
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
順序が逆になりますが
>2.現在の中国で林彪はどのような評価になっていますか。
については「回答No.2」の方が明快かと思います。後年の出版物(たとえば林の元秘書の回想記など)では林彪は麻薬中毒だった、と書かれていました。現在歴史学では名が出るものの、国内で表立って語ることもなく黙殺に近いかと思います。行き着くところ毛批判へ繋がる訳ですし。
>1.これはどういうことだったんでしょうか。
まず、毛沢東による実務派追落しの権力闘争である文革(1965年~)は、毛のカリスマ性と人民解放軍の支援あって成功したことは既にご存知でしょう。
当時、毛を武力で支えた軍の指導者が林彪(国防相)で、かれは「文革が発動できた理由に毛沢東思想と並んで「解放軍の力である」と明言していました。(軍高級幹部会議上での演説・67年)
いっぽう、内政・外交面では堅実な政策と実務を進めていく必要があるので、さすがに毛沢東も政治局・国務院の周恩来や陳伯達らの存在を無視することはできませんでした。
したがって、毛は自身を中心に、両脇に急進の林と穏健の周・陳を配置することで奇妙なバランスを取っていた、といえるでしょう。
1971年4月の『週刊ポスト 増刊 中国問題緊急特集号』のなかで親中文化人・西園寺公一が「もし、軍の建て直しができていなかったら、文革は難しかったと思う。その意味で林彪という人の功績は大きいです。なぜ毛さんがあれほど高く評価し、大衆の信頼もつよいのか。その秘密はここにあります。ときどき、毛・林路線がくずれて周恩来株が上がったなどという西側の観測がでるが、これはもう間違いで、あの指導層はいま一枚岩ですよ。いま毛主席をピークに右大臣左大臣が林彪、周恩来。これは決して崩れませんね」といっていましたが、これこそ当時の「進歩的文化人」のおめでたい観測だったわけで、実のところ、林彪は共産党の規約で後継者とされたものの、毛沢東は周を温存するとともに、林が望む「国家主席」の地位を与えることを拒み、あくまで実権のない「副主席」のままとする腹心算でした。林はこれではいつかは劉少奇のように権力闘争で粛清されると考え毛暗殺を企んだのでした。
西園寺が「一枚岩」と言っていた約5ヶ月後、この謀が事前にどう漏れたかは諸説あるものの、やむなく林は側近達とモンゴルあるいはソ連へ逃亡の途中、搭乗する飛行機が墜落して死亡しました。
林彪事件は、こうした毛のかずかずの権力闘争の一こまに過ぎず、ついては竹内実『毛沢東』(岩波新書)がわかりやすく好適だと思います。
参考資料=西園寺公一・談話「私が会った中国の指導者たち」『週刊ポスト 増刊』(71年4月1日号 小学館)所収
No.2
- 回答日時:
私が、大学生の授業で習ったのでは、簡単に言えば、林彪が毛沢東に対してクーデターを起こそうとしたが事前に発覚し、逮捕される前に飛行機に乗ってソ連に亡命しようとして、モンゴル上空で乗っていた飛行機が事故をおこしてモンゴル領内で墜落した、と習いました。
言論思想の自由のない一党独裁国家の中国では、今も林彪は祖国の裏切り者です。(知り合いの中国人談。因みに、彼との会話は英語で)
No.1
- 回答日時:
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
おすすめ情報