グッドデザイン賞を受賞したウォーターサーバー >>

明けまして、おめでとうございます。宜しく御指導のほど。
このたび或るかたから伺ったお話です。
「聖徳太子非実在説」なるものが説得力を持ってきた、とのことで歴史方面に(どの方面でも、なんですが^^;恥)疎い私は思わずギョエ~ほんまに?!と驚きました。かつて一万円札の看板だったオトコマエの秀才の誉れ高い、あのかたが。。。
それだけじゃない、そもそも「日本書紀」とかだって信用できないということで、そういえばキリスト教の聖書も創作性濃厚で、なんのことはない、こんにち伝わっている、あらゆる表向きの歴史的記述物は、いわば「勝ち組」側に、つごう良くつくられたものなのである、ということが思い出されました。
そこで思ったのが『賢者は歴史に学び…』です。
そんなら「歴史」ってなに?なにを学ぶの?
書物を読むことが歴史に学ぶこと、それは先人の経験に学ぶということという解釈のかたもおられますが、結局「経験」じゃ~ないですか。
なお私は経験とは与えられるばかりでなく切り開いてゆくものでもあると思います。厳密には読書することも、そのなかに入り得ますが個人的実体験量が豊かになるほどに他者の書いたもの話すことも、より深く理解し易くなると実感しています。

疲労気味ゆえ打てば響く反応はできかねますが、こんな私にも分かり易く御考えを御披露くださるかた、お待ちしております。

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A 回答 (13件中1~10件)

権威や有名人、世間で偉いと定評ある人の書き残した文献等からしか学ぶことはないと思い込んでしまっている、フランス語は得意だとしても、「的を得た」が間違いなのか否かすら知らず、かなり日本語が怪しくなっている、ガチガチあたまの元?日本人の例。

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『歴史って何?』

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『愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ』を疑問に思う方、否定する方は残念ながら愚者です。



たとえば戦場の兵士。

経験に学んでいたら幾ら命があっても足りません。

人生最初出来事で失敗したら命がないとしたら歴史を学ぼうと思いませんか?

歴史を学ばないということは、どこか失敗してもいいやという甘えがあるのです。

その甘えを断ち切った者が賢者と言い換えることができるかもしれませんね。

皆さんの回答を読ませて頂いて、結構楽しめましたよ。
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ビスマルク君は実学者だから、経験とは個人の経験で、


歴史とは他者たちの経験を指していたんでしょうね。

経験が及ばない領域こそ、本来は探求に値すると考えますが、
危ない宗教のように身体を敵視するようになるとどうかなと思います。

話がそれたようですけど、歴史とは精神の歴史でしょう。
それならば、たしかに愚者には絶対に無理なことです。

そして、精神の歴史を学ぶなら、
運と根性と鈍感さが必要だと思います。

そういう本に巡り合うこと。
本は歴史そのものです。それが浅かろうと深かろうと。
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何と1月元旦の質問を4月も終わりに近づいている頃に回答するとは。

それも1月18日が最後の回答になっている質問にです。いやはやなんとも、、、

『愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ』

は本質を突いていませんね。よくもまあこんなものが、諺として存在していることか。

私を含めて私の周りには愚者だらけですが、皆経験から学べておりませんね。経験から学べる方を賢者というのだと思います。私も賢者になりたあ~~~い。

だから歴史がどうのこうのというのは、この際、私にとっては無関係です。
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「個人的経験だけで判断する」→これはだめ


「多くの資料や統計で判断する」→これが望ましい
じゃないでしょうか。オレはそう思います。
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歴史に学ぶこととは、他者の経験の蓄積、社会の変化を類型化すること


に尽きます。
すなわち、賢者は自己の経験・他者の経験を分析して類型化し、未来に
役立てることが出来る人間のことを指します。
一方の愚者は、自己の経験であれ他者の経験であれ、単体でしかとらえず
未来に役立てられない人間のことを指します。
「経験」は同じでも分析して類型化された「歴史」というなの経験集を
巧みに使いこなせるか? 否か?
が、賢愚を分けるという意味です。
歴史の脚色や虚構も類型化による選別で次第に本質が浮き彫りにされて
きて、面白みがありますね。
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歴史にしろ、科学にしろ、個人的経験にしろ、人間が生存を有利にする


ための情報として捉えるなら、情報はないよりあったほうがよい、ただ
し、その情報の要不要をふるいに掛けるには、知識・過去の経験という
のもが重要であると個人的には考えています。

また、生存という行為自体が相対的なものと考えると、生存を保障する
絶対的な知識や経験というのは有り得ないと思いますし、そう考えると、
常に外部から情報を取り入れていかなければならないと思います。


歴史について言えば、善悪・正義・道徳の概念や、人々の価値観が時代
とともに変わるということを前提にすると、その時代時代で歴史の捉え
方や、描き方が変わっても当然であると思います。
例えば、極端な話ではありますが、三国志には、自分の妻を料理しても
てなし、客人が涙を流して喜ぶという「美談」がありますが、現代では
単なる猟奇殺人です。私は、中学生の時に初めて三国志を読みましたが、
この箇所を読んだ後、暫く夜うなされました(笑


『愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ』という言葉自体も、その言葉が
生まれた時代背景があると思います。本人の真意とは別に言葉が独り歩
きしている可能性も否定できません。ビスマルクの個人的知識・経験を
知ることのできない私には、その真意を知る由もありません。


歴史に限らず、世の中の情報というのは、意図するにしろしないにしろ、
他者のフィルタがかかっているということと、人は自分の知識・経験の
範囲でしか学ぶことができないことを思うと、なぜなぜを繰り返すとい
うのは、学ぶための最善な方法だと思います。


支離滅裂になっていきそうなので、このくらいでやめておきます。
それでは、失礼致しました。
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この回答へのお礼

アドバイスをいただき有難うございます。
>その情報の要不要をふるいに掛けるには、知識・過去の経験というのもが重要である

私としましては、むしろ純「知識」そのものも経験体験によって相当部分ふるいにかけられているのではないかという気がします。ふるいにかけるというよりも、その知識自体への理解深度という…いくつかの「知識」を並べてみて実際に、そのなかから選択実行を迫られたとき、やはり経験体験のストック量に影響されているのではないかと。言うなれば「知識の選択をすら裏支えしている」。何を取捨選択するかは結局、主観によるものでしょうから。
そうしてみると「苦労は買ってでもせよ」「かわいい子には旅をさせよ」という古来言い習わされてきたコトバの示す人間の主観というものに対する深い洞察に驚きを禁じえません。

>常に外部から情報を取り入れていかなければならない

つまり「更新努力」ですね。

>本人の真意とは別に言葉が独り歩きしている可能性も否定できません。

これは、そうですね。よく見受けられることです。

>他者のフィルタがかかっているということと、人は自分の知識・経験の範囲でしか学ぶことができない

となると、やはり「苦労は買ってでもせよ」「かわいい子には旅をさせよ」ということですね。自分でつかんだものなら文句も出ない。
同じ「量の」経験をしても、分かる人と分からない人が…などと言う人もいますが、分かるまで買えばいいだろうに、と思います。とは言え私も怠け者ですから、あまり偉そうなことは言えませんが。

>支離滅裂になっていきそう

何を仰いますやら。参考にさせていただきます。
でも。「三国志には自分の妻を料理してもてなし、客人が涙を流して喜ぶという「美談」があります」読みたくなくなってしまいましたよ。
もの凄い証の立て方というのか、う~ん「月の兎」の説話と似通った感じが。。。客人が泣いて喜ぶというのが、また。。。時代による美意識の違いなんですかね。。。
でも、どうやら「歴史」と称される記述物にも、どうやらタイプ別があるようですね。人の世の頂点に立った「勝ち組」の一見もっともらしい脚色、庶民が次から次へと塗り重ねていった明らかな脚色の荒唐無稽さ。しかし、どちらのほうが真理に近いのでしょうか。

お礼日時:2007/01/09 10:09

歴史というのは他の人から学ぶと言言う事


三国志等を読めば理解できますよね

参考URL:http://www.komyo-ji.com/audio/hatazaki-flash.html
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この回答へのお礼

アドバイスいただき有難うございます。
参考URL見てみました。
『我々は、いつしか自らの経験を過大に評価し、自分の経験のみによって全てを判断しようとします。そして自分が実感できないことや納得できないものの存在に寛容さを失うことが度々あります。』

ということですが、やはり「更新努力」―その時の地点に座り込んで動こうとしない横着さ(小心さ)が「不寛容」の原因だと思います。またそれゆえ、その原因を指摘されると激昂する人もいます。頭のなかでは分かっているはずでも。(分かっているからこそ)
こうした場合「理解」というよりも(理解とはヨシヨシすることではない)「自分で気づくのを待ってあげる」ことが要求されてくるのでしょうが時間が迫っているときは厳しいですね。すでに経験済みの者から見ると。

ところで「三国志」簡単にウィキペディアを読み流してみましたが、様々にパターン化された人物像が麻縄のごとく入り乱れて、なかなか楽しめそうです。私は、いわゆる戦乱ものは血なまぐさいイメージがあって敬遠してきたのですが、ゆとりができたら読んでみようかと思いました。なにしろ長大ですね。
我が国の戦国武将たちも「三国志」のお世話になったようですが、脚色だらけであることを踏まえてもなお学ぶに価したのでしょうか。
『虚構でもって真実を語る』というコトバを思い出しました。

お礼日時:2007/01/05 15:40

こんばんは。


 既によいご回答が挙がっておりますが、お邪魔します。

 歴史は、人々の業の堆積だと言えると思います。本来、歴史に表も裏もないでしょうし、都合よく作ることはできないものだと思います。書かれたもの伝えられたものが、都合よく作られたものだとしても、それを見極め、なぜそうなったかを考えるのもまた「歴史に学ぶ」ということだと思います。

 人の経験の集積・業の堆積である歴史を的確に参照して、自らが経験するであろう事柄を類推し、事前に思案・方策を巡らせることが「歴史に学ぶ」ということ、古人がうんざりするほど経験した事柄を、自分もまたわざわざに経験してしまいながら、同じ轍を踏んだことにも気付かないことが「経験に学ぶ」ということではないかと、勝手に解釈しております。

 個人的実体験量が豊かになる=他者や古人の経験への参照能力が高まる=「歴史に学ぶ」スキルが上がる、ということではないかと。

 個人的見解にてすみませんが。では。

 

 
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この回答へのお礼

アドバイスをいただき有難うございます。
>歴史は、人々の業の堆積

「都合よく作られた」ということが見極められれば、それ自体も「堆積の歴史」なのですね。
「都合よく作られた」のだということに気づいたら、それは、どのような形で活かされていくべきなのでしょうか。

>古人がうんざりするほど経験した事柄を、自分もまたわざわざに経験してしまいながら、同じ轍を踏んだことにも気付かないことが「経験に学ぶ」ということではないかと

なるほど!しかし(要するに「個人的実体験量が豊かになる」ということになりますが)轍を踏むこと自体は一度はやってムダでないとも思うのです。(まあ取り返しがつかないような事だと、そんな余裕のあることも言ってられませんが)先に歩く人の語ることが身に沁みるようになりますから。凡人は、そのときになって、やっと理解できるのだと思います。
つまり「他者や古人の経験への参照能力が高まる」ということになると。
そしてまた「古人がうんざりするほど経験した事柄を、自分もまたわざわざに経験してしま」うことが「人々の業の堆積」つまり歴史の脈々でもあるかと。。。
それにしても「気付かない」というのが一番困ったことになりますね。「自分が何をしたのか(経験したか)」気づかないとなると、それは「経験に学ぶ」ことすらできないということになる。
「歴史は繰り返す」ことの原因なのでしょうか。

お礼日時:2007/01/04 12:39

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