マーベル映画シリーズの伝説の始まり『アイアンマン』を紐解く! >>

 山之内一豊というと彼の妻・千代が嫁ぐ時に持ってきた金を夫の為に差し出して名馬を買った「内助の功」により《山之内一豊の妻》が彼女自身の名の「千代」を霞ませるくらい有名ですが、一豊は何故、四国で長宗我部の遺臣を弾圧したのでしょうか?山之内家の家臣を上士とし、長宗我部の遺臣を郷士と定め冷遇し、それに怒って一揆を長宗我部の遺臣を処刑したとか。何故、一豊は長宗我部の遺臣や民の心情を考え不満や恨みがそのような騒乱に結びつかぬような政策を取らずに、逆に彼らを虐殺したのでしょうか?乱を未然に防ぐように心を砕はず筈なのに。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

土佐は統治の難地と見られていたようです。


家康としては関ヶ原で功労のあった山内一豊に恩賞を与えぬ訳にいかずその器量を見る為統治の困難な土佐を与え、うまくいかねばそれを口実に取りつぶす事も視野のうちにあったのでは・・・

統治の困難は兵農分離が進まず一両具足という制度が定着していたからです。
彼らは土地持ちの武士でその収穫を領主からみれば私していたので年貢の埒外でした。
既に封建制度での領主として土佐に着任した山内一豊にしてみれば行政上の癌であったわけです。
しかしなるべくならば騒動なく収めたかったでしょうが、旧主をうしなった一領具足達の反抗は激しく、山内自身も我が身を思いやむなく非常手段として一両具足中の強力なメンバーの排除をおこなわざるを得なかったのだと思います。 一種の恐怖政治といえましょう。
時間的に追いつめられた決断でした。

この時の難儀の記憶から土佐の旧臣を郷士の身分に落とし区別したのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。
 恐怖政治ですか。時間的に追いつめられ、保身と邪魔者の排除とが絡まり合ったものだったのですね。家康にとって一番都合の良い結果になったでしょうね、一豊の器量はしっかりと見極めるなど、いろんな意味で。
 恐いですね。でも、一番気の毒なのは押し潰された郷士達(土佐の一領具足)です。家康と一豊の2重の弾圧を受け、今日の四国の歴史は彼らの「勝てば官軍」である勝者の歴史ですから。

お礼日時:2007/01/10 15:23

明治期に於いて、土佐藩出身の郷士層が薩長土肥の一角として、発言力を付けたから、そのようなことが喧伝されている。



秀吉政権時代からの新任大名が、赴任地で土着の半農半士を弾圧するのは当たり前のこと。農村に於いて、現在のような個人単位の農業経営が基本になったのは17世紀後半以降。それまでは、地侍的な有力者が「村」の有力者として武力を持っていた。

他の新任大名で言えば
黒田家は豊前に於いて、豊前宇都宮・城井氏を謀殺。
木村家は陸奥に於いて、葛西大崎の一揆で失敗
※ この場合の一揆は農民一揆ではなく地侍連合という意味
佐々家は庇護に於いて、一揆のために責任を取らされて切腹
のように、多くの大名家で行っている。
    • good
    • 0

長宗我部盛親は関ケ原の戦いで西軍に組したため改易になり,山内一豊に土佐一国が与えられました。

一豊は信長,特に秀吉の譜代城主でしたから,家康は九州の外様大名の如く遠地に飛ばしたのでしょう。

一豊が入国しようとした時に問題が発生しました。長宗我部氏は「一領具足」という半農半兵という制度で強力な軍団を運営していましたので,遺臣達は土地の領有を主張したのです。時代はこの制度を認める状況でなく弾圧するしかなかったのではと思います。

その後,上士と郷士との対立が続くのですが,明治維新で多くの郷士が活躍したのは周知のことです。
    • good
    • 1

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q山内一豊ってどんな人ですか?

歴史上の人物だということはわかりますが、一体なにをして有名なんですか?大河ドラマを見ていてもいまいちわかりません。奥さんが内助の功で有名ってききましたが、どうして旦那は有名なんですか?
すいません。全くの素人で。

Aベストアンサー

「土佐20万石」を拝領して、凄い出世のチャンピオンみたいなことを言われていますが、ようするに、秀吉から家康に寝返った裏切り者ですから、江戸の近くになんか置いておけないわけで、かつての上役の長宗我部氏の領土に乗り込まなければならなかった悲劇の晩年の人だと思っています。
長宗我部氏の残党が当然血の気をたぎらせてぎらぎらしているなかに赴任して、血で血をあらうような凄惨な日々がかなり続いたようです。
まあ、それが家康の作戦でもあるわけで、敗者の所に裏切り者をほおりこめば、ほっといても両者の力はそがれていくと見越していたのでしょう。
たしか、「土佐20万石」を拝領して4年後くらいに亡くなっています。
子供のない千代は、未亡人になるとすぐさっさと一人で、若かりし頃にすみなれた京都に帰ってしまって、坊さんになっていた養子と、古い友だちなどと結構長寿になるまで悠々自適に暮らしたみたいです。
やはり女は強いと思っています。

Q上士郷士の差別は土佐藩だけなの?

司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」には、関ヶ原の戦い後に
土佐藩を支配した山内侍は、それまでの支配者長曽我部侍
を郷士とし身分差別したとし、これは他藩にはなく土佐藩
独自のものであったと書かれてます。
ただ、関ヶ原の戦いで改易になった大名家はたくさん存在し、
勝者がその領地に乗り込んだのは土佐だけではなかったはず。
大名家が滅んだところ、あるいは縮小、移封などの場合の
地侍はどんあったのですか?ちりちりばらばら、あるいは上杉
氏のように全員転居した?
土佐藩のような事例は他藩にもあったように思えるのですが。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>上士郷士の差別は土佐藩だけなの?

お答えから先に述べますと、
土佐藩だけではありません。

ただ、土佐藩は「極端に」「上士」「郷士」の差別をし、
足袋や下駄、日傘は上士だけしか許されませんでした。

有名なところでは、奈良県の十津川郷士がいます。
(1)古くは、地域の住民は朝廷の下働きを命ぜられ、朝廷の雑務をしていました。
(2)壬申の乱には、村から出兵。
(3)平治の乱でも出兵しました。
(4)これらの功績により、土地が山中にあり、米の収穫も少なかったことから、租税免除をされています。この租税免除は、明治まで続きました。
(5)太閤検地でも山間部で米の収穫が希少のため、年貢を免除されていました。
(6)大坂冬の陣では、十津川郷士1,000人が徳川方として参戦し、豊臣方の鎮圧に尽力したため、大和の国の五條代官所の管轄に入り、天領地として、租税免除を受けています。
(7)そして、家康より「永大にわたり郷士と名乗る」ことを許されています。

また、郷士は、
(1)下級武士が、その低い身分ゆえに城下で家禄のみでは生活できず、城下郊外または農村で農業を営むことを許された者。
(2)特別な所以がある場合。
を、基本としています。

(1)の例は、明和年間に赤字財政の米沢藩の改革を実行しようとした上杉鷹山の家臣で「北沢五郎兵衛」は、配下の「五十騎組」と共に小野川の畔の荒れ地の開墾を申し出て、小野川の畔に生活基盤を移しました。鷹山は「士分」を捨てることは許さなかったものの、ほぼ、「郷士」に近い状態でした。
(2)の例は、先に述べた十津川郷士などです。

あなたのお役に立てば・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>上士郷士の差別は土佐藩だけなの?

お答えから先に述べますと、
土佐藩だけではありません。

ただ、土佐藩は「極端に」「上士」「郷士」の差別をし、
足袋や下駄、日傘は上士だけしか許されませんでした。

有名なところでは、奈良県の十津川郷士がいます。
(1)古くは、地域の住民は朝廷の下働きを命ぜられ、朝廷の雑務をしていました。
(2)壬申の乱には、村から出兵。
(3)平治の乱でも出兵しました。
(4)これらの功績により、土地が山中にあり、米...続きを読む

Q<功名が辻>祖父江新一郎、祖父江家について

祖父江新一郎死んじゃいましたね(前回の大河ドラマで一両具足に殺された)。
あれって史実なんでしょうか。

その後、祖父江家はどういう経過をだどるんでしょうか。
五藤家ともども、糟糠の妻ならぬ家臣として、山内家の元勲として、子孫が平和に暮らしたんでしょうか。

Aベストアンサー

Wikipediaからの引用です。
祖父江家に関しては、新一郎の存在を含め、脚色がなされているようですね。
祖父江家のその後は不明、五島家は幕末まで残っているようです。

祖父江 勘左衛門(そふえ かんざえもん、生没年不詳)は、安土桃山時代の戦国武将。山内一豊に仕えた。実名は不明。本姓は藤原氏。
司馬遼太郎『功名が辻』
当作内では祖父江新右衛門の原型となった。新右衛門は五藤吉兵衛と共に流浪時代の一豊をよく支えた、一種の親代わり的な存在であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E7%88%B6%E6%B1%9F%E5%8B%98%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80

五藤 為浄(ごとう ためきよ、天文22年(1553年)‐天正11年3月3日(1583年4月24日))は、安土桃山時代の戦国武将。山内一豊に仕えた。通称は吉兵衛。五藤基浄の子。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%97%A4%E7%82%BA%E6%B5%84

Wikipediaからの引用です。
祖父江家に関しては、新一郎の存在を含め、脚色がなされているようですね。
祖父江家のその後は不明、五島家は幕末まで残っているようです。

祖父江 勘左衛門(そふえ かんざえもん、生没年不詳)は、安土桃山時代の戦国武将。山内一豊に仕えた。実名は不明。本姓は藤原氏。
司馬遼太郎『功名が辻』
当作内では祖父江新右衛門の原型となった。新右衛門は五藤吉兵衛と共に流浪時代の一豊をよく支えた、一種の親代わり的な存在であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96...続きを読む


人気Q&Aランキング

価格.com 格安SIM 料金比較