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大安寺とか東大寺とか、奈良時代の大寺院について、僧侶との関係を教えて下さい。

よく「大安寺の僧」とか「興福寺の僧」とかいいますが、この時代、僧が寺に属するというのはどういうことだったのでしょうか?

入門時に寺に就職(?)するのでしょうか?
移籍とかはあるのでしょうか?
山林修行とかしているときもどこかの寺に属しているのでしょうか?
僧侶の位と別に、寺としての役職とかいろいろあるのでしょうか?(別当とかそうですよね)
どこの寺にも属さない僧も多かったんでしょうか?
管僧と私度僧の区分けと寺に属することは関係あったのでしょうか?

A 回答 (3件)

#1です。


 御礼どうも有り難うございます。

 奈良時代の仏教というのは、たいへんに興味深いように思うのですが、突っ込んで知りたいと思うと、とたんに難しくなったり、不明であったりで、歯痒く感じることがありますね・・・

 当時、東大寺・興福寺・西大寺・大安寺・元興寺あたりが奈良の大寺だったと言って良いと思います。
 これらの大寺は100名からの僧侶は当然在籍していたと思いますが。不勉強なもので実際のところは自分はよく知らないですが、その規模からして数百名の僧侶がいてもおかしくないと思います。それぐらい大きな寺だったわけですし・・・

 少々時代は下りますが、806年に南都六宗と天台宗に総数12名の年分度者が認められています。年に12名ずつですから、単純計算すれば、結構なペースで僧侶は増えていた、ということになるでしょう。奈良時代の正確な内容はよく知らないのですが、10名程度は割り当てはあったのではないでしょうか。

 僧侶を目指す人たちが、どこでどういう研鑽をしていたかははっきりわかってはいないと思うのですが、お礼で触れられているように、お寺に出入りしながら度者に認められるよう受験勉強(?)や見習い修行をしていた人たちがいたと考えても、おかしくはないと思います。

 私度僧は当時としては、社会不安の要因や税金逃れの手段と考えられており、当局もかなり警戒していたようです。それでも後の山岳仏教を形成する素地を作りましたし、表向きの関係でないにしろ、奈良の大寺や官僧との関わりもないわけではなかったと思います。ただ、実際のところはわからないです。
 年分度者を目指す僧侶というのは何らかの後ろ盾や推薦者のある人で、当時の一般庶民ではないでしょうし、たいてい彼らは自身が喰いっぱぐれのない官僧になることを第一に考えるでしょうから、私度僧たちと関わりがあったとすれば、高位の僧侶たちが確信的に影響を及ぼしていたのか?とも思うのですが、これは個人的な想像です。

 国家統制下ではあるものの、各宗兼学の仏教界や、私度僧という自由思想家(?)がいるというのは、今と様子がだいぶ違うな、と思います。

 たびたびすみませんです。では。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
平均30歳で得度して60歳まで生きるとすれば、年分度者が活動するのは平均30年で、年間10人が得度するなら、一時の官僧の人数は300人くらいでしょうか。
官僧を主に受け入れる大寺が10寺くらいだとすれば、1寺あたりの人数は30名くらいで、官僧を役所でいうキャリア官僚や管理職みたいなものだと考えるなら、100~数百名規模の大寺に、30名程の官僧というのは結構妥当な人数かもしれませんね。
ただ、イメージとしてですが、現代より遥かに貧しくて、人口も少なかったこの時代に、何も生産しない(?)100名以上の集団が奈良だけで何箇所も存在を許されていたというのはどういうことだろう?という漠然とした疑問は感じます。
それと、回答でも触れて頂いてます部分で、社会不安や税金逃れを背景にした私度僧に対する、大寺の態度や交流の有無は興味深いですね。

お礼日時:2007/02/07 10:46

 俗人からの出家にはどのような決まりがあったのか。


天平4年(732)3月25日の『正倉院文書』続修第16巻裏所蔵「僧智首貢度人状」(僧智首解)には、美濃国の秦公豊足(29歳)が僧になるために「法華経一部」「最勝王経一部」などの読経、「薬師経一巻」「観音品(※法華経観世音菩薩普門品)」「多心経(※般若心経)」の誦経(暗唱)、「大波若咒(※大般若咒の誤記)」、「仏頂咒」、「十一面咒」などの諸真言の誦咒、そして「浄行8年」とあります。

 ですから入寺して上記のような修行を行って、初めて国家公認の僧尼として太政官より得度者に度牒(官僧身分証明書)が授与されたのでしょう。ですから度牒が授与されるまでの修行者も、広義の僧尼とみれば100人いたとしても不思議ではないかもしれません。

 また私度僧と官僧との交流が無かったかといえば、そうでもないでしょう。例えば弘法大師空海は、当初私度僧として出家し紀伊や四国の山林で修行を行い、その後大和国久米寺で大日経を発見。留学僧として入唐を志すため東大寺戒壇院で正式に出家得度を行います。
 大安寺の勤操(三論宗の大徳)が空海の師匠であったという説は否定的見解が大半ですが、とはいえ何らかの関係・交流があったのでしょう(空海は三論宗を重視しています)。大日経の発見もやはり官僧との交流がなければ不可能だったと思います。当時山林には「自然智宗(じねんちしゅう)」と呼ばれる集団がいて、特定に寺院に属さずに修行を行っていました。官僧はそれが行えないが故に、交流することによって互いに情報を取り交わしていたと思われます。
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この回答へのお礼

興味深い資料をありがとうございます。
「浄行8年」が受験資格で、その他が試験内容っていう感じでしょうか。
お経中心の奈良仏教らしい内容ですね。
般若心経の暗誦くらいなら私でもできるかもしれません、関係ないですが…。

弘法大師は結構「いいトコの子」ですし、天才だし、その経歴がどこまで一般的か難しいところですよね。
自然智宗ってあったんですね。官僧が経蔵の中身をもったいぶるのに対して、山林の人達は実践や修行がステータスだったのかもしれませんね。

お礼日時:2007/02/07 17:11

こんばんは。



 わかる範囲だけになりますが、すみません。
 ある程度お調べのようですので、単なるおさらいになるかもしれません。

 僧尼に対する制度は、大化の改新以降何度が定められたものの、718年の養老令に「僧尼令」が定められたことによって完成したとされています。
 僧尼の出家は朝廷の許可制で、出家の人数も宗派・寺院単位で、毎年何人と割り当てられて規定されていた(←「年分度者」ですね。)ため、出家した僧侶はその所属寺院がはっきりしていたわけです。

 また、年分度者の制度で出家した僧侶は、国から生活を保障されますが、勝手な行動はできません。許可なく山林修行をすることはできませんし、おそらくはしようとする僧侶はあまりいなかったと思われます。
 年分度者の制度が機能していた頃は、どこの寺に属さない僧侶というのは、年分度者によって出家していないということで、イコール私度僧と考えて良いと思います。

 「移籍」という点はよくわからないのですが、当時は宗派はあったものの、現在とは感じが異なり、各宗兼学するために行き来することは普通にあったようです。

 ご参考になればよいですが。では。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
うろ覚えですが、大安寺には100人くらい僧侶がいたとか何かで読んだ気がするんですよ。実際、大きな寺ですからそのくらいは住めそうですよね。
でも、これもうろ覚えなんですが、年分度者って大安寺だけで100人になるような人数はとてもいませんよね。
そうであれば、大部分の僧侶は年分度者を目指す内弟子か、予備校生みたいなものだったのかなあと。
若い(かどうかわかりませんが)人がそれだけ共同生活していて、役行者の頃ですから仏教以外の修行者も山にはいたでしょうし、勝手な想像ですが、なんか活気があっていいなあ思います。

お礼日時:2007/02/06 22:56

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