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タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

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A 回答 (7件)

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。



秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
豊臣秀次!歴史オンチの私は彼の名も知りませんでした。すみません。でも名も知れぬ人物が歴史を変えたかもしれない…というのは興味ありますね。ともかく、秀吉は後継者育成に力を入れるのが遅すぎた(もしくは力を入れていなかった)ということかもしれませんね。

お礼日時:2006/12/24 19:10

>「正室に子どもができなかったからだ」


>・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
>・秀頼と淀君が無能だったから。

上のことは全部当たっていると思います。
 正室に子供がいたら、当然跡継ぎはその子供になっていただろうし、しかも秀吉死亡時には、その跡継ぎはもう壮年であったと考えられます。
 子飼いの大名、福島正則や加藤清正ほかは正室に育てられたようなものですから、家康につくようなことは起こり得ません。
 前田、毛利、上杉などの大大名も、関白太政大臣の跡継ぎに従うでしょうし、家康も抵抗できないでしょう。
 その跡継ぎが暗愚でない限りは、豊臣家は続いたと思います。

 さて、北の政所に子供が実際に生まれなかったんだから、家康VS淀君秀頼のどっちがエラかったかということになるわけです。
 結果から見て、家康の方が有能であったということには違いありません。関が原の合戦以降、秀吉子飼いの大名までも家康についたということは、三成憎しのことはあったでしょうが、やはり自分が大事、誰に付いたら生き残れるかということを、冷静に考えた結果だろうと思います。
 関が原で他の豊臣方の大大名も、まともに戦っていませんね。家康が怖かったんです。家康の有能を認めていたんです。
 この時代の大名は、後の徳川時代のような忠君思想には染まっていません。どうやったら生き残れるかということを第一義に考え、行動していたと思います。
 淀君秀頼サイドは、本当の家来はほとんど持っていないわけです。大大名も秀吉が存命のときは、秀吉が怖いから形の上で臣従していただけです。
 だから、淀君秀頼サイドは諸大名の力のバランスの上に、うまく乗っかるより仕方ないわけですが、その乗っかり方が上手でなかったんでしょうね。結果から見てそのように思います。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私や父の「素人感想」も「当たらずとも遠からず」だったのですね。その後豊臣サイドについた石田三成の問題もあったようです。家康は三英傑の中では最も人気のない大名だと思うのですが、皆様の回答を読んでいるうちに、なんかとても偉大な人に思えてきました。

お礼日時:2006/12/24 20:46

いくつか大きな問題はありますが、最大の問題はあの一族の繁殖力の低さです。

秀吉だけではなく一族全員。
たとえば、秀吉自体には異父含めて数人兄弟姉妹(日秀、豊臣秀長、朝日姫)がいますが、彼らの子供を見てみましょう。
まず、秀長。子は2人のみ(あの当時、この数字は相当少ないのです。もちろん0と言う人もいますが。)でしかも女性。
朝日姫にいたっては子がいたと伝わっていません。
そして、秀次の生母である日秀。彼女のみがある程度の子孫を残しており、秀次、秀勝、秀保の男子3人です。

つまり、秀吉の一門であり、かつ配偶者であるねねの系列を除くと、日秀の残した3人と、秀吉晩年の子である2人(1人は存在が怪しいので除外)であり、しかも1人は幼年期で死亡。残る一人は秀吉が死んだときにまだ子供。秀勝、秀保は早世。まともに生きていたのは秀次と秀頼しかいません。

秀吉の場合、側室多数なのですから、あの地位にいれば10人、20人子がいてもおかしくない位置なのです。
しかし、わずか2人。しかも晩年です。本来ならば死亡時に40歳くらいの子がいても、不思議ではないのです。壮年期の実子を残せなかったのが、彼の問題のひとつです。
また、家康のように「婚姻」を外交戦略として使えなかったのも問題です。結局これは繁殖力の低さが原因なんですけどね。養子を放り込めば、その家とは不和になりますし(はっきり言って、この方法って送られる側は面白くないのです。家を乗っ取られるわけですから)。諸外国でもそうなのですけど、波風立てずに関係を良好にさせる方法で最も上なのは婚姻なんですね。結局。

もうひとつは下の人が言っているように秀次事件の問題です。
これが、最大の愚行とされるのは、No2の方がいっているとおりです。最上なんかは愛娘を殺されていますから、心穏やかではなかったでしょう。もともと彼は家康とのかかわりがかなり強かったのですが、いっそう家康に近くなったのは疑いがありません。
ただし、秀次の器量を考える際には要注意であり、特に武の面で不安が残ります。
当時、いわゆる武功派(福島正則、加藤清正等など)と官僚(石田光成等)の軋轢が酷く、最悪分裂の危険性もありました。秀次の場合、明らかに官僚的な人物であり、武勇に疑問が残りますので(特に小牧・長久手での大敗が悲惨です)、福島や加藤が家康に近寄った場合、家康は戦国的手法で天下盗りに乗り出すことは十分可能です。
また、この軋轢は、豊臣政権自体の内包した問題ですから、難しいところでしょう。最悪秀次の代、しかも初期の段階で解消しないと間違いなく崩壊に直結する問題です。豊臣政権の問題については下記URLの私の回答を読んでいただければ、おおむね分かるかと。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2536827.html
問題は秀次にそれだけの器量があったかどうか。一般の評価が不当に低いのは間違いないのですが、政権の抜本的な改革を出来る人物か・・?というと、ちょっと微妙ではないでしょうか。
なにせ、家康が死ぬ16年間、政権を維持し切らなければならないのですから。この点、家康の後継者である秀忠とは少々状況が違うのはわかるかと。

また、家康政権と秀吉政権の違いは、諸大名のパワーバランスです。
秀吉政権の場合、結局は「大名連合」なのです。たとえば、徳川を筆頭に、毛利、上杉、前田といった、100万石クラスの大名が結構残っていまして、彼らの力が非常に強いのが問題です。五大老なんていう大名連合が政権に参画していること自体、豊臣家の基盤が脆弱なのは明らかです。また、秀吉存命中の家康への仕置きのように、豊臣家であっても手出しできない部分が多く、このあたりも弱かったのです。婚姻の問題は先に言ったとおり。

方や家康政権では、表石で100万石以上を有していたのは主家である徳川とその一門、外様で出費を強要されて財政破綻している前田家しかありません。しかも譜代をうまく配置し、堅固な基盤を作り上げています。
また、婚姻も女性たくさん一族にいますから、どんどん行えました。家康が2年であそこまで豊臣政権を切り崩せたのはこれが大きい。

まあ、こんなところでしょうかね・・・ついでに言えば、秀次が継いでも家康に切り崩されてジリ貧なんて可能性もありますし、最悪家康が「豊臣秀頼こそが正当なる後継者であり、秀次は養子でありながら亡き太閤殿下の実子から政権を奪った逆賊である」と言ってしまえば、武力行使の正当性も出せるのですよ、これが。発想の転換ですけど、可能です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
側室が何人もいたのに子どもができなかった、言われてみればその通りです。女好きとの評判とは裏腹に、実は女性が好きじゃなかったのかな?…とっとっと「一族全員」なのですからそういった理由ではありえませんね。冷徹な合理主義者のようで「婚姻」を戦略として扱えなかったというのも、「身内に対しては話は別」という弱点(よくいえば情)があった人物なのかもしれません。秀吉に対する印象がいろいろ変わってきました。

お礼日時:2006/12/24 20:37

いくつか挙げれば・・・



1武家の棟梁では無かった事。
これははっきり言って秀吉の力じゃどうしようもありません。秀吉が尾張の農民出身だったことは既に周知の事実です。流石に秀吉は実母と実父との子では無く、さるやんごとなき御方と実母との間との高貴な御落胤であると主張し太閤に就任しています。
一方で征夷大将軍への就任は源氏の血筋限定という慣例が成立して久しくこれが不可能だった事によります。
これがどういう意味があるかというと現在でいえばミリタリー(武家)への指揮権が無いシヴィリアン(公家)の頂点に立ってしまった事です。もっともこれは秀吉の実力によって武家への指揮権は確保していましたが死後はそれだけの実力者が不在となった事も原因の一つといえるでしょう。

2基盤の脆弱さ
これもまた秀吉の力ではカバーしきれない部分です。
簡単に言えば譜代の家臣が居ない事に尽きます。勿論、加藤清正らをはじめとした家臣は多く居ますが彼らとて譜代大名の初代なのです。譜代の強みとは戦力の安定的な供給と多少の無理な命令が行き届くところにあります。この弱点が露呈したのは小牧・長久手の戦いです。
この戦いでは秀吉軍は圧倒的な戦力で家康と戦っていますが結果は良くて互角。下手したら家康側の戦術的な勝利とさえ言える戦いです。反論として家康は秀吉に降伏した事実もありますがこれは同盟者の信雄が無断で単独講和してしまい事実上孤立してしまった為の事です。
さて、この戦いも含めた秀吉軍の戦力は単純に一枚岩ではありません。内部では戦功争い・秀吉への微妙な反感(彼らと秀吉は少し前まで同僚・先輩の関係でした)があり確実に命令が遂行される保障が無かったのです。一方家康は譜代でありまた多くの苦楽を分かち合った関係であった為相当に命令が遵守されています。家康がいかに海道一の弓取りと謳われていても率いる部隊が命令を守らなければ戦術的な勝利さえもおぼつかなかったでしょう。






個人的にはこれまた動かしようが無いのですが秀頼の生まれが遅すぎた事が響いていると思います。あと30年いや20年早ければ晩年の秀吉の甘やかしも無く北の政所らの養育を受け初陣を飾り日本各地への遠征に従事し大名達にその実力を認めさせる・・・そんなシナリオもありえたはずです。秀頼が英明な主君であった証拠はありませんが少なくとも淀君の養育を受ける事は無かった筈ですから無難なラインには収まる可能性は十分にありえたと思います。
ここまで淀君に対しての評価が厳しいのにも理由はあります。
関ヶ原以後の寺社への過剰な寄進・清正らの譜代への高圧的な態度を取った事による戦力低下等は最たるものです。聚楽第の建設等は浪費と言えるかも知れませんがそれとて財力の誇示としての側面はあります。また譜代への態度としても同じ事を淀君と北の政所とでは影響は相当に違ってくる事でしょう。
ここまで来ると彼女は確信犯的とさえ思えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「下克上」「立身出世」「一介の農民から天下人へ」 秀吉人気の理由は、平民から大政治家に成りあがった秀吉の生き様にあるのでしょうが、それが結局は彼の弱点でありそれを超えることができなかった、というのはなんだか切ないですね。

お礼日時:2006/12/24 20:18

よく秀吉は文治派を可愛がりすぎて、武断派に冷たかったという意見があるけど本当にそうなのだろうか?


むしろ逆で武断派を可愛がりすぎたのではないか。
例えば朝鮮出兵も武断派に働き場所を与えるためではなかったのか。
秀吉としては清正や正則はやはり可愛かった、戦もなくなってくすぶっていてぐちをこぼされると何とかしてやりたいという気持ちになったのではあるまいか。
もちろん三成は反対しただろう、あまりにもリスクが大きすぎる。
しかし秀吉にそれらを十分に承知の上で何とかしてやりたいといわれれば、三成も不承不承に従わざるを得なかったのではないか。
もちろんふたりの間には武断派のガス抜きが出来た適当な時期に引き上げるという密約はあったろうし、そのためのお目付け役としての行長には因果が含められていたのだろう。
しかし政治オンチの清正は働き場を得て行け行けどんどんとばかり暴走してしまい、行長にも止められなくなってしまう。
慌てて清正を呼び戻すが、清正としてはうまくいっていたと思っていたのにこういう事態になったというのは、きっと三成が何か仕組んだと思うし三成は三成で清正の政治オンチに苦虫をかむ思いでも、秀吉との密約をばらすわけにいかないので自分を悪者にしてその場を乗り切るしか手はなかったのかもしれない、結局こういうことが必要以上に内部の対立を生む。
やはり秀吉は非情といわれても、戦がなくなって働き場を失った武断派を切るべきで、それができなかった秀吉はトップとして失格、それが豊臣が短命に終わった一因でもあるのではないか。
その点家康はその秀吉の失敗をじっくり見ていて、二の舞はしなかった。
関が原の後にいわゆる徳川配下の武断派は政治の中枢から遠ざけられてしまった、大久保彦左衛門の「三河物語」における怨嗟の声もそれを示している。
徳川政権があれだけ続いたのを見ても、やはり秀吉は武断派に執着しすぎたことが大きな失敗だと思う。
(一部推測が混じっています)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
歴史オンチの私は、秀吉が武断派を冷遇していたと言われていたことも知りませんでしたが、朝鮮出兵が働き場を失った武士達の為のものだった、という話は聞いたことがあります。歴史上の人物は、語る人によって全く評価や視点が異なっていて、それがやはり歴史の面白いところですね。

お礼日時:2006/12/24 20:13

既に詳しく解説があったので、此れは異見として述べたい。

日本の祭り事は天皇家でも後継ぎの祭りを重視した。よって曲がりなりにも2000年の皇統を維持した。此れは世界に比類ない文化遺産である。

それが今の大嘗祭に伝わっている。庶民の場合も血筋や能力によって後継者を決めた。ただ大義名分がなくては人は従わない。信長の後継者を秀吉が標榜するなら先ず大義名分として、信長の墳墓と寺社を建てて盛大な祭り事としなければならない。

日本の伝統は武力や金力よりも此の祭り事にあった。広く大衆に支持されるものが此の祭り事の正当性であり道理となっていた。所が秀吉は本能寺を別の所に再建したものの朝鮮出兵などに目を向けてしまった。

其れもまた今で言う公共工事、箱物作りの政治なのであろうが、これは必ず利害の対立を生む。戦争ならば恨みを残す。其れを見た家康は東照宮を遺言とした。

よって此の霊的な基盤により徳川300年の平和を維持できた。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
よくも悪くも「成り上がり」の秀吉は「霊的基盤」を重要視していなかったのかもしれません。#1様の回答から「では徳川家が続いた理由は何だろう」と疑問をもったのですが、家康は霊的基盤を重要視したということですね。

お礼日時:2006/12/24 19:15

トップが死ねば次は誰が?という問題は常に起こります



秀吉自身、信長の死後織田家から政権を奪いましたし、自分だけ世襲制でお願いしますとは虫が良すぎるでしょう


おねも家康か利家に・・・と思っていたらしいですしね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、豊臣家が特殊なのではなく、世襲制を確立した徳川家が特殊だったのですね。

お礼日時:2006/12/24 16:31

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大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

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>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
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そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
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ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

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>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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Qなぜ秀吉は織田家の跡継ぎを殺しても織田家が滅びたわけでもなく織田家を裏切ったわけでもなく政権をとっていたのか?

歴史の本などを見ると本能寺の変以後 山崎の戦、柴田勝家との戦いをえて
秀吉に政権が行きましたが疑問があります。なぜ織田家に跡継ぎ(名目だけのさんぼうし)がいるのに織田政権が続ずにあっさり秀吉の政権に行ったのですか。形だけでも秀吉は織田の家臣なのにさんぼうしが生きてる間もさんぼうしより高い地位にいました。(信孝との戦いはありましたが、彼は織田家の跡継ぎではありません)そりゃあ家臣が主人を裏切って殺したらそうなるかもしれませんが、秀吉はさんぼうしを殺したわけではありません。歴史の本では秀吉VSさんぼうしの戦いもないのにあまりにもあっさりと秀吉に政権が行ったので疑問です。

Aベストアンサー

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
翌年、関白に就任し、長宗我部氏、佐々氏を降伏。
この背景には黒田孝高などの暗躍があったとも思うが。
だからこそ天下人になった秀吉は最大の片腕の黒田の
力を恐れて南に追いやったと言われている。

秀吉の場合は、あだ討ちをしたことと三法師を抱えて
清洲会議を支配した事が何よりの勝因。
出自の問題もあり大衆受けが良かったことが、時の流れを得る結果に。
更に家康と仲が良かった事もその要因。
家中に敵も多かったが仲の良い者も居たこと。前田・丹羽など。

途中から天下人になる流れは秀吉の配下の人間が動いた可能性が
高いと私は推測しているが…
織田家は柴田・滝川が失墜したためにその勢いを失ったことによって
時勢の波に乗れなかったため、秀吉の後塵に帰す事になったと思う。
数歳の三法師を頭首とし場合は、配下が団結しなければ、
上手くまとまらないのは必然。更に世の動きは、戦国時代の早期終結を
願う風潮もあり自然と秀吉に、信長の後継を願う気風があったことも原因だと思う。

どんな時代でも庶民の世論は意外と絶大的な効果を持っているのかも。

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
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Q徳川(江戸)幕府はなぜ滅びたのか?

徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

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19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q織田信長と徳川家康の関係

この時代のテレビドラマは、大河ドラマをはじめとして非常に多く製作されていますが、見ていていつも気になるのは、織田信長の時代に、信長は家康を厚遇しているような描写が多いことです。その頃、確かに信長と家康は同盟していたとはいえ、力や勢いでは信長の方がはるかに上で、足利義昭にもあれだけ不遜な態度をとっていた信長が家康にだけ賓客のように扱っていたというのが信じられないのですが(秀吉に対しては「さる」なのに、家康に対しては「家康殿」などと言っています)。このような家康の「持ち上げ」は、やっぱり後で幕府を開いたことによる製作者のご祝儀相場であると考えていいでしょうか?実際の信長は家康に対し、もっと偉そうな態度をとっていただろうと考えている私が間違っているでしょうか?

Aベストアンサー

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田家の敵であったわけですが、これは「戦国の習い」であり、致し方ないものとされたでしょう。

今川義元の死後しばらくして家康は今川氏真と手を切り、信長と同盟を結んで背後の憂いを経ちました。この時に家康が信長の居城である清洲城を訪問したといわれますが、ここで両者は約20年前の思い出を語り合ったと想像できます。この時期に織田と徳川が同盟し、信長の死までの20年間揺るぎなく同盟が継続したのも、「信長・家康の少年時代の良き思い出」があったからかもしれません。

その後、信長の娘の五徳姫が家康の嫡男の信康に嫁いで血縁関係が結ばれ、信長と家康は誠実に同盟義務を果たしあったと評価できます。

家康は朝倉攻撃(浅井の裏切りで失敗に終わる)や姉川の合戦で近江に出陣して信長を助けましたが、一方で家康は主敵である武田信玄・武田勝頼との抗争で少なくとも3度、織田からの援軍を得ています。

(1) 三方ヶ原の戦いの前後 (信長は、足利義昭が諸大名を扇動して形成した『信長包囲網』でがんじがらめにされていましたが、約3千人の援軍を出しました。この兵力は、家康が浜松城に篭城して信玄に対抗するのであれば大きな戦力となります)

(2) 信玄の死後、勝頼が遠江の高天神城を攻略した時 (結果として援軍は間に合いませんでしたが、信長自身が出馬しました)

(3) 勝頼が長篠城を攻囲した時 (信長の本拠地から近いこともあり、信長自身が大兵力を率いて出馬し、家康軍と共同して、長篠の合戦で大勝利を収めました)

長篠の合戦で武田軍が大損害を蒙った後は、武田と織田+徳川のパワーバランスが明らかに武田に不利になりましたので、武田が積極的に織田・徳川に戦を仕掛けてくることは減りましたが、長篠の合戦の後は家康が信長の合戦に援軍として参加することはなくなり、徳川が独力で武田の脅威を排除する(排除できる)ようになっていたようです。結果として、遠江から武田の勢力は次第に駆逐され、家康は三河・遠江の二国の太守となりました。

「信長が、家康の嫡男の信康と正室の築山殿の処刑を家康に命じた」
とされる事件ですが、近年の研究では
「信康と五徳姫の仲が悪かったのは事実のようだが、五徳姫が信康の非を父の信長に訴え、それが信康と築山殿の『信長から家康への処刑命令』につながった」
というのは俗説であるとする見方が有力になっているようです。

史料から伺えることは、
「家康と信康との間に対立が生じ、家康が自分の意思で信康を幽閉、次いで切腹させた。信長は『家康殿の思うように処置されれば良い』という立場であった」
ということのようです。

現に、織田と徳川の同盟は信康の死の後も全く揺らいだ形跡はありません。
これは私見ですが、
「『家康が嫡子である信康と対立して腹を切らせた』というのは、信玄の嫡子の義信に対する仕打ちと全く同じで人倫にもとり、外聞が悪い。『信長に命じられて止む無く腹を切らせた』とすれば、家康の名誉が守られる」
ということで、江戸時代になってストーリーを作ったのではないかと考えます。

また、信長の死後に、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助ける形で、家康は小牧・長久手の合戦を戦っています。
後世から見れば、「家康の武略に秀吉が翻弄された」「羽柴と織田の対立を徳川が利用した」ようにも見えますが、実際の所、兵力では羽柴軍は徳川・織田軍より圧倒的に優位です。羽柴軍の戦いようによっては「圧倒的な兵力で徳川を押し潰す」ことも可能であり、家康はそれを覚悟して開戦した筈です。
「家康が、信長の死後も友諠を忘れていなかった」状況証拠となるでしょう。

家康が信長に対してどのような感情を持っていたのかは史料からはなかなか伺えませんが、状況証拠として、
「関ヶ原の戦いの後で家康が天下を取った後の、信長の子孫への待遇」
で推し量れるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦で家康に明らかに敵対し、剃髪して高野山に上った織田秀信は仕方ないとして、

信長の弟の織田長益(有楽斎)
信長の不肖の子であった信雄

の二名が、1600年現在で生き残っていた信長の主な近親ですが、家康はいずれにも「大名」の地位を与えております。

信長の縁者の江戸時代以降の状況については、ウィキペディアに詳細に書かれていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E9.99.8D
さしたる武功もなく、「積極的ながら西軍についた」者も少なくない中で、天下人となった家康は、信長の縁者を十分に優遇していると言えるのではないでしょうか。

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田...続きを読む

Q≪江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのか?≫

江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのですか?

詳しく、簡単に教えてください。

よろしくお願いします。^_^

Aベストアンサー

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられた

と言う受身の幕府に国民の不満は表面化しました。
※元々不満はあったが、言えなかった。

アヘン戦争の勃発です。
これが日本に大きな影響を与えた事は確かです。

日本にとって中国とは「先生」であり様々な文化を教えてくれた国です。
大きな中国が英仏に犯されていると知った時に、
やはり国内に憂いを抱く事が多かったはず。

倒幕で盛んに動いた薩摩長州なんてのは西国で長崎が近いのと、
もともと英仏蘭とも交流可能であったこと。

江戸はそういった情報が収集できなかったことかも知れません。
黒船の威嚇によっての開国ではなく、幕府自らの決断で開国していれば
また違った結果になったでしょうね。

となると、幕臣に有能な人間がいなかった、と思いがちですが、そうではないです。
小栗とか勝とか人材はいました。
いたからこそ、鳥羽伏見まで幕府は頑張れたのだと思います。

でも体制を変えられなかった。従来を重んじる文化が滅亡した原因でしょうね。
鎖国をしても幕府だけは海外情報を積極的に収集し、体制を変更し、
時代を読む動きをしていれば…と思いますが、そんなに易しい話では無いでしょう。で

崩壊すべくして崩壊した。新時代を作るために。
客観的に見て、あれだけキッチリした体制なら、変更も楽で無いです。

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられ...続きを読む

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む


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