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武道をやっている知り合いと最強の武術家は誰だ、といった話をしていたところ、最強は本多忠勝だろう、という結論になりました。
そこで本多忠勝について調べたところ6m以上の豪槍を振るい、一万人の軍勢に単騎で突撃して無傷だったとか、武田軍に敗れた徳川軍の殿を努め、少数の手勢と自分だけで武田軍の追撃を食い止め、その戦いぶりが歌にまで詠まれたとか、いくらなんでも人間を越えているんじゃないか、などと思いました。
あと、ふざけて棒で川原の葦をなぎ払ったら、薙刀で薙いだかのように葦がみんな刈られてしまった、なんて話もあったとか。
本多忠勝が実在の人間で傑出した武人であることは確かなのだろうとは思いますが、彼の活躍として伝承されている逸話は全て本当の話だったのでしょうか。すごすぎて、誇張されているような気もします。果たしてどの程度真実なのか、ご意見をいただけないでしょうか。
個人的にはこういった武人の話は好きなので実話だったらいいなあ、と思っているのですが。

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A 回答 (6件)

こんにちは。


本田忠勝が非力だなんて思わないですが、この人が出てくるなら、
北畠具教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0% …
や、
足利義輝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …
なども全然劣らないと思うけど・・・?

ちょっと不満な点。
6m以上の豪槍を振るい・・・確かに楽ではないけど、一端振り出してしまうと自重ですごい威力を発揮しますので、コツがあります。
おそらく現在でも伝承されている棒術を学んだ人ならすぐわかるでしょう。
ただ6mもの長さだと普通に木などで作った物では振るだけで簡単に折れてしまいます(私は3m×5cmφの木の棒を振るだけで折りました)ので、鉄などの材料だったのでしょうか。
だとすると力持ちって事はいえますね。

一万人の軍勢に単騎で突撃して無傷・・・
資格なしです。上杉謙信もやってます。
武田信玄の軍配に刀創をつけたとか。

武田軍の追撃を食い止め、その戦いぶり・・・
もっと悲惨な惨敗を来たした軍勢の殿軍を務めて本人無傷(かすり傷などはあったと思われますが)の人がいます。
織田信長が浅井・朝倉連合に包囲された時の殿軍、豊臣秀吉ですね。
彼は武人とはとても言えません。
撤退戦における殿軍は、自身の武術よりは戦略面が重要なようです。

棒で川原の葦をなぎ払ったら・・・
実際にやってみると判りますが、それ程難しい事じゃないです。
あまり太くない丈夫な棒を早く振れば、綺麗に刈る事ができますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
実際に日本の古武術をされている方でしょうか。
私も一応少林寺などをやってきましたが大型の武器術に関しては未経験なもので6mという長さだけで驚いていました。技術と膂力である程度は解決する問題なのですね。
そういえば中国の李書文もかなりの小柄な体格で5m以上の太い槍をハエの群れを打ち落とすくらいに繊細に使いこなしたらしいですし。
北畠具教については初めて知りました。19人てすごいですねえ。剣豪将軍については一応知っておりました。
上杉謙信は女性説もあったらしいですね。もし女性だったらすごいな。
というか戦国時代ではこれくらいの武勇伝の持ち主は珍しくないということですかね。

お礼日時:2007/02/27 21:58

また失礼します。


他の方のお礼に面白いお話がありましたので、参考までに。

>落馬・・・の件ですが、確か柳生心眼流という古流(古流は総合武術が多いので他にもあると思います)に甲冑武者取りというのがあり、鎧装着時の受身の取り方等が残されています。かなりコツがあるようです。
例えば、転がる時には必ず兜の後ろの錣を、あとから着地する側の手で押さえてから転がらないと、錣のパーツの札(「さね」という金属の小片)が立ってしまうと脊髄の椎間板軟骨に刺さって全身不随になる・・・とか。

落馬は戦場では多かったでしょうから、こういう各種のテクニックがいろいろあったはずです。

ついでに6mの件ですが、長柄の槍はそもそも振り回す物ではありません。
本来は、相手に向けて地面に伏せるか立てて置き、指揮官の合図で一斉に穂先側を持ち上げ(立てた場合は前に倒して)、石突を地面に突き刺して足で踏みつけて押さえて、突撃部隊を串刺しにして止めるものです。
特に騎馬隊に有効だったようです。

新陰流で有名な上泉伊勢守なども槍術に長けていたようですが、徒士での白兵戦では長い槍はまず使わなかったでしょう。
棒術の総本山?みたいな存在である竹之内流でも上級者は短い棒を用います。

長い槍が白兵戦で役立つのは騎馬武者が槍を使う時でしょうね。
この場合は主に突くので余り振り回す事はしませんが、穂先でひっぱたくような使い方はあったようです。
先にも書いたように、あまり長いと折れちゃう心配がありますし、振った場合、止めるのも非常に大変で、素人が振り回すと必ず手首か肘か肩を一撃で外します。馬上では自分の馬を殴ってしまうでしょうね。
戦場では相手に叩きつけて止めていたのでしょう。

もう一つおまけに三方が原ですが、家康主従が落ち延びられたのは、家康の陣の後方の橋を守備していた夏目吉信、鈴木久三郎などの旗本が、家康が通るまで橋を死守しようとし、なかなか主が通ってくれないので最後は「われこそは徳川家康なり」と名乗って身代わりで死んだおかげが大きいようです。(忠勝も時間稼ぎはしてくれたと思いますが)
この守備隊は家康の本陣が崩れる前に武田勝頼を主力とする騎馬隊の襲撃を受けていて、肝心の主は橋を通れば命はないと考え、彼らを見捨てて別な細道から大回りをして浜松城に帰ったそうです。
まあ、後の大御所様が馬上でオモラシ(大!)をしたという恐怖の戦だったそうですから、その位は仕方がなかったのでしょうね。

以上、完全に脱線回答でした。m(__)m
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この回答へのお礼

おもしろいお話ありがとうございます。こういう話は大好きなのでうれしいですよ。いろいろためになります(笑)
歴史にも武術にもお詳しいんですね。
槍に勝る刀なしといいますが長すぎるとやはり使いにくくなるもんですね。6mはやはり長すぎるのか。

お礼日時:2007/03/01 19:00

ディフォルメやオーバーを好む主君の元に書かれた記録というのは、多少、眉唾、誇張だと思っています。


実直を好む家康の周囲で、記録されたものは、読み物としては、つまらないくらいのリアリティを感じます。
四天王の中では、新参の井伊直孝は、「向こう傷しかない」という多数の傷を自慢にしていたようですから、傷というのは、ひとつの誇れるアイテムだと思います。
その中で、無傷は、事実かと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。やはり誇張はそれなりにあったのでしょうね。少なくとも誇張されるだけのもとがあったということでしょうけど。
そういえば本多忠勝はどれかの合戦で馬をやられて落馬したそうですが。怪我はしなかったのでしょうか。落馬したあとも平然とそのまま走って突撃したそうですが。
それとも現代人の怪我と戦国時代の人間の考える怪我というのは基準が違ったのかもしれませんね。たとえ骨折しても痛くないそぶりで戦えば無傷、とか。

お礼日時:2007/02/25 17:28

十三歳の初陣以来、57回の合戦に出て、身に傷跡一つ無しと伝わっていますが、どの合戦で誰の首をとったかは、書かれていないようです。


戸部新十郎氏が書かれている、「井伊、本多、酒井、榊原」の徳川四天王の彼らだけが奮励し、功を挙げてきたわけではないが、語り継がれているうちに、「三河武士団」の代表のようになった。  というあたりが正当な評価でしょう。
といっても彼の武勇を低く評価するものでは在りません。
若き家康が清洲の信長に面会に行った時、これを眺めた清洲の群衆が騒いでいるのを、供の14歳の忠勝が「三河の家康が両家のよしみを結ばんために来たりしに、汝ら何とて無礼するぞ」と一喝して群衆が静まったとの話があり、彼の威容を示すものでしょう。
あとはご存知の秀吉との小牧、長久手の合戦で万余の敵に、三百を率いて立ち向かった話は有名です。(異説がありますが実話だと思います)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
14歳で、ものすごい気迫と威厳の持ち主だったのですね。少数で多数を相手どるというのを実際にやってしまうというのは彼が指揮官としても優秀であったことをあらわしているのでしょうね。個人としても強くて、戦術や戦略にも長けているっていうのは、まさしく天は彼にいくつもの才を与えたということでしょうね。

お礼日時:2007/02/25 17:25

何かの本で読んだのですが、戦国時代が終わって、江戸時代になってから、


本多忠勝が強いとの噂を聞きつけた宮本武蔵や佐々木小次郎のような剣術者が、本田忠勝に試合を申し込みにきます。
その剣術者(名前は忘れました。)が本気で果し合いをしようではないかと、本田忠勝を挑発します。

果し合いの当日、その剣術者はバガボンドの宮本武蔵のような格好で、日本刀を持って現れます。
それに対して、本田忠勝は全身に鎧を装備して、長い槍を持って、馬に乗って現れたのです!
もちろん、その剣術者はすぐに降参をして逃げていきました。
という逸話があります。
本当か嘘かは知りませんが。(笑)

江戸時代と戦国時代の意識の差を表しているようで、面白い逸話だなと思って覚えていました。
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この回答へのお礼

その話は始めてしりました。ありがとうございます。
面白いですね。ゴルゴ13というマンガで、格闘家がゴルゴに勝負を挑んだところ、ゴルゴがあっさり射殺してしまった話を思いました。

お礼日時:2007/02/25 17:22

戦国時代の武勇というのは、個人ではなく家を対象にしたもので、一族郎党の働きと考えるのがよろしいでしょう。


本多忠勝の場合、若くして本多一族宗家の当主になりましたので、格別の忠誠を受けたと思われます。
生涯、戦場で傷を負わなかった、との評判が立つだけでも、すごいです。真偽に関わらず。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
彼の武勇伝は個人だけのものではなく一族郎党のもの、ということですね。考えてみればそうですね。
でも逆に言えばそれだけ優秀な武人たちを統率してきた、ということでもあるのですね。

お礼日時:2007/02/25 17:19

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Q戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

Aベストアンサー

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その中でも、近江箕作城の戦い及び越前金ヶ崎城の戦いでは槍をふるって敵の首を取っている。また、摂津・春日井堤の戦いは「堤の上の槍で」と信長に讃えられている。武勇に優れていた事は間違いありません。

慶長4年(1599年)2月、病躯をおして、利家は和解の実を示す為に伏見に家康を訪ねている。
また、同年3月、家康は病気見舞いと答礼をかねて、大阪城に利家を訪ねている。その際、利家は病状が悪化し、やっと床を這い出て中の間で家康と対面している。この二つの状況からも利家の「律儀さ」が窺えると同時に、家康が一目置いてた大大名利家の存在感を現しています。

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Qリベラルとは?

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・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

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Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

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Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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Q携帯電話番号から本人の個人情報はどこまで割れるのか?。

 知られたくない人に携帯電話番号を多く知られています。そこで、ふと思ったんですが携帯電話番号からどれほど個人情報って割り出せるんでしょうか?。
 
 まさか住所まで割り出せるっていうのはあるんでしょうか?。

Aベストアンサー

こんばんわ、jixyoji-ですσ(^^)。

まず下記HPなどをご覧になればわかるとおりある程度割り出す事は可能です。

「携帯の電話番号から契約した電話会社と地域を表示「おしえて!ケータイ君」」
http://www.forest.impress.co.jp/article/2003/07/01/k-taikun.html

「携帯電話キャリア割当表」
http://shuu1.milkcafe.to/hobby-littlememo-keitai-no.htm

下記もponnkoponnkoさんに参考になると思います。

「個人情報の流出」
http://www.web110.com/cyberacademy/ch05.html

「過去の「電脳ネット個人情報対策について」の情報」
http://www.joho110.com/tnk.htm

「過去の「電脳ネット犯罪対策について」のデータ」
http://www.joho110.com/thti.htm

ちなみに個人情報は下記のようなケースで漏れるのでくれぐれもご注意ください。

・女性の場合ですが第3者が公衆トイレなどに電話番号,住所,名前などを記載して【この女は3万円で好きな事できます】etcといたずらされている。

・小,中,高,大学の卒業名簿を誰かが【名簿業者】に売った。

・インターネットやその他の【アンケート】関連の住所,電話番号の情報が流出した。あるいは内部の人間が【名簿業者】に売った。

・マンションなどに住んでいるのであれば1階にあるメールボックスなどから携帯電話番号の領収書を盗み取って,その番号から芋ずる式に個人情報を特定している。

・中には会社の総務部の人間や市役所で【戸籍謄本】などの公文書を闇で売買している社員,公務員がいる。実物でなくともコピーなどで簡単に複製できる。

・ponnkoponnkoさんのご両親や友人に名簿屋などの裏の人間が適当な話をでっち上げて携帯電話の番号や住所,会社,口座番号などを突き止めている。例えば,

『○○学校卒業生の高橋と申しますが今度クラス会を行うので,ponnkoponnkoさんの携帯電話番号など連絡付ける方法を教えてくれますか?』

『○○市役所税務課の伊藤と申しますがponnkoponnkoさんは住民税を滞納しておりお住まいのところへ連絡しているのですがつながらないので,携帯電話番号をご存知かと思いますが至急教えてください。このままだと重加算税が加わりponnkoponnkoさんにとって負担が大きくなります。』

『○○宅急便ですがご自宅が留守なようなので連絡がつかないので携帯電話番号を教えていただけますか?』

毎週日曜AM10:00~『サンデージャポン』という番組で架空請求詐欺の対抗策で次の方法が有効だとおっしゃっていました。

★アンケートにしろレンタルビデオ店の会員登録にしろ,銀行の口座開設にしろ記載した『住所』に例えば●●町●●番地 【A】などのように自分にしかわからないような"記号","暗号"を記載しておくと,もしダイレクトメールで業者が送ってきた住所にその記号があればどこから情報が漏れたかを特定しやすいそうです。

それではより良いネット環境である事をm(._.)m。

こんばんわ、jixyoji-ですσ(^^)。

まず下記HPなどをご覧になればわかるとおりある程度割り出す事は可能です。

「携帯の電話番号から契約した電話会社と地域を表示「おしえて!ケータイ君」」
http://www.forest.impress.co.jp/article/2003/07/01/k-taikun.html

「携帯電話キャリア割当表」
http://shuu1.milkcafe.to/hobby-littlememo-keitai-no.htm

下記もponnkoponnkoさんに参考になると思います。

「個人情報の流出」
http://www.web110.com/cyberacademy/ch05.html

「過去の「電脳ネ...続きを読む

Q戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ

戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ広いようなところで敵味方混ざりながら戦っていたんですか?
戦国時代がかかれた映画とかゲームとか見るとそんな感じでかかれていますが

Aベストアンサー

何とも言えませんが・・・そうですね、自然に考えれば戦闘の際は現在の科学戦法と違い、真っ向勝負が基本だった事が「何々合戦図屏風」なんかを見れば、分かります。敵味方入り乱れて背中に自分の軍である幟を背負い目印にし、ワーワーやっていたんだろうという事は想像に難くありません。大声を上げるのは「自分を鼓舞」するのと「相手を威圧」する効果があるので、「おりゃ~」「きさま~」「死ね~」「お前らの負けじゃ~」とか言いながら戦闘してたんでは無いですかねぇ。それが入り混じれば、ワーワーとしか聴こえないので、12noname34さんが疑問に思っている事は正しいと思いますよ。

Q井伊直政と本多忠勝について

見てくださった方ありがとうございます。

徳川四天王の井伊直政と本多忠勝には「忠勝は薄手の鎧で傷一つつかないのに直政は厚手の鎧で傷だらけ」と両将を対比したエピソードがありますが、なぜ直政は傷だらけなのに忠勝は傷を負わなかったのでしょうか?

どなたかお詳しい方、ご回答よろしくお願い致します!

Aベストアンサー

本多家
松平家の古参普代
井伊家
新参

新参は目に見える形で、忠義の程度を見せる必要があったから。

事実として、両者が傷があったりなかったりしたとしても、古参の本多家であれば「傷がないのが武勇の証明」になるが、新参の井伊家では、傷がないことは激戦地に飛び込んでいないと言われかねない。特に、四天王のうち最も若輩である井伊直政は、家康の贔屓で実力以上に評価されている、と言われないように、傷をおおっぴらに喧伝する必要があった。

Q戦国武将の無傷伝説について

見てくださった方、ありがとうございます。
57もの合戦に参戦しながらも傷を負わなかった本多忠勝、70回を越える合戦に参戦したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかった馬場信春、39度の合戦、19度の真剣勝負に臨みながら一度も負傷しなかったとされる塚原卜伝(武将ってより剣豪ですが)など無傷伝説を持つ武将がいますがどこまで本当なのでしょうか?

当時の合戦は7割以上が飛び道具が死因だったと聞いたことがあるので一体どのようにして矢鉄砲を防いでいたのでしょうか。
また、若い頃から槍働きで活躍してきた藤堂高虎の御遺骸は「度重なる戦陣による玉疵たまきずや槍で突かれたあとなどが体中にあり、六尺二寸の御遺骸にはあいたところがないほど疵で埋め尽くされていた。また、右手の薬指と小指は切れ、左手の中指も一寸ほど短く爪が無かった。」そうですが、なぜ高虎は傷だらけだったのでしょうか?

どなたかお詳しい方、よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

>なぜ高虎は傷だらけだったのでしょうか?

 本多忠勝は、10代の時に50騎の与騎が付きましたし、馬場信春は、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏の名家を継いで侍大将に成りました。
 要するに、若くして沢山の兵に守られて傷付かずに済む立場にいた訳です。
 (けして彼等が臆病だったといっている訳では有りません。そもそも臆病な人物にこれほどの兵を若くして与える訳は有りません。)

 無論、下の者を適切に指揮する能力が有った(要するに優れた将として、自分が傷付く様な致命的な失敗は犯さなかった)事は疑う余地も有りませんが…。
 (そもそも将が傷付く様な自体を引き起こす時点で、将が兵の運用のミスをしている。)

 それと異なり、藤堂高虎は彼の代(一応土豪の家柄だったが…。)に到る前に家は酷く没落し、その有様は一農民と左程変らなかった様です。
 ですから彼が他人に認められるには、戦場で誰かの助けも借りずに、万人が認める功績を立てなければ成りません。

 ただ、戦国時代は飛び道具主体の集団戦が主流に成りますから、一個人の能力では全てを防ぎきる事は出来ず(手は二つしかないのですから、三個以上の攻撃を同時に行われれば、防ぎようが無い)、結果として合戦に参加すればするだけ傷が増えてしまう事になります。

 まあ、戦場で傷を負わないのも、逆に主君を勝利に導く為に奮戦して多数のも傷を負うのも、どちらも武士として不名誉な事ではありませんから、必要以上に誇張するのは致し方ないかと思いますが…。
 (武士としての不名誉は、死の恐怖に負けて戦場から逃走する事ですから…。←傷の有無は結果論にしか過ぎない。←だったら全く無いか、逆に多い方が良い…。←誇張が発生してしまう土壌…。)

>なぜ高虎は傷だらけだったのでしょうか?

 本多忠勝は、10代の時に50騎の与騎が付きましたし、馬場信春は、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏の名家を継いで侍大将に成りました。
 要するに、若くして沢山の兵に守られて傷付かずに済む立場にいた訳です。
 (けして彼等が臆病だったといっている訳では有りません。そもそも臆病な人物にこれほどの兵を若くして与える訳は有りません。)

 無論、下の者を適切に指揮する能力が有った(要するに優れた将として、自分が傷付く様な致命的な失敗は犯さなかった)...続きを読む


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