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 ローマ帝国の版図が、北はScotland、南はカルタゴ、東は東地中海まで広がり、「ラテン語」が軍事・行政用語として、各地で通用しました。
 東西分裂(AD395)以降の、東ローマ帝国(1453のオスマントルコ占領まで)の公用語についてお尋ねします。

 東ローマ帝国の最晩期(ビザンチン帝国)の領土は、{ギリシャ島嶼部・マケドニア・小アジア半島}でした。
Q1 東ローマ帝国は、ローマ(伊)の言語(ラテン語)を引き継いでいたのか?
Q2 東ローマ帝国は、その地勢上の理由から、(古典)ギリシャ語に回帰していたのか?
Q3 キリスト教のうち{ギリシャ正教}(東方教会?)をコンスタンチノープル市が主宰していたのですが、経典語は(ローマ)ラテン語? それとも何?
Q4 {ギリシャ正教}はその後、現在の{ロシア正教}に引き継がれますが、その教典が(ギリシャ語?)からキリル文字への移行があったのでしょうか?

A 回答 (4件)

ローマ帝国の東西分裂時の東ローマ帝国の公用語は、ラテン語でした。


しかし、住民の間では、ギリシャ語が普通に話されていました。
しかし、ユスティヌス朝時代では、公式の公用語はラテン語でしたが、宮廷内での標準語は、ギリシャ語となっていました。
ユスティヌス朝の創始者であるユスティヌス1世(518~527)は、ラテン語の読み書きができず、甥のユスティニアヌス1世(527~565)を秘書として使い、後に後継者としました。
ユスティニアヌス1世は、ローマ法大全を編集しますが、これは公用語であるラテン語で書かれています。
つまり、この時期
公用語 = ラテン語
標準語 = ギリシャ語
となっていました。

ユスティヌス朝の後急速にギリシャ化がすすみます。
そのため、一般には、その後の東ローマ帝国を「ビザンツ帝国」と呼びます。
ヘラクレイオス朝(610~717)では、完全にギリシャ語に置き換わっています。

という事で、
1.東ローマ帝国に分裂時は、ライン語を引き継ぎました。
2.ギリシャ語に変化しました。
3.聖書は、そもそもがギリシャ語の文章をラテン語化したものです。
東ローマ帝国時代は、公式にはラテン語が使われていたのですが、その後ギリシャ語化します。
その時期は私は知りませんが、偶像崇拝問題などの時代にギリシャ語化したと思われます。
4.正教会は、国ごとの典礼を行う事が特徴です。
つまり、ロシアへの布教には、当初からロシア語が使われています。
これは、他の国(セルビア、ブルガリアなど)も同様です。
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ローマ帝国の公用語はラテン語であったのが、東ローマ帝国はいつのまにか完全にギリシア化してしまいます。

いつ頃からそうなったのか、興味があります。Q1,Q2については#3さんの回答でほぼいいと思います。日本語版、英語版Wikipediaでも皇帝ヘラクレイオス(575 - 641, 皇帝在位 610 - 641)のとき東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったと書かれています。ここでいうギリシア語とはもちろん古典ギリシア語(擬古文ですが)のこと、権威のないコイネーなどではありません。コイネーは教養のない民衆が話していた話し言葉に過ぎません。
Q3ですが、新約聖書はギリシア語で書かれました。教典の言葉は当然ギリシア語です。西方においては初期の布教はギリシア語で行われました。今でも、グレゴリオ聖歌のもっとも古い曲のひとつキリエ(Kyrie)はギリシア語で歌われます。ローマ帝国西方においても初期の典礼はギリシア語で行われたのです。 権威あるラテン語訳聖書『ヴルガータ』( Vulgata )が作られたのは400年頃ヒエロニュムス(Hieronymus)によります。この『ヴルガータ』が使われたのはもちろんラテン西方だけです。
Q4 伝統的には修道士キュリロスとメトディオス兄弟がスラブ世界にギリシア正教を伝え、その際、いわゆるキリル文字を考案したとされていましたが、最近は、二人が考案した文字はグラゴール文字とされているようですね。いづれにしても、スラブ語をギリシア文字だけで表記するには無理があったわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5% …
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コイネー


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A4% …

ラテン語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%86% …

イタリック語派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF% …


わかりにくいですね。

東ローマ帝国に関するビデオを過去に見たことがあります。
私の記憶が正しければ、ローマ帝国には4つに分かれていた時期があり、それぞれに別々の皇帝がいた。
つまり皇帝が4人いた。

名前は忘れましたが、その一人が田舎町のコンスタンチノープル(今のイスタンブール)に拠点を置いて、東側の勢力を抑えていたと思います。
そしてトーナメント方式で、他の皇帝をうちやぶっていき、分裂していたローマ帝国を吸収していって、最終的に一つに統合した。


東がコイネーで、西がラテン語だったのではないかと。

従って上のコイネーのリンクにも書かれていますが、Q1の答えはコイネーではないかと。

Q2 
住民の多くがギリシャ系だったので、必然的にその当時その地域で話されていた言葉はコイネーだったと思います。
従って回帰していったわけではないと思えます。

Q3 コイネーだったと思います。
西はラテン語が公用語だったようですが、東はコイネーだったので。

Q4
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA% …
ということで、初めて知ったのですが、キリル文字は宣教のために東方正教会の宣教師が考案したグラゴール文字もが元になっているようですね。
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もともと ローマ帝国においては 東では ギリシャ語が公用語ですので、回帰するまでもありません。



q3
キリスト教の聖典は、アレキサンドリア(エジプト)で作られた60人訳、そもそもの原典です。5つあった大主教座のうちの四つが東ローマであり、ゆいつ西にあったのがローマ教会。
キリスト という表現自体が、ギリシャ語です。

q4
ロシア正教の自称であって、引き継がれていない。
聖典はあくまでギリシャ語。
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