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ソクラテスは、
「真の知あれば徳、すなわち正しい行為に
導かれる」
としているが、何かしらの知識に関して
正と不正の知にもとづいて、意図的誤用の可能性は
否定できないのではないかと思いますが、
これについてどう思われますか?

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A 回答 (8件)

●もし ソクラテスの言うことが「真」であるとするならば


 意図的に不正を選択する者は まだ「真の知」を得ていないことに
 なると思います。真の知を得た者などこの世にどれほど居るのでしょう?
 ヒトラーの虐殺行為は 本人とて苦渋の選択であったはずで
 多くの繰り返される虐殺や戦争や殺人をことごとく回避できる「真の知」とは
 いったいどのようなものなのでしょうか?
 聖人とか偉人とかいわれる人々と狂人とか虐殺者とか独裁者とか言われる人々と
 どれほどのちがいがあるのでしょうか?
 人生とは正にその人にまつわるものであって どんな悪人でも
 生まれながらの悪人はどこにも居ないはずです。ソクラテスのこの言葉は
 わたしには↑このことに思えてなりません・・・。
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わたしの頭が悪いためか、率直に言いまして、何を尋ねておられるのか、よく分からないのです。ソークラテースの言葉とされる:

>「真の知あれば徳、すなわち正しい行為に導かれる」

とは何を言っているのかは分かるように思うのですが、その後の質問の

>何かしらの知識に関して
>正と不正の知にもとづいて、(一般の人の)意図的誤用の可能性は
>否定できないのではないかと思いますが

これは何を言っておられるのか、よく分からないのです。「正と不正の知」とは何か分かりませんし、「意図的誤用」もよく分かりません。「誤用」というのは、こうだと勘違いして・思い込んで使うことで、「意図的」となると、それは誤用ではなく、「作為的歪曲」と言います。(または「意図的濫用」でも近いです)。

しかし、質問されたいことは、「真の知」を得ても、これを歪曲濫用して、不正に使う者もいる可能性があるのではないか?という意味だと取ります。

これについて、ソークラテースが言っている「真の知」というのは、エピステーメーか、ソピアーか、何か分かりませんが、ラテン語でいう「技術的知識」とも言える「スキエンティア scientia」ではないということです。

スキエンティアは、利用するための知識であり情報であるのです。従って、スキエンティアを得ても、「徳(アレテー)」に人は導かれる訳ではありません。スキエンティアイ scientiae を蓄積して、自己を「知者(ソポス)」という人は、「徳のない人」です。

そのような人の「知」とは、「臆見(ドクサ)」と言います。プラトーンの言葉では、「真知(エピステーメー)」に対立します。思いこみの臆見知識なら、幾らでも濫用も歪曲もできます。それぐらいは、最大のソピステースであるソークラテースにとって自明であったでしょう。

……政治家や有力者は嘘を付き、己の利をはかり、民衆は臆見や感情やデーマゴーゴスたちに惑わされて、正義と不正の区別も付かない。「若者」には「知」や「徳」を教えねばならない……

「真の知」を身につけた人を、「徳ある人」というのです。徳ある人も、時に間違いを犯すでしょうが、それは意図して、作為的に事実などを歪曲するのではありませんし、不正のために、知識を歪曲利用するのでもありません。そういう卑しい行為をする人間は「徳がない人」です。

「徳(アレテー)」を身に付けた人でも、ときに、誘惑に負け、意図的な不正を働くこともあるかも知れません。しかし、その場合、「徳の道から外れた行いであった」という糾弾が共同体からも、その人自身のうちなる声からも響くでしょう。

「自分は未熟であった。徳の道を厳しく精進して、今後は守ろう」と決意すれば、徳の道に再び戻ったことになるでしょう。そんなことが何度もあるようでは、「徳ある人」とは、もはや呼べなくなるでしょうが、人間は神ではありませんから、間違いを犯すこともあり、それを改めることのできることも、「智者・徳ある者」の資格でしょう。

「真の知」を知るとは、「徳を知ること、徳を会得すること」であり、「徳を知る人・徳のある人」は、その行いは「正しい」のです。なぜなら、古典ギリシア・ポリス共同体で、「正しい行いをする人」を「徳ある人」と呼ぶからです。

健全な正義なる市民は少数であるがおり、それらは「徳ある人たち」であるが、しかし、「真の徳」を備えることは、一層に難しい。完全な徳を得るには、「真の知」を知らねばならない。「真の知」を知れば、おのずと「徳の人」となり、その行いは、正義である。

ここで、質問者の質問の答えは、「否定される」となります。「徳」や「真の知」や「正義」の意味が、よく分かっていないので、そういう疑問が起こるのだと思います。無論、わたしが「真の知」を持ち、「徳」を持つというのではなく、「真の知」「徳」「正義」とは、何を指しているのか、(或る程度)知っていると(思うと)いうことです。

それはだから非常に会得したり、身に付けることの難しいものなのです。「徳(アレテー)」の概念が、儒教の言う「徳」とは全然違うものなので、比較しにくいのですが、孔子が晩年に至り、善悪判断をせずとも、自然に振る舞えば,それが即ち、善あるいは徳ある行いとなっていると言ったような人格の円熟をいうのでしょう。

現実に「徳ある人」となり、「真の知」を得ることは難しく不可能なことかも知れません。しかし、それを「理想」と仰ぎ唱えると言うのは、ありえるのです(ソークラテースは、実際に「徳ある人」はいると考えていたと思いますが)。

ギリシア哲学の用語(これも元々ギリシア語の日常語ですが)の意味を把握しないで、色々と考えても、仕方ないような気もします。

日本語、徳に儒教的な伝統の上での「徳のある人」と、ソークラテースや古典ギリシアの市民が考えた「徳(アレテー)のある人」は、大分意味が違うのです。
 
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意図的誤用をするためには真の知をつかむことが必要ですが、実際真の知ってなんですかねえ。

宮沢賢治に「本当に賢いかどうかは永遠にわかりません。」のような部分(虔十公園林だったかと)がありますが真の知を知るものこそ本当に賢い者で、賢いかどうか分からないのはそれを見る私たちが真の知をつかんでいないからに他ならないのではないでしょうか。
この命題の逆は真なのか。結果論で正しい行為なら真の知といえるのか。宮沢賢治の言葉はこのことへの懐疑のような気がしてなりません。
意図的誤用はつまるところ真の知へたどり着かないままに釈迦の手のひらでとどまっているようなものではないかと考えます。
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ソクラテスの「知は徳なり」の前提は「悪いことと知っていてそれを行う者はいない」ということです。

従って、悪をなすのは無知だからであり、知ってなお悪を行うはずはないのです。

この前提に立てば意図的誤用などありえません。
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私なりの見解ですが、



>「真の知あれば徳、すなわち正しい行為に導かれる」

ここで「真の知」というところがポイントですね。
ある知識が真であれば正しい結果に導かれるし、
間違っていれば間違った結果になるということでは
ないでしょうか。

ゆえに、対象となる知識が真か偽かを判断すること
が重要な問題となってきます。
しかし、知識を判断するのは人間であり、ある知識や
情報の真偽をきちんと見分けるには、それなりに賢く、
また私利私欲に流されないような高潔な人格が必要です。

けれども現実の(日本の)世の中では、年功序列の慣行、
あるいは能力よりもカネヅルで議員が選ばれる状態にあ
り、有能で賢い人物が世に出にくいため、現実の政治は
皆さん知ってのとうりです。
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ソクラテス自身の信念の強さは、神託の後ろ盾があってのことですから、一般の人間とは少し様相が異なると思います。



洋の東西などで事情は変わりますが、後ろ盾のない人間が自身の存在の確かさや、真理の所在を求め続ける哲学の歴史などがあって、「真の知」自体が難しい問題を孕んでいるのだと言えるからです。
まして人は哲学的解などなくとも、日々日常的な判断を下しながら生活しているのであって、全てとはいいませんが政治経済などはその代表例で、知識のビジョンなき意図的誤用の濫用とも見えます。
ですから正と不正の知に基づく知識の意図的誤用は、ソフィストの時代ばかりでなく今の世も日常茶飯事と見たほうが、世の中を捉える上で有用だと考えます。
そのような海で泳ぐ我々にとって、ソクラテスの託言が逆に重みを持つのはこの点にあると思います。
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「意図的誤用の可能性」についてですが、誰に関して問うているのかで、答えのニュアンスが変わるように思います。


その主体を「ソクラテス」「回答者自身」「人間一般」のどれとするかで戸惑ってしまうので、補足をお願いします。

この回答への補足

すみません、人間一般です。

補足日時:2002/05/17 01:15
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回答というより、視点を変えての疑問ですが。



ソクラテスの言う「知」が知識ではなくて、知恵だとしたら?

知識に関しては、論語に以下の文節があります。
「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」
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Qソクラテスの『善く生きる』

ソクラテスの『善く生きる』という言葉の意味をできるだけ簡潔にまとめたいのですが、どのようにしたらよいでしょうか。私は専門が理学系なので哲学は未履修です。高校の倫理の教科書を借りて読んでみてはいるのですが、いまいち内容に合点がいきません。

Aベストアンサー

ソクラテスの『善く生きる』ですか。
ソクラテスやプラトンが用いる「善く」という意味がわからないと答えようがないですね。
かれらの意味する「善く」というのは単なる道徳や慣例・知識ではないのですね。神の目から見て「正しいこと」を「善く」といっているのですね。
ソクラテスの時代も現代も同じですよ。殆どの慣例や知識が神の目から見て「正しいこと」ではないので、『善く生きる』ということは「ラクダが針の穴を通るほど」難しいことですね。
とはいえ、回答としては「あなたの良心に従い生きること」が『善く生きる』に一番近いと思いますよ。
知識や道徳ではなく「良心」というのがみそですね。
とはいえ何か例がいりますかね。例えば、葬式の後の塩なんかは慣例ですが、だれが始めたのかも不明、効果も不明、単なる迷信ですが多くの人が信じて実行していますね。正しくないのでこんなのまねても『善く生きる』にはならないということですね。多くの知識や道徳・慣例などもあなたの良心に従い見直しながら生きるということですね。

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む

Qソフィスト

ソフィストの思想史的意義と問題点についてよくわからないので説明お願いします。

Aベストアンサー

補足します。
ソフィストの思想史的意義について述べる前に、ソクラテスの思想について。
ソクラテスは、まずいわゆるソフィストたちの不可知論に対して、確かに知らないことは知らないとした。(「無知の知」)ただし、こうして知らないとしたことによって、実は知っていることもあるとした。つまり、知らない知らないだけしか言わないソフィストに対して、道徳的に正しいようなことは衆人一致するはずだとした。(これ自体、本当は古代ギリシアの習俗を抜けていない気がしますが。)ともあれ、不可知論で何も知ることができないという思考法(減点法)から、知らないことも多いけれど知ることのできるものをあげていこうとする思考法(加点法)に転換したことが、何よりも大きいと考えます。この流れは、アリストテレスの自然学への展開を経て、カントの純粋理性批判までつづき、現代まで連なる西洋的科学思想を形成していると同時に、道徳の先生プラトンの流れを汲む神学(キリスト教)の発展を促した、正に西洋というものを形成している根幹であるといえるでしょう。
というわけで、ソフィストの思想史的意義と問題点は、知らない知らないしか言わなかったことによって、いいのか悪いのかは置いといて、現代社会を形作るいわゆる西洋思想を作ってしまうことになった点です。
個人的には、現代科学を含み西洋思想自体、嘘を嘘で塗り固めた嘘っぱちの重ね塗りのような気がしますが、果たしてソフィストの考え方のままだったら、現代の生産的な活動は皆無だったかもしれません。そう考えると、このソフィストからソクラテスへの流れは、人間の歴史の進展する大きな転換点だったのではないでしょうか、と私は考えます。

補足します。
ソフィストの思想史的意義について述べる前に、ソクラテスの思想について。
ソクラテスは、まずいわゆるソフィストたちの不可知論に対して、確かに知らないことは知らないとした。(「無知の知」)ただし、こうして知らないとしたことによって、実は知っていることもあるとした。つまり、知らない知らないだけしか言わないソフィストに対して、道徳的に正しいようなことは衆人一致するはずだとした。(これ自体、本当は古代ギリシアの習俗を抜けていない気がしますが。)ともあれ、不可知論で何も...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q評価基準と評価規準のちがいを教えてください。

 最近、評価基準と評価規準という言葉を目にします。
本を読んでも分かったような分からないような・・・
 素人でも分かるように例をあげて、具体的に説明していただけるとありがたいのですが。
 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

何かを評価する場合には「ものさし」が必要です。
評価規準(俗に「ノリジュン」と呼ばれます)というのは、ものさしの種類だと思ってください。
一方、評価基準(俗に「モトジュン」と呼ばれます)は、ものさしの目盛りです。

たとえば、「パソコンの授業」というのがあったとして、その授業の目標がいくつか決められます。
「キーボードの操作を覚える」「ワープロが使えるようになる」「メールが使えるようになる」等々で、さらにワープロの操作は「文字を打ち込む」「カット&ペーストが使える」「文字飾りができる」「マクロが使える」のように細分化し、いくつもの評価観点を作る、これが「規準(ノリジュン)」です。

これに対し、それぞれの「規準」をどれだけ達成したかを測るのが「基準(モトジュン)」です。「文字を打ち込む」というものさし(規準)に対し、それが1分間に50字か、100字か、という「目盛り」を与えるのが「基準」です。

したがってこの場合、成績というのは、一つの教科であっても、○○の観点からは5,△△の観点からは3、といった調子でつけられます。つまり、観点を与えるものが規準、数字をはじき出すものが基準ということです。

何かを評価する場合には「ものさし」が必要です。
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一方、評価基準(俗に「モトジュン」と呼ばれます)は、ものさしの目盛りです。

たとえば、「パソコンの授業」というのがあったとして、その授業の目標がいくつか決められます。
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