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 タイトルの通り、戦国大名の収入源がはっきりと分からないです。領内に金山や銀山を持っているものはそれを貨幣にして流通したと思うのですが、それがないものはどの様にして税収を確保したのでしょうか?楽市楽座とか書かれていますが、そこで商いをしているものから税金を徴収していたのでしょうか?さらに言えばどれ位の税率だったのでしょうか?或いは米を年貢として納めさせてお金に換えていたのでしょうか?江戸時代にはその様な方法でお金を得ていたと記述がされていますが戦国時代はどうだったのか記述されているものを見つける事が出来ません。分かる方是非、御教授を!

A 回答 (6件)

まず、武田氏の場合を考えて見ますと、武田信玄は年貢、棟別銭、田地銭の3つが大きな柱になります。


年貢は武田家の直轄地からの収入で、当然城の周辺に広がりますから、兵糧という意味もあります。
棟別銭と田地銭は支配地域(つまり直轄地意外は小領主が年貢を取るので)全てに課せられており、田地銭は今で言う臨時の固定資産税で、家ごとにかけられ、200文で、隣国と比べると高いほうになります。
田地銭は田の面積に応じて課税される臨時の税で、田地銭とともに、本来は軍役のときに臨時に徴収されるものでしたが、やがて常時になってきています。
これ以外にお金持ちに課税される徳役銭、妻帯役といって、妻帯した僧侶に課す税金など、細かいものもあったようです。
織田氏の場合は津島の港への税で成り立っており、信長が勢力を広げると、楽市楽座を行います。
この時代、街道には領主ごとに関所が設けられ、関所ごとに通行税を取るため、遠隔地から物品を運ぶと高額になる上、物騒な世の中ですから、商人も武装して、場合によっては用心棒を引き連れて旅をしています。
また、商人たちは座という特権組織をつくり、加盟しない商人には妨害があって、商いが出来ません。
信長はこれを廃止し、領内を安全に通行できるようにしたため、物価が下がり、他所の商人たちも信長の領内にやってくるため、城下町が栄え、領主の収入も増えてきます。
喧伝されるように、信長は領内全てでこれをやったわけではなく、一部は特権商人を残し、その上前を撥ねるようなこともやってはいますが、商業型の大名といえますね。
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1.年貢(基本)


2.特産品収入
3.商人への課税・恫喝(信長と堺)
など
米はそのまま兵糧にするか換金です。
税率は五公五民が基本ではないでしょうか。戦国時代にはもっと過酷な税率だったとこもあるようです。
北条氏や加賀本願寺の税率は低めだったと聞いています。
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塩も大事な収入源です。

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だれもが得ていたのは年貢米でしょう。

外は各大名が工夫してえていましたが、さまざまなものがあります。
関所、港で物流の通過時にお金を取る、鉱山開発(金銀銅鉄)、座(独占商業組合)を作らせそこから金を上納させる、市を開かせ消費税を取る(消費税というかやくざがとる場所代見たいな物でしょうか)、貿易をする、(キリスト教に布教させて貴重品を上納させる)、近隣の大名(もしくは自治都市)を服属させて軍資金を徴収する、だいたいこんな感じだと思います。これらの副収入をうまく確保した大名が、戦国大名として巨大化したように思います。
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一番の収入源は支配下の村々に課す年貢です。


軍役の代わりとなる軍役銭も、かなりの収入になったでしょう。
支配下の地域が貧しい場合、例えば越後の上杉氏だと、日本海の港に課した関銭が大きな比重を占めました(越後が米どころになるのは、江戸時代以降)。
後は、戦争による略奪と人取り。特に奴隷を売り飛ばすと、雑兵にとっても、かなりの収入になったようです。新たに支配下に入った村へは、戦国大名が兵たちの狼藉を禁ずる禁令を出すのですが、その際に禁令を望む村から大金をせしめていたらしいです。
余談ながら、武田と上杉の数次にわたる川中島合戦には、信濃最大の門前町を持つ善光寺の商業利権を奪い合った側面もあるようで、最後には武田と上杉で山分けの形になりました。
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大河ドラマなどみると、大名でしたら一国の主で


すから年貢米ですね。
大名の家来は殿様から給金もらっていますよ。

大河ドラマの8代将軍吉宗では、お米を商人のと
ころでお金に替えていました。
でもお米で替えられるお金も変動していて、吉宗
の時はお米の価値が安くなりすぎて困っていまし
た。
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