No.7ベストアンサー
- 回答日時:
信長というとうつけと桶狭間の戦いがワンセットのようになっていますが
実際には信長は桶狭間以前にも多くの実戦経験があり「いくさ上手」は
家臣達にも認められていました。
1553 三ノ山赤塚合戦 今川方に通じた鳴海城主山口親子の謀反
萱津合戦 清洲織田家の重臣酒井大膳を撃破
1554 村木城、寺本城(今川方)攻略
1555 清洲城攻略
1556 稲生合戦 信行派の柴田勝家、林秀貞を撃破
信広の謀反
1557 柴田勝家の密告により信行誅殺
1558 浮野の戦い 織田信賢を撃破
岩倉城攻略 尾張統一
信長というと尾張の戦国大名の嫡男というイメージですが
尾張は下郡が信長領で上郡は本家筋にあたる織田家が治めていました。
で、その上に守護として斯波氏が存在していました。なので、
元々、信長は四面楚歌状態を謀略、合戦でなんとかしのいでいたんです。
特に1556年に後見人の斉藤道三が戦死したときの信長の状態は
斉藤義龍と手を結んだ尾張上四郡の主織田信安(信賢の父)から攻撃され
地元の尾張下四郡も知多郡は山口親子が再び今川方へ寝返り、河内郡は
豪族の服部左京に押領され、残りのニ郡内にも信行派に押領され
城内で保護している守護斯波義銀は三河守護の吉良義昭と不穏な動きを見せ、
窮地の度合いでいったら桶狭間なんかよりもかなり綱渡り状態です。
このときの信長は数百単位の直轄軍を迅速に行動させることによって
数で優る各勢力を撃破していきます。したがって兵士の連度はかなり高いものが
あったと思います。一方で今川義元は公家侍と揶揄されるほどに戦乱に明け暮れる
こともなく国境付近で小競り合い程度しか実戦経験はありません。
それに、尾張と三河の国境は父信秀の時代から進入・撃退を繰り返している地帯で
裏切りを繰り返しては処罰という状態です。すでに裏切り者は今川方へ寝返って
いましたし、信長は重臣の軍はあてにしていなかったため、桶狭間のときも
直轄軍を動員しています。幾多の逆境を乗り越えた直属の兵士が、この期におよんで
裏切ることはなかったと思います。
なるほど、桶狭間までの過程でたくさん戦していますよね。つまり、信長の家臣はすでに
能力を知っていたということですか・・・なるほど!
No.9
- 回答日時:
斎藤道三は、信長の力量を評価していた訳ですね。
「うつけ者」というのも、そもそも敵(今川だけでなく)を油断させる情報なのかもしれません。
だいたい、信長軍は「足軽」部隊を訓練して使いましたから、武将の力に頼る他の軍に比べたら、「素人に戦闘を頼る阿呆」とみられても仕方ないかもしれません。
当の「雑兵」にしてみれば、今川軍の「雑兵」よりも戦闘意識は高いのではないでしょうか?
No.8
- 回答日時:
私もnoribou11さんのご意見に同感です。
家督を継いだとされる天文二十年(1551:信長18才)から桶狭間合戦の永禄三年(1560:信長27才)の十年間はまさに合戦の連続でした。父の信秀の晩年は今川に押されまくっていましたので、家督相続のタイミングとしては最悪!尾張国内で決して大きいといえない勢力で織田弾正忠家を継いで、まがりなりにも桶狭間前年に尾張一国を統一。
この力量(合戦上手・カリスマ性・ロジカルな思考方・ねばり強さ…などか)を信長に近ければ近い人ほど認めざるを得なかったものと思います。こういった意味から馬廻や小姓を中心とする直轄部隊は、信長を信じて疑わないばかりか、十年間の歴戦の末、相当精強であったと思います。
永禄三年当時信長のことを「うつけ」と呼ぶ者はいなかったと思います。
今までの皆さんに、さっそく回答ありがとうございます。
歴史が好きで、たくさん書物を読んできた仲で今回の件はずーと疑問に思ってたことです。確かに、信長に直接接していた家臣はすでに信長の才能を感じてたんでしょうね。
No.6
- 回答日時:
真実は歴史の闇に埋もれてしまってますが、こう考えられない
でしょうか?
「間違いなく大きくなる会社に入って歯車で終わるよりも社長と
一緒に個人企業から株式会社にしよう」といった感じの野望の
違いなのではないでしょうか?
あと信長は思われるほどうつけではなかったように感じます。
優れた戦略眼と高い情報収集能力決して古い慣習に囚われない
姿勢今で言うピンポイント攻撃の有効性を実践するあたりは
巨大な敵に対するゲリラ戦に通ずる物があるかと思います。
古くからの家臣だった権六も信長が家督を継いだ時は敵対して
ましたが、今で言うカリスマ性に惹かれたのか後に家臣になって
ますから・・・。
でも秀吉は早くから見抜いてたようですネ
安土に城を構えるプランをたてたのも当時の日本経済を考える
と戦略上トテモ重要な場所だったかと・・・。
見方ヶ原の戦いでも信長は四面楚歌状態であるにも関わらず
家康に2~3000の援軍を送ってて、家康はそれを生かせ
なかったものの信長の心意気を受け取り後々まで共に戦った
のではないでしょうか?
当時信長は東から武田、南から雑賀孫一率いる一向宗、北から
義兄弟である浅井長政と朝倉の連合軍に挟まれててるにも
関わらず何故に信長は近江へ主力を進軍させたのか?、そして
何故にその絶好の時期雑賀孫一は動かなかったのか?信玄が
急な病に倒れ(もしかして暗殺?とか思ったり)引き返した
のか妙にタイミングが良すぎて謎が深まるばかりです。
と思うと浅井長政は古い盟約にとらわれ過ぎて将来を見誤った
ように感じます。
決して見劣りするような武将では無かったのですが・・・。
当時時の流れは信長に味方してたのでしょうかネ~?
えてして新しい事をなそうとする人物は古い考えの方達から見
ると奇異に感じる事があるかと思いますのでそのあたり書物と
して残した人物の主観が多少は混じってるかと思いますョ。
しかし当時の日本人には受け入れられなかったようで志半ばで
命運が尽きてしまったようですネ
うーん、確かにそれは言えるような気がしますが、今でもそういった例はたくさんありますね。でも、このケースでは、リスクがすごくおっきいような気がしますが・・・
No.5
- 回答日時:
こんにちは。
聞くところでは、桶狭間の作戦は非常に急で、突然発案し即実行だったそうです。
ですから、裏切りたくてもそのひまを与えなかったという事のようです。
裏切るには事前に相手に連絡をとっておかないといけないですから。
No.3
- 回答日時:
わたしが何冊か信長関連の本から読んだ意見を言いますと、信長には人間的魅力と同時にパワーが感じられたのではないかと思います。
数からいって完全に負ける戦に自信を持って挑んだというのは相当の勝算があったように思います。近年発掘された当時の書物によると、信長は「桶狭間」のために多くの間者を使い情報収集をしていたようです。その自信にみなついていったのではないでしょうか?もちろん中には脱走兵もいたとは思いますが。魅力という点では家康は何度苦境に遭わせられても信長を裏切りはしませんでした。一度は信玄に死ぬ間際まで追い込まれたこともあります。それは信長が援助しなかったせいです。それでも信長との同盟を反故しなかったということは、この人についていけば・・・と思わせる何かがあったんでしょう。ついていけなかったのが明智光秀です。確かにパワーを持っていたと思いますが、今で言うとどんな人になるんでしょうか?
信長は直視できないぐらい、威圧感(適切な表現ではない)が有ったという話ですが・・・
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