人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

今川義元は桶狭間で無様な討死することは無かったと思いますか?

また、なぜ武田信玄は三方ヶ原で家康に追い討ちをかけなかったのでしょうか。

A 回答 (5件)

今川義元は、桶狭間の失態で、何となく公家かぶれした軟弱者に思われますが、実態は数々の戦乱を生き抜いた強かな武将で、かなり優秀な人物です。


同時代の武田信玄も、義元が生きてるうちは決して今川家を攻めませんから、徳川家康に対する、織田信長のような関係を想像してもらえば、実像に近いと思います。
こういう人物ですから、山本勘助を召抱えても、重くは用いず、力を発揮できないまま埋もれていった可能性が高いと思う。
桶狭間は、義元が情報戦に敗れたという一面がある一方、運がなかったということかも知れません。
中国の漢王朝を建てた劉邦は、彭城の戦いでは、56万の軍勢を率いながら、僅か3万の項羽軍に大敗し、命からがら逃げていますから、絶対的な大軍を率いても敗れた武将は古今東西数え切れないほどおり、逃げ延びて盛り返したものが英雄とされ、義元のように命を落とせば、無能の烙印を押されてしまいます、その意味では気の毒な人物ですけど。
山本勘助は実在したと思います。
武田家は、保守的な気風で、勝頼が最後のときに真田昌幸を新参者として信じず、譜代の小山田家を頼って岩殿城に向かったように、信玄も新参者には消極的で、自分から仕官したいとやってきたのは、山本勘助くらいです。
山本勘助が有名になったのは、江戸期に流行った軍学の影響で、この軍学とは学問でありながら、ほとんど実用にならず、本来軍学が必要とされた、幕末・明治には全く捨てられてしまったもので、この軍学のヒーローが山本勘助になり、仮面ライダーやウルトラマンのようなものと考えたほうがよいと思う。
無能な人物ではないと思うが、それを受け入れる素地が、武田家にあったかとなると疑問で、まだ信玄の父親の信虎の方が、革新的な人物だった気がします。

三方ヶ原の戦いは、以前は上洛戦と言われましたが、現在は徳川家を叩くための前哨戦という見方が強まっています。
つまり、家康を破って遠江を完全に抑え、織田家に圧力をかけるためで、恐らく信玄が亡くならなくても、引き返したと思う。
これは今川義元の桶狭間も同様で、上洛の足固めと考えるべきではないかな。
こう考えれば、家康を無理に攻めて、武田軍も消耗するより、じわじわと押していって、周辺の豪族を味方につけ、巧くいけば徳川家も降伏するという考えがあり、止めを刺さなかったと思います。
信玄の性格はけっこう保守的で慎重ですから、信長のように一気にやるより、段階を踏んでやりますから、予定の行動だったのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>実態は数々の戦乱を生き抜いた強かな武将

確かに東海一の弓取りと言われたようですしね。
またひとつ、解釈が広がりました。長文ご苦労様でした!

お礼日時:2007/02/20 10:02

歴史のif面白いですね。



他の方も言われているように山本勘助は実在は間違いないが
伝令将校ぐらいの地位だったというのが現在広く支持されている
説です。伝令将校は戦略を把握していないと務まらないので
兵法には精通していたハズですが軍師という形はやや誇張した
ものかもしれません。

歴史家の中では太原雪斎が今川義元の右腕として手腕を発揮し、
今川氏の発展に大きく寄与したことから、「もし雪斎が1560年の桶狭間
の戦いまで存命していたならば、義元が織田信長に討たれるようなこと
は決してなかった」「今川氏の衰退は雪斎の死によって始まった」等と
古くから指摘されています。

もし歴史のifをいうなら太原雪斎を軸にした方が面白いかも
しれません
    • good
    • 0
この回答へのお礼

太原雪斎もまた、今川家には無くてはならない参謀なわけですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/20 10:04

有能な軍師がいれば、桶狭間での討ち死には、避けられたかもしれません。


追い討ちをかけなかったことに対してですが、かがり火をがんがん焚いたという、作戦が当たったのでは、ないでしょうか。
城内では、万全の用意ができていると、思わせた。
信玄は、「こんな小物に構っている時間は、ない」と考えたのではないでしょうか。
信玄自身、身体の不調は、自覚していたはずです。
一刻でも早く、都に着きたかったため、先を急いだのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>かがり火をがんがん焚いた

確かそんな話も聞いたことがあります。
討ち逃した相手が天下を取るのだから歴史って興味深いです。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/20 10:06

山本勘助の実在については、昭和44年に確認された「市川文書」により、間違いないだろう、とする説が有力です。


↓こちらに市川文書がのっています。
http://www.geocities.jp/zanyphenix/hero7.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど。ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/20 10:07

山本勘助が武田家で、作戦全体を左右できる立場にいたとの証拠は、ありません。

実際の史料では、伝令将校程度の位置です。能力主義の武田家でそれなので、家柄も重視の今川家で重用される可能性は、さらに少なかったかも。
桶狭間について考察するなら、まだ雪斎が生きていたら、敗北はなかったかもしれません。ただし、織田信長が桶狭間の原因となる、大高城兵糧攻めを仕掛けたタイミングは、雪斎が死ぬのを待っていたふしがあります。
三方ヶ原は、織田との連絡を断って徳川を浜松に孤立させれば、否応なく降参する、との判断でしょうか。これは根拠の薄い想像ですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>実際の史料では、伝令将校程度

ということは書物やドラマなどは誇張してる面があるのですね。実在しなかったという説もあるし。
興味深い見解、有難う御座いました!

お礼日時:2007/02/16 17:42

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む


人気Q&Aランキング