今更な疑問ですが「バベルの塔」について、質問です。
聖書では『天に届くほどの高い塔を建て、神の怒りに触れ、
使う言語を話させるようにしたため、彼らは混乱し、
各地へ散っていった』というようなことが書いてあり、
『神が壊した』とか『崩された』とは一言も書いてないみたいで…
私てっきり塔は壊されたものだと思ってたんですが。

どうなったのかご存知の方、教えていただけないでしょうか。
気になったもので…。
よろしくお願いいたします。

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A 回答 (3件)

英語版Wikipediaには説明があります。

それによると、その後どうなったかについて聖書に記載はないが、ヨセフスの「ユダヤ古代誌」(1,4,3)を始めとして、いくつかの古代の史料は、神が塔を強風で倒したとする伝承を伝えているそうです。ヨセフス「ユダヤ古代誌」は邦訳がありますから、興味があれば図書館等でお調べください。

参考URL:http://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_Babel
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この回答へのお礼

そうなんですね、ありがとうございます。
ネットでざっと調べてみたのですけれど、よく分からなくて…
図書館でさがしてみますね。

お礼日時:2006/12/15 23:32

どうも、征服され続けたようです。


旧約聖書に記述があるようですので、もちろんエジプトでも知った国であったようです。

現在でも、トルコ国以東はヨーロッパではありません。
巨大国家エジプト。
鉄器を発明し、滅んだヒッタイト文明。

>私てっきり塔は壊されたものだと思ってたんですが。
多分、部分的には建築材料にされたのだと思います。

>使う(違う)言語を話させるようにしたため、
違う国家になった。→逃げ出した。

仕舞いに、農耕が不能になった。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD% …
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確かに。


しかし、この塔は完成もしていません。
完成を見ないように混乱させたんですね。
だから建造中のまま捨てられて風化したんじゃないかな?

ちなみに、それそのものかどうかは定かではないが、メソポタミアではそれっぽいジッグラトの基礎がいくつか発見されているんだな。
当時のこの手の建物にはピラミッド型の建造物のてっぺんに神殿様のものがあって、これが天界から神が降りてくる門とされていた。
『神の門』、すなわちバーブ(門)とイル(神)、これがバビルの由来とも言われる。

聖書のほかアラビアの伝説なんかにでてくるニムロデは神様に敵対してとんでもなくデカイ塔を建てようとしたくらいだから、完成した神の門を通って神様ぶっ殺しに行くくらいのつもりでいたのかもね。
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この回答へのお礼

わかりやすい説明を、どうもありがとうございます。
「風化」ということは跡くらいは「遺跡としてどこかに
 残っているかも」説とかありそうですね。
(ノアの箱舟みたいに)

お礼日時:2006/12/16 00:43

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Q『役』『事変』『動乱』が、なぜ『戦争』に?

 西南戦争、日中戦争、朝鮮戦争について、以前は『西南の役』、『シナ事変(シナの漢字が出ない、欠陥ソフトだ!)』、『朝鮮動乱』と呼んでいました。
 その当時『私は宣戦布告のないものや国内のものは、戦争と呼ばないのだな』と理解していました。
 そこで教えていただきたいのですが、『いつ頃から、どういう理由で、誰の主導で』みんな『戦争』という呼び方になったのでしょうか。

Aベストアンサー

ま、基本的には古い呼び方という一言で片付く問題なのですが、
事変に関しては、宣戦布告無き戦争という定義があります。
しかし現在は、事変ではなく紛争という呼び方が多いです。
それと事変は、正規の戦争ではないのでハーグ陸戦協定の規定外だという
屁理屈にも利用されたので、現在ではダイレクトな国際法違反という
認識があるのは一般的です。
だから印象がとても悪い。
ちなみにハーグ陸戦協定には捕虜の人道的取り扱いなどが定められているのですが
戦争じゃなくて事変なら捕虜の虐待も拷問、処刑も合法・・ということなんです。
ま、戦争を裁く法はないというのが実情なんで、この協定も
論理自体が空論に近いのですが。

役とか変とかは、もはや歴史的な用法でしかありません。
そもそも日本に関してだけで、日本だけで使われた言葉なので、
普遍性がないので廃れたというが実のところでしょう。
我々も、もはや古語は使わないわけで、古語辞典にのっているような
言葉でしゃべるのも変というもの。
一般に、日本の前近代までは、役などは使えると思うので
西南の役までは有効だと思います。ま、ここらへんの境界は
言い手、書き手の裁量でどうとでも。

朝鮮動乱については、その表現は新聞の見出しなどですよね。
当時、リアルタイムでは開戦動機とか、経緯が一般には不明だったので
そういう曖昧な表現になっただけでしょう。
コンゴ動乱とか、動乱はまだ使いますが、朝鮮の場合は朝鮮戦争が一般的。
ま、呼び方というのは、徐々に共通認識ができてきまってくるところがありますから、
それはしょうがないでしょう。

ま、基本的には古い呼び方という一言で片付く問題なのですが、
事変に関しては、宣戦布告無き戦争という定義があります。
しかし現在は、事変ではなく紛争という呼び方が多いです。
それと事変は、正規の戦争ではないのでハーグ陸戦協定の規定外だという
屁理屈にも利用されたので、現在ではダイレクトな国際法違反という
認識があるのは一般的です。
だから印象がとても悪い。
ちなみにハーグ陸戦協定には捕虜の人道的取り扱いなどが定められているのですが
戦争じゃなくて事変なら捕虜の虐待も拷問、処...続きを読む

Q層塔:数に意味?五重塔や十三重塔

化野念仏寺にある石の十三重塔を見ていて疑問に思いました。層の数が陽の奇数であることは分かりますが、十三あると、三重や五重より偉いのでしょうか。また十三より以上(十五、十七?)の塔は存在しますか?また念仏寺の様に、無数のミニ石塔に囲まれている場合、石塔が中心の仏さまで、周りのミニ達が信仰する者、またはその祈りの具体化、という介錯で間違っていませんでしょうか。ご存知の方教えて下さい。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

塔婆の起源は梵語のスツウパ<stupa>より出て卒塔婆等ともいい、
本来は仏舎利(釈迦の遺骨)を蔵する為であり、
仏教伝来当初は、礼拝の第一義的な対象として、
金堂と共に寺院の中心として伽藍の中にあった塔が
時代が下るにつれ、伽藍の中心や塔本来の宗教的な位置付けから離れ、
信仰の証しから寺院のシンボル的な役割を色濃くしていったようです。

そんな流れの中、
塔の位置付けも墳墓の標、霊跡標識、追善供養の為などと漸次拡大し、
材料は木や石が多い中、鉄塔・銅塔・瓦塔・泥塔
あるいは紙に描いた画塔・印塔などもあって、
種類も相輪塔、宝塔、多宝塔、多層塔(三重塔・五重塔など)、龍塔、五輪塔、
宝篋印塔、板塔、角塔など多様な変化を示しています。

塔の位置付けの変遷などは下記WEBページなどが御参考になるかと思います。
◇日本全国五重塔・三重塔を巡る旅
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage326.html

>十三あると、三重や五重より偉いのでしょうか。

明治以前の建築では、全国一の高さを誇ったのは約55mの東寺(京都市)の五重塔、
談山神社(奈良県桜井市)には、明治前の木造としては唯一の十三重塔が立っていますが、
この塔の高さは東寺の3分の1程度。

遺跡や記録だけなら、東大寺をはじめ全国の国分寺には、
奈良時代ごろからたぶん東寺の五重塔を凌ぐ高さの七重塔がたっていたらしく、
平安時代には法勝寺(京都市左京区岡崎)に100m近い九重塔がそびえていたとか。
ところが奇妙なことにそれらは全て倒壊し、
現存する明治前の木造の塔は、談山神社の十三重塔以外は全て三重か五重。
一方、石造になると殆どは十三重で、三重や五重はあまりなく、
三重や五重に見えるのは、宝篋印塔や五輪塔であることが多い様子。

五重塔と三重塔のふるさとである近畿に限ると、
高野山を本拠地とする真言寺院には五重塔が圧倒的に多く、
対して比叡山を本拠地とする天台寺院には三重塔が圧倒的に多い傾向にあるようですが、
江戸では最澄派にもかかわらず、金満の象徴のような五重塔を建立した寺もあります。
ただし、小規模な五重塔がある一方で、
法相宗の大本山の一つである薬師寺(奈良)の東塔(一見六重の塔に見える三重塔)のように、
東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る例もありますから、
五重塔と三重塔の違いを価格で単純比較する事も出来ません。
また、法相宗の大本山の一つである興福寺(奈良)などでは、
五重塔と三重塔の両方が建立されてます。
あと、聖徳宗に属し奈良の斑鳩で隣り合わせに立っている法隆寺と法起寺、
法隆寺の五重塔は向かって右に金堂、左に塔を置くのに対し、法起寺ではその逆になっている
ことから男と女、陽と陰をあらわすと解く先生もいらっしゃいます。
(『ねじれた伊勢神宮 「かたち」が支配する日本史の謎/宮崎興二/祥伝社文庫』)

なお、十三重石塔の建立目的について…
たとえば現存する日本最大の最古の石塔とされる京都府立宇治公園中の島の
宇治浮島「十三重石塔(高さ約15m)」は、宇治川での殺生の罪を戒め、
「供養塔」として建立されたようです。
◇http://www.wao.or.jp/aiso/tales/02/index.html
また、モノは違いますが
◇http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/detail.php?id=ss16306
『佐伯史談 No.163(1993.6)佐伯十三重塔と中世佐伯氏/宮下良明/佐伯史談会』
(39~45頁)<5/7>によれば「…十三重石塔も、当時の法華経信仰の影響を受けて、
石に写経して基礎下に埋め、その上に塔を建て、礼拝の対象物としたのであろうか。
いわば経塚のようなものである。そのように解釈すれば納得がいく。
近世の一石一字塔も同じ意味を持ち、経塚の延長の現れであろう。…」
と「経塚」と解釈されています。

以上の断片だけを捉えても、宗派や時代背景或いは建立目的などによる違いが考えられ、
三重ならびに五重と十三重とで単純に優劣を比べられる類のものではないようです。

>また十三より以上(十五、十七?)の塔は存在しますか?

小松市指定有形文化財として小松天満宮(石川県小松市)に
「十五重石塔(約7.24m)」が存在します。

ただし、伝統的な「多層塔」には定義があり、
「各階の平面形はどの階も同じ正多角形であること、
一階にだけ仏像が安置されていて、二階以上はただの飾りであること、
最上階の屋根の上に九輪(相輪)という九つの輪を積み重ねた細長い飾りがついていること、
などである」(『日本塔総鑑/中西亨』)。
したがって、各階の平面形が違ったり、九輪がついていなかったりの宝篋印塔や五輪塔は、
多層塔ではないらしい。
よって、小松天満宮の十五重石塔も、
九輪がついていないから正式な塔ではないという説もあるとのこと。

◆「小松天満宮」
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Japan-top-page/japanese_main.html
◇小松天満宮>由緒 十五重石塔(写真)
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Yuisho/yuisho1.htm
◇小松天満宮>由緒>十五重石塔について
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Yuisho/jyugojyu-setumei.htm

>また念仏寺の様に、無数のミニ石塔に囲まれている場合、
>石塔が中心の仏さまで、周りのミニ達が信仰する者、
>またはその祈りの具体化、…

少なくとも(華西山東漸院)化野念仏寺に関しましては、自らのWEBページで、
http://www.nenbutsuji.jp/enkaku.html
「釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。」と謳っていますから、
triplechocolate様の解釈で宜しいのではないでしょうか^^

塔婆の起源は梵語のスツウパ<stupa>より出て卒塔婆等ともいい、
本来は仏舎利(釈迦の遺骨)を蔵する為であり、
仏教伝来当初は、礼拝の第一義的な対象として、
金堂と共に寺院の中心として伽藍の中にあった塔が
時代が下るにつれ、伽藍の中心や塔本来の宗教的な位置付けから離れ、
信仰の証しから寺院のシンボル的な役割を色濃くしていったようです。

そんな流れの中、
塔の位置付けも墳墓の標、霊跡標識、追善供養の為などと漸次拡大し、
材料は木や石が多い中、鉄塔・銅塔・瓦塔・泥塔
あるいは紙に描いた画塔・...続きを読む

Q【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の力を借りたから。民衆は神を讃え、統治者より神が

【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の力を借りたから。

民衆は神を讃え、統治者より神が偉くなり、統治者が神を制御出来なくなり、神を頂点とする世界に統治者は不要となった。

エジプト文明が滅びたのは神の力に頼ったから滅びたのですが、なぜこの世は過去に世界統一に失敗した神の力を未だに頼っているのでしょう。

エジプト文明は国民が統治者より神が偉いと思ったから国を統治者が統制出来なくなり滅びた。

違いますか?

Aベストアンサー

統治者が、神の名を借りて統治していたようですよ。
アレクサンダー大王の時に、王の家系がギリシャ出身者になっても、太陽神の名を借りて統治し続けていました。
結局ローマの覇権争いを利用しようとしたクレオパトラが自滅を招いたということらしいです。
神は信じる人の心にあります。
鰯の頭も信心から(いわしのあたまもしんじんから)
亡くなった祖母は何にでも手を合わせていました。口癖は「守ってくれよる」でした。今も、祖母が守ってくれていると感じる私もきっと有神論者に入るのでしょうね。

Q旧約聖書と新約聖書の違い。

 聖書には、旧約聖書と新約聖書の二つがありますが、
旧約と新約は、どう違うのでしょうか。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

はじめまして
旧約聖書はユダヤ教において、重んじられる教典です。また、ユダヤ教の
信者はイエス・キリストの出現を救い主として認めていません。ですから、
旧約聖書はイエス・キリストが出現するまでの、神との古い契約であると
キリスト教では教えられます。ということで、新約聖書はイエス・キリストが
出現し、十字架に架けられ、その後弟子たちによって広められた「神との
新しい契約です」
また、プロテスタントとカソリックでは多少、旧約聖書の取扱について
誤差がありますが、今日ではその溝はほとんどありません。
因に、キリスト教では旧約聖書と新約聖書の二つセットで聖書であると
しています。

Q石田さんは 『三成』? 『光成』? 

つい最近このOKWaveを知ったので、歴史カテゴリー(特に日本史戦国期もの)の皆様の質問や回答を興味深く読ませていただいていたのですが、あの関ヶ原の石田さんの名前が『光成』との表記がいくつも目に付きました。
私は石田『三成』と習ったと思うのですが、今は石田さんて『三成』ではなく『光成』と書くようになったのでしょうか?
それとも、このサイトでのお約束ごとなのでしょうか?
初歩的なことで申し訳ありませんが、気になったものですから…。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

みなさんのおっしゃる通り、正しくは「三成」ですが、
浮世絵や歌舞伎などで「光成」「岸田淀少光成」「石田光成」
とされていることがあります。
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=10&haiyakukensaku=%B8%F7%C0%AE

これは、ここ
http://www.dict-keyword.com/38/18141.html
などに書かれているように(以下抜粋)
『三成死後すぐには三成の評価はそれなりに高く、
徳川光圀 などが敵ながら天晴れと言う評価を残している。
しかし江戸時代 中期以降になると小人・奸臣・小才子
などと言われた。また、三成の名前をそのまま出すことも憚られ、
絵本や絵巻物では「岸田光成」などと書かれることとなった。』
という経緯で、呼称としての「光成」はあったということです。
それで、ちょっと混乱する事もあるのかなと思います。


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