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最近各メディアでわが国の戦国時代を扱ったものが多く見られますが、その戦国時代の物語を見るとき、いつも不思議に感じていることがあります。
それは戦のシーンで、屋外に幔幕を張った軍陣というものが出てきますが、それの全貌が映されたところ、描かれたところを見たことがないということです。
戦の際、駐屯地の役割を果たす重要な軍陣だと思うのですが、扱われる際断片的な映像しかないのは、何かもったいない様に感じます。もっと細かにここはこうで、ここにはこういう機能を置いていて…と理解することができれば、武将達の様子や、もっと戦の臨場感を味わえると思うのです。
この「軍陣」の全体図や定石をご存知の方、それを確認できる映像や書物をご存知の方、教えていただけると助かります。
よろしくお願い致します。

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A 回答 (3件)

追加のご質問におこたえします。


野戦の場合と長陣の場合では異なっていたとおもいますが、野戦の場合、配下の各武将も同様な陣がまえで配置された場所に陣所を構えていたとおもいます。

長陣の場合は多くは近在の寺などを利用していました。 
城の付近に寺が多いのはこのためで部隊の駐屯地にもなり防御拠点にもなりました。
これらの部下の武将の構えた陣所の正確な呼称はしりません。

幕の張り方にも定めがあったようですが、詳細はわかりません。
見通しが利くように敵に面した正面を解放するとか、不要なものを目隠しするなど目的があった筈です。
地形によりますが本陣は平坦な高地を選びある程度の面積を確保出来る土地を選んだ筈です。
戦争ですから臨機応変はありますが軍学などでは正規の定めなど論議していました。 
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この回答へのお礼

回答いただき有難うございます!!
なるほど…城の近くに寺が多いのは軍事の点でも活用されていたからなんですね。勉強になりました!!これからは戦のシーンをもっと臨場感を持って観られそうです。
重ねての質問にも快く回答くださり、感謝いたします。ご教授本当に有難うございました!!

お礼日時:2007/01/16 04:51

有名な関ヶ原合戦の図が当時の状況を良く示しています。


軍陣というのはただしくは本陣といいます。  軍陣というのは普通軍の配置、陣形をさします。

本陣には主将が床几に座り、その位置を示す馬印を建てます。
部隊の軍旗というべき旗印をたてます。  これは主将の位置と本陣の位置を敵味方に示すためです。

主将の廻りは参謀役などの武将が控え、また馬廻りや使い番などの護衛、伝令役の武士が控えています。  野戦の場合本陣は移動にも備えて仮の設定ですから臨時の設営が多いのです。 
乗馬の馬つなぎも必要です。  部下の各部隊もほぼ同様な設営をするか野営のかたちになります。

長陣となるとトイレや炊事の場所も作られますがこれらも臨時の設営か近くの寺などの設備を利用した本陣が設けられます。
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この回答へのお礼

回答を頂き、有難うございます。
とても解りやすく説明していただき、陣の内の絵が浮かぶようです。
そして理解できたと同時に、いく点かの疑問ができました。もし宜しければご回答頂けたらと思います。

>軍陣というのは正しくは本陣といいます。軍陣というのは普通軍の配置、陣形をさします。

そうしますと、本陣(大将のいる陣を本陣と呼ぶものだと思っておりました。そうではなく張った陣自体を本陣と呼ぶのですね。)と本陣以外(各部隊が分かれて陣を張っている場合)があると思うのですが、その場合本陣以外の陣はどう呼ばれるものなのでしょうか。

あと、本陣に張られる幔幕がよく映像としても出てきますが、その張り方(ドラマなどで見ると大将のいる場所が部屋のように四角く区切られていますよね)に決まりなどはあったのでしょうか。それともその陣を張る地形や状況にあわせて、だいたいで張っていたのでしょうか。

長くなってしまいましたが、ご回答頂けたら助かります。
よろしくお願い致します。

お礼日時:2007/01/08 00:09

戦国合戦図屏風の絵を見ればよく判ります。


学研発行の「歴史群像シリーズ 図説・戦国合戦図屏風」がよいでしょう。  川中島合戦図が特に参考になります。
浮世絵にも「上杉武田対陣矢合之図」があり、上杉軍陣立、武田軍陣立が書かれています。  これは「歴史群像シリーズ」2 「戦国関東三国志」に載っています。
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この回答へのお礼

回答頂き、有難うございます。
早速教えて頂いた『戦国合戦図屏風』を探して見たのですが、たしかに陣の様子が見れるのですが、できることなら断片的でなくもっと全体を写したものを見てみたいと思うのです。
もうひとつ教えて頂きました『戦国関東三国志』も探してみようと思います。
ご教授ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/07 23:55

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Q江戸時代の人はどうやって寒さをしのいだ?

今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
私「うーん。野宿は無理でしょ」
「でも農繁期には戦はしないだろ」
私「いや、秀吉のころには兵農分離していたし、やったのでは?
昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんで...続きを読む


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