スタインベックの小説『怒りの葡萄』を読みました。
史実をもとに書かれているとのことですが、1930年代オクラホマなどからカリフォルニアに移った貧農たちは、結局その後どうなったのでしょうか。
カリフォルニアの状況がどう収集がついたのか(あるいはどう変わって行ったのか・それともあのままだったのか・・・)知りたいです。

ネット検索してみましたがうまく情報を見つけらないのと、参考になるような本も分からないので、情報またはアドバイスをいただけたらと思います。
宜しくお願いします。

A 回答 (1件)

大旱魃を逃れたオクラホマからの移民、通称オーキーはちょうど時期的に南カリフオルニア一帯が航空機産業や自動車産業の中心として大発展する時期に当たったので産業界に労働力として吸収されました



特に数年後に起こった大二次大戦でカリフオルニアは大ブームになり給料も生活条件も飛躍的に向上しました

本来の目的だった農業労働者にはメキシコからの移民が取って替わりました
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうなんですか、労働力として吸収先があったのならちょっとホッとしました。
あのまま貧窮で野垂れ死にばかりでは・・・・白人も大変だったんですね。

お礼日時:2006/12/21 09:19

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Q1930~40年代のピストル

 どちらかというとミニタリー系統の質問ですが、よろしくお願いします。
 松本清張の「昭和史発掘」あたりを読んでいると、昭和初期くらいの事件でやたらと簡単に日本人がピストルを手に入れて使用しているんですが…。
 ただ単に「ピストル」としか書かれてないんですが、これって具体的にどこの会社が生産したなんていう名前の拳銃なんでしょうか。(まさか昨今流行のトカレフではないでしょうし)
 この時代を舞台にしたドラマとか見ているとワルサーっぽいシルエット(あの先っぽに何か付いている全体的に細いやつです)のものを大陸なんかでは使っていますが、あれは陸軍の制式銃って設定でああなってるんでしょうか。
 素朴な疑問で、あの時代ってたとえ地下活動家とかでも、一般に生活している日本人が、そんな簡単に銃が入手できたんでしょうか。

 「銃火器のことを語らせたらちょっとうるさいぜ」という方、お待ちしております。

Aベストアンサー

まず、当時の士官が持っている拳銃は概ね「私物」です(下士官などに対しては貸与もあった。ちなみに制服やらクツやらすべてにおいて官給品はない。ので下級の士官は結構貧乏だったりします)。つまり銃砲店で個人の趣味にあったモノを買えば良かったし、別段買わなくてもよかったわけです。

購入は法令が直接出て来ないので分かりませんが、
1)民間人には持たせない
2)所持、運搬は許可制
だったようです。ただ、今よりもはるかに銃をあつかう軍人が身近な存在だったことも事実です。

じゃ、どの位市中に出まわっていたのかというと、
参議院の議事録(参考)に

拳銃の所持許可数につきましては(中略)昭和十二年に戦争が始まったその当時、警視庁管下の所持許可をしておりました拳銃を、戦争が始まると同時に、一括警視庁で保管するために警視庁に集めました。そのときの数が約二千丁でございます。この警視庁の二千丁から推定いたしまして、全国で約二万丁くらい所持許可数があったと推定されます。
とあります。

 この年の男の人口がおよそ3500万人。分かりやすく子どもなど拳銃を持たない人が1500万として、およそ1000人に1丁の割合で拳銃が存在していたわけです。
 さらに、この数字、戦場に出掛けていった人が持って行った数は含まれていませんので、実数はさらに大きくなったモノと考えられます。それでもこの10倍=20万丁あったとしても100人に一丁。

 ちなみにドコモの「PHS」の契約数が17年2月現在で130万件ほど。ポケベルが65万件ですから、極端に推定値の10倍が流通していたとして、この程度の普及率だったわけです(実際にはもっと低いでしょう)。

参考URL:http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/040/0320/04002270320010c.html

まず、当時の士官が持っている拳銃は概ね「私物」です(下士官などに対しては貸与もあった。ちなみに制服やらクツやらすべてにおいて官給品はない。ので下級の士官は結構貧乏だったりします)。つまり銃砲店で個人の趣味にあったモノを買えば良かったし、別段買わなくてもよかったわけです。

購入は法令が直接出て来ないので分かりませんが、
1)民間人には持たせない
2)所持、運搬は許可制
だったようです。ただ、今よりもはるかに銃をあつかう軍人が身近な存在だったことも事実です。

じゃ、どの位...続きを読む

Q江戸幕府と情報収集

江戸幕府は諸藩の出来事など、どの程度情報収集していたのでしょうか?
「土芥寇讎記」なる本も作られていますが、江戸時代を通して全国に隈なく隠密を派遣して情報を遅らせていたりしたのでしょうか。

公儀はオランダ人を通じて世界情勢をも把握していたとのことですが、どういうニュースをつかんでいたのでしょうか。

Aベストアンサー

 幕府の情報収集の表立った機構は、次の通りです。
(大名関係)将軍←老中←大目付←巡検使、国目付
(外国関係)将軍←老中←遠国奉行(長崎奉行ほか)
 巡検使は将軍の代替わりのときに、天領も含め全国に派遣され、調査に当たります。
 国目付は大名の代替わりのときに、その大名の国元へ派遣されます。
 巡検使、国目付は、いずれも常時あった職制ではなく、その都度臨時に使番や書院番などの旗本数人(家来も含めて数十人)で編成し、当該地へ派遣しました。
 今の会計検査院の監査と同様に、受けるほう大名側は事前に知らされていますので、準備万端整えて待ちます。旗本の家来が庄屋を引見して事情聴取をすることもありますから、大名側があらかじめ庄屋に模範回答を渡しておくようなこともあったらしいです。想定問答集や模範回答など、何時の時代でも同じですね。
 オフィシャルの調査が終わった後でも、不審があった場合は、諜者を残置する、あるいは改めて隠密を派遣して調べるということは、あったと思います。
 水野為長が隠密を使って情報を松平定信に上げていたという実績があるようです。↓
http://www.athome.co.jp/academy/japanese_history/jph06.html
 全国にくまなく隠密情報網を張り巡らしていたかどうかまでは存じません。
 しかし、能アル老中は公式非公式にかかわらず、情報収集に努めていたのではないかと思います。一般的な情報は、上記の大目付以外の通常の行政機構の各ルートからも沢山上がってくるはずです。ここ一番というときは秘密の情報収集をやったことは間違いないと思われます。
 外国関係については長崎奉行を通じて、結構把握していたように思います。ただそれらの諸知識は幕府内の極めて限られた層にしか伝わっていないような感じですね。それが後年の対外交渉のお粗末振りの遠因になっていると思います。

 幕府の情報収集の表立った機構は、次の通りです。
(大名関係)将軍←老中←大目付←巡検使、国目付
(外国関係)将軍←老中←遠国奉行(長崎奉行ほか)
 巡検使は将軍の代替わりのときに、天領も含め全国に派遣され、調査に当たります。
 国目付は大名の代替わりのときに、その大名の国元へ派遣されます。
 巡検使、国目付は、いずれも常時あった職制ではなく、その都度臨時に使番や書院番などの旗本数人(家来も含めて数十人)で編成し、当該地へ派遣しました。
 今の会計検査院の監査と同様に、受けるほ...続きを読む

Q1930年の金輸出解禁がどうして不況につながるのか

教科書には「金輸出解禁で日本が不況になった」とぶっきらぼうに書いてあります。金輸出の意味はだいたい分かっていますが、それがどうして不況につながるのでしょうか。教えてください。

金輸出解禁を旧平価で行い、円高になったからでしょうか?だとすると、当時の日本も輸出に頼っていたということなのでしょうか?

よろしくお願いいたします

Aベストアンサー

まず、日本の産業の脆弱性が挙げられます。第1次世界大戦中の欧米の輸出能力の減少で、日本はアジア市場を席巻しただけでなく、大戦による世界的な船舶不足の中で造船業や原料の製鉄業が伸張し、欧米からの化学製品の輸入が途絶したために化学工業も勃興し、日本は重化学工業化に成功することになります。しかし、このような事態は鳥なき里の蝙蝠で、日本の製品は欧米製品の代替品に過ぎず、品質・価格面で欧米製品に太刀打ちするだけの力を持ちませんでした。大戦が終了し欧米の製品がアジア・日本市場に回帰するようになるとアジア市場を奪還されたのみならず、日本市場においても重化学工業品を中心に輸入が急増し、貿易は輸入超過に陥ります。さらに大戦中の設備の増加と、在庫の増加を適正に解消できず(供給過多の状況)、戦後恐慌が発生していました。打撃を受けた企業・銀行の中では中小企業を中心に企業・銀行の倒産が相次ぎ、また倒産に至らない企業・銀行でも粉飾決算が行われ、不良債務は潜在化しました。政府は日銀券を増発し、産業救済を行いましたが、逆に経済破綻を先延ばしにしただけで根本的な解決にはなりませんでした。更に関東大震災とその後の震災手形とよばれるモラトリアムや、日銀の再割引手形(実質的な日銀特融)の中に戦後恐慌による不良債権が紛れ込み、それまでの問題点がより潜在化します。さらに復興のためもあり、輸入急増により在庫が増加し、産業の整理は進まず、工業製品の国際競争力の不足と、日銀券の増発などによるインフレの傾向により、貿易赤字は増大し、慢性的な不況下にありました(このような状況下で旧財閥への集中が進みます)。昭和2年には金解禁の目標もあり、震災手形の処理を行おうとした方策のまずさから昭和金融恐慌が起こり、田中義一内閣の高橋是清蔵相によるモラトリアムの発令で、かろうじて金融システムの崩壊を食い止めたほどです。しかし、この政策も結局のところ日銀券の増発により弥縫策でした。ですから1920年代を通じて産業の合理化・整理は進まず、競争力のない企業は残り、慢性不況の中、日銀券の増発により、破綻を回避する弥縫策を続けてきたことになります。当時はマネーサプライとの考えはありませんでしたが、結局のところマネーサプラを増加させたことにより競争力のない企業・産業を存続させ、不良債権を先延ばさせ、さらに増加はインフレ傾向を生み出し、貨幣価値を減少させ、為替相場の下落(円安)と国際競争力の低下をもたらすという悪循環に陥っていました。そのため為替相場は第一次世界大戦時の金輸出禁止前の1¥:0,49875$から最安1¥:0,38$台を底値として円安傾向にありました。このように連続的不況・恐慌に陥った1920年代を恐慌の時代とも呼びます。
さて、金解禁は金の輸出解禁ではありますが、輸出代金の決済のために正貨(金貨及び金の地金)の輸出を解禁することです。同時に金の兌換の再開でもあり、金本位制への復帰でもありました。さらに金本位制は為替の固定相場でもありましたから、金平価(通貨交換比率)を維持するために、貨幣価値を維持する必要があり、そのためにマネーサプライは抑制的になりやすい性格がありました(平価の値にもよります)。特に当時の日本は戦後恐慌に始まる慢性的な不況状況にあり、マネーサプライを増加させることにより破綻を回避しているような状況は前記の通りでしたから、金解禁に伴ってマネーサプライの減少、不良債権の処理が促進されることは必然でした。つまり、今までと真逆の政策を実施することになります。
その上、為替相場の実勢が1¥:0,465$の中で旧平価(金輸出禁止前の平価)1¥:0,49875$で金解禁(実勢価格以上の円高)を実施しようとしたのですから、実勢価格以上の円高平価ですから、貨幣価値を維持するためにはマネーサプライを減少させ、貨幣価値を上げる必要がありました(デフレ要因となります)。在野の高橋亀吉・石橋湛山などは平価切下げ=実勢ルートでの金解禁を主張しています。
また、金解禁の準備として昭和4年度の当初予算より5%、1億円弱の削減をし、さらには昭和5年度予算案も削減後の予算と同規模とするなどの緊縮財政を行い、マネーサプライを減少させ、貨幣価値を上昇させ、円高誘導のための方策をとっています。(デフレ要因となります)
さらに緊縮財政は物価の引き下げも目的としており、それにより産業の合理化、国際競争力を高めようとしました。
そもそも第1次世界大戦までは日本をはじめ主要国は金本位制を採用していたわけですが、大戦に伴い次々に離脱します。大戦後に主要国は金本位制に復帰しますが日本だけが復帰できずにいました。金本位制への復帰=金解禁は国際的な要請でもあったわけです。ただし、平価を切り下げて金解禁を実施した国も多いのですが。
また、金本位制へ復帰していないことは管理通貨制にあるということで、マネーサプライの増加に金本位制の時ほど気を遣わなくて済むことになります。戦後恐慌等を日銀券の増発という手段で救済する訳ですし、逆に金本位制へ復帰できない要因にもなるわけです。
為替相場は当時の日本経済の実勢で展開し、大きく変動しますが、多くは円安に振れることにより、輸入が抑えられ、輸出が促進されたはずですが、財界を中心に金解禁により実質固定相場制に移行し、為替相場を安定させ、貿易を促進させることを望む声が強くありました。
このように当時の日本経済は戦後恐慌・関東大震災などにより恒常的な不況の中にあり、産業の整理・合理化は進まず、国際競争力に乏しい企業が温存されました。それを日銀券の増発、マネーサプライの増加により救済しているような状況でした。そのため、インフレが進み、為替相場は円安傾向で不安定な状況になり、放漫財政に陥っていました。このような中で主要国中唯一金解禁を実施していない日本に対して金解禁を求める内外の圧力は高まっていました。
このような背景の中から浜口内閣の井上蔵相は表裏の関係にある財政緊縮・金解禁を行うわけです。その財政・金融政策の方針は、財政緊縮による放漫財政の是正、物価の引き下げ、産業の合理化・経済の抜本的な整理、国際競争力の強化、為替相場の安定などを目的とし、金解禁を実施します。
上気したように、日本経済は日銀券の増発というマネーサプライの増加により破綻を防いできたわけですが、緊縮財政によるデフレ的な政策の上に、同じくデフレ色の強い金解禁を実施することは、新平価(円を実勢価格で金解禁)であったとしても、デフレ不況の色合いの濃い政策ですので、さらなる不況・企業の倒産・失業者の増加の可能性が高かったと思います。企業・産業の整理・合理化はつまるところ企業の倒産・合併により競争力の高い企業産業を残すことですから、最初から企業の倒産・失業者の増加は見込まれていたことになります。
まして、日本の実力以上の円高である旧平価での金解禁ですから、より多くの企業倒産と失業者の増加は避けられなかったと思います。
さらに、1929年の10月24日が世界大恐慌のきっかけとなった暗黒の木曜日で、ほぼ一か月後の同年11月21日に30年1月11日からの金解禁の実施発表、そして発表通りに旧平価による金解禁ですから、恐慌に輪をかけた実施としか言いようがない状態となったわけです。

長くなりましたが以上、参考まで。

まず、日本の産業の脆弱性が挙げられます。第1次世界大戦中の欧米の輸出能力の減少で、日本はアジア市場を席巻しただけでなく、大戦による世界的な船舶不足の中で造船業や原料の製鉄業が伸張し、欧米からの化学製品の輸入が途絶したために化学工業も勃興し、日本は重化学工業化に成功することになります。しかし、このような事態は鳥なき里の蝙蝠で、日本の製品は欧米製品の代替品に過ぎず、品質・価格面で欧米製品に太刀打ちするだけの力を持ちませんでした。大戦が終了し欧米の製品がアジア・日本市場に回帰す...続きを読む

Q1920から1930年代頃には道路規制等はない?

こんばんは、しばらく前から気になっていた事について質問させて頂きます。

私はその時代の映画(チャップリンなど)が好きでよく見るのですが、それらに映っている街の大通りなどの場面を見ていると今と違い、車線等の交通規制がないように見えます。
人と自動車などが自由に動いているのが不思議です。人が車が走っている目の前を堂々と通り過ぎるようなことは今では考えられませんよね?

その頃の交通法等の法律や、道路の規制があったのかどうかが知りたいのですが、どなたか数行でも構いませんので詳しく教えて下さい。


ちなみに、カテゴリーを何にするか迷ったのですがとりあえず歴史にしておきました。

Aベストアンサー

自動車が出始めたころは、これで馬車の交通事故が根絶できる、と期待されていました。馬の暴走より、人間が操作できる機械のほうを信用したわけです。

ご指摘の時期ですと、欧州とアメリカには自動車産業が確立していたので、交通法規は当然あります。T型フォードは一般の人でも買えたので、都市部では交通事故は珍しくありません。停止線、などの概念はこの頃からです。
当時の逸話で、都会で、昼間道路に30分間動かずに寝っころがれる、という賭けを申し出た人がいました。当然みな「無理だ」と思っていたのですが、その人は、道路の真ん中に自動車が故障したかのように停めたあと、その下で寝っころがって修理しているフリをして、見事賭けに買ったそうです。こんな賭けが成立するほど、都市は混んでいました。

フランスは第一次世界大戦で勝利し、自動車会社もルノー、プジョー、シトロエンの3大メーカーが自動車を売っていました。シトロエンは広告に熱心な会社でして(この会社の広告史はそのまま20世紀の広告史ともいえます)、シトロエン車のディーラーがある所を指し示す標識をフランス中に立てたのですが、それに、交通法規の標識をつけるということをしていました。

チャップリンの映画でかなり好き勝手やっているのは、自動車シーンをスタジオの敷地内で撮影したから法規に縛られなかったか、ロケの場合でも自動車の密度が絶対的に少なかったから、あのようなスタントができたのではないでしょうか。

日本でも昭和30年代の地方などでは、自分の敷地で自動車運転の練習して、「×月○日に免許試験やります」と警察が告知すると、その自動車で無免許のまま試験場に行って、コース走って免許もらう、という光景は珍しくありませんでした。おちた人が、自分の自動車運転して、家に帰るということも、あったそうです。

蛇足ですが、国際免許わすれて、エチオピアで必要になり免許とった人がいました(日本人です)。警察に申請したら、何曜日に自動車用意して、ウチの前で待っていてください、とのこと。待っていたら交通課のおまわりさんがきて、自動車のエンジンのかけかた、一通りの運転と縦列駐車、それに坂道発進のやりかたをきかれ、その場でハンコの押した免許をくれたそうです。2時間くらいだったと言っていました。

自動車が出始めたころは、これで馬車の交通事故が根絶できる、と期待されていました。馬の暴走より、人間が操作できる機械のほうを信用したわけです。

ご指摘の時期ですと、欧州とアメリカには自動車産業が確立していたので、交通法規は当然あります。T型フォードは一般の人でも買えたので、都市部では交通事故は珍しくありません。停止線、などの概念はこの頃からです。
当時の逸話で、都会で、昼間道路に30分間動かずに寝っころがれる、という賭けを申し出た人がいました。当然みな「無理だ」と思ってい...続きを読む

Q出エジプトって史実?

今まで、モーセの存在とか紅海渡渉とかはさすがに虚構だと認識いたのですが、
ユダヤ人がエジプトの奴隷身分から逃れて、カナンに移住したのは史実だと
思っていました。聖書の記述に従うと、アブラハムからヨシュアの時代までの
居住地は以下のようになりますよね。

バビロニア周辺→カナン→エジプト→アラビア半島を彷徨う→カナン

この内、私は「バビロニア→カナン→エジプト」は怪しいにしても、「エジプト→カナン」
については何らかの形で史実を伝えていると思っていました。

ところが最近、本だったかネットだったか、何か読み漁っていた時に、ユダヤ人の
エジプト脱出は史実ではないという記述に出くわしました。その時は「へー」としか
思わず、出典をチェックし忘れてしまいました。で、今、非常に気にかかっています。

というわけで、エジプト脱出が史実か否か、現在一般にはどう考えられているのか
ご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

下記の質問が参考になるかと思います。

『出エジプト記は実話ですか?』
 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=169170

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=169170


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