先日友人が東大寺に行き立て看板を読んだ所、足利幕府(足利義昭?)が焼失した東大寺(松永久秀が焼いた?)を力を削ぐために武田信玄に再建を命じたと書いてあったと言っていたのです(つまり今の東大寺は友人曰く武田信玄が建てた)。
ネットで検索した所、江戸期に立て直されたと書いてあったのでどっちが正しいのですか?
私の薄い知識では、最後の将軍は力なく傀儡で武田信玄や周りの武将に手紙をだして信長包囲網を創った記憶があるのですが、そういう関係の中で頼りの武田信玄にそんな命令が出来るのでしょうか?
ちなみにその友人は私に負けずしったかぶり+嘘つきです。私の質問がかなりの愚問でない事を願います。

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A 回答 (7件)

『言繼卿記』の元龜二年八月廿九日条にありました。

長くなりますが引用します。

東大寺大佛殿者爲日本無雙之伽藍、上古之舊蹟異于他之處、南都擾亂之時節、依兵火魔風回祿之由、被歎思召者也、仍以諸國之勸進、可勵再造之微功之由、任衆僧奏申旨萬方被成綸旨畢、然者爲國家安寧武運長久之祈願、別而於被抽奉加之忠志者可爲神妙之由、天気如斯、仍執達如件、
 元龜二年七月十六日  權左少辨判 宣教
   武田大膳大夫入道殿

(現代語訳)
東大寺大仏殿は日本無双の伽藍で、はるか昔からの旧跡で他に異なるものはなかったところ、(松永久秀による)南都擾乱の時、兵火により魔風が吹き荒れてしまったことを、(天皇が)嘆き思し召されておられる。よって諸国への勧進をもって再建の微功に励んでいる、僧侶たちの奏上の通り方々へ綸旨を出されておられる。そうすれば国家安寧・武運長久の祈願のために、別して奉加の忠志にぬきんじられれば神妙である、との天皇のお気持ちである。(以下略)

著者山科言繼は柳原一品のところへ四日前の八月廿五日に出向いたときに、この綸旨の談合を行い、廿九日に柳原より綸旨案が言繼のところに到着しました。翌日の九月一日に東大寺大仏殿再建に尽力したことで有名な阿弥陀寺の清玉上人が言繼邸を訪れ、前日に会えなかった中御門を呼び寄せ綸旨を整え、清玉上人へ綸旨を渡しました。

綸旨の主題は「被抽奉加之忠志(奉加の忠志にぬきんじられ)」…要は金を出せ(『言繼卿記』を見ると清玉上人の勧進に応じろ)ということです。ということは『言繼卿記』情報だけだと、朝廷が武田信玄に金を出させるよう働きかけただけで、信玄が金を出した訳でも、大仏殿が再建された訳でもありません。家康の情報は皆無です。このあたりは『晴豐公記』に書かれていると思いますが、私にとってこれ以上の追求は難しいです。

それにしても何故日付を前に倒しているのでしょうかねぇ?

ちなみに清玉上人は織田信長の遺骨を本能寺から持ち帰り供養したという伝承が阿弥陀寺に残されています。元龜三年六月に信長は分国中の一人ひとりから毎月一銭の勧進をお墨付きを与えてますし、そのほか清玉上人へ特権を与えていますので、このような伝承もできたのでしょう。
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この回答へのお礼

お礼遅れて申し訳ありません。1~7までの回答から結論は足利の足の字も出ず朝廷による命により信玄や家康が寄付したかもしれないという所でしょうか。東大寺の立て看板はなんなんでしょう?やはり奴のウソか・・・回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/11 01:57

すいません。

また補足にきました。
No.1さんの年表からまた・・・

>永禄10.10.10 1567 松永久秀大仏殿等焼く

をクリックすると、三好・松永の乱の記述のなかに

>一部の応急修理は施されたものの、100年あまり雨ざらしのままとなりました。

と、あります。ということは、武田、徳川の奉加によって応急処置はされたものの
戦国、安土桃山時代はそのまま雨ざらしで、江戸時代になって現在の大仏殿が
できたと考えて間違いないと思います。

すいません。歴史は好きなので、つい自分も納得するまで調べたくなり、新しい
ことを見つけるごとに回答して・・・まとめて回答すればよかったですね。
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この回答へのお礼

お礼遅れて申し訳ありません。4回も回答いただいてありがとうございます。0577さんの歴史への熱い思いが伝わります。

お礼日時:2002/05/11 01:35

『史料綜覽』巻十(東京大学史料編纂所編、昭和十三年初版)の元龜二年七月十六日条に以下の記述がありました。



「武田信玄ニ東大寺大佛殿再建ノ資ヲ奉加セシメラル、尋デ、徳川家康ニモ亦奉加セシメラル、 言繼卿記 晴豐公記」

ということで、kyaezawaさんの内容とぴったり合いました。出典を調べようと『言繼卿記』の同日条を見てみましたが、これに該当する記述がありません。後日、記述されているかも…見つけたら報告します。なお、『晴豐公記』は天正六年九月七日から始まります。
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もひとつ補足です。

。。
またNo.1さんの回答からひっぱりますが、
>1571 元亀2年 7月16日 朝廷は甲斐武田信玄に東大寺大仏殿再建を援助させ、ついで家康にも奉加を命ずる
ということは、武田信玄に命じたのは幕府じゃなくて朝廷、つまり天皇らしい。
なので私の書簡の中身の推測もはずれですね。
いや~いろいろ勉強になりました。
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No.1さんの回答を見て補足します。


奉加ということは、寄付ってことですが、それは信玄も奉加だけなんですかね?
それなら考えられますね。
あと二月堂ってことですが松永と筒井、三人衆の戦いで燃えたのは
大仏殿ですから、No.1さんの参考URLの年表によると1708年に「大仏殿再建成る」
と書いてあるので、この年が正解でしょう。
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こんにちは。

私の記憶では、松永久秀対筒井順慶、三好三人衆の
戦いで東大寺が焼失、その1年後に織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
上洛したのが1568年ですから、東大寺が燃えたのは1567年。
武田信玄が京を目指している途中に没したのが1573年ですから、
義昭が将軍になってその間5年です。物理的に困難ですし、この5年の間、
戦国時代において重要な時期にありえません。考えられるとすれば、
関係が悪くなった信長を疎んだ義昭が、信長を討つために信玄他、武将を
京へ向かわせるのですが、その依頼の文書の中身が「東大寺の再建のため」
ってことになってたかもしれませんね。大義でってことですかね。
でも、信玄は上洛途中で病没、あてが外れた義昭も同じ年に信長に追放されて
室町幕府は滅びます。

さて、東大寺が修復されたのはhide120さんのおっしゃるとおりです。
たしか江戸時代前期~中期に修復されたと思います。当時のものより
少し小さくなったと聞いたことがあります。なぜ小さくなったのかは
知りませんが。それまで約100年~150年。ずいぶん長い間放置されてた
みたいですが、大仏は雨ざらしだったんですかねぇ?
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年表日本史に次のように記載されています。



1571 元亀2年 7月16日 朝廷は甲斐武田信玄に東大寺大仏殿再建を援助させ、ついで家康にも奉加を命ずる。

東大寺略年表にも同様な記載があります。

その後、寛文7.2.14に、二月堂が焼失して、寛文9年に再建されたようです。

参考URL:http://www.ntt-west.co.jp/nara/todaiji/ayumi/ayu …
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この回答へのお礼

お礼遅れて申し訳ありません。貴重な意見ありがとうございます。

お礼日時:2002/05/11 01:31

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3 天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80

より コピペ

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失礼に当たることになるならやめようと思います。
ご回答宜しくお願いします。

Aベストアンサー

厳密に云うと失礼に当たります。

御朱印帳には特に仏閣ではその仏閣の御本尊様のお名前を記入いただき、本尊様の印を頂きます。

この御朱印は信仰の篤い方々には「あり難いもの」と認識されておりますので

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やはり、駅スタンプと御朱印は別になさることをお勧め致します。

ご参考まで

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松永久秀について教えて下さい。
特に彼が最後に信長の命で石山本願寺攻めをしていた時、突然本拠地の信貴山城に帰り、篭城した。二ヶ月後、城を信長軍によって焼き討ちにされた久秀は愛蔵の名器「平蜘蛛」とともに爆死して果てるのである。
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Aベストアンサー

松永久秀自身は、自分が天下に号令を掛けることを夢見ていたのでしょうが、その器でないこともしっかり把握していたのでしょう。
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信長包囲網の一角として信長を倒せたならば、足利義昭政権の宰相として寓されるはずと思ったのかと思われます。
だから、二度目の裏切りに走ったのでしょう。
もちろん、一度裏切って許されているが、二度目はないことは信長の性格から十分伺えるわけですから、こと破れたならば、松永弾正の男の心意気を見せて、死のうと思っても可笑しくないはず、ただ、腹を切るより爆死する方が派手で、あり信長に一死報いるには平蜘蛛の茶釜を道連れにすれば、良いと思ったのでしょう。
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こんにちは、ある方が「休日の日には御朱印帳を持って神社に出かける」と言っておりましたが、この御朱印帳とは一体何でしょうか?

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Aベストアンサー

信長によって京を追放されたときは、本願寺顕如らの仲介もあって信長は助命し、河内若江の妹婿である三好義継を頼って落ち延びた。しかし信長によって義継が滅ぼされると、剃髪して恭順の意を示した。

しかし天正4年(1576年)、毛利領であった備後にある鞆の浦(足利尊氏再起の地で縁起が良い)に亡命し、そこから信長打倒を目指して諸大名に討伐令を下し続けた。しかし天正6年(1578年)に関東管領の上杉謙信が死去し、天正8年(1580年)に石山本願寺も信長に降伏したため、信長討伐は潰えた。

天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で横死すると、毛利輝元の力を借りて再び上洛を目論む一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行った。しかし、親豊臣派であった小早川隆景らが反対したため、毛利輝元は動くことはなく、また義昭はいかなる成り行きで勝家を支持したため秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却した。

その後、毛利氏が正式に秀吉の配下となった後の天正15年(1587年)、出家して秀吉の側近として仕え、京都填島において秀吉より1万石を与えられた。晩年には文禄・慶長の役に際し肥前名護屋まで参陣している。慶長2年(1597年)、大坂で死去。享年61。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

足利氏は名門ですから、数々の支族がいます。
■御一家 (吉良氏、今川氏、渋川氏)
■三管領 (斯波氏、畠山氏、細川氏)
■四職  (一色氏、赤松氏、京極氏、山名氏、土岐氏)
■親類・一門(仁木氏、石橋氏、石塔氏)
■執事・探題(高氏、伊勢氏、上杉氏、桃井氏、諏訪氏、小笠原氏)
などなど、源氏の嫡流(徳川・松平氏を除く)ですので、今も日本各地に多く残っています。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

信長によって京を追放されたときは、本願寺顕如らの仲介もあって信長は助命し、河内若江の妹婿である三好義継を頼って落ち延びた。しかし信長によって義継が滅ぼされると、剃髪して恭順の意を示した。

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