時代劇で武士が話す言葉
「それがし」「したり」「御意」など、
その他にもたくさんあると思いますが、武士言葉の解説や辞書のような本を探しています。
お薦めの本がありましたら教えてください(出来るだけ簡単な本)

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A 回答 (2件)

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)の本が一番良いかと思います。

この人は明治初期の生まれで、江戸時代の様々な風俗や生活、習慣、文化などについて研究し、著述をしました。時代小説を書く人なら、必ずこの人の本には目を通している筈です。学者の文章ではありませんから、読みやすいです。ただ、武士の言葉だけを特別にまとめたものではなくて、旗本・御家人の生活・習慣を書いた本の中で、言葉遣いについても述べている、というスタイルが多いですね。私も、この人の本で、旗本と御家人では言葉遣いが違うから、誰が聞いても、身分を間違えることは無い、という知識を知りました。

中里介山の「大菩薩峠」という本がありますが、登場人物の言葉遣いについて、例えば
「「旦那様なり奥様なりにお眼にかゝりたう存じまして」と言っている。また奥様だが、これもいけない。「旦那なりおかみさんなり」と言わなければならぬところです。町家で「奥様」というのは、絶対にあるべからざることで」
云々と述べています。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
武士の言葉や作法を解説した本は、なかなかなさそうですね。

アマゾンで三田村鳶魚を検索してみるとたくさんありますね。
近所の図書館にないのが残念です。
三田村鳶魚の本の中でお薦めの本などありますか?
個人的には「横から見た赤穂浪士」なんか面白いかなと思ったのですが。

お礼日時:2007/02/20 12:13

#1です。

武士の言葉について、ということであれば一番詳しいのは、「三田村鳶魚全集 第2巻 お大名の話 武家の生活 武家の婚姻」(中央公論社)でしょう。残念なことに絶版ですが、古本屋を探せば、まだ出てきます。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。
早速第2巻をアマゾンで注文しました。
タイトルからしても面白そうな感じがするので楽しみです。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/27 11:42

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「特権」というよりも、「自戒」の意味合いが強かったと思います。
簡単に刀を振り回すと社会が混乱するので。
切らなくても抜刀しただけでも大問題になったと思います。
江戸初期はまだまだ改易大名が多く、
町中に失業した武士が平然と凶器である刀を持って歩いました。
取り上げるわけにもいかないし、武士として刀を持たす必要もある。
でも彼らにムシャクシャして狼藉を働かれても困る。
そのための切捨て御免だったと思いますよ。

江戸時代の法令系統は「社会を混乱させる人間」には罰則が厳しかった。


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貴方が思うほど特権ではなかったんですよ。

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Aベストアンサー

徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。
明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側の諸藩が佐幕派の藩に進軍したりしており、多くの佐幕藩は新政府側に降伏しています。さらに新暦の明治二年1869年の6月27日に箱館戦争で榎本武揚らが降伏するまで、東北地方を中心に戊辰戦争は続くわけです。西日本を中心に降伏した藩は多かったわけですが、全国規模での内戦に新政府はともかくも勝利したわけで、その勢威は全国を圧していたと考えられます。また、版籍奉還・廃藩置県に至る過程では、維新に功績のあったものに対しては賞典禄を支給し、さらに大名・士族には石高・俸禄に変わり家禄を減額しつつも中央政府支給に改めて、俸禄制度(賞典禄・家禄を合わせて秩禄という)を維持しています。そのような優遇策のもと薩長土からの御親兵の武力を背景にクーデター的に廃藩置県を断行し、藩を廃止し、版籍奉還後に知藩事になっていた旧藩主を罷免し東京移住を命じ、旧藩士も藩の解体とともに失職することになるわけです。とても返上というような状況ではなかったと思います。しかし、華族となった大名とともに士族は失職はしても収入である秩禄はある状態ですので、この段階では大きな反乱には結びつきません。これは、前記したように幕末多くの藩で財政的に行き詰まり、さらに幕末・維新の動乱の戦費等の出費で各藩の財政は危機的状況に追い込まれ、廃藩置県以前に廃藩を申し出る藩主がでたり、財政危機の中、藩札をはじめ債務を政府が肩代わりすることから歓迎する藩も多くあったような状況がありました。そのように考えると封建制度は限界にあったのかもしれません。また、フランス革命などを見ても旧勢力が全面的に反革命に走り、内戦に至るほど革命政府に反することは稀です。戊辰戦争という旧勢力との内戦の勝利が実質的に廃藩置県を招来したのではないでしょうか。
なお、士族の反乱は、戊辰戦争に官軍として加わった士族の中に新政府の中でその主張が反映されず、武士の特権や俸禄が処分されることに対して不平を抱くことが多く、明治6年の征韓論はこのような勢力を背景としたものでした。征韓論で敗れた勢力はその後二つの流れを持ちますが、一つが板垣退助らの自由民権運動への流れ。二つ目が武力蜂起の流れです。明治7年の佐賀の乱は例外ですが、敬神党(神風連)の乱から西南戦争に至る士族の反乱・内戦は全て明治9年の廃刀令と秩禄処分後に勃発しており、それだけ俸禄の廃止は大きいことだったと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E5%8F%8D%E4%B9%B1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1
明治期の公務員についてですが、そもそもこの時期に公務員という用語が適切であるかは議論のあるところだとは思います。明治から戦前までは「天皇の官吏」、戦後は「公務員」とする方が違いがはっきりするように思います。官尊民卑などの言葉に代表されます。この件に関してはwikiの官僚制の中の辻清明の説が端的に言い表していると思います。
大日本帝国憲法(明治憲法)はその中で
第十条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
と規定しています。これは官制大権と呼ばれ、「天皇の官吏」の裏付けとなる条文ですが、憲法の成立以前から状況としては同じで、将軍の座に天皇が代わってすわり、支配・被支配の関係は変わりませんでした。将軍と臣下の関係の親疎が御目見・御目見以下で分けられるように、天皇と官吏の親疎も、親任官・勅任官・奏任官(以上が高等官)・判任官の区別が存在しました。
国民との関係も江戸期からの流れを引き継ぎ、為政者として上から目線でした。権力の最下部機関である巡査が「おい、こら」と国民に対したことにその一端が現れています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%90%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%83%9A%E5%88%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BB%BB%E5%AE%98

以上、長くなり、期待通りの回答にはならなかったと思いますが、参考まで。

徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。
明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側...続きを読む


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