイア人のギリシア南下以前に、先住民が信仰していた太母神・大地女神であったらしく、印欧語族のギリシア人固有の女神ではなかったことになります。それは、紀元前2000年頃には、ギリシア人の女神となっていたので、かなり広範囲な信仰を集めた、大女神であったことになります(ミュケーナイのアクロポリスにアテーネーの神殿があったことが知られ、また、トロイア戦争当時、アテーナイのアクロポリスに女神の有力な神殿があったことをホメーロスは歌っています)。アテーネーは、太母神であり、次にギリシア時代には、諸ポリス(ポリスは都市と訳されますが、元の意味は「城塞」です)の支配者のいる中心部アクロポリス(高台の城塞)の守護神であり、アテーナイに固有の守護神ではなかったことになります。
 
  アテーネーは、「支配者の守護女神」で、多数のポリスのアクロポリスにその神殿があり、ミュケーナイ時代より、戦いの女神であり、処女神であり、また、おそらく後に、技芸・芸術・技術の神という性格が、年代を追って付け加わったのだとも思えます。アクロポリスの女神であるアテーネーが処女神であれば、太母神のヴァリエーションとしてのデーメーテールやアルテミス、アプロディーテー、ヘーラーなどが、それぞれの役割を持つ、代表的女神として信仰を集めたとも云えます。偉大な母なる大地女神がデーメーテール、自然の処女神がアルテミス、誘惑する若い女としての女神がアプロディーテー、家庭の女主人・主婦としての女神がヘーラーということになり、これに対し、太母神で、洗練された文化・芸術・技術の処女神、支配者(戦い)の守護神がアテーネーということになります。
 
  アテーナイは、とりわけアテーネーを崇拝し、また女神の庇護を受けたポリスで、アテーナイの後の勢力伸長と共に、アテーネー女神の勢威もギリシア中に高まって行ったとされますが、女神は、ミュケーナイ時代より、諸都市のアクロポリスの守護神だったことを考えると、元々ギリシア人のあいだで有力な女神であったことになります。
 
  アテーネーの立場は、オリエントの都市・部族の守護神とは違っており、エジプトの諸都市の神殿勢力の掲げる守護神とも違っていることになります。何故なら、アテーネーは、ギリシア人共通の守護神で、ギリシアのポリス同士の争いで、どのポリスを守護する女神という訳でもないからです。無論、アテーナイは、その名前が女神から来ており、自都市の守護女神だという意識が強かったでしょうが、他のポリスもアテーネーを崇拝しており、これは、ギリシアは諸ポリスに分かれていても、自分たちを「ヘレーネス」と呼び、「バルバロイ」と区別したことからも明らかなように、ヘレーネス民族の一体感が強く、ヘレーネスの代表的な守護神がアテーネーであったということになります。
 
  アテーネーと梟の関係は、はっきりせず、梟が女神の聖鳥であることは間違いないのですが、何故そうなのか、複数の解釈・説があります。初期、ミュケーナイのアクロポリスで崇拝されていた時、女神は、梟の姿を取る、聖鳥神として表されていたのだという説があります。アテーネーに従う梟ではなく、アテーネーが、梟の姿の女神だったという説です。アテーネーに付く、「定型修飾辞」のなかの有名なものは、glaukoopis で、これは、「青緑の、灰色の、輝く眼の」という意味の「グラウコス glaukos」と、「眼」の意味の「opis」の合成語であるらしく、Glaukoopis Atheenee は、「青い眼のアテーネー」「輝く眼のアテーネー」の意味と理解されるが、これを、「梟の貌(眼)をしたアテーネー」と解釈しようとした例があり、女神が梟の貌を持っていたとすると、何かエジプトの頭部が鳥や動物で、身体が人間の合成形神のような印象になります。
 
  確認されていないのですが、説として、アテーネーを崇拝していた先住民の部族、または初期ミュケーナイ時代の部族が、部族のトーテム指標として「梟」を持っていたので、トーテム動物の梟と、守護女神が合成されたのだという説があります。
 
  「隣保同盟」は、元々、共通の神を崇拝し、共通の祭儀を持っていたポリスが友好関係を築いていたことから出発し、もっとも有名で有力な「隣保同盟」は、アッティカのイオーニアのデルポイを中心地=聖地とする、アポルローン崇拝の「隣保同盟」で、無論、デルポイが中心で、多数のイオーニア系ポリスが参加していたものです。しかし、アポルローンは、ホメーロスがうたうトロイア戦争の当時、つまり、紀元前1500年かそれ以前、イーリオンの都市守護神で、ギリシア方に敵対しており、明らかに小アジアの植物神であったと考えられます。デルポイ自体が、元々ガイアー(大地)の聖地であり、ガイアーの象徴としての大蛇ピュートーンが信仰されていたのを、アポルローンがピュートーンをうち破り、ピュートーの都市、すなわちデルポイを自己の本拠地としたと言う神話があります。
  
  明らかに、古い大地女神が支配していた神託の聖地を、外来のアポルローンが奪ったことになります。デルポイ=ピュートーは非常に古くから、全ギリシアが崇拝する特異な「神託の聖地」として知られ、主神がアポルローンに代わってからも、同じ習慣が続いたのです。このデルポイのアポルローン崇拝の「隣保同盟」はアッティカを中心とするイオーニアの隣保同盟で、やがて、イオーニア族共通の聖地デーロス島を中心とするデーロス同盟に発展し、アテーナイが盟主となり、全ギリシアの主導権をアテーナイが握ります(この後、紀元前12世紀頃の第二次南下ギリシア人であるドーリス人の都市スパルタが、全ギリシアの主導権をアテーナイから奪います)。
  
  なお、アテーネー女神は、ローマの同じような性質の女神ミネルウァと同一視され、ミネルウァの名で、梟も一緒になって、地中海世界に広まりますが、ミネルウァとは、どういう女神なのか、技術と職人の女神であったらしく、アテーネー女神に較べれば、大女神とは言い難い気がしますが、アテーネーの別名として有名になります。
  
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この回答へのお礼

熱心なご回答をいただき感激しております。アテーネーがアテーナイの守護神となる以前からギリシア人の間で崇拝されていたことは全く知りませんでした。パルテノン神殿には異民族との戦いが描かれていたほかに、アテーネーの誕生とアテーネーとポセイドンの土地争いが描かれていたようですが、この神話はアテーネーのシノイキスモスによる形成の過程で生まれたものなのでしょうか。紀元前700年から600年にかけてアッティカの陶器画は東方化様式と言われるので都市の守護神という概念も輸入されたものと早合点していたようです。まず古代民族それぞれ独自の崇拝の形式が確立し、その後の征服活動や都市の発展、勢力伸長によって徐々に都市の守護神としての性格を帯びるにいたったと理解しています。隣保同盟については高校の世界史の記述ではポリス間の宗教的同盟としかなく、デロス同盟との関係については非常に勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/26 19:58

守護神の起源は古く、世界の先住民族、原始種族をみれば(日本も含め)当初は大樹、巨石、動物等が守護神として崇められたようです。

アイヌはシマフクロウを村を守る神として大事にしてきています。

アテナは当初農業の神だったようです。その頃田畑を荒らすネズミを捕食してくれるふくろうとアテナが結びつき、その後アテナが軍神となり、最後に芸術の神となるまで、ふくろうはアテナの従者でした。アテナ信仰はローマに渡り、ローマの同様の女神ミネルバ信仰と合体、ミネルバ信仰はローマ軍とキリスト教と共に欧州に渡っています。ふくろうもミネルバに従事し、欧州から全世界に広まったようです。今日の日本におけるフクロウ人気は遠くアテナ信仰にその起源があるといえます。

どの民族でも征服、被征服の経験の中で周辺諸国(文明)の影響を避けられませんが、守護神は各民族固有のものであり、どの段階で影響があるといえるか、非常に難しい問題ではないでしょうか。仮に影響があっても、ゼロからの取り込み(影響)か、民族固有のものと取り替えたか(ミネルバとアテナイの関係)、混合したか、などを見極める必要があります。

ギリシャの都市の守護神は考古学的には比較的新しいものであり、おそらくギリシャ先住民から伝わったものでしょう。古代民族は理解を超えるものを恐れ、神としたので自然崇拝(アニミズム)の中から自分たちの先祖(カラス、狼など多種多様)を創造し、やがて守護神となり、その部族が町を作ったり占領したとき、町の守護神(民族の守護神)となったものと考えられます。
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