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邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

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A 回答 (7件)

邪馬台国は、畿内とは言っても、京都、兵庫、大坂の地域に分布した国です。

一方、原大和朝廷(天皇勢力)は大和盆地(奈良盆地)にあった国です。両者は棲み分けていました。魏志倭人伝に登場する狗奴国が原大和朝廷のことです。(邪馬台国が畿内にあったのはほぼ間違いありません。)

また魏志倭人伝にある通り、邪馬台国の領袖は女であり、狗奴国の領袖は男(天皇)でした。

両者は国境を接して小競り合いを続け、対立を繰り返し、決して友好な関係ではありませんでした。しかし、邪馬台国が魏朝と晋朝の冊封体制下にある間は、中華皇帝の威光を背景とする邪馬台国の勢力が優っておりました。

武帝が死去して恵帝の時代になると晋朝の内部崩壊が始まり、八王の乱に至って晋朝の権威は地に堕ちました。中華皇帝の威光の凋落は日本にも大きな影響を与えました。邪馬台国の勢力は弱体化し、この時期に原大和朝廷が邪馬台国を制して西日本の統一へ動き出したと見られます。(第八代孝元天皇から第十代崇神天皇のころ)
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この回答へのお礼

これは初めて知った事実です
どうもありがとうございます

お礼日時:2006/12/25 12:38

卑弥呼の時代は3世紀中頃ですが、この段階で現在の天皇家の先祖による政権が機内に存在したかどうかはわかっていません。


少なくとも大規模古墳が3世紀から畿内地方を中心に造営されることからこの時期が畿内地方の王権が成立時期であることはほぼ確実です。
それが後に天皇家に連なっていきますが、それが「血統による継続」なのか「王権による継続」なのかは天皇陵が調査禁止になっていることもあって定かではありません。
邪馬台国の末裔が天皇家なのかもしれませんし、邪馬台国は王権成立期に存在した国家のひとつにすぎないのかもしれませんし、卑弥呼が天皇家の先祖なのかもしれません。
いずれにせよ邪馬台国は魏志にしか登場してきませんし、日本書紀・古事記は遙か後代の編纂物なのでどこまで事実が書かれているかはっきりしません。
3世紀に天皇家が存在したかどうか、だけで様々な学説が出てきますので、その先の邪馬台国との関係となると現段階では不明とするしかありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

お礼日時:2006/12/26 17:40

ちょっと補足をしておきましょう。



こういった邪馬台国関連の質問で毎回登場する系統なのですが・・絶対に気をつけなければならない回答があります。
・何が何でも天皇と結び付けようとする回答
・間違いない、と断言する回答
基本的にはこの2つです。
あの時代、なにせ自国に文字がないのですから「仮説」「俗説」「珍説」「夢物語」の域をでないのです。どんなにがんばって「想像」しても。No4さんが言っておられるとおりです。
なので、間違いない、と言うのがそもそもありえない話ですし、天皇がいた、というのもそもそも不明な話です(古事記の科学的滅茶苦茶さは先に言ったとおり。読んでみるとわかりますよ。中間部で神話の世界と現実世界がごっちゃになっていますから)。
まあ、こういった回答を解くキーワードは「右の方」でしょうかね・・・あまり深く突っ込みませんけどこういった質問をする際は、その人が過去にどういった回答をしているか、ちょっと覗いてみると良いかと。

ちなみに、海外で書かれた日本の記述が、どれだけ現実とかけ離れているかというのを分かりやすく説明すれば・・・
東方見聞録でしょうかね。
もっとも・・・書いた人の実在自体が疑問視されている書物ですが、日本の記述はこんな具合です。
あの国は大量の金が山ほど取れるので家を金で装飾している。あの国の人間は人肉を食べるのをこの上なく好む。
元寇についてはこうなっています。
元の軍はジパングの都を占領したものの、維持できずに結局退却した。
かなり事実とかけ離れているのが分かりますね。金が取れる、というのは半分ほど合っていますが、他2つは荒唐無稽でしょう。飢餓状態ならともかく、食人の風習は日本には無いですし(ニューギニアにはあるのですけどね)、元寇では大宰府すら陥落していません。世界の形がある程度見えてきた14世紀世紀頭の記述ですらこんな状態なのですから、さらに1000年も昔の記述がどんな状態かは、考えないといけません。
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この回答へのお礼

わかりました
どうもありがとうございます

お礼日時:2006/12/26 17:39

 本来ならば「不明です」ということなんでしょうが、前提を提示されていますので、仮定での推定を述べます。



>もし畿内にあった場合は

 そう。
 「もしも」畿内に邪馬台国(邪馬い国?)が存在したと仮定すると、出る可能性は3つ。
 1:敵対
 2:同盟
 3:同一組織

 1と3については、皆さんおっしゃるように闇の中ですが、「1:敵対」していたとすると、これはかなり入念に歴史から抹消されていることになります。あり得る話です。
 「3:同一組織」ならば話は単純で、魏志倭人伝の記述と日本書紀の記述を合わせたのが「日本古代史」になるという感じでしょうか

 別の選択肢として「4:お互いに知らなかった 又は 不干渉だった」というのは、歴史の必然からみてあり得ないでしょう。

 問題は、「2:同盟」という場合です。
 この場合、邪馬台国は、天孫族と他族を敵として同盟関係にありながら、一方で「倭王」の称号をひそかにもらって自己の支配権を正当化するという外交政策をとっていたことになり、これは非常にしたたかな話です。
 これに気づいて危機感を強めた天孫族によって徹底的に殺戮され闇に葬られる・・・というのも、歴史のロマンとしては、面白いでしょう。

・・・なんですがー、全部安っぽい妄想なんですよねー(-_-;)結局
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この回答へのお礼

No.1~4様、ご回答ありがとうございます
やはり不明か仮定の推定になるんですね

お礼日時:2006/12/25 11:25

その質問は、どんな高名な専門家に聞いても、


不明としか答えようがないでしょう。
あるいは勝手な想像を語るしかありません。
何一つ確証のあることはないですから。

卑弥呼に関しては、日本側に照合すべき資料がないので、
実在すら不明です。卑弥呼っていう名前は
当時の中国語/古朝鮮語の音を漢字に当てただけなので、
実際の日本名もわかりませんから
もし日本側の資料に卑弥呼のことが書かれていたと
仮定しても、それがどれかわからないわけです。
神功皇后=卑弥呼は、何の根拠もないばかりか、
神功皇后自体が実在しない可能性が高いわけですから、
虹を掴むような話なんです。

邪馬壱国についても、魏志倭人伝の記述を信じるのみで、
これも当て字のため、日本での呼称も不明。
実在するとしても、魏志倭人伝の記述の信憑性自体が
疑われているので、その描写が正確かどうかわかりませんから、
たんなる地方政権で、その後滅びた可能性も十分にあります。
逆にその後も続いたと説明している書物はどこにもないので、
大和政権と関係あると考えるのは、単なる暴論に過ぎません。

ちなみにですが、
古事記には、”神武東征”という一大イベントが最初にあります。
この伝説では、スタートが九州の有明海で、出雲の”国譲り”を経て、
畿内に至るので、大和(天皇勢力)が最初から奈良近辺になかったのは確かです。
(ちなみ当時の大阪は湿地/沼地で未開地でした。現在とは地形がまったく違います)
日本の古代伝説は始まりがほとんど九州の地名なので
征服王朝として華南/朝鮮半島からやってきたのではないかと
容易に想像はできるのです。しかしもちろん裏づけとなるようなものは
一切ないわけですが、天から降ってきたのでなければ、
海を渡ってきたのでしょうからね。

九州説の根拠の一つには、この神武東征の解釈が色濃くあるのですが、
しかし古事記や日本書紀には、邪馬壱国と思しき国家は登場しません。
ここら辺も、魏志倭人伝が、上司を満足させるためにテキトーに伝聞だけで書いんちゃうん、と思われている所以です。

邪馬壱国が実在しても、大和政権とは直接関係ないんじゃないかと
考えるのも一つですし、その路線で古代史の全体像を想像することも可能ですし、
逆に何が何でも邪馬壱国と大和政権を関連付けようと
こじつけていくことも可能です。
しかしどっちにしても、何らかの記録、文献で確証が得れないので、
どんなに素晴らしいストーリーを作っても、仮説に域を出ることは
絶対にできないのです。

これはタイムマシーンでも登場しないかぎり、永久に解けない謎で、
物理学者の大半がタイムマシーンは不可能と言っているので
わからん問題なわけです。
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神功皇后=卑弥呼という説もあります。


基本的に、邪馬台国畿内説では、卑弥呼は天皇家関係の女性をあてているようですよ
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不明としか言えません。



そもそも、あの時代は良く分かっておらず、実際のところ天皇がいつ頃現れたかもまだいまひとつ不明です。
古事記なんかは2600年前とかなっていますが、人間が130歳以上生きたりとかはっきりいって無茶があり、とてもではないですが鵜呑みに出来ません。

もともと、中国側の資料でのみ断片的に垣間見える時代の話なので、天皇がすでにいたかどうかも不明ですし(まあ、多分いないと考えられますが)、卑弥呼が実際にどういう人物だったかも、同じく不明です。
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Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q宮内庁はなぜ日本史の解明に非協力的なのか

よく宮内庁は皇室の歴史が明かされるのを嫌う傾向にあると聞きます。
仁徳天皇陵は全く調査をすることが許可されてないのでしょうか。
(社会科の先生からはこう聞きました)

日本は今や世界屈指の近代国家です。
しかし、日本の天皇の由来は全く混沌としています。

ならば、なおさら古代日本史の解明は国家の義務なのではないでしょうか。
その機関たる宮内庁が非協力的というのはどういう態度なのでしょう。
その理由が宗教上にあるというのなら、次に繋がるかどうかは別として
今回は一応納得します。

Aベストアンサー

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしまいます。

で、そういう立場からすると、過去の「作られた歴史」が暴かれてしまうことは権威の根拠に関わってしまいます。例えば、天皇家というのは実は朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族の末裔ではないかという話があります。倭国(日本)は百済の支援をして当時の倭国としては大軍事力を半島に派遣して白村江の戦いで敗れてしまいます。なぜ倭国が百済に過大なまでの支援をしたのか、単なる同盟関係であっただけではなく、実は百済が天皇家からみると「本家」で、倭国は百済の分家ではないのかという話があります。
日本ではその後いわゆる壬申の乱が起きて天武天皇が即位するんですが、大友皇子と大海人皇子の関係とかどうも日本書紀を読んだだけではよくわからんことが多いのです。そのへんについて日本書紀が改竄というか捏造というかそういうことをしたことは間違いないのですが、どのへんを歴史を書き換えたのかはよくわかりません。
もし仮に「皇室はかつて朝鮮半島からやってきた渡来一族の末裔である」ということが明らかになってしまったらどうなるでしょうか。嫌韓のネット右翼がなんと言い出すかどうか考えただけでも恐ろしいですね。今のところ皇室半島渡来説は荒唐無稽で根拠のない話ということになっています。なぜなら、日本書紀にも古事記にもそんなことは書いていないからです。しかし、日本書紀も古事記も時の権力者にとっての「大本営発表」なので歴史の削除、捏造、針小棒大などは当然あるわけです。あるけど、ないことになっている。それが我が国の古代史に対する学会の立場です。古代史は天皇家についてはアンタッチャブルの領域なのです。

また、皇室は一応ずーっと続いているということになっていますが、南北朝で相当ヤバいことになっています。血統の正当性という立場からいえば、南朝が正当です。しかし、北朝は時の権力者足利尊氏によって成立しており、最終的に南朝が北朝に吸収される形で再統一されています。このときの北朝系の血筋がね、どうなんだよってところなんです。私もその時代はそんなに詳しくないのですけれど。
で、戦後すぐに「我こそは南朝の末裔であり、正当な皇室の血筋である」と名乗り出た人がいたのです。世間でいわれるところの熊沢天皇事件というものなんですけどね。単なる気が狂ったおっさんが「わしは天皇である」といっただけならこんな歴史には残らないです。熊沢天皇事件が戦後事件史のひとつとして残っているのは「そういわれると、そうかもしれない」というのがあったからなのです。熊沢天皇は「北朝(現皇室)は南朝から帝位を簒奪し不法に即位している」と訴えたのですが、「そういわれりゃあ、そうだよな」ってところはあるんですよ。熊沢天皇は結局のところ南朝の末裔であることを証明することができなかったので最終的には「自称南朝の末裔」ということになったのですけどね。一時的であれ宮内庁は頭を抱えたのですよ。GHQは熊沢天皇に興味を持っていて、場合によっては昭和天皇を退位させて熊沢天皇を(GHQの手先として)即位させるんじゃないかと警戒したのですね。

宮内庁の仕事は、現在の皇室の伝統を次代に繋げることです。皇室にはなんとかの儀、かんとかの儀、と年がら年中しきたりだらけなのですが、それを続けることが最も重要なんですね。伝統の継続というものの頂点にある存在といってもいいでしょう。「歴史的に見て正しい」かどうかはむしろ邪魔なんですよ。まあ宮内庁関連の人といったら公家の末裔とか松平家の末裔とか父は貴族院議員とかそんな人たちばっかりですからね。しもじもの者が入りたいといっても入れてはくれません。

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしま...続きを読む

Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q天皇という存在はいつ発生した?

お世話になります。
天皇についていくつか疑問があるのでよろしければお答え下さい。

○今上天皇は初代神武天皇から数えて125代目になられるということですが
現実的に考えて有り得ませんよね?
本当の所、実在する可能性が極めて高い天皇のみをカウントすると、現在の天皇陛下は何代目にあたるんでしょうか?

○江戸時代の天皇は今のように庶民から持てはやされる存在では無かったと聞いたことがあります。
これは本当のことなのでしょうか?
天皇が直接政治に関与していた飛鳥~平安、明治~昭和以外の歴史の中で、
天皇が庶民の崇拝対象だった時代はあるのでしょうか?

○天皇という制度はいつから誕生したのでしょうか?
神武天皇はもちろん神話の中だけの存在ですし、
どういった経緯でそのような制度が完成したのでしょう?
かなり間違っているとは思いますが、私が今まで思っていたのは、

卑弥呼の死後、日本のそこかしこで豪族が発生

豪族同士で争い、領土を広げる

様々な豪族を倒し、勢力をグングン伸ばしていく豪族が誕生

結果的にその豪族がほとんどの豪族を倒し、奈良に都を作る

飛鳥時代の始まり(事実上初代天皇の誕生)

というような感じなんですが、
詳しい方、よろしければご回答願います。

お世話になります。
天皇についていくつか疑問があるのでよろしければお答え下さい。

○今上天皇は初代神武天皇から数えて125代目になられるということですが
現実的に考えて有り得ませんよね?
本当の所、実在する可能性が極めて高い天皇のみをカウントすると、現在の天皇陛下は何代目にあたるんでしょうか?

○江戸時代の天皇は今のように庶民から持てはやされる存在では無かったと聞いたことがあります。
これは本当のことなのでしょうか?
天皇が直接政治に関与していた飛鳥~平安、明治~昭和以...続きを読む

Aベストアンサー

最初の疑問は、私も解りません。私も知りたいです。
もっとも、下記に記したように、神話から続いているので、神武天皇の存在の証明が難しいです。

次の江戸時代ですが、その通りです。
家康から天皇より幕府を重んじるように仕組んだ政策の表れです。
軍隊を持たない、領地もない、ただ金持ちの布施から生活していたそうです。
 崇拝対象は、主に地元の京都の庶民がしていたそうで、他の地は明治になるまで、崇拝対象になっていません。

最後のは、仮説ですが、最も有力視されている説です。
宮崎の豪族が近畿まで移動したともありますが、確証となる遺跡や古文書は見つかっていません。

あまり回答になっていませんが、駄文をお読みくださりありがとうございました。

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q天皇家は渡来人だったという説の根拠を教えてください。

天皇家は渡来人だったという話を聞いたことがあるのですが
その説の根拠とはどういったものでしょうか。

ご存知の方、教えて下さい。

また、その説について意見があれば
それも教えていただけると嬉しいです。

Aベストアンサー

DNA鑑定でも日本人に朝鮮半島系の人が多いというのは立証されています。
渡来人はほとんどが朝鮮半島から渡ってきた人たちのようです。
中国から渡来したと自称している人もほとんどが朝鮮半島からの渡来人だったというのが歴史学者の見解です。
ちなみに15~20%という数字の根拠はわかりませんが、これも歴史学者の言葉です。
渡来人が日本創世のときに果たした役割はとても大きかったそうですよ。

日本書紀などにのるスサノオ伝説が天皇=渡来人であることを暗示しています。
スサノオは高天原を追放されて出雲に来ます。
高天原=朝鮮半島だと言われています。
「神武東征」は九州から奈良、近畿地方への遠征だと言われています。
天皇とその側近の貴族達は九州からきたと思われるのでそうであれば、ほぼまちがいなく渡来人の血はひいているでしょう。

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q邪馬台国(卑弥呼)と天皇の系譜

私は古代の日本史を学んで以来、邪馬台国の卑弥呼が大和朝廷
つまり現在の天皇に繋がる存在だと思っていました。
ところが最近、九州出身の方から興味深い話を聞きました。

その内容は邪馬台国は朝鮮半島にあって、天皇とはあまり関係ないらしいこと。
現在の天皇に繋がるのは高天原族という騎馬民族で、
これまた大陸から朝鮮半島を経由して日本を征服していったということです。

この説なら謎とされている邪馬台国が日本に存在しないことも
未だに高天原が見つかっていないことも説明がつきます。

取り敢えず、これらのことはいったん置きまして、
今回お聞きしたいのはタイトルにあるように卑弥呼と天皇の関係です。
上述したように卑弥呼と高天原族は関係が薄いようですが、
この説は既に学説として定着しているものなのでしょうかということです。

Aベストアンサー

根強いですね…

ご指摘の学説は戦後、記紀に対する史料批判を中心にとなえられ、一世を風靡した「騎馬民族征服王朝説」というものです。

それこそ一世を風靡しましたので、ネットで「騎馬民族征服王朝」や「江上波夫」などで検索すれば、山ほど情報が得られると思います。ただし、現在において「騎馬民族征服王朝説」といった学説は、学界の主流はではありません。失礼な言い方かもしれませんが、もはや現在の古代史の学問レベルから同説を位置づけるのであれば「いささか古風な学説」といった感じじゃないでしょうか…

そしてご質問にもありました「卑弥呼と天皇の関係」こそが、「邪馬台国論争」とよばれる畿内説と九州説の間にある論争を巻き起こしている。と言っても過言ではありません。

簡単にいえば「なぜ邪馬台国の所在地に対する関心が高いのか?」というところで、極論すれば統一的な日本という国家の成立年代がだいぶ変わるからなんです。
邪馬台国が畿内にあったとするならば、3世紀に九州まで統一していたからこそ、畿内にある邪馬台国と古代中国の「魏」が通行していたということですし、九州説によるならば、九州の地域的な政権にすぎない。ようは4世紀のヤマト王権登場まで待たなければならないということなんです。この間、約1世紀(100年)の誤差が生まれるわけですから。
そして、畿内説によるならば、邪馬台国は後に発展してヤマト王権につながり、律令国家そして封権社会といった歴史の流れの端緒となるのですが、九州説による場合は、ヤマト王権とは別ということで、邪馬台国が史書から姿を消すように、いつかの段階で邪馬台国は地上から消え、別に畿内においてヤマト王権が成立・発展するといった事なんです。極論すれば畿内説は卑弥呼が天皇の祖先に当たると言った学説ですし、九州説は天皇の祖先にあたらないといった具合であるとも考えられます。ただし。最近では九州にあった邪馬台国は東遷しヤマト王権を樹立するといった”邪馬台国東遷説”が大きな潮流をも生んでいることには注意が必要かとも思います。

ではその様な論争の中「騎馬民族征服王朝説」の立場は?といえば、東北アジアのツングース系の騎馬民族が新鋭の武器と馬とをもって朝鮮半島を南下。その先端にある任那(加羅)地方に拠点を築き、さらに4世紀には海を越え北九州に侵入した。その時の騎馬民族の王が崇神天皇であり、この段階における建国の事績は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降り立った天孫降臨神話に反映される。そしてその後は応神天皇が騎馬民族を率いて東進し、先住の農耕民を滅ぼし大和朝廷へつながってゆく。といった感じです。
ですから、騎馬民族征服王朝説も邪馬台国と大和朝廷のつながりを指摘しない面で、卑弥呼と天皇の関係には否定的なんですね。

最後ですが「学説として定着しているか」について「していない」という回答をしておりますので、そのあたりも若干ふれたいな、と思います。
実は「騎馬民族征服王朝説」に対し、一部の熱烈な支持者もいるにはいるのですが、研究者の大部分は否定的であり、その都度反論も加えてきたのですが「騎馬民族征服王朝説」もなかなかどうして…変幻自在なんです。まぁ学問を扱ううえで”変幻自在”ってどうなの?というところは目をつぶりつつ、今回は特に注目される”騎馬民族”による征服王朝といった騎馬文化についてだけ簡単に説明させてください。

江上氏は前期古墳に比べ後期古墳には騎馬戦用の武器や馬具の副葬が多くなると指摘し、これこそが騎馬民族の渡来を示す急激な変化なのだ。と主張するのですが、すでに前期古墳からも数は少ないながら、馬そのものや馬具が運ばれ、乗馬の風習や馬の飼育技術が伝えられていたと考えられ、江上氏が指摘するように”急激な変化”ではなく人口の増加により順調にその数を増やし、それに伴い乗馬の技術も向上したとみるのが穏当であり、また武器についても同様な事がいえ、そこには騎馬民族の移動や征服の痕跡を認めるのは困難であり、事実として見いだせていないという事なんですね。

ですから、騎馬民族征服王朝説を越えた部分で、現在の学問水準から後期古墳の馬具等を評価するならば、弥生時代以来積み重ねられてきた水稲稲作文化は次第に成熟し、やがて東アジア各地とも交流を持つほどに発展したこと。そして鉄器や馬具などは、その東アジアにおける交流の中で、ある時は戦争を通じて、ある時は平和裏に海外の文物を入手できる環境にあった。とされているのが現状であります。


長々とスミマセンでした<m(__)m>
もし最後までお読みいただけたのであれば、これに過ぎる喜びはありません。御承知のように邪馬台国や騎馬民族征服王朝説などが扱う「日本国家の誕生」についての論説は、当然のことながら様々に問題が提起され、今回の回答のように一刀両断した雑な説明をするとしても、これだけの量になってしまいます。ですから、表現に忸怩たる思いの部分もあるのですが、僕のマヌケな回答から古代史といった学問の奥行きをも感じ取って頂ければとも思います。

根強いですね…

ご指摘の学説は戦後、記紀に対する史料批判を中心にとなえられ、一世を風靡した「騎馬民族征服王朝説」というものです。

それこそ一世を風靡しましたので、ネットで「騎馬民族征服王朝」や「江上波夫」などで検索すれば、山ほど情報が得られると思います。ただし、現在において「騎馬民族征服王朝説」といった学説は、学界の主流はではありません。失礼な言い方かもしれませんが、もはや現在の古代史の学問レベルから同説を位置づけるのであれば「いささか古風な学説」といった感じじゃないでしょ...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む


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