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一般的に三種の神器は、「天叢雲剣・八咫鏡・八尺瓊勾玉」をもって三種の神器と言います。
「しかし、それは間違っている。」と、ある有名な関西の神社の宮司から聞きました。

「天叢雲剣は尾張氏の守り刀であり、尾張一族が熱田神宮の奥深くに守り隠しているもの。
八咫鏡は火災により焼け曲がり、祭事には仕えないため、伊勢神宮の奥深くに守り隠されたるもの。
御所と伊勢の祭事にはそれぞれ、代わり鏡が作られ、一枚ずつ収められているが、それは祭礼用の鏡であって、神器ではない。
八尺瓊勾玉こそ朝廷の至宝。軽々しく三種の神器などと言うこと自体、無学を現すことである。」

「三種の神器がなければ、天皇の地位に即位できないという俗信が流布していることだが、そのような伝承はありません。これまでも、そのような儀式はなし、そんな儀式をしなくても、天皇の即位に障りない。どうして尾張氏の守り刀で天皇家の命運が決まるのか?多少でも学識があればわかるものでしょう。」
「天皇に即位するときに用いるものは、須賀利御太刀と内侍所の御鏡です。」

とのことです。
1、「天叢雲剣・八咫鏡・八尺瓊勾玉」が三種の神器だと書いてある文献は存在するのでしょうか?そもそもこの3つが三種の神器だと言い始めたのは、いつの時代からですか?
2、天皇の即位に必要なものは「須賀利御太刀・内侍所の御鏡」なのでしょうか?

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A 回答 (10件)

No.9の続きです。


神器が記紀に登場するのは前記の通りですが、皇位継承に使われたのはもっと早く4世紀中ではないかと云われています。  三種(または玉を省いて二種)が何であったか。  一番の鏡については、伊勢の古い社を天皇家の祖先の天照大神を祭る伊勢神宮として、斎宮をおいたのは6世紀と考えられるので、そこへ奉納しその後は形代(模造品)を神器として代々使われたのですが、内裏が何度も火災に会い(最後は1040年とか)現在の形代の鏡は何代目かはっきりしません。
剣については草薙の剣は倭建命の遺品で東夷の守りとして熱田神宮に納められたとの言い伝えなので、はじめから形代が使われたのではないでしょうか。   宮司さんの話もこのような意味でしょう。  剣は壇ノ浦で海没したので、伊勢神宮より形代の剣が奉納される習いだと伝わっています。
玉は先述のように八尺瓊勾玉は固有名詞でないので、初期は適当なものを使い、それが二種の説になったと考えます。  勾玉の生産が盛んでよいものが容易に得られたためでしょう。  平安期勾玉の生産が減り、固定化せざるを得なかったので、三種の神器が定まったものと思います。   従い貴重品となりましたが、壇ノ浦でどうなったか、わかりません。   箱に入っていて沈まなかったか、海没を隠して別な品と替えたか、沈んでまた浮き上がったとは考えにくいものです。
いずれにせよ確実にその後伝わったようで、現在使われている神器の中では玉が一番由緒ありと云えそうです。
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この回答へのお礼

調べていると、草薙の剣が熱田神宮に納められているのは本当のようですね。
内裏が何度も火災にあって、鏡が焼け曲がっているのも事実なのですか。
だから、現在の天皇即位式に必要なものは「須賀利御太刀・内侍所の御鏡」なのですね。
宮司の話を最初に聞いた時は半信半疑でしたが、やっぱり現在の三種の神器説は俗説のようですね。
確信が持てました。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/23 01:13

神器が皇位継承に登場するのは、512年継体天皇が「皇位につき、群臣が天子の鏡、剣の璽符を奉った。

」とあるのが始のようです。   690年持統女帝が皇位につく時も、おなじ記述があります。
これから三種の神器は二種でないかとの説もありますが、4、5世紀の豪族の古墳の副葬品には、鏡、剣、玉があり、景行天皇が筑紫に行幸の際、県主がかしこ木の上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊の玉を掛けて出迎え、他の県主の時も上枝に八尺瓊の玉、中枝に鏡、下枝に十握剣を掛けて出迎えたとあります。
儀礼に三種を使うしきたりがあり、八尺瓊勾玉は普通名詞のようです。従って先の皇位継承の際に、玉の価値は小さく記載されなかったかも知れません。
それは別として、明確に三種が使われるようになったのは、平安期になってからと云われています。
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「朝廷の祭祀の執行に当たった古い祭祀の家である斎部氏は、三種の神器を認める『記紀』の所伝に対抗して、瓊瓊杵命が天上より携え降った宝物の中で『天璽』の名に値するものは鏡と剣の二点のみであり、故に『勾玉』をこれらと同列に扱うべきでないと主張していたといわれています。


また、津田左右吉以来の古典的学説に従えば、皇室の神器は、もっとも古くは宝鏡にのみ言及した『日本書紀』の一書の二の記述によって暗示されているように、鏡一品だけであったものに剣が加えられて二種とされたということになりますね。そして最後に勾玉を加えて三種とする所伝が成立したのだと。さらに直木孝次郎氏によって、即位に際して『三種の神器』を天皇に奉献する儀礼は、天智天皇によって制定され、その後、天武天皇の御代まで三代の天皇のみによって実修されたものであるということが発表されました。そのため『記紀』に収録された三種の神宝授与の神話は、この儀礼に基づいて天武朝に創作されたものであるとされています」

高田崇史著『QED 神器封殺』より抜粋
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この回答へのお礼

詳しい説明をありがとうございます。
専門に研究している人はさすがに深いですね。
私などが理解できる範囲を超えています。
さぞ多数の文献を読んで結論を出したのでしょうね。
参考にします。ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/23 00:49

一応言っといた方がいいと思っているんですが


新三種の神器って知っていますよね?
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三種の神器が天皇の即位に必要とされる説が広まったのは、北朝の天皇は神器がないまま即位した(後醍醐天皇が吉野に逃げた時贋物を置いて本物だけ持って行き、その後の戦乱で南朝軍が贋物も持ち去って行った)ので正統な天皇ではない、南朝が正統な天皇であるという見解とセットになったと思われます。



天皇の即位に本当に必要なのは、大嘗祭です。これを行う事によって、新しい天皇は真の天皇となれるのです。
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この回答へのお礼

なるほど。現在、流布している三種の神器の俗説は南朝が言い出した可能性が高いということですね。
ありがとうございました。参考にします。

お礼日時:2007/02/23 00:41

1, この三種が宝物だという観念は、「古事記」「日本書紀」から見られます。


この観念が発展し一般化するのは鎌倉時代から南北朝時代にかけてです。
三種の神器と呼ぶようになったのは、南北朝以降の話で、最初の文献と思われるのが、
伊勢神道の度会家行が著した「類聚神祇本源」巻十四神鏡編で、三種の神器の意義を論じています。

2,三種の神器は保存場所は異なれ、天皇の所有物ということに意味があるのです。
これを保有していることが天皇の皇位の正当性を主張できるのです。
天皇即位の際、伊勢神宮から須賀利御太刀・御鏡が献上されます。
儀式の際はそれが使用されます。
いわばレプリカですが、剣も鏡も神社から持ち出せない以上、ほかに方法が無いのでしょう。(この部分ちょっと自信なし)
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この回答へのお礼

三種の神器と呼ぶようになったのは、南北朝以降の話ですか。
平安時代は呼ばれていなかったのですね。
三種の神器の俗説は南朝や後醍醐天皇が言い出したことでしょうか?

やっぱり天皇即位に必要なのは須賀利御太刀・内侍所の御鏡であって、三種の神器ではないのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/23 00:37

あなたは根本を理解していないでしょう。


壊れていようがいまいが関係ないんだよ。
あれが神なるパワーがあるから神器と思ってませんか?違いますよ。
天叢雲剣…地上の神スサノオから天照に禅定された剣だから
八咫鏡…天の岩戸の神事に使われたから
八尺瓊勾玉…天の岩戸の神事に使われたから

その宮司の人は伊勢神宮って言いましたか?その段階でレベルが知れます。あれは「神宮」と言います。伊勢にある神宮

この回答への補足

もちろん知っています。
質問する際に、分かり易いように「伊勢神宮」と書いただけです。
どころで、あなたは伊勢に移る前の神宮はどこにあったか知っていますか?
その宮司はそれも知っていましたよ。口伝として残っているそうです。
従って、伊勢神宮のことを神宮と呼ぶのは、当たり前のことです。

>天叢雲剣…地上の神スサノオから天照に禅定された剣だから
スサノオから天照に禅定???
そんな記述はどの歴史書に書いていますか?
あなたの回答は間違いだらけですね。

それと、回答する際には、言葉に気をつけましょう。
社会人として最低限のマナーですよ。

補足日時:2007/02/20 18:11
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この回答へのお礼

>あれが神なるパワーがあるから神器と思ってませんか?

神なるパワーって何ですか?
そんな小学生みたいなことを思っているワケがないでしょう。
「須賀利御太刀」は石川県の展示会で見ましたが普通の派手な剣でしたよ。
絶滅した朱鷺(トキ)の羽を使っていたのが印象に残っています。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/20 18:41

参考資料ですが、こちらをご覧になってみてください。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A8%AE% …

http://park1.aeonnet.ne.jp/~ark/myths/japan/inde …

この回答への補足

1、熱田神宮説
2、壇ノ浦水没説
3、宮中安置説(この儀式に使われているのは伊勢神宮から献上される須賀利御太刀であるので、歴史的には誤りである。)

ということは、壇ノ浦に水没していなければ、熱田神宮にあるということですね。
ますます現在の三種の神器説は俗説だという確信が深まりました。
ありがとうございます。

補足日時:2007/02/20 18:32
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この回答へのお礼

貴重な史料をありがとうございます。
参考にします。

お礼日時:2007/02/20 18:25

神剣と勾玉は安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだと思うのですが。

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この回答へのお礼

壇ノ浦に沈んだと言われているのは剣だけです。
しかし、それは俗説だということを確認したかったのです。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/20 18:45

文献には、無いのでどうも俗説が変化していったようです。


http://inoues.net/mystery/3shu_jingi.html
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この回答へのお礼

この資料は非常に参考になりました。
やはり3種の神器は俗説だったのですね。
京都の神社の宮司を俗説だと言っていたので、真実味が増してきました。

お礼日時:2007/02/20 18:28

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Q三種の神器について

質問が2つあります。

まず前提として、三種の神器はそれぞれ

1.天叢雲剣---熱田神宮にあり、皇居には形代がある
2.八咫鏡----神宮にあり、皇居には形代がある
3.八尺瓊勾玉--古来のものが皇居にある

とされています。
これをもって、剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)が行われるのは良いと思いますが、
質問1:
もともと天皇の所有物であったはずが、なぜ神宮や熱田神宮に祀られることになったのでしょうか?
また、逆に八尺瓊勾玉だけがなぜどこにも祀られてないのでしょうか?
神宮はそもそも天照大神からの授かりものとの認識からなにかしらの理由があるのかもしれませんが。


次に、wikiからの抜粋ですが、


そもそも実際の儀式に使われるのは三種の神器の「形代」(レプリカではなく神器に準ずるもの)であり、実物については祭主たる天皇自身でさえ実見を許されていないという。このことからも、実物が現存しているかどうかは確かめようもない。

祭主たる天皇自身でさえ実見できないのはなぜでしょうか?

どこかの神社でご神体として公開されている(常に一般公開でなくても)
例もあったと記憶しています。

存在の有無や所持不所持によって何か変わるものではなく、
陛下は陛下ですので、異論を挟む余地は皆無ですが、
質問2:なぜ天皇陛下でさえ実見できないのでしょうか?
陛下自身が控えられているのか、それとも何か他に理由のようなものがあるのでしょうか?

少なくても、安徳天皇までは身につけたり、お側に置いていたはずなのですが。

質問が2つあります。

まず前提として、三種の神器はそれぞれ

1.天叢雲剣---熱田神宮にあり、皇居には形代がある
2.八咫鏡----神宮にあり、皇居には形代がある
3.八尺瓊勾玉--古来のものが皇居にある

とされています。
これをもって、剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)が行われるのは良いと思いますが、
質問1:
もともと天皇の所有物であったはずが、なぜ神宮や熱田神宮に祀られることになったのでしょうか?
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神宮はそもそも...続きを読む

Aベストアンサー

>なぜ神宮や熱田神宮に祀られることになったのでしょうか?

 崇神天皇の時代に疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた為、その疫病を鎮める為、従来宮中に祀られていたのを皇居の外に移したとされます。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

 何となく祟られるから遠くへ厄介払いした様な、酷い扱いだなと思うのは私の思い過ごしでしょうか?

 なお、新羅の僧・道行が天叢雲剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした事件の後、宮中で保管する事に成ったのですが、天武天皇が突然病にたおれ、これが剣の祟りであるとされ熱田神宮に戻されたとの伝説が残っています。
 (それ以外にも、好奇心に負けた神官が剣を見た為、祟りで亡くなったとの逸話も残っている…。)

 あと、崇神天皇ってその諡号から神武天皇と同一説や王朝交替説が有り(詳しくはWikipediaで)、交替説で考えると、前王朝の皇女(豊鋤入姫命)が古いだけで金銭価値が余り無い古い剣や鏡(宝玉たる八尺瓊勾玉は金銭価値が高かったので没収されたのかも…。)を抱え都落ちしていった様にも…。
 (神器が伊勢に落ち着くまで何十年も各地を彷徨う事になりますし…。)

 なお、同時期に倭大国魂神を託された渟名城入媛命は、長岡岬に辿り着いたものの髪も抜け落ち、痩せ細って祭祀を行えなかったと伝えられています。
 (病気の可能性も有りますが、天皇の皇女の扱いにしては辛すぎる旅を経た様に思えます。)

 あと、伊勢神宮って皇祖神を祭る神社の筈ですが、明治天皇が行幸されるまで1000年近く御親拝が無かった事も気になる点です。←行かなかったんですから当然見れない。
 (伊勢に行幸したのに御親拝は行われなかった。熊野などへは何度も有ったのに…。)

 伊勢神宮の皇祖神を祭る神社としての待遇は、壬申の乱で大海人皇子が伊勢の国人の助けを受けて勝利を得る事が出来たからと言う説も有りますし…。

 宮中から外に出された理由で明確なのは「疫病を鎮める為」だけなので、色々と妄想が捗ってしまう訳ですが…。

>なぜ神宮や熱田神宮に祀られることになったのでしょうか?

 崇神天皇の時代に疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた為、その疫病を鎮める為、従来宮中に祀られていたのを皇居の外に移したとされます。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

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Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

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実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
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Q宮内庁はなぜ日本史の解明に非協力的なのか

よく宮内庁は皇室の歴史が明かされるのを嫌う傾向にあると聞きます。
仁徳天皇陵は全く調査をすることが許可されてないのでしょうか。
(社会科の先生からはこう聞きました)

日本は今や世界屈指の近代国家です。
しかし、日本の天皇の由来は全く混沌としています。

ならば、なおさら古代日本史の解明は国家の義務なのではないでしょうか。
その機関たる宮内庁が非協力的というのはどういう態度なのでしょう。
その理由が宗教上にあるというのなら、次に繋がるかどうかは別として
今回は一応納得します。

Aベストアンサー

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしまいます。

で、そういう立場からすると、過去の「作られた歴史」が暴かれてしまうことは権威の根拠に関わってしまいます。例えば、天皇家というのは実は朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族の末裔ではないかという話があります。倭国(日本)は百済の支援をして当時の倭国としては大軍事力を半島に派遣して白村江の戦いで敗れてしまいます。なぜ倭国が百済に過大なまでの支援をしたのか、単なる同盟関係であっただけではなく、実は百済が天皇家からみると「本家」で、倭国は百済の分家ではないのかという話があります。
日本ではその後いわゆる壬申の乱が起きて天武天皇が即位するんですが、大友皇子と大海人皇子の関係とかどうも日本書紀を読んだだけではよくわからんことが多いのです。そのへんについて日本書紀が改竄というか捏造というかそういうことをしたことは間違いないのですが、どのへんを歴史を書き換えたのかはよくわかりません。
もし仮に「皇室はかつて朝鮮半島からやってきた渡来一族の末裔である」ということが明らかになってしまったらどうなるでしょうか。嫌韓のネット右翼がなんと言い出すかどうか考えただけでも恐ろしいですね。今のところ皇室半島渡来説は荒唐無稽で根拠のない話ということになっています。なぜなら、日本書紀にも古事記にもそんなことは書いていないからです。しかし、日本書紀も古事記も時の権力者にとっての「大本営発表」なので歴史の削除、捏造、針小棒大などは当然あるわけです。あるけど、ないことになっている。それが我が国の古代史に対する学会の立場です。古代史は天皇家についてはアンタッチャブルの領域なのです。

また、皇室は一応ずーっと続いているということになっていますが、南北朝で相当ヤバいことになっています。血統の正当性という立場からいえば、南朝が正当です。しかし、北朝は時の権力者足利尊氏によって成立しており、最終的に南朝が北朝に吸収される形で再統一されています。このときの北朝系の血筋がね、どうなんだよってところなんです。私もその時代はそんなに詳しくないのですけれど。
で、戦後すぐに「我こそは南朝の末裔であり、正当な皇室の血筋である」と名乗り出た人がいたのです。世間でいわれるところの熊沢天皇事件というものなんですけどね。単なる気が狂ったおっさんが「わしは天皇である」といっただけならこんな歴史には残らないです。熊沢天皇事件が戦後事件史のひとつとして残っているのは「そういわれると、そうかもしれない」というのがあったからなのです。熊沢天皇は「北朝(現皇室)は南朝から帝位を簒奪し不法に即位している」と訴えたのですが、「そういわれりゃあ、そうだよな」ってところはあるんですよ。熊沢天皇は結局のところ南朝の末裔であることを証明することができなかったので最終的には「自称南朝の末裔」ということになったのですけどね。一時的であれ宮内庁は頭を抱えたのですよ。GHQは熊沢天皇に興味を持っていて、場合によっては昭和天皇を退位させて熊沢天皇を(GHQの手先として)即位させるんじゃないかと警戒したのですね。

宮内庁の仕事は、現在の皇室の伝統を次代に繋げることです。皇室にはなんとかの儀、かんとかの儀、と年がら年中しきたりだらけなのですが、それを続けることが最も重要なんですね。伝統の継続というものの頂点にある存在といってもいいでしょう。「歴史的に見て正しい」かどうかはむしろ邪魔なんですよ。まあ宮内庁関連の人といったら公家の末裔とか松平家の末裔とか父は貴族院議員とかそんな人たちばっかりですからね。しもじもの者が入りたいといっても入れてはくれません。

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしま...続きを読む

Q南北朝の「南朝」が皇室の正統なのは何故?

かつて南北朝時代には「南朝」「北朝」の2つの朝廷がありましたが、
現在の天皇家は北朝の子孫です。
なのに、なぜ天皇家は「南朝」を正統と認めているのでしょうか?
現在の天皇家が正統であると主張したいならば、「北朝が正統」と
言ってしまった方が都合がいいと思います。

「皇位継承の証である三種の神器は南朝が持っていた」とされていますが、
その程度の歴史なんて、都合が悪ければ多少改竄でもしていい気がします。

南朝正統論の背景とは、後醍醐天皇に対する敬意でしょうか?
もしくは後醍醐天皇の怨念に対する鎮魂が意図されているのでしょうか?

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徳川光圀が編纂した「大日本史」が南朝を正統としているのは、
新田一族(徳川家の先祖)が味方したのが南朝側だから。

で、明治維新時の尊皇攘夷派の理論的根拠が水戸学にあったから。
水戸学のベースの一つに「大日本史」がある。
結果、水戸学では南朝が正統という理屈になるため、その影響を受けた。

結局、当時の権力側が味方したのが南朝側だから。ということでは。

Q草薙の剣って壇ノ浦に沈んでレプリカだから小さいの?

■両陛下が伊勢神宮へ 20年ぶり剣と勾玉も
http://www.news24.jp/articles/2014/03/25/07248044.html

えらく小さい・・・

剣って”短刀”ですか?



にしても天皇もお年を召したので、そろそろ・・・

佳子内親王殿下に代わっていかがでしょうか?
弟が成人するまでの間でいいよね?

■佳子内親王殿下※皇室典範改正賛成♪

Aベストアンサー

>あれ?皇居にあるのがレプリカで伊勢神宮にあるのが本物だよね?
>壇ノ浦に沈んだのが初代のレプリカで、今のが二代目のはずでは?

草薙の剣は史実では2本あります
1.熱田神宮の剣
  (ただし近代以降、見た人間はいない)
2.壇ノ浦合戦のとき草薙剣が海に沈んだ
 と言われている剣

問題は1と2
 日本武尊は東征の帰途、尾張の豪族の娘・宮簀媛のもとに草薙剣を置いたまま死去しており、その後、草薙剣が他所へ移転したという記事はありません。
 なので熱田が初代、壇ノ浦合戦の剣が形代の場合もあります。
 これは確認する方法がありませぬん

問題は天皇家の剣ですがこれが形代です
 レプリカではない。形代とは神霊が依り憑く(よりつく)依り代ですので、レプリカとは少々異なるのです。無論形代なので形は関係ないんです

 一応ば、熱田神宮のものが、消滅したとか、他へ移転したとかが文献上確認できない限り、「本物」ということになります。
 ただ日本の場合は魂という考えがありまして・・・あとの2つも一応本物といえなくもない
 日本神話では神霊とは複製することができるものでした。。
 ある場所に草薙剣の神霊を招き降ろして別の剣に移せば、そこに新たな草薙剣が誕生したことになるのです。その意味では、壇ノ浦に沈んだのも、宮中に伝わっているのも、このようにして生まれた一応「本物」ということになります。
 なお、これら新・草薙剣が古くからある剣を転用したものか、新たに鍛造したものかはわかりません。
このことは、同じく三種の神器の八咫鏡にも言えることで、伊勢神宮だけでなく宮中にも祭られており、しかも宮中のものは火災で損傷したため作り直されていますが、それでもみんな「本物」になります。

>あれ?皇居にあるのがレプリカで伊勢神宮にあるのが本物だよね?
>壇ノ浦に沈んだのが初代のレプリカで、今のが二代目のはずでは?

草薙の剣は史実では2本あります
1.熱田神宮の剣
  (ただし近代以降、見た人間はいない)
2.壇ノ浦合戦のとき草薙剣が海に沈んだ
 と言われている剣

問題は1と2
 日本武尊は東征の帰途、尾張の豪族の娘・宮簀媛のもとに草薙剣を置いたまま死去しており、その後、草薙剣が他所へ移転したという記事はありません。
 なので熱田が初代、壇ノ浦合戦の剣が形代の場合も...続きを読む

Q拘らず・関わらず??

すみません。以前から気になっていたので正しい答えを教えていただけないでしょうか。

「かかわらず」という言葉の漢字変換なのですが,
例えば

 雨が降ったにも「かかわらず」,彼は傘を差さずにやってきた。

というような文の場合,正しいのは「関わらず」「拘らず」どちらでしょうか。

国語辞典で調べてみたのですが,よく分からなくて(+_+)
すみませんがよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「物書き」のひとりです。

まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか(わる)」がないことです。常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。音訓表に無いものの代表的なもの(よく使われるもの)として「全(すべ)て」「画(えが)く」「〇〇に依(よ)れば/拠(よ)れば」などが思いつきます。

本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められているのみです。それも「かかわる」でなく「かかる」です。「人命に係(かか)る問題」「係(かか)り結び」など。前者は、「人命にかかわる問題」のように表記されることもありますが、この場合(常用漢字の基準では)「係わる」でなく「かかわる」です。

結論としては、「それにもかかわらず」などにおける「かかわらず」は仮名書きが無難でしょう。漢字の場合は「拘わらず」が正しいといえます。ただし、パソコンでは「関わらず」と変換されることが多いようですネ。

漢字の場合、「関係」という言葉があるように、「関わる」と「係わる」の用法はほとんど区別がつきません。一般的に言えることは、「関わる」「係わる」は肯定的にも否定的(「関わらない」「係わらない」)にも使いますが、「拘わらず」は、肯定的に用いられる例が少ない、ということです。

ただし、肯定的な「拘わる」が誤りだと言っているのではありません。念のため。

「物書き」のひとりです。

まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか(わる)」がないことです。常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。音訓表に無いものの代表的なもの(よく使われるもの)として「全(すべ)て」「画(えが)く」「〇〇に依(よ)れば/拠(よ)れば」などが思いつきます。

本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められてい...続きを読む

Q三種の神器は何時ごろからあるものですか?

天皇家に伝わる三種の神器というこのがあるそうです。
これはいつごろから伝わっているものでしょうか?
記紀では何天皇のときに初出しますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは
詳しくは、こちらをどうぞ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A8%AE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%99%A8

Q勾玉の形は何を表していると言われているのですか?

おたまじゃくしみたいなあの形はいったい何を表現しているのでしょう? まだはっきり答えが出ていないことは知っていますが、今までどう言われてきたか教えてください。 少数意見など複数の答えを知りたいです。

Aベストアンサー

こんにちは。
不思議な形ですよね。
下のように書いてあるHPがありました。

<勾玉について>
縄文、弥生時代から受け継がれてきた勾玉(日本書紀や韓国では曲玉)には不思議な力があると信じられていました。
戦いの際の守護の他、心身を美しくすると言い伝えられ、単なる装飾品としてではなく、祭事用具、護符、呪術的、権力の象徴など、祭事を行う人や位の高い人に多く使われました。
勾玉の形は胎児のようでもあり、三日月のようでもあります。
この形の由来としてあげられている説としては、
・おなかの中の胎児をモチーフにして作られ、生命や魂をあらわす。
・狩猟により得た獣の牙や角をモチーフにして作られ、その大きさ等で強さや威力を示した。
・夜ごと形が変わる月の魔力を恐れ敬いモチーフとし、護符とした。
・身体内の臓器(心臓や肝臓)をモチーフとして作られ、生命や魂をあらわす。
などがあります。

ある考古学の教授は、「鏡と勾玉が常にセットで用いられたところを見ると、日神の象徴である鏡に対して、勾玉は月神の象徴なのではないか。」と言っています。

・・・だそうですが・・・。

こんにちは。
不思議な形ですよね。
下のように書いてあるHPがありました。

<勾玉について>
縄文、弥生時代から受け継がれてきた勾玉(日本書紀や韓国では曲玉)には不思議な力があると信じられていました。
戦いの際の守護の他、心身を美しくすると言い伝えられ、単なる装飾品としてではなく、祭事用具、護符、呪術的、権力の象徴など、祭事を行う人や位の高い人に多く使われました。
勾玉の形は胎児のようでもあり、三日月のようでもあります。
この形の由来としてあげられている説としては、
・...続きを読む

Q「輩(やから)」ってどういう意味ですか?

テレビやラジオで関西の芸人さんが「ヤカラや」って言ってるのを聞いたことがあるのですが

意味が分かる方、教えてください。

関西方面の言葉(大阪弁)なのでしょうか?

Aベストアンサー

大阪出身のものです.
疑問に思われたということは,一般に使われている「・・・する人たち」というような意味ではなく,いきなり一つの名詞のようにして「やから」が出てきたのではないですか?
もしそうなら,それは「やくざや不良など,理不尽な言い分を押し付ける人」という意味に使われているものです.特にやくざ限定というわけではなく,街のおっさんでも,変な因縁をつけてきたら,やからです.
また,「やかられる」(=因縁をつけられる,からまれる)などという言葉もあります.

Q卑弥呼と天皇の関係

邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

Aベストアンサー

邪馬台国は、畿内とは言っても、京都、兵庫、大坂の地域に分布した国です。一方、原大和朝廷(天皇勢力)は大和盆地(奈良盆地)にあった国です。両者は棲み分けていました。魏志倭人伝に登場する狗奴国が原大和朝廷のことです。(邪馬台国が畿内にあったのはほぼ間違いありません。)

また魏志倭人伝にある通り、邪馬台国の領袖は女であり、狗奴国の領袖は男(天皇)でした。

両者は国境を接して小競り合いを続け、対立を繰り返し、決して友好な関係ではありませんでした。しかし、邪馬台国が魏朝と晋朝の冊封体制下にある間は、中華皇帝の威光を背景とする邪馬台国の勢力が優っておりました。

武帝が死去して恵帝の時代になると晋朝の内部崩壊が始まり、八王の乱に至って晋朝の権威は地に堕ちました。中華皇帝の威光の凋落は日本にも大きな影響を与えました。邪馬台国の勢力は弱体化し、この時期に原大和朝廷が邪馬台国を制して西日本の統一へ動き出したと見られます。(第八代孝元天皇から第十代崇神天皇のころ)


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