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明智光秀の性格を教えてください
どんな人物でどんな性格だったのかがわかる、エピソードなり諸説を
知っている方いたら、ぜひ教えてください。
例えば、疑りやすい性格だったから、信長を信じきれずに
討ってしまったなど…
意外と知られていない情報があればすごく助かります。
できれば、その情報が載っている本やアドレスも教えてください。
よろしくお願いします

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A 回答 (6件)

人柄ということですので、ちょっとしたエピソードを紹介したいと思います。



光秀の奥さんは、煕子さんという人だったのですが、
実はこの煕子さんは、光秀の元にお嫁に来る前に疱瘡という病気にかかり
顔に醜い痕が残ってしまったそうです。

煕子さんの実家では、織田の重臣明智光秀の嫁になる人だ
醜い煕子でなく、親戚の子を煕子ということにして、
光秀の下に送ろうと決めました。

だけど、光秀は偽者である事をすぐに見抜いてしまいます。
そして、煕子の実家に使者を送りこう告げます。
「約束の煕子さんが、疱瘡にかかったと噂は聞いてます。
 ですが、何も気にしないで、どうかお嫁に来てください。」と

こうして煕子は、無事に光秀の元に嫁入りします。

しかも、光秀は側室を持たず、この煕子を生涯ただ一人の妻として愛します。

以上のエピソードから、光秀は大変潔癖な人物であり、
とても優しい人柄を持ち合わせた、戦国時代には珍しいタイプの人だったようです。
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個人的意見として書きます。


革新的な信長を倒し、貴族や将軍と関係が深かったことと礼儀作法を信長に説教したことから、既存秩序を重んじる生真面目で保守的思考の持ち主だったようです。
苦労をともにした夫人・部下や領民をいつくしんだので、情の篤い人でした。賢夫人が髪を売った話は知ってますか?また信長に背いた荒木村重を親交の深かった光秀は説得しようとしています。
疑いやすい性格ということはないと思います。それは信長のほうです。信長に甲州平定後「骨折った甲斐がありました」と冗談?を言ったとき、しゃれの通じない信長を激怒させています。
苦労人で人間性は現代なら抜群ではないでしょうか。
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No.3の続きです。


小文ですが 菊池 寛 「日本武将譚」
      海音寺潮五郎 「武将列伝」 などの類書の中にあるでしょう。
この中で菊池寛氏が述べている、「信長は褒める時は子供を褒めるようだったが、一度怒ると嘲罵至らざるなく、荒武者たちも堪えられないほどだったという。
光秀にすれば骨身惜しまず働いているのに、その心情を理解されないでつらい、しゃあしゃあとしている秀吉なら受け流せたが、真面目一徹の光秀は堪えられなかった。
とにかく性格的に二人の関係は、そりが合わないのだ。  光秀の反逆は宿命的なものがある」
このへんが当たっていると思います。
 
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小説ばかりですが


早乙女 貢 「明智 光秀」
南條 範夫 「桔梗の旗風」
藤沢 周平 「逆軍の旗」  皆文庫本もあると思います。
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 闇の史実、空想の描写、虚々実々の演技。
 
 史実を裏付ける資料は、いかにも専門的であり、おおむね退屈です。
 しかし、自由な虚構で描かれる小説は、あまりに独善的なのです。
 かたや、映像を演じる俳優は、それなりに迫真のイメージを伝えます。
 
── 吉川 英治《新書太閤記 1939 連載》→《太閤記 19640103-1226 NHK》
── 司馬 遼太郎《国盗り物語(三)19711220 新潮文庫 19730107-1230 NHK》
 
── 明智光秀の流浪時代を丹念に描いた小説を読んだのは、初めてだ
った。明智光秀という人物は、結構好きなので、本書も非常に興味深い。
もっと早く読めばよかった。
 自分の才能信じつつも、不遇を嘆く明智光秀。足利義輝に仕える細川
藤孝と懇意になり、自信の能力を足利幕府に尽くすことになる。義輝が
松永久秀に殺された後は、足利義昭と苦労をともにする。
http://homepage3.nifty.com/fwnn7163/books/200202 …
 
── 司馬遼太郎《国取り物語》によると、報奨金を小出しにしていた
信長に比べて、光秀の“三日天下”では、とても気前よくバラ撒いたの
に、まるで効果がなかったそうです(真偽不詳)。
http://q.hatena.ne.jp/1096480416#a173526

<PRE>
 吉川 英治  作家 18920811 神奈川 19620907 70 /~《新書太閤記 1939》
 司馬 遼太郎 作家 19230807 大阪  19960212 72 /~《国取り物語 1971》
 佐藤 慶   俳優 19281221 福島 /籍=佐藤 慶之助~《太閤記 1964 NHK》
 近藤 正臣  俳優 19420215 京都 /籍=川口 正臣/~《国盗り物語 1973》
</PRE>
 
── (近藤 正臣は)I973年NHK大河ドラマ《国盗り物語》で明智
光秀を演じて一挙に人気を得た。類型的な仇役だった光秀像は、先の
《太閤記 1964》では佐藤 慶の強い個性で注目され、さらに近藤 正臣
の現代的な絶望感を秘めた演技が評価された。 
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ほとんどのエピソードが江戸時代に創作されたものなので、実際はよくわかりません。

こうじゃないかな?というのを書きます。

・信長の正室、美濃御前(斉藤道三の娘)とは、いとこの関係。
・室町幕府に仕え、足利義輝の奉公衆(将軍直轄の親衛隊)の一員となるも、義輝が三好・松永らに惨殺されると、足利義昭と共に朝倉義景へ身を寄せる。
・足利義昭と織田信長のつなぎ役となるが、両者が対立すると信長に味方。
・信長からの信頼厚く、信長が佐久間信盛らの無能を糾弾した折檻状には、有能家臣の筆頭にあげられた。
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Q明智光秀のエピソードを教えて下さい

明智光秀については、三日天下の情けない男、というイメージしか持っていなかったのですが、最近、いくつか本を読んだり検索していたりして、予想以上に人気が高く、評判もいいことを知りました。
こちらのサイトでも検索して過去問で、単なるエピソードなのでしょうけど
「鳴かざれば、放してやろう、ホトトギス」
というのを読みガーンとやられました。一目惚れ(一読惚れ?)に近い感覚です。本当にこういう歌を本人が詠んだわけはないにしろ、こういう歌で表現される、というのが、すごく好きです。
男性のどこに魅力を感じるかは人それぞれですが、私は殺してしまえという信長は残酷で好きでなく、秀吉は才を鼻にかけているようで嫌、以前は3人の中では家康がマシかな、と思っていましたが、光秀は私の好みにピッタリきます。
というわけで、にわか光秀ファンの私に、明智光秀の素敵なエピソードを、教えて下さい。むしろ史実に載っていないようなものの方が楽しいです。
結構自分でもネットで検索などしてみたのですが、おすすめの光秀サイトなどもありましたら教えて下さい。

Aベストアンサー

才覚や志の高さを示す逸話はいろいろあるのですが
優しさや茶目っ気を感じるものをご紹介します。

光秀曰く
「仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言う。
これから考えれば、土民百姓は可愛きことなり」『老人雑話』
司馬遼太郎の解釈では
「仏の嘘も武士の嘘も許されるのに農民の嘘ばかり
罰せられるのはおかしい。そう考えれば彼らの嘘も
憎いどころか可愛いものではないか。」
となるそうです。


唐崎の松の植替

万葉集をはじめ、古来から歌に詠まれてきた名勝で
近江八景の一つ「唐崎の松」は、光秀が坂本を居城に
したころには枯れてしまっていた。
和歌に明るい光秀は、これを惜しみ新しく松を植替えた。
その折に詠んだ歌
「我ならで誰かは植えんひとつ松 心して吹けしがの浦風」

何やら誇らしげな感じの歌で、妙におかしいですね。

Q明智光秀はどうして信長を殺したんでしょか?

こんにちは
日本史に詳しくないのですが、
明智光秀はどうして信長を殺したいと思ったんでしょうか?

また信長というのは攻撃的な性格という印象がありますが
いろんな人間から恨みを買ったため、そのうちこういう目にあうのも
自然な成り行きだったという事なんでしょうか?
それとも…???

Aベストアンサー

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではないでしょう。ご紹介したサイトには7つもの推測が記載されていますが、これだけの背景があれば、謀反を起こすには十分すぎるたのではなかったかと思います。

 光秀は、今で言うインテリで、大変まじめな性格でした。逆に、プライドが高く、融通の利かない面があったと推察されます。このことから、信長の過酷な性格と相容れない部分が多く、最後には追い詰められて限界に達したのでしょう。

 彼は信長に見出され、一気に出世階段を駆け上がっていきますが、人使いの面では、他の織田家の武将同様、酷使されていました。信長は、今まで評価してきた幹部でさえも、働きが少し鈍るだけで首にしたりしたのですが、こうした面が、彼を追い詰めることになったのでしょう。

 余談ですが、現代を見ても、急成長している企業で、社長の腹心が唐突に辞職するケースは大変多いのです。社長からすれば、部下に十分すぎる給料をやって、相応のポストを与えて、一体何の不満があるんだ?と言うことなのでしょうが、それに応える部下の心労は、人並みではないと言うことでしょう。こうした企業では総じて、頭脳だけでなく、図太い神経をも持ち合わせていなければ、勤まらないことが多いようです。

 ご参考まで。

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではな...続きを読む

Q明智光秀のあだ名

明智光秀のあだ名は「キンカ(金貨)頭」でしょうか?それとも「キンカン(金柑)頭」でしょうか?

Aベストアンサー

キンカン(金柑)頭です。

語源由来辞典には以下の通りに書かれています。
 ★織田信長に「キンカン(金柑)頭」と呼ばれていたことから、この語が生まれたとも言われる。
しかし明智光秀のあだ名となったのは司馬遼太郎の小説に由来し、そこから「明智光秀=ハゲ頭」という図式ができたのであり、語源と関連する話ではない。

要するに「司馬遼太郎の小説による“創作”」であるという解説です。

アンサイクロペディアには以下の通りに書かれています。
 ★頭がキンカンみたいに禿げ上がっていたことから、信長からは「キンカン頭」という渾名で呼ばれていた。無論、光秀がキンカン頭(禿)になったのは、信長との相思相愛の関係があまりに激しく燃え上がり過ぎたが故のストレスが原因である。それを隠す為に普段はロン毛のヅラを被っていたが、どう見てもモロバレであったらしい。

このような回答で満足できましたでしょうか?

Q山崎の戦い、光秀の味方は何故少なかったのか?

 本能寺の変で明智光秀が信長を討ちますが、その後の山崎の戦で羽柴軍に敗れます。
 大義名分では主君の仇討ちの秀吉に理がありますが、軍勢の数にかなりの差があります。細川、筒井、高山など、光秀の頼みとしていた武将はことごとく秀吉方に付きます。光秀は謀反人ですが、当時、信長に反旗を翻していた勢力もかなりあったはずです。
 各武将はお家の行く末を案じての決断だとは思いますが、秀吉と講和した毛利は別として、その他の反信長勢力を糾合できなかったのでしょうか?
 11日天下として、上杉、長曾我部など援軍を集められなかったのでしょうか?丹羽長秀は大坂にいたそうですが、四国征伐には行ってないでしょうか?

Aベストアンサー

 一般の常識的回答からは逸脱しますが・・・

 明智光秀は、細川藤孝が自分の側につくことを確信していた様に感じられます。
 
 細川藤孝はこのとき、息子忠興共々髷を落としてしまい、中川・高山などと違い中立を守ります。また、光秀の娘で忠興の妻であった玉(ガラシャ)を離縁し幽閉ますが、結局正妻の座に戻しています。

 武士が髷を落とすのは、侘び・恭順を示す場合に行なわれる行為で、単に長年の盟友(元々二人とも足利将軍家の家来であった。)と袂を分かつとしても、髷まで落とす必要性があるとは考えにくいことです。
 細川藤孝と明智光秀の間には、他人には知りえない何らかの盟約があって、その盟約を破る侘びと考えれば、光秀の娘をほとぼりが冷めた頃に息子の正妻に戻すというのも、せめてもの罪滅ぼしで納得できる感じがします。

・細川藤孝が明智側についた場合

 細川藤孝は、関が原の合戦の時には手勢五百ほどで一万五千の軍勢を丹後田辺城で釘付けにしたほどの戦略家。そして、細川が味方していれば、洞ヶ峠を決め込んだ大和の筒井順慶は光秀側についたはず。

 更に、兵力不足と指揮官不足で二正面作戦を行なえなかったために、一度安土城を攻め取りそれから軍を戻したため時間のロスが生じ、京と大阪の間の山崎が戦場となったのが、実際の歴史の展開。

 歴史にIF(もし)はないが、細川藤孝が中国攻めの進軍体制のまま明智側についていれば、細川藤孝が東の安土城を攻略し、明智光秀と筒井順慶は、西の大阪城にいた丹羽長秀・織田信孝軍(本能寺の変を聞いた兵が逃亡し兵力が半減。軍としての機能を喪失していた。)を撃破。その時点で中川・高山軍も明智軍に合流していた可能性が高い。

 ここに羽柴秀吉軍が攻めてきたとしても、兵力は山崎の合戦とは全く逆。また地の利も大阪城を占領し摂津を押さえた明智側が有利。
(その情報を得れば、羽柴軍は摂津に進軍しなかっただろう。結局播磨で持久戦体制を取らざるを得ない。)

 織田の五軍団+徳川家康の状況
  明智軍‥‥畿内の支配・経済を確立・朝廷利用。
  羽柴軍‥‥明智・毛利に挟まれて活動不能。
  丹羽軍‥‥壊滅
  柴田軍‥‥上杉との対峙で釘付け(史実)
  滝川軍‥‥北条の攻勢で壊滅(史実)
  徳川軍‥‥信濃・甲斐を切り取る(史実)

 この後どうなるかは分からないが、明智か徳川の政権になった可能性が高いと思われる。
 
 歴史上のことですし、敗者の明智光秀についての資料が多く失われていること、勝者の側に立った細川幽斎と敗者との関係ですから、今後も確定的資料が出てくることは考えられません。
 ですが、朝廷も絡んで(近衛前久・吉田兼見は変の後、織田信孝に狙われたらしい。)細川藤孝と明智光秀の間には、何かしらあったような資料が散見されます。

 キャスティングボードを握るキーパーソンが、どちらに動くかで、結果が大幅に変わってしまう(関が原の合戦もまたしかり。)ことは、よくあるように思います。

 一般の常識的回答からは逸脱しますが・・・

 明智光秀は、細川藤孝が自分の側につくことを確信していた様に感じられます。
 
 細川藤孝はこのとき、息子忠興共々髷を落としてしまい、中川・高山などと違い中立を守ります。また、光秀の娘で忠興の妻であった玉(ガラシャ)を離縁し幽閉ますが、結局正妻の座に戻しています。

 武士が髷を落とすのは、侘び・恭順を示す場合に行なわれる行為で、単に長年の盟友(元々二人とも足利将軍家の家来であった。)と袂を分かつとしても、髷まで落とす必要性が...続きを読む

Q信長・秀吉・家康のホトトギス

上記三人の人柄をホトトギスを用いて表現した文句は有名ですが↓

信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

これらは彼らの人柄をわかりやすく例えるために後世に詠まれた、とこのサイト内の他の質問から知りましたが、これらを考えた「誰か」というのは特定の人物として存在するのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

作者不明だそうです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/think/zakki_08.htm

Q戦国時代の服装

戦国時代~安土桃山時代の服飾に触れている資料を探しています。武士だけでなく、女性、庶民や僧侶などまで網羅しているものはないでしょうか

Aベストアンサー

やっぱり、このサイトじゃないでしょうか・・・
有名なので、もうご存知かも知れませんが・・・

http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000100

Q調べやすい歴史上の人物

中学生です。夏休みに、歴史新聞という課題を出されました。
条件は、『死んだ人』なら、誰でもいいらしいです。
でも、私は歴史上の人物の誰かにしたいのですが、どれもピンとこず・・・・。
死んでいて、中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

Aベストアンサー

歴史新聞の作り方
http://event.kids.yahoo.co.jp/summer2006/study2/society04/index.html

>中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

・聖徳太子
・天智天皇
・天武天皇
・源頼朝・義経
・足利尊氏
・織田信長
・豊臣秀吉
・徳川家康
・西郷隆盛

あたりは、エピソードがたくさん残っているので、やりやすいでしょう。

Q明智光秀の生涯がわかる本

世渡り上手な(私の勝手な)イメージの豊臣秀吉とは対照的に
人徳者ながらも信長とソリが合わなかった(私の勝手な)イメージの明智光秀に興味があります。

明智光秀の生涯が分かる歴史小説はないでしょうか。
できれば通勤電車で読みやすい文庫本がよいのですが…
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

昔読んで記憶が微妙なので参考までに。
『国盗物語』(司馬遼太郎 著)の織田信長編はどうでしょうか?
信長編とありますがどちらかというと光秀視点で話は進んでいきます。
一応文庫本も出てるみたいです。

Q戦国時代の人々の名前について

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。

ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか?

また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。
小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。
(苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています)
(また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います)

苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。
小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。

質問がわかりづらいかも知れませんが、
1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。
2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。
(農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。)
3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。
(農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など)
の3つ教えてください。
よろしくお願いします。

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は...続きを読む

Aベストアンサー

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分の人たち、名主クラスです。

次に中大夫・平大夫・五郎大夫など大夫が付く人が10名・・・中介・江介・三郎介など介の付く人が6名、「大夫」や「介」は古代の令制の官位の呼び方ですが、すでにこの時代には農民が、一定の年齢に達した時、幼名から改名する際に使用していたようです。

新検校・惣別当・安寿など名の付く人が3名・・・「検校」や「別当」「安寿」などは、ご存知のように本来、寺院や荘園・官庁の役職名ですが、やはりこの時代ではすでに農民のレベルでも名乗っています。

次に、かい丸・牛丸と「丸」の付く人が2名・・・「丸」は本来、幼名に使用する文字ですが、牛飼いなどの運搬業に携わる人は、成人しても使用していたそうです。

平細工・孫太郎細工と「細工」と付く人が2名・・・彼らは手工業の職人だったと思われます。

残り24名は、この時代の農民の一般的な名前と言える物・・・藤内・源内・中江・孫太郎・孫二郎・彦二郎・平二郎・藤二郎・弥二郎・中三郎・惣四郎・孫五郎など、この中の「彦」や「孫」や「弥」は全国的に使用されている最も一般的な文字です。
「平」「源」「藤」「中」は貴族の姓を名前に取り入れています。
その後につく二郎や三郎というのは、お察しの通り、大抵は出生順の「○郎」と付けたようです。
彼らは、小百姓層の人たちです。

以上、先にも書かせていただいたように、これらの名前はすべて、中世の惣村の農民の名前・・・一揆の起請文の署名です。
女性の名がないのは、一揆の場合の署名は、一家の家長が代表して行う事が多かったためだと思われます。

長々と書いてしまいましたが、少しは参考になりますでしょうか?

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む


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