哲学の課題のレポートで、
「確実な認識と不確実な認識を識別することができると思いますか」という
質問だが出されました。ヒントは、「これはイスであって、イスではない」
というものです。確実な認識と不確実な認識のことはわかったのですか、
それを識別する、ということを、どういう風に解釈するのかわかりません。
それと、識別と判断の違いも区別がつきません。
もし、何かわかった方がいれば、ちょっとのことでもいいので、
教えてください。お願いします。

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A 回答 (5件)

認識、知識の基本は意識です。



寝ぼけたり、酔っぱらったり、麻酔薬などで意識が朦朧としている人の認識は当てになりません。

そして、自分が酔っぱらったりしている時の認識が確実なのか不確実なのかをどのように判別できるのでしょうか?

それと同じことで、どんな意識状態の認識が確実とか不確実とか言えるのでしょう?

また自分の意識がどれだけ目覚めているのかをどうやって確かめるのでしょう?

言葉は言葉に過ぎませんし、出来事は出来事に過ぎません。

どんな物質も細かく見ればスカスカで、出来事として存在します。

「色即是空」なのではありませんか?

真に目覚めた意識では「我のみ在り。他皆在る事なし」となる事でしょう。
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#発言者:素人 


オブジェクトとインスタンス 
言語的識別子による取り扱いの可否
対象の性質の把握度合い 
この二つの絡み 
#一分の理ありますかね
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こんにちは。


あまり賢くないんではっきりは分からないんですが、
そのヒントからいくと、
確実な認識
 →これはイスである
  →目の前にあるこれが、いわゆる自分のよく知るあの一般的にイスと言われるところの実在の物であるが、特に別の呼び名がないためイスと呼ぶ
不確実な認識
 →イスではない
  →目の前に実際にあるこれは、いわゆる一般的にひと言で表現できるイスのひとつであるが、一般的なイスというのはそもそも概念であって実存在の名前ではないため、これをイスとは呼べない

こんな感じでどうでしょうか。。
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まず、ちょっと整理しましょう。


A. 常に確実な認識ができる。
認識って、エーカゲン。あくまで主観。Aが偽であるのは間違いない。だから
B. 不確実な認識がある。
これは確かでしょう。そして、Bを認めること自体は確実な認識である。つまり、
C. 確実な認識もある。
これも確かでしょう。逆に
D. 常に不確実な認識しかできない
という命題、このDは偽ですね。

さて、B 不確実な認識がある。C 確実な認識もある。これらがいつでも識別可能かどうかを問題にしている訳です。

真である事を真と認識して、これを「確実な認識」だと思っている。これは問題ないですね。
偽である事を真と認識して、これを「確実な認識」だと思っている。これは間違い。
真である事を真と認識して、これを「不確実な認識」だと思っている。これが間違いという訳じゃない。
偽である事を真と認識して、これを「不確実な認識」だと思っている。これが間違いという訳じゃない。

「ある認識が不確実な認識であることを識別する」ということと、「ある認識が確実な認識であることを識別する」ということ。この二つは別のことであり、対称じゃないんです。すると答は「可能」。何についても「はい、それは不確実です」って言えばよい。でも、この答えが真であるということを今や、知っている。それなのに、そのこと自体も「はい、それは不確実です」って言わなくてはならない。こういう答をするヒト(システム)を「異常」と言います。(論理学の専門用語ですよ。Pである、という事と、自分が「Pである」を信じない、ということを共に認めている、そういうシステムのことです。)

これは信念に関する論理ですので、様相論理と呼ばれる分野に含まれます。すごく深いです。ものすごく面白いです。是非勉強してみることをお勧めします。
面白くてしかも詳細な解説書として レイモンド・スマリヤン「決定不能の論理パズル」白揚社を推薦します。またmori0309さんの質問(下記URL)もご参照下さいね。

大急ぎでレポートを仕上げなくちゃいけないのだとすると、まず、認識を階層化する必要がある。物事の認識と、認識に関する認識、認識に関する認識に関する認識、.... は区別しないといけない。そういうような事を書いてみましょう。
それから、ものごとの認識については、「不確実な認識」しかできない。だからこれに限れば、答は「可能」で良い。たとえばあるものが「青い」。こういうものをblueという。またあるものは、「今は青いが、100年後に緑になる。」こういうものをglueという。一つの宝石を見せられて、「これはblueかglueか?」を問われたら、お手上げですね。こういう意味で、「不確実な認識」しかできない。(deagleさんの回答も答は「可能」ということになりませんか。)
認識に関する認識、..... については、様相論理の問題です、無矛盾で、「異常」でなく、しかも「いつでも識別可能である」(これを「完全」と言います)であるようなシステムはない、ということが知られている。
これでどうでしょう。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=25153
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 まず結論から言うと「不可能」です。


 確実な認識とは、100%完全にそのイスのことを理解したというような、絶対的な認識のことであり、(ちょっと違いますが)言ってみれば「イスのすべてを理解した」ということです。
 それに対して不確実な認識とは、もしかしたらこれはイスじゃないかもしれない、という不安の残る認識です。
 たとえば、イスからポスターが出てきたとします。そうするとこのイスは本当はイスではなく、ポスター入れだったことになります。
 確実な認識ではそのことがちゃんと分かっていますから驚きませんが、不確実な認識ではそのことが分かっていなければ驚いてしまいます。

 こう考えると分かりやすいでしょう。
 「あなたは、目の前の女性を完全に理解することができますか?」
 と考えればいいのです。
 あなたがその女性のことを「確実に認識」したか「不確実な認識」しかしていないか、ということを、あなた自身は識別(=区別)できるでしょうか?
 他人を完全に理解したかどうかなんて、分かるわけがありませんよね。

 ただ言えるのは、「おそらくその認識は完全ではないだろう」ということだけです。

 ――こんなもんでよろしいでしょうか(^_^;
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Q彼氏以外の男友達と2人で会うのはNG?

20代女性です。付き合って数カ月の彼氏(Aとします)がいます。
連絡も頻繁に取るし、休みが合えばデートもしていてうまくいっていると思います。

来月、大学の時の友達に会いに東京へ行くのですが、その時に当時付き合っていた男友達(Bとします)とも会う約束をしています。
東京へ行くことはかなり前(Aと付き合う前)から決まっていたことでした。
Bとは私が引っ越して遠距離恋愛になったために別れてしまったのですが、わだかまりもなく、今では何でも言い合える異性の友達になっています(向こうもその認識です)。
Bと会うと決めた時点では、私はまだAとは付き合っていなかったので気にもしなかったのですが、Aと付き合っている今となっては、Bと二人きりで会うのはよくないのかなぁと思い始め、相談させていただきました。
ちなみに以前たまたま話に出たことがあり、Aは付き合っている人がいるのに別の異性と2人きりで会うべきではないと言っていました。

Bとはただ会って近況などの話をするだけです。

Aのことは好きで、向こうも私のことを大事にしてくれているのが分かるので、傷つけることはしたくありません。ですが、Bのことは友達として大切にしていきたいと思っており、前々から楽しみにしていたので、その約束を無碍にするのも嫌です。

私とBは仕事の関係で知り合ったため、共通の友人もおらず複数人で会うのは難しいです。

(1)やましいことをする訳じゃないけど心配かけたくもないので、Aに黙ってBと会う

(2)Aに前もって話してからBと会う

(3)それぞれの友人を連れてきて複数人にしてBと会う
 (私とB以外は初対面なのでどうなるか分からないのがちょっと不安です)

(4)Bに会わない

どうするべきでしょうか?

20代女性です。付き合って数カ月の彼氏(Aとします)がいます。
連絡も頻繁に取るし、休みが合えばデートもしていてうまくいっていると思います。

来月、大学の時の友達に会いに東京へ行くのですが、その時に当時付き合っていた男友達(Bとします)とも会う約束をしています。
東京へ行くことはかなり前(Aと付き合う前)から決まっていたことでした。
Bとは私が引っ越して遠距離恋愛になったために別れてしまったのですが、わだかまりもなく、今では何でも言い合える異性の友達になっています(向こうもその認識...続きを読む

Aベストアンサー

私だったら「会わない」を選択肢します。

会うときは「誰かと一緒に会う」を選択します。
その選択肢が取れない時は2人きりでは会いません。


私にもBの様な存在の男友達がいました。
だから質問主さんが「会いたい」と言う気持ちは分かるのです…が

私の男友達の彼女は私と元々友達だったのですよね。
つまりBの様な男友達は居るのですが
立場的に私がBのポジションだったのですよね。

彼女であり友達の女の子は、私が男友達と付き合ってたのを知りません。
もしかしたら…の可能性もありますが、タイミング的には「知らない」可能性が高いです。

それに気がついた時、男友達で2人で会うのを一切やめました。
(皆で会うときはあります)
当時私がフリーだったのもあり、もしどこかで私と男友達が付き合ってた事を聞いたら…
しかも2人で会ってるのを知ったら…
私がその立場だったら…

絶対嫌だろうと思ったからです。
そして今は結婚し、夫に変に心配かけたく無いのもあり、共通の見知った友人でない限り男性と2人で食事には行きません。


元々は質問主さんと同じ感覚で
「やましい事するわけじゃないし、2人で会っても平気じゃーん」って思ってましたが
自分と自分の彼氏だけの問題じゃなく、男友達の彼女の気持ちを考えると…ってのが大きかったです。
やましい事してないからこそ、疑いを無くそうと。


発覚して疑われても信用させるぐらいの気合いがあるなら別ですが
やっぱ疑われる様な事をしない方をお勧めしたいです。

私だったら「会わない」を選択肢します。

会うときは「誰かと一緒に会う」を選択します。
その選択肢が取れない時は2人きりでは会いません。


私にもBの様な存在の男友達がいました。
だから質問主さんが「会いたい」と言う気持ちは分かるのです…が

私の男友達の彼女は私と元々友達だったのですよね。
つまりBの様な男友達は居るのですが
立場的に私がBのポジションだったのですよね。

彼女であり友達の女の子は、私が男友達と付き合ってたのを知りません。
もしかしたら…の可能性もありますが、タイミング的...続きを読む

Q主張、或いは表現に哲学が在ると云う時、それが何であるのかを知りたい。

週刊誌、サンデー毎日の連載コラムに五木寛之のボケない名言、と云うのがあります。
今週は、羽生結弦(はにゅうゆずる)《フイギュアスケート選手》の名言

『努力はむくわれない』・・・です。

五木寛之氏はこの言葉を取り上げて、そのタイトルに「真の努力家にのみ許される発言」とし、続けて誤解をまねきやすい発言だが、この発言の後には「しかし努力には意味がある」と云っていると付け加えています。

普通には、努力すれば報われるものであると云う考えが一般だと思うので、羽生結弦選手のこの意外な発言に対して五木寛之氏は「ここまで徹底して醒めた目を持っていることに驚かない人はいないだろう」
と述べて、冷徹な人生(報われるとは限らないと云う)を見すえた哲学である、としています。

ここに"哲学"を感じているらしい。

ここで五木寛之氏が指摘する羽生結弦選手の"哲学"に付いて、分かりやすい説明が欲しいので質問としました。
よろしくお願いいたします。

五木氏は、人生は厳しい。この若さで、それを見切る視線の強さに、あらためて驚嘆せずにはいられない。と、結んでいます。

☆ 単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線、のようなものが見えてくる事を期待しています。

週刊誌、サンデー毎日の連載コラムに五木寛之のボケない名言、と云うのがあります。
今週は、羽生結弦(はにゅうゆずる)《フイギュアスケート選手》の名言

『努力はむくわれない』・・・です。

五木寛之氏はこの言葉を取り上げて、そのタイトルに「真の努力家にのみ許される発言」とし、続けて誤解をまねきやすい発言だが、この発言の後には「しかし努力には意味がある」と云っていると付け加えています。

普通には、努力すれば報われるものであると云う考えが一般だと思うので、羽生結弦選手のこの意...続きを読む

Aベストアンサー

yy8yy8az様、はじめまして。
 あんこころ。と申します。
 当方、「教えて!goo」を利用するのは今回が初めてなものでして、何かしら失礼があるかもしれませんがご容赦願います。

 件のサンデー毎日における五木寛之氏のコラム記事に引っかかりを覚え、それについて調べておりましたところ、偶然こちらの質問ページを目に致しました。
 ご質問の意図に適うものとなるかは判りませんが、ご思索の参考になればと思い書き込ませて頂きます。

 No.3の回答者様も触れておられますが、羽生選手の発言についてもう少し詳しく具体的に書かせて頂きますと……

(1)そもそもこの「五木寛之のボケない名言」というコラムにて用いられている「努力はむくわれない」「しかし努力には意味がある」という言葉は、世間一般に出回っている範囲における「羽生結弦選手の言葉」ではありません。
 私なりに色々と調べてみましたが、少なくとも羽生選手がこれと同様の発言をしたという「原典」を見つけることは出来ませんでした。

(2)ただし、類似の発言はあります。それが、CosmoToy様も書いておられる以下の言葉です。
 「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」
 これは、2016年10月2日(日)にフジテレビ系列で放送された「Mr.サンデー×HERO'S 合体SP」という番組内で取り上げられたもので、インタビュ—映像にて羽生選手自身がフリップに書いた言葉です。
 http://dai.ly/x4vohh6
 (05:44以降のコーナーにて紹介。フリップとそれを説明する一連の言葉は動画終盤にて登場。)
 実際の番組を見ると、上記の言葉以外にも「努力の正解を見つける事が大切」など補足となる言葉が添えられており、羽生選手自身の考え方が色々と述べられています。
 今回の五木氏のコラムを紹介した羽生選手のファンサイトは数多ありますが、その中で「言葉そのものの出典」を示したものは、私が確認した限り全てこの番組での「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」という言葉をもって、五木氏の文章の原典としていました。

 つまり、
(1)五木氏のコラムは「羽生選手の名言」としながら実際には典拠不明の言葉を軸に展開されており、
(2)事情通の読み手は既知の羽生選手の発言に読み替えているものの、それらは似て非なるものである、
 ということです。

 複数のファンブログが特に推測という断りもなく断定形で書いていましたが、実際には出典が示されていない以上、五木氏が本当にこの番組を下地として文章を書いたのかは判りません。
 もしかすると又聞きや孫引きによる執筆なのかもしれませんし、TV番組だけに後から記憶を頼りに書いた結果の変化かもしれません。
 或いは、私もコアなファンも検索エンジンも知らない羽生選手の言葉を、元々フィギュアスケートがお好きだという五木氏がご存知だったという可能性もあります。
 ただ、もしも本当に「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」という言葉こそが五木氏の文章の本来の原典なのだとしたら、コラムの文章は羽生選手の本来の発言の意図を曲げていることになります。
 たとえば、CosmoToy様も言及されていますが、野球のダルビッシュ有投手のtwitterにある「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。」(2010年6月10日)という言葉などと同じく、アスリートがしばしば述べる「練習(努力)の仕方」についての指摘を、羽生選手の「努力はウソをつく。」に始まる一連の発言は含んでいると思います。
 しかし、五木氏の書いた「努力はむくわれない」「しかし努力には意味がある」という言葉では、その要素は消えてしまいます。
 動画をご覧頂ければわかりますが、本来この言葉は後輩スケーターたち(或いはもっと広範な未来のアスリートたち)に向けたメッセージであり、助言の意図を持ったものです。
 ですから、アスリートとして極めて重要な指摘であるこの点を抜いてしまったのでは、「彼の真意」や「哲学」を酌み切れていないことになるかと思われます。
 ただし、五木氏の書かれた文章が、まるっきり的外れなものだとも私は思いません。
「努力がむくわれるとは限らない現実を受け入れ、それでも努力し続ける信念と精神力を持つ。」
 五木氏の指摘されたことも、羽生選手の一連の言葉が持つ意味の一側面には違いないと感じるからです。
 あくまでも五木氏が羽生選手の言葉や在り方から汲み取ったものを綴った文章だと思って読めば、充分に含蓄に富んだ読み応えのあるコラムだと思います。
 もしも五木氏の文章というフィルターを通さない、生の羽生選手自身の考えや哲学といったものに興味をお持ちでしたら、お時間のある時に出典(であろうと思われる)動画を直接ご覧になることをお勧め致します。
 ただし、この番組もまた、羽生選手の言葉や彼に関する事実関係を、少しずつ変えたり伏せたりするという編集を行っているものではあります。
 自分自身がある程度詳しい分野についての報道を見ていると、しばしば情報が伏せられたり片寄せられたりしていることに気付かされます。
 世の中に情報は溢れていますが、それらは常に誰かの視点というフィルターを通った後のものであるということを意識しておかないと、気付かぬ内に見えなくなってしまっている部分もあるのだと実感させられます。

 最後になりますが、質問主様の仰る「単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線」についての私見を述べさせて頂きます。
 私は「考え」と「哲学」の差は「矛盾するものを同時に持ち得るか」ということではないかと思います。
 単なる「考え」であれば「Aである」「Aではない」「Bである」「AでもBでもある」といった相反していたり食い違っていたりするものを同時に己の内に持つことが出来ます。
 一つの事象や命題に対し、一人の人間が幾つもの意見や視点(=考え)を持ち得る、と言い換えても良いかもしれません。
 究極、自分自身の本来の意見とは正反対のものであっても、そういう「考え」を持つことは出来ます。
 そして、その「考え」は必ずしもその持ち主の言動にまでは反映されません。
 対して、ここで言う「哲学」とは自らの経験に則って培われた人生観であり、否応なく常に自身の言動へとフィードバックされていく、より本質的・根源的なものだと思います。
 謂わば「生き方・生き様」そのものであり、これに矛盾を抱えることは大きな葛藤を伴い、ときに不可能ですらあります。
 五木寛之氏は元々フィギュアスケートを好んでいらっしゃる方らしいですので、羽生選手の言葉から汲み取ったものに普段から見ているその生き様に通じるものを見出され、「考え」ではなく「哲学」と書かれたのではないでしょうか。
 何だか小難しい言い回しでまとまりが悪くなってしまいましたが、個人的には他の回答者様や質問主様ご自身のご意見とも近いところのある答えかと思います。

 以上、ご質問の件に対し、思うところを述べさせて頂きました。
 長文乱文となってしまい、大変失礼致しました。

yy8yy8az様、はじめまして。
 あんこころ。と申します。
 当方、「教えて!goo」を利用するのは今回が初めてなものでして、何かしら失礼があるかもしれませんがご容赦願います。

 件のサンデー毎日における五木寛之氏のコラム記事に引っかかりを覚え、それについて調べておりましたところ、偶然こちらの質問ページを目に致しました。
 ご質問の意図に適うものとなるかは判りませんが、ご思索の参考になればと思い書き込ませて頂きます。

 No.3の回答者様も触れておられますが、羽生選手の発言についてもう...続きを読む

Q男友達と会うことを、彼氏に報告するべきか

付き合って1か月の彼氏がいます。

先日、5か月ぶりに男友達(A君)から連絡があり、今月暇な日があれば遊びに行かないか?と言われました。
最近彼氏が出来たので、丸1日2人で遊ぶのはちょっと気が引ける。夕方お茶に行く程度なら…ということでOKをしました。

A君は趣味がきっかけで5年ほど前に知り合いました。
男友達の中では仲がいい方で、知り合った当初は月に1回ペースで遊んでいました(遊ぶと言ってもデートではなく、一緒に趣味のことをする…という感じです)
A君は2年前に結婚・昨年子供も生まれており、それを機に会うペースは落ちましたが、たまに近況報告がてらに連絡を取ったり、仕事帰りにちょっと会うなどしていました。
その様子は都度SNSなどでUPしていたので、彼氏も「仲のいい男友達がいる(いた)」という認識はおそらく持っていると思います。

この状況で、彼にA君と会うことを伝えたほうがいいのか、隠しておいた方がいいのか悩んでいます。
正直に言えば、私は彼に女友達に会ってほしくはありません。(仲のいい女友達いるのかどうかは知りません)
であれば、私もA君に会うのをやめるべきでしょうか。
彼の信頼を失うのであれば、A君に会わなくとも構いません。
ただ久しぶりのお誘いでA君の近況も聞きたいし、私も彼の話をしたい気持ちもあります。

1.彼に話をしてA君に会う
2.彼に話をせずA君に会う
3.A君に会うのをやめる
4.ほかの友達も誘う

上記の4通りかなと思うのですが、皆様のご意見をお聞かせ下さい。
4.が一番いいかなと思うのですが、今のところ都合の付きそうな友人がいなそうです…。
他に何かいい案があれば教えてください。

付き合って1か月の彼氏がいます。

先日、5か月ぶりに男友達(A君)から連絡があり、今月暇な日があれば遊びに行かないか?と言われました。
最近彼氏が出来たので、丸1日2人で遊ぶのはちょっと気が引ける。夕方お茶に行く程度なら…ということでOKをしました。

A君は趣味がきっかけで5年ほど前に知り合いました。
男友達の中では仲がいい方で、知り合った当初は月に1回ペースで遊んでいました(遊ぶと言ってもデートではなく、一緒に趣味のことをする…という感じです)
A君は2年前に結婚・昨年子供も生まれて...続きを読む

Aベストアンサー

会わないのが無難では?
そこまでして会おうとする理由もよくわかりません。近況ならLINEなりでも聞けますし。
どうしても会うなら伝えるべきでしょう。

彼氏から、「女友達と久々に会ってくる、色々話したいこともあるし」と言われたらどう感じますか?
多少なりとも不快さを感じたのならそれを彼氏も同じように感じると思いますよ

Q哲学・認識・区別

例えば、
机の部分しか見ていないのに、「これは机である」と机の全体に関わる判断を下せるのはなぜでしょうか??

私は、哲学的知識は全くありませんが、こういった話はおそらく我々人間の認識的な問題であると思います。

どんなことでも構いませんのでどなたか論じて下さい。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

実は哲学的にも生理学的にも未だ明快には解明されていません。

机でも何でもそうですが、ものというのは常にある視点からの部分しか観察できないわけですから実際に全体を知ろうとするとその対象の周りをぐるぐると回らざるを得なくなります。
しかしそんなことをするまでもなく一瞬にして我々は机なり林檎を認識するわけですが、これを知覚の換喩的構成と呼びます。カントの述語では構想力と言います。

話は少々難しくなりますが以下のURLをご参照ください。

参考URL:http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/imagination2.html

Qネットで知り合った人と「会う」という意味は…?

私は40代後半の既婚女性で海外に住んでいます。
海外版のQ&Aでメールを交わしている独身男性(日本に住むフリーランスのライター)と行き違いが生じました。 どなたか聞いてください。

先方は時事ニュースを扱うライターということもあり、これまでのメールも、雑談以外には主に私が住んだ国の情報や経済の話題などが中心だったのですが、先日私が日本へ一時帰国する話題が出たとき、「私と会ってみたいですか?」と聞いてみました。 
これは「誘う」言葉なのでしょうか?

ネットで出会った人と実際に会うことが全く無い私としてみれば、「会う」ことは、”実際のイメージはどうなのだろう?”という単なる好奇心と、メールで交わした内容をまた会って話してみようか、と「お茶でも飲む」軽い気持ちでした。 要するに「二人のオフ会」といった認識でした。
ところが、彼は「会いたいとは思いつつ、旦那さんが気にしないか」のようなことを言ってきたので、妙に感じ、「外国人の夫は私がたまに帰る日本で男性と会ったところで別に気にはしない」と言うと「じゃあ食事はどうですか? 何を食べたいですか?」 と聞かれ、ちょっと戸惑いました。

私は欧州や北米に暮らし、こちらは男女に関係がオープンでリベラルなので、日常的にも夫以外の男性とHug(挨拶としての抱擁)もありますし、夫以外の車の助手席にも座ります。 しかし、男女が二人で食事をとるのはやはり夫婦か恋人同士でない限りしないものです。 

そういった説明をした後も、「会うこと」を巡り、収拾がつかなくなってしまいました。
「初めて会う男性と食事はしない」 という私の考えに対し、「そんな考え方は初めて聞いた。 会うというはたいていは食事も含む」等と主張し、その挙句に既婚者の私が「(男を)誘った」などと言われ、非常にショックを受けました。

これまでにも彼は(おそらくはネット上で)何人かの既婚女性に「誘われ、断っても食い下がられた」そうで、過敏になっていると説明されましたが、勿論私は「誘った」つもりもありません。 何だかバカバカしくなり、会うのは勿論メールするのも止めたくなりました。

彼の本当の年齢は知らないのですが、30代であるそうです。 
こんなことで「過敏」になるとは、女性経験の薄い男性のように感じてしまう私ですが…。

私は40代後半の既婚女性で海外に住んでいます。
海外版のQ&Aでメールを交わしている独身男性(日本に住むフリーランスのライター)と行き違いが生じました。 どなたか聞いてください。

先方は時事ニュースを扱うライターということもあり、これまでのメールも、雑談以外には主に私が住んだ国の情報や経済の話題などが中心だったのですが、先日私が日本へ一時帰国する話題が出たとき、「私と会ってみたいですか?」と聞いてみました。 
これは「誘う」言葉なのでしょうか?

ネットで出会った人と実際に会うこと...続きを読む

Aベストアンサー

おばさんです。


今までのメールのやり取りを思えば、いきなり誘った、誘わないというのもおかしな話…。

単純な思い違いによるボタンの掛け違いではないでしょうか?

順を追って書かせてもらいます。

私の場合も男の人と会う事に対して主人も信頼を置いてくれているので、貴女と同じように軽い気持ちで会いたいと伝えます。

相手の人から<旦那さんが気にしないか>と聞いてくれば、気遣いが出来る人なんだと、嬉しく思います。

ただ、次の食事誘いに関しては、私にとっては当たり前の流れなのですが…。

。。。。。。。。。。

>「そんな考え方は初めて聞いた。 会うというはたいていは食事も含む」

…女性の私でもそう答えます。

私でも貴女の書き込みを読んで初めはピンとはきませんでした…。

日本では食事は特に抵抗はありませんので、何を言っているのか、少し時間を要しました。

そして2,3度読んでから、初めて<へぇ~、そうなんだ~>と解った位です。
。。。。。。。。。。

そこで思ったのですが、そこでの貴女の説明は彼に<適切>に伝わっていたのでしょうか…。

貴女にとって食事を誘われた事からくる<先入観>で、もしかしたら<下心を持っているんでしょ>と彼に間違えて伝わってしまった可能性があるのではないでしょうか。

そうなると、彼としては食事に当たり前のように誘っただけなのに、<下心を持った男>と思われたと思い込み、自分のプライドをかけて意地で応戦してきた。

お互いに相手から<下心>があると見られた事が許せなくて、反論しているうちにどんどん自分が伝えたい事からずれていき、相手の中傷へと向かってしまった様な気がします。

お互いにいい年をした分別のある大人同士が、<誘った、誘われた>は、無いと思いますよ。

やはり、<。。。。。>の部分でのお互いの取り違いだと思いますが…。

こんなことで、<女性経験の薄い男性>と思われてしまう彼も可哀想な気がしますし、<欲求不満(?)>と取られた貴女のショックも解ります。

まぁ、勘違いからくるくだらない(失礼!)大人の口げんかの類だと思いますよ。

実際、貴女も事の運びに<違和感>を感じたからこそ、質問をしたくなったのではありませんか?

おばさんです。


今までのメールのやり取りを思えば、いきなり誘った、誘わないというのもおかしな話…。

単純な思い違いによるボタンの掛け違いではないでしょうか?

順を追って書かせてもらいます。

私の場合も男の人と会う事に対して主人も信頼を置いてくれているので、貴女と同じように軽い気持ちで会いたいと伝えます。

相手の人から<旦那さんが気にしないか>と聞いてくれば、気遣いが出来る人なんだと、嬉しく思います。

ただ、次の食事誘いに関しては、私にとっては当たり前の流れなのですが…。

。...続きを読む

Q猿と人を区別する理由の中で、人は死者を弔うことができるからという話を何度か聞くことがあります。では、

猿と人を区別する理由の中で、人は死者を弔うことができるからという話を何度か聞くことがあります。では、何故人という生き物は死者を弔うようになり、また弔えるのでしょうか?

Aベストアンサー

脳科学的には、前頭葉が発達しているからです。

ま、それはおいといて。

人間は社会的動物です。
社会で育たない人間は二足歩行すらままなり
ません。

人間は独りでは非力ですが、集団化すれば
神も驚く力を発揮します。

このように、人間と社会は切っても切れない
密接な関係にあります。

その社会を維持、発展させるために、仲間を
大切にする、その一環として仲間の死を
弔う、という心情や行為が必要だからです。

Q「会う時」と「会った時」の違いは?

いつも皆様にはお世話になっております。

今回の質問は、(1)「会う時」と(2)「会った時」の違いについてです。例えば、(1)は「人に会う時は挨拶をしなさい。」、(2)は「人に会った時は挨拶をしなさい。」という文を作ります。私の推測では、(2)は人に会う瞬間を指し、(1)では、人に会う瞬間を含めた「会う」という行為全般を表しているように思われます。

このような推測をたてましたが、これが正しいのかよく分かりません。もしよろしければ皆様のお力をお借りできれば幸いです。宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

(1)会う時は→会う時には、会う場合は、会う折は、会う際は、会う機会では…など、形式名詞として用いられてそのようにする場合、といった意味が強まっており、後文に対して接続助詞的働きも含まれている。
1.会いに行く
訪問・面接など、人に会う際には…まず最初に挨拶をしなさい。
2.人と待ち合わせる
逢引・逢瀬・待ち合わせなど、人と逢う折には…挨拶は欠かさずに。

(2)遇った時は→然るべきチャンス、または偶発的な邂逅を仮定的に条件付けしている。
1.期せずして出会う
回り逢い・来合わせなど、出会う機会が実現した時には…まず挨拶を忘れずに。
2.ばったり遇う
鉢合わせ・奇遇・遭遇など、図らずも遇ったならば…あわてずにまず挨拶を。

Q中国の哲学者、哲学書教えてください

そのまんまです。

西洋哲学はいろいろ名前が出てきますがなかなか中国のは出てきません。
代表的な人物、書籍をお教え下さい

Aベストアンサー

哲学と言うより思想書ですが、有名どころでは

論語、孟子....儒教思想の古典。
大学.....修己治人の学と言われる儒教の政治思想の教育理念をまとめたもの。
老子、荘子....老荘と言われる道家思想の古典。
孫子.....軍事学の視点を思想まで高めた古典。
韓非子....法家思想の代表的な古典。
墨子.....兼愛、非攻を唱えた墨家思想の古典。

 読んでおもしろいのは、韓非子、論語、老子でしょうか。孫子は前半はかなり思想的ですが、後半は軍事技術論です。荘子はかなり難解。読まれる場合、余りクドクドと解説めいたことを書いた本は避けたほうが良いです。単なる解説者の人生訓を述べただけになっている本が多い。原漢文をそのまま読むのが一番のお勧めですが.....

 西洋的な意味での哲学と言う意味では論衡あたりが近いかもしれません。いずれにせよ東洋思想の産物で、西洋的な哲学とは違ったものと考えた方が良いでしょうね。

Q25日に出会い系で知り合った男性と、明日28日に会うのって早い??

9月25日日曜日に知り合った男性と明日会うかもしれません。

2、3回メールしただけなのに、会うのって早くないですか?

出会い系で知り合った人と会うのは初めてだし、その人のことも全然知らないのにもう会うのはちょっと抵抗を感じたりもしています。

これって、会っても大丈夫でしょうか?

Aベストアンサー

>これって、会っても大丈夫でしょうか?

mimiko000さんの気持ち次第ですねよ。

でも、抵抗を感じながらも心のどこかで合いたいから、合う約束を
したのでしょう。

合いたいというのがmimiko000さんの自然な感覚なのですから、
ここは合いにいけばいいと思います。

但し、相手の様子見はしてもいいかと思います。
こちらからは待ち合わせ場所が見え相手には見えない場所で、相手を見て
直感的に「やばそう」と思ったら、そのままスルーしましょう。

また、待ち合わせ場所はなるべくにぎやかな場所を指定し、合ってからも
人通りの多い店や場所にいきましょう。

静かなところや人通りの少ないところへ行くのは早すぎです。

(確率低いかもしれないけど)楽しい出会いができるといいですね。

Q価値の哲学 価値考量(カント哲学の関係で)

いつもお世話になります。
カントの哲学を理解しているわけでは有りませんし、カントは「価値・所有・交換」といった概念には関心が無いようですが、私なりに考えてみると、非常に困った問題が有ることに気がつきました。

価値考量 価値を量的に考える事ですが、

私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

それとも、例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?

Aベストアンサー

ご質問はこの間から気になっていました。

>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
Aに価値がある、というのは、絶対的な概念としてはありえません。
つねにBにとって、あるいは、Cに対して、という、関係としての概念として立ち現れてくるもの、と考えることができると思います。
となると、こうしたことは経験的認識の範疇である、と考えられるのではないでしょうか。
カントの扱う「先天的総合判断」の範疇にはないような気がします。

それに対して前半の「量」「質」「関係」「様相」というのは、「カテゴリー」のことを、「時間」(そして「空間」)は、人間の感性に与えられた「直観」のことを言っておられるのだと思いますが、こうしたことによって下される判断、というのは、先天的総合判断と呼ばれるものです。
先天的、というのは、字義通り、生まれる前から、経験とは無関係に、人間に普遍的に与えられている能力のことです。経験から得られるものではありません。

いまひとつ質問者さんがどういった意味で価値、あるいは比較考量ということばを使っておられるのか、おそらく経済学との関係があるのではないか、と想像するのですが、私にはわかりません。
上で「価値」について考えることは経験的認識ではないか、と書きましたが、質問者さんの問題意識とはずれているような気がします。
ということで、「先天的総合判断」についてのごく一般的な回答となってしまいます。質問者さんの問題意識とはかみ合っていないと思うのですが、どうかご容赦ください。

カントは、経験論者ヒュームのあとを受けて、あらゆる認識は経験と共に始まる、とします。
けれども私たちの認識がすべて経験的なものであったら、決して普遍的・必然的認識(誰がいつどこでどのように考えたとしてもかならずたどり着ける真理)には到達できないだろう、と考えます。
経験によって知ることができるものを積み重ねただけでは、その外にあるものが正しいかどうか知ることはできないからです(だからその部分に関して、ヒュームは「考えないこと」にします)。

経験したことのないことがらについて、判断できるのはなぜか。
あるいはまた数学の命題、たとえば「直線は2点間の最短距離である」が真である、といえるのはなぜか。
それは、私たちのうちに先天的な認識形式が存在するからだ。

それでは、なぜこの認識形式が客観性を持っている、といえるのでしょうか。
ここでカントは、認識の対象に目を向けます。

対象というものは、私たちから独立した存在ではない。
対象は、私たちの主観の先天的形式が構成したものである。

それまで認識というものは、あくまでも対象が中心でした。
対象は、私たちとは独立に、客観的に存在していることが前提だったわけです。
カントはそれをひっくり返して見せた。
私たちが「対象」として認識できるのは、私たちの主観が、そのものを対象として取り上げ、意識の俎上にのぼらせているからだ、と。

私たちの認識は感性によって、対象の直観が与えられる。
それを悟性が思惟することによって、認識が成り立つ、とカントは考えます。
こうした判断は「先天的総合判断」であって、単に「わたし」のみが主観的に下した判断ではなく、普遍的・必然的な判断であり、あらゆる学問の基礎となるべきものである。
と、これがカントのいう「先天的総合判断」です。

>例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?
そういうことです。

ただ、今日から考えると、煩雑でいささか無理のある先験的判断のプロセスを理解する必要はないと思います。
むしろ大切なのは、「対象」というのは、私たちの主観が取り上げたものである、というカントのコペルニクス的転回ではないのでしょうか。

ご質問はこの間から気になっていました。

>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
Aに価値がある、というのは、絶対的な概念としてはありえません。
つねにBにとって、あるいは、Cに対して、という、関係としての概念として立ち現れて...続きを読む


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