秀吉が関白となったことにより戦国の乱世は治まりましたが、京の公家衆は秀吉のことをどう考えていたのでしょうか?

百姓・足軽階層出身の秀吉が天下人(それも将軍ではなく関白に)となったことに反発のようなものはあったのでしょうか?

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A 回答 (7件)

木曽義仲も 一時の 支配者


織田信長も 一時の 支配者
秀吉はんも そないなものでしょうなぁ
で、奪われていた荘園は戻らなかったけど、領地を確保してもらったし、まぁ、、、
そのうち おさるさんも いのーなりまっしゃるでっしゃろな

なんて くらいで たいしたことは 思ってない
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この回答へのお礼

なるほど、一時の支配者ですか。
信長と違って朝廷の脅威となる訳でないし、案外そのくらいの認識だったのかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:03

信長には天皇制を廃止して自分が国王になるという意志があったようです。

公家衆にとっては足利義満以来の危機でした。
秀吉にはそのような考えはありませんでしたので反動で容認したのではないでしょうか。

この回答への補足

皆様、お礼が遅くなっていて申し訳ございません。
当方、試験期間中につき終わり次第お礼を書かせて頂きます。

補足日時:2007/01/24 20:50
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この回答へのお礼

信長の思想に比べたら朝廷権威を害しない秀吉は遥かに可愛いものだったのかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/04 02:09

関白は五摂家(九条、近衛、鷹司、一条、二条)の者しかつくことのできない地位でしたが、天正十三年、関白をめぐる五摂家内部の紛争がおきます。

当時の左大臣近衛信尹が関白の職を望み、当時の関白である二条昭実と対立し、両者は内大臣であった秀吉の裁定を求めましたが、秀吉はこの機に乗じて自らが関白になる事を企てて、近衛前久の猶子となり関白に就任しました。当時公家社会では反対論が噴出し、ある記録には「前代未聞の事なり」と記されています。公家衆は百姓出身の武士である秀吉に公家の最高位である関白職を渡すまいと思っていたのではないでしょうか。公家は常に武家を蔑む傾向がありますので。しかし、秀吉は家領の加増などで公家衆を買収していきます。当時の公家は経済的に困窮していましたので。結局、秀吉は関白に就任し、それ以後、公家は秀吉に追随していくのです。
参考文献
池上裕子著『日本の歴史15織豊政権と江戸幕府』講談社
今谷明著『武家と天皇~王権をめぐる相剋』岩波新書
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この回答へのお礼

大変申し訳ございません。
うっかりしていてお礼を書くのを忘れていました。
大変失礼致しました。

秀吉は摂家同士の権力闘争に乗じて関白となったのですね。
やはり反対論が噴出していたのですね。さもありなん、ですね。

秀吉は人たらしですね。懐柔するのが実に上手いですね。

文献も挙げて頂きましてありがとうございます。

大変丁寧なご回答を頂きながら、お礼を忘れるなどあってはならない事でした。
改めまして申し訳ございませんでした。

お礼日時:2007/04/29 21:16

貴い血の威光など、かけらも尊ばない信長。


に、比べたら、ありがたい存在だと思います。
貴い血というだけで、やみくもにありがたがる、能力の高いご仁の存在は。
結果的にないがしろにした家康の存在までは、この時考えられませんから、歓迎だと思います。
心の内では、軽蔑もしたかもしれませんが、少ない選択肢の中だったら、よしとしなければならなかったでしょう。
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この回答へのお礼

確かに朝廷権威を脅かしていた信長に比べたら誰でも満足だったのかもしれないですね。
徳川時代、摂家クラスは別にして並みの堂上公家は貧乏だったようですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:10

 信長にも右大臣を与え、その後征夷大将軍、太政大臣、関白の三官のうちどれでも選べということであったので(信長は結局受けず)、秀吉が将軍ではなく関白になっても、まあしようがないというところだったと思います。


 そりゃ、陰では公家衆はいろいろ言ってたでしょうね。それでも大気で気前のいいところはあるし、逆らうわけにはいきませんから、尻尾を振った公家衆が大半であったと思います。
 ヒットラーも筋目正しき将軍連中に「あの伍長めが」と陰では蔑まれていたという話がありますので、時代や国が違ってもおなじですね。
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この回答へのお礼

ヒトラーも影では蔑まれていたのですね。
人間のやっかみ・僻み・妬みとはそんなものかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:07

朝野驚愕したそうです。


先代未聞ノ事也と多聞院日記には記載されています。

藤原前久の猶子となり、「源平藤橘」と言う、
~のと言う天皇から頂戴した氏を名乗りましたから、

一応は関白職に就く筋目は立っています。

「しかし、元は百姓」と言う反論程度なので、
逆手に取るのはたやすかったと認識しています。

筋目が通っているのにあからさまには反論は出来ません。
逆に筋目が曲がってしまいます。

但し、
元百姓であるのが分かっていて逆らえないと言う事は認識したと思います。
つまり、公家より侍。
の時代が来たと言う目の前の事実を知ったと思います。
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この回答へのお礼

近衛前久の養子(藤原姓)となった上で豊臣姓ももらっているのですね。

現代では身分を問わず総理大臣になれますが、当時の価値観では驚愕モノのことだったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:05

勝手な想像ですが・・・


その時代の公家衆はお金が無かったので、苦しい生活をしていたと思います。乱世が収まり、秀吉などの献金で生活がましになってよかったと思うでしょうが、秀吉自体に感謝はしてないんじゃないかな~
反発や裏での蔑みはあったでしょうが、時の最高権力者にはおおっぴろげに逆らえなかったと思います。
その時代の公家=したたか が私のイメージです(*^o^*)
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この回答へのお礼

乱世が収まったというのは京都の人にとっては非常に大きいことだったかもしれないですね。

私も公家衆はしたたかだと思います。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:02

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禁中並公家諸法度
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公家衆法度五ヵ条
http://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%A1%86%E6%B3%95%E5%BA%A6%E4%BA%94%E3%83%B5%E6%9D%A1



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Q今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣

今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成さ...続きを読む

Q豊臣秀吉が将軍でなく関白になった訳

豊臣秀吉が征夷大将軍でなく関白になった理由として、将軍になるため足利義昭の猶子(又は養子)になろうとして断られたので、藤原家の猶子となり関白に任官したという説をよく聞きます。(林羅山の説が初出)
(1)本当に当時の秀吉の希望があったとして、足利義昭が断れたのか?
(2)日本統一後の1590年代になると、足利義昭はお伽衆として秀吉の
 近くに召し出されてます。1588年には将軍辞任してますし、
 その時に再度申し出があれば断れないのでは?
更に、将軍は源氏でなければならないとしても、源氏は足利家だけではありません。後年徳川氏は源氏の傍流を自称して将軍になってます。
(3)当時の秀吉の実力からすれば、適当な源氏の傍流の猶子(又は養子)と
 なれば 簡単に将軍になれたのでは?
そう考えると秀吉は将軍になれるけど、関白を選んだように思えます。
関白の方が臣下最高位ですしね。

当時秀吉の意向に逆らえる人っていないと思うのです。
誰も朝鮮出兵に反対できない。どの大名も領地の移封に逆らえない。

皆さんはいかが思われますか?

Aベストアンサー

>家康も晩年は どの役職でも取得できたのかなと・・・
 晩年の家康の権力は確かに絶大ですが、寿命(死去は1616年)がもう残り少なかったのです。
 (太政大臣の就任が死去の一ヶ月前。)

 秀吉は死去(1598年)する14年前に関白に就任(1585年)していますが…。

 絶大な権力があった事を制度的に裏付ける「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」も死去する前年(1615年)に制定された訳ですし…。

 家康が自身の権力の大きさを、公に誇示できる様に成った理由は、個人的には1615年に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、建前(豊臣家は建前上は徳川家の主家)でも実質でも徳川家が最高権力者である事が確定したからだと思います。

Q豊臣秀吉に詳しぃ方。。。

豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた時の、詳しぃ情報を教えて欲しいのですが。。。

あとは、豊臣秀吉の学校で習わなぃような事も知っている人がいたら教えてくださぃ!!

「豊臣秀吉」の事だったら何でもいいのでお願いします!!

Aベストアンサー

ちょっと 筆が 飛んでましたね。

秀吉が、最終的に関白として、政権首座に立ったことに関しては、公武合体の上での政権を目指したという説や、将軍になれなかったからという説があります。

前者は、足利義満モデル(ただし、天皇位簒奪までは考えていなかったようですが)

後者は、足利義昭の養子になろうとして断られたという歴史的事実もあります。

少なくても、養子になろうとしたのですから、将軍でどうよ?という、意思はあったかと考えられます。

織田信長が武田家(東夷)を征伐した段階で、朝廷の中には、将軍職OKでないの?という、意見がでてきたので、漠然と時代の雰囲気として、東夷を征伐したら 将軍OKというのがあったのではないでしょうか?(これは、わたしの推測)

徳川家を征伐したら、その流れで東夷成功!将軍就任となったのでしょうが、実際はできなかったので、他の方法を模索した結果が 関白。
途中で、将軍といえば、頼朝・・・どんな事をやったのかを、研究させたかと推測します。

その結果、将軍にはつけなくても、頼朝の行跡をたどったのが、奥羽仕置きになった・・・と 秀吉の心中を おもんぱかるわけです。

ちょっと 筆が 飛んでましたね。

秀吉が、最終的に関白として、政権首座に立ったことに関しては、公武合体の上での政権を目指したという説や、将軍になれなかったからという説があります。

前者は、足利義満モデル(ただし、天皇位簒奪までは考えていなかったようですが)

後者は、足利義昭の養子になろうとして断られたという歴史的事実もあります。

少なくても、養子になろうとしたのですから、将軍でどうよ?という、意思はあったかと考えられます。

織田信長が武田家(東夷)を征伐した段階...続きを読む

Q秀吉が将軍にならなかった理由

天下を統一した豊臣秀吉が将軍になって幕府を開かなかったのは何故でしょうか?
よく言われる理由として、将軍は源氏しかなれないからで、秀吉は源氏どころか百姓足軽の出なのでなれなかったというのがあります。
しかしそんな理由で将軍になれないなら、関白にはなおさらなれないはずです。
関白になれる家柄は明確に決まっています。
一方将軍が源氏のみという根拠はあるのでしょうか?
鎌倉幕府の源氏将軍は三代で絶えて、その後は皇族や藤原氏を将軍に据えています。
信長は平氏と自称しているにもかかわらず、関白・太政大臣と並んで将軍への就任を打診されています。
信長が将軍就任を朝廷の方から持ちかけられているのに、信長の後継者として天下統一した秀吉がダメなのでしょうか?
天下人になった以上家系なんてどうとでもなるんじゃないでしょうか?
もう一つ、将軍より格上の関白になれるのにわざわざ将軍の座を欲しがる理由もない、という意見もあります。
しかこれもどうでしょうか?
確かに律令制の上では征夷大将軍というのはそこまで高位の職ではなく、帝の代理人である関白とは比較になりません。
しかも鎌倉幕府でも室町幕府でも将軍が実権を握っていた時期などわずかであり、ほとんどの時代でお飾りの存在だったのは事実です。
したがって将軍という地位にそれほどの魅力は無かったというのも一理あると思います。
しかしながらそうは言っても、名目的ではあっても何百年かにわたって武家の棟梁を意味する地位として認識されてきたのも事実です。
官位の上下とは違う次元で武家においては特別の意味を持つ地位ではあったのではないでしょうか?
また先にあげた通り、信長は関白・太政大臣・将軍のどれかへの就任を打診されています。
ここでこうやって並べられているという事は、将軍が関白や太政大臣と並ぶ地位という認識があったという事ではないでしょうか?
将軍がさほどの職ではないなら、ではなぜ家康は将軍を選んだのかということにもなりますし。
また仮に将軍が関白より格下の地位だとしても、だからといって将軍を全く顧みない理由にもならないと思います。
まず将軍として幕府を開いて二、三年やってから、将軍の地位は秀次なりに譲って秀吉自身は関白になるというような事も考えられそうです。
まあそう論じても結局秀吉はそう考えなかったし、そういう選択をしなかったという事が結論かもしれませんがw
秀吉が将軍を選んでいたら、豊臣政権が長続きしたわけでもないでしょうしw

天下を統一した豊臣秀吉が将軍になって幕府を開かなかったのは何故でしょうか?
よく言われる理由として、将軍は源氏しかなれないからで、秀吉は源氏どころか百姓足軽の出なのでなれなかったというのがあります。
しかしそんな理由で将軍になれないなら、関白にはなおさらなれないはずです。
関白になれる家柄は明確に決まっています。
一方将軍が源氏のみという根拠はあるのでしょうか?
鎌倉幕府の源氏将軍は三代で絶えて、その後は皇族や藤原氏を将軍に据えています。
信長は平氏と自称しているにもかかわらず...続きを読む

Aベストアンサー

朝廷の官位ってやつはかなりややっこしいところがありまして、それをまともに書けば本が一冊まるまる書けてしまいます。私もそれについてはあまり詳しくはないのですが、秀吉が関白についたというのは色々な事情が絡んでいるのは事実です。

実質的に天下人になった秀吉はその実力と資金力においては他の追随をまったく許しませんでしたが、唯一足りないのが(血統的な意味も含めての)権威でした。
で、当然しかるべき官位を求める猟官運動をしていたのですが、内大臣の地位までを得ることができました。んで、その一つ上の官位である右大臣はどうかといわれたのですが、これを断ります。理由はちょっと私もよく分かりません。信長が右大臣でしたから縁起が悪いと嫌ったとか色々いわれているようです。
しかしその秀吉の強引なまでの猟官運動が公家の間での内紛を招くことになります。

内大臣より上の官位は、上から太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣と続きますが、太政大臣は非常任官位なんだそうですので、通常は左大臣が最高官位となります。既に秀吉は内大臣であり右大臣を断ったのであとは左大臣にしかなりません。
元々左大臣は二条昭実が就いていて、関白も兼ねていました。しかし、秀吉を内大臣にしたので玉突き人事で二条昭実は関白に専任となり、左大臣は近衛信伊が就きました。ところが秀吉が左大臣となると近衛信伊の官位がなくなります。あとは関白に就くか一時的であれ降格人事となるしかないのですが、降格人事は「前例がない」と近衛信伊は強烈に抵抗し、二条昭実に関白を譲るように迫ります。しかし二条昭実も関白になったばかりなのでこれまた「そんなに早く辞めるのは前例がない」と強烈に抵抗します。そして二条昭実と近衛信伊の間で官位を巡っての争いごととなります。

生き馬の目を抜く戦国時代のサバイバル戦争を勝ち上がった秀吉はもちろん老獪な政治家でもありました。秀吉はこの二条家と近衛家の争いをまんまと利用しようとします。
官位を巡って揺れる公家衆に対し秀吉は、「だったら俺が関白になれば万事解決」とゴリ押しをします。はっきりいってメチャクチャな論理なのですが、当時から見ても800年も前の前例を引っ張り出してきたりして拡大解釈に拡大解釈を重ねてまんまと関白に就いてしまいます。

ですので元から関白にターゲットを絞ってそれを狙い撃ちしたというより、他人の争いごとにつけ込んでタナボタ式に手に入れたというのが真相に近いんじゃないかと思います。そもそも武家なのに関白ってのがおかしいといえばおかしいですからね。
そして本来であれば秀吉一代でしか就けなかった関白を豊臣家に代々継がせるために強引に秀次を関白に就けさせ、そしてそれが結局は豊臣家滅亡の一因ともなったのですから皮肉というしかありません。

家康の征夷大将軍についてはやはりその原動力となったのは謎の怪僧天海の影響が大きいみたいですが(三河武士は宮中のまつりごとに疎い人たちばかりなので)、しかし家康らしくオーソドックスな考え方に基づいているのではないかと思います。
すなわち、江戸(関東)に幕府を開くのであれば征夷大将軍が最も自然であるということです。その他の官位であれば、その政治的中心地は京都もしくはその周辺でなければなりません。政治的首都を関東の地にするのであれば征夷大将軍が最もふさわしいということになろうかと思います。

地位(官位)というものは、今も昔もしち面倒くさい様々なしきたりによって権威づけ(裏付け)がされているケースが多いです。例えば現代でもA銀行とB銀行が合併したAB銀行では頭取を旧A銀行から出したら次はB銀行から出すというようなたすき掛け人事が慣例になっているなんてのが珍しくありません。それで、旧A銀行系で不祥事が発生したので旧B銀行出身の頭取を二代連続で出そうとすると熾烈な権力争いが起きたりします。そういうもんなんですね。

朝廷の官位ってやつはかなりややっこしいところがありまして、それをまともに書けば本が一冊まるまる書けてしまいます。私もそれについてはあまり詳しくはないのですが、秀吉が関白についたというのは色々な事情が絡んでいるのは事実です。

実質的に天下人になった秀吉はその実力と資金力においては他の追随をまったく許しませんでしたが、唯一足りないのが(血統的な意味も含めての)権威でした。
で、当然しかるべき官位を求める猟官運動をしていたのですが、内大臣の地位までを得ることができました。んで、そ...続きを読む

Q豊臣秀吉

今宿題をやっているのですが「人物調べ歴史新聞」で豊臣秀吉を調べたいのです。
ぜひ豊臣秀吉のいいサイトがあれば紹介して下さい。

Aベストアンサー

宿題、ということなのでlekkaさんは小学校高学年か
中学生くらいの年齢なのでしょうか。
(はずれてたらごめんね。)

ここのホームページはどうでしょう。
画面下の「top」ボタンをおしたら一番最初のページにもどれて
もっといろいろなことがわかると思いますよ。

でも、NO1の回答の方がおっしゃるように
図書館に行ったほうがいろんな本があって探す楽しみも
増すかもしれません。
ただし、行くんだったら大きな図書館を選んだほうがいいです。
小さいところだと本自体が少なかったりしますから。。

参考URL:http://www5b.biglobe.ne.jp/~shiteki2/hideyoshi/hideyoshiden.htm

Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

Q豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供か?

豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供なんでしょうか。53歳で最初の子供が生まれたなど信じられません。あの頃の武将は子供を沢山もうけて、他の武将との政略に使うわけだったのに、若い頃に子供が出来ずに50何歳から子供がやっとできたなど、本当に豊臣秀吉の子供かと疑問に思います。秀頼など、石田光成の種なんではないでしょうか。もっとも、私は歴史音痴ですが。誰も今まで、疑問を呈していた人はいなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

淀殿はとくに秀吉が死んでからは、けっこう大っぴらに大野治長と密会していたらしく、秀頼も大野治長の子なんではないかと結構広く噂されていたそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
真ん中らへん。

Q秀吉は信長から天下を奪ったと言いますが…

よく「秀吉は信長から天下を奪い家康は秀吉から天下を奪った」と言いますが
これに違和感があります

そもそも信長は天下を統一してはいないし
本能寺で死去後 息子の信雄と信孝が対立して織田家でも領土が2つに分かれました
しかもいずれも秀吉と対立しているわけで 秀吉にとっては敵を倒して得た領土 と言うことになります
織田家から奪った のでは無く正当な領土の獲得だと思うのですが?

家康は天下統一後の秀吉から天下を奪ったので
これは正しいと思います

Aベストアンサー

信長から奪ったって認識は、私にはないんですけどねぇ。
敢えて言うなら、清洲会議でのこともありますから、
天下統一に挑戦できる、挑戦権を信長家臣から奪った、
というのはどうでしょうか?


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