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こんにちは。
戦国大名の生活に興味があり、
以前から気になっているのですが、
嫡男以外の男児は成人するとどうなるのでしょうか?
子供の頃は若君として扱われると思いますが、
成人後は実家の家臣のようになるのでしょうか?
それとも一生若君生活ですか?
また、嫡男の妻子はお方様、若君、姫君ですよね。
嫡男以外の男児の妻子も、そのような身分を与えられるのですか?
どうぞご教示下さい。

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A 回答 (10件)

さまざまな例があります。



1. 大名の権力があまり強くない段階では、大名は「その国の支配者ではなく盟主、有力な対抗勢力が存在」の立場です。その場合、家督を継がない次男・三男を、そういった家の養子に送り込んで大名権力の強化を図ります。例:吉川元春、小早川隆景。武田信玄の父の信虎の兄弟も国人の家の養子に入っています。

2. 「副総帥」の立場として、当主になる長男を補佐する。例:武田信繁・信廉、北条氏政の三人の弟(氏照、氏邦、氏規)、島津義久の三人の弟(義弘、家久、歳久)

3. お家騒動を起こしてしまう。織田信行、伊達小次郎など。

お家騒動を起こすのは論外です。他家の養子に出るにせよ、兄を補佐して働くにせよ、戦国武将の息子は多ければ多いほど良いものでした。なお、娘も政略結婚の「道具」として使えますので、娘も多いほど良いものです。

上杉謙信のように「生涯不犯」とか言って(真相は良く分かりませんが)、実子が一人もいないというのは、戦国大名としては非常にマイナス名ことです。実際、彼の死後には上杉景虎と上杉景勝の「国を二つに分けた内戦」が起きました。この内戦は、上杉家を著しく弱体化する結果になりました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
大名家→大名家だけではなく、
→国人というパターンもあるのですね。

お礼日時:2007/01/12 23:21

No.8の回答者kichinekoです。

No.9におけるbuchi-dogさんのご指摘、ありがとうございます。No.5の御回答の印象からもリアルな眼を以って歴史と真摯に向き合うbuchi-dogさんの御姿勢を感じ取りました。 物語としてよりドラマティックに情緒たっぷりなものを好んでロマンに浸ることを楽しみに歴史の世界に遊んでいる私などは、武田家といえば「甲陽軍艦」を基とし、三国志といえば「三国志演義」を礎としてしまいがちで・・・勉強になります。犬(dog)と猫(neko)の違いでしょうか(笑)

何れにしても武田家は~信虎-信玄-勝頼-(信勝)という流れで、それぞれの代にいた(嫡子でなかった)兄弟達は副将や後見人となって当主を支えたり、僧になったり、非業の死を遂げたりしたようです。ただ、彼らは「親類衆」と呼ばれ、身分的には他の家臣達と区別されていたことを付け加えさせて貰います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
この書き込みを通してkichinekosさんからも真摯な姿勢を感じます^^。
「親類衆」という言葉は初めて知りました。

お礼日時:2007/01/14 21:20

「勝頼も側室の子ゆえ正式な当主ではなく、その子信勝の後見役という名目だったらしいのですが」



という「勝頼は信勝の成人するまでの陣代」という話は「甲陽軍鑑」に書いてありますが俗説です。勝頼が信玄から武田家を継承したことは、武田家当主として無数の文書を発給していることから明らかです。信勝はあくまで「武田家当主勝頼の嫡男」に過ぎません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
俗説が定説となってしまっているケースは
残念ながらたくさんあると思います。
今回のようなご教示を頂けたことは大変ありがたいです。

お礼日時:2007/01/14 21:15

皆さんが仰っている通りですが・・・



更に「次代の後見人的存在」というのも考えられます。
つまり、嫡男(大抵は長男)が弟たちより先に死んだ場合、その跡目を継ぐのは通常、弟ではなく直系たるその息子。そこで弟たちは甥にあたる新当主の後見人・相談役となるケース。
特に新当主が幼年、或いは若輩のときは重要。場合によっては形式上「後見人」であっても実質当主として実権を握った例もあるようです。
例えば毛利興元の死後、当主の座はその子幸松丸が継ぎましたが、実際に幼い当主に代わって毛利家を動かしたのは伯父で後見人でもある元就でした。つまり先代興元の弟です。
結局病弱だった幸松丸は間もなく他界したので元就が名実共に次期当主となったのですが・・・。
他に後見人的存在としては、
その元就の次男吉川元春と三男小早川隆景が甥にあたる毛利輝元(早死した長男隆元の子)を先導・補佐し続けた例や
武田勝頼を支えた先代信玄の末弟信廉(実際、勝頼も側室の子ゆえ正式な当主ではなく、その子信勝の後見役という名目だったらしいのですが・・・)などの例が思い当たります。

これも直系を重んじる日本の伝統的価値観ゆえなのかもしれませんね。

あとは・・・長男義久が内政を担当し、次男義弘が軍事を掌握していた(双殿体制)という島津家の例もあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、納得です。

お礼日時:2007/01/13 11:02

江戸時代を前提に考えているようなので、戦国時代での違いとして説明すると。


1:実力主義が強かった
2:嫡子の生存率が低かった
3:大名家自体が、拡大傾向OR滅亡のトレンドにあった

1で申し上げれば、上杉謙信が具体例になります。
2で申し上げれば、今川義元が具体例になります。嫡子が若くして死亡したので次男以下で相続争い。今川家の場合足利将軍家に習って、嫡男以外は、僧侶にしておりました。
その意味では、公的には妻子なしとなります。
3で申し上げれば、徳川家や毛利家が好例。
毛利家で申し上げれば、元就の息子たちは、養子に行ったり、本家の養子になったりですが、基本的に一家を構えていました。

基本は 大名にとって 男子も女子も 多い方が善。
養子だ嫁だと使い用はいくらでも。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
本来は戦国時代のことを伺いたかったので、
とても分かりやすいです。
嫡男以外は僧侶というのはすごいですね^^;。
「子供達は道具」というは当時の基本的通念ですね。

お礼日時:2007/01/12 23:31

まだでてないのでもう一つ。

坊主になる、これもよくあります。仏門に入れてしまえば跡目争いも起こりにくく(たまに起こすやつはいます)、かつ安全に万一のときの跡継ぎ候補としても残せます。戦国時代までは仏門は隠然たる力があり、万一自家が滅びて敵方勢力に要求されても、そうそう差し出すようなことはしません。(お家再興の機会が残せる)嫡男が死んだら呼び戻すこともできますし、なかには還俗しないまま当主を補佐することもありです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>戦国時代までは仏門は隠然たる力があり、万一自家が滅びて敵方勢力に要求されても、そうそう差し出すようなことはしません
これは初めて知りました。

お礼日時:2007/01/12 23:25

戦国大名は嫡男と当主は仲が悪いことも少なくなく、これも様々です。


武田家では、信虎⇔信玄⇔義信と3代続けて不仲で、信虎は追放、義信は殺され、信玄の後は側室が生んだ4男の勝頼が継いでいます。
徳川家康は嫡男の信康を切腹させて殺し、次男の秀康を養子に出し、家督を3男の秀忠に譲り、秀忠の兄の秀康は弟の家臣として福井に封じられます。
今川義元は兄の第8代氏輝が当主になったので、4歳で出家して仏門に入ります。
その後、この兄の氏輝が亡くなると相続争いになり、異母兄の玄広恵探と花倉の乱と言われる戦になり、これを制して今川家当主に納まります。
これ以外にも兄弟の使い道としては、戦の保険をかけておくことがあり、与力として戦に出るとき、弟の一人が敵方に加わり、万一負けたときでも家名が残るようにしていました。
この例が、真田昌幸で、関ヶ原の合戦では二人の子供を東西に分けて参加させ、結局長男の信幸が徳川方として生き残り、幕末まで大名として存続しました。
こうした例はよくあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
さすがに戦国時代は壮絶ですね。
真田氏のしたたかさには舌を巻きます。

お礼日時:2007/01/12 23:15

養子に出すというケースもありますよ。


毛利家の吉川元春(次男)、小早川隆景(三男)
織田家の織田信雄(次男)、織田信孝(三男)
徳川家の結城秀康(次男) など
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やはり養子に出すのが手っ取り早いんでしょうかね。

お礼日時:2007/01/12 23:12

これは様々で、他家に養子に行く者、領地を分けてもらって独立する者、兄の家臣として仕える者、そのまま一生市井に埋もれて暮らす者などいろいろです。


例えば6代将軍徳川家宣の弟の松平清武は、甲府藩主徳川綱重の2男として生まれますが、母親の身分が低いため兄の家宣が家臣の新見氏に預けられ、自分は家臣の越智与右衛門に預けられ、その家督を継いで300石の甲府家家臣になります。
その後、父親と正室の間に子供が生まれなかったので、兄の家宣が藩主となり、将軍になると幕臣に列し、最終的には館林5万石の大名になります。

柳生宗冬は有名な柳生十兵衛の弟ですが、父親の宗矩の死後、領地の一部を貰って4200石の旗本になります。
その後、兄の十兵衛が亡くなり、その遺領を合わせて12,500石の大名になりました。
劇画で有名な弟の列堂は出家し、兄から200石を貰って芳徳寺の住持に収まっています。

このようにいろいろな人生を歩んでいますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
養子や出家といった選択肢も考えていたのですが、
やはり色々なパターンがあるのですね。
領地を分けてもらって独立というのはラッキーな例でしょうか。
それとも結構行われていたのかな。。。

お礼日時:2007/01/12 23:10

多くの二男以下は家臣となって長男に仕えるケースが多かったようです。

しかし、上杉謙信のように長男を廃嫡して自分が領主にのし上がるケースもありました。
 また、当時は病没や戦死、怪我の悪化で落命などがあり、跡継ぎがいなくなって彼等にお鉢が回って来るケースもよくありました。武田勝頼はその例ですね。逆に仁科盛信のように勝頼に忠誠を尽くし、高遠城で家臣とともに全滅するまで戦ったというケースもあります。
 戦国時代ではありませんが、吉宗は紀伊藩の末っ子だったのが、上の兄がすべて病没して藩主のお鉢が回って来た上、将軍の跡継ぎもなくなって将軍職が転がり込んで来たという希有な幸運もありましたよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やっぱり家臣になっちゃうんですね。
幕末の井伊大老も14男ですよね。

お礼日時:2007/01/12 11:16

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