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19世紀のヨーロッパのアジア進出の流れは

ヨーロッパの進出→アジアの反抗戦争(勝てない)→アジアの西洋技術の導入→民衆反乱→政治的近代化という感じだと思うのですが、これについていくつか質問があります。

1、西洋技術の導入でなぜ民衆反乱が起こるのでしょうか?

参考書などでは載っていないのですが、具体的にどのような反乱が起きたのでしょうか?

2、反抗戦争は中国ではアロー戦争のことだと思うのですが、オスマン帝国の場合は何の戦争のことでしょうか?

3、オスマン帝国や中国以外の地域にもこの流れは見られるのでしょうか?

自分の勘違いもあるかもしれませんが、回答よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

1.その国独自の経済基盤が破壊され民衆の生活が苦しくなる為です。

経済的利益を得るのは外国であった為です。

中国の場合、英国がアヘンの密輸をし、その代金を銀で得ていました。当時の中国は銀本位制をとっており、銀の流出による銀の高騰は中国の経済にひどいダメージを与え、市民の生活は苦しくなりました。
その為、中国はアヘンの流入を阻止しようとします。これに対し英国は自由貿易を阻害するものと、言いがかりをつけ戦争を起こしたのです。これが1840年に起きたアヘン戦争と呼ばれた戦争です。中国軍は敗退します。この時、戦場になった広東の住民が立ち上がり平英団という組織を作って英国軍に戦いを挑んでいます。
アヘン戦争は英国が勝利し、莫大な賠償金や不平等な貿易条約が結ばれる事となり、市民の生活を一層苦しめる事となりました。
それから16年後、アロー号事件が起こります。中国の官憲がアロー号を密輸、貿易の疑いで臨検し、英国人船長を逮捕したのです。英国は逮捕は不法であり英国国旗が侮辱されたと主張し、またもや中国に戦争を仕掛け勝利します。そして、英国はまたもや多くの権益を得るのです。
アヘン戦争に続く戦争であり、また目的もアヘン戦争同様、経済的権益が目的である事から、アロー号戦争は、第二次アヘン戦争とも呼ばれています。
この後、中国では列強の植民地化が進みます。鉄道が敷かれ、鉱山の開発権や土地や農地が買収され、河川、海洋では外国船の航路が開通します。そうした所で生まれた利益は全て外国に持っていかれました。市民達の生活は苦しいままでした。そして外国人を排斥するべく市民達が立ち上がります。これが1899年に起きた義和団運動です。この運動に押される形で中国政府も列強に対し開戦に踏み切ります。しかし、義和団もろとも敗北し、列強は中国の植民地化を一層強めていくのです。

インドでは1857年にセポイの反乱と呼ばれる戦争がありました。当時のインドは英国の植民地下にあり、インドの人々は貧しい暮らしを強いられていました。インド人への英国の税率は高く、徴税は厳しいものでした。労働者達は安い賃金で酷使され、もともとインドにあった産業は英国人に買収されるか潰されました。農作物の価格は全てロンドン市場の相場で決定される為、豊作であってもインド人に利益が入る事はありませんでした。こうした苦しい生活と英国への不満が噴出し、反乱が起きたのでした。
セポイというのは英国がインドで使っていたインド人傭兵の事です。セポイの反乱の直接の火種となったのはライフルに使われる弾薬筒の油でした。この油に牛と豚のものが使われていたのです。セポイの殆どはヒンズー教徒かイスラム教徒です。ヒンズー教徒にとり牛は神聖であり、イスラム教徒にとり豚は穢れです。英国はインド人の信仰まで奪おうとしているとセポイ達は思い、また家族達も苦しい生活を強いられている事から反乱へと流れ、それに一般市民も合流する事となったのです。

2.1821年にギリシャ独立戦争が起きています。オスマン帝国からの独立
を求めギリシャ人が立ち上がり、その後、独立を勝ち取りました。有名な画家ドラクロワがこの戦争を題材に「キオス島の虐殺」という絵を描いており、その絵は今でもルーヴル美術館に保存されています。
また、1804年にセルビアがオスマン帝国からの独立を求め反乱を起こしています。敗北したり再度蜂起したり、諸外国の干渉があったりと色々ありましたが、1830年には正式にオスマン帝国から自治を得ています。

3.流れはともかく、支配国に対する大きな反乱は幾つか起きています。
1825年にジャワの人々がオランダの支配に対し反乱を起こしています。
1847年にはハンガリーでロシアからの独立運動がありました。
1861年にはポーランドでロシアに対する反乱がありました。
1873年にはスマトラのアチェ人がオランダに反乱を起こしています。
1882年にはアメリカでアパッチ族が反乱を起こしています。
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この回答へのお礼

お礼遅れてすいません。

分かりやすい上にこんなに詳しく回答していただき、ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/11 21:16

NO2です。


中国の民衆反乱について書き忘れたので・・・
第二次アヘン戦争の頃、太平天国の乱が起きています。腐敗して弱体化した中国政府を打倒しキリスト教的信仰にもとづく国家を作ろうとしましたが、内部分裂を起こし戦いには敗れ滅亡しました。

中国政府(清朝)末期は「洋人の朝廷」と言われるほど列強の言いなりであり、権益を奪われ民衆は苦しめられていました。ここで革命を起こし清朝を倒そうという動きが出てきます。中心になったのが孫文でした。彼は華僑や知識人、役人、軍人等、意を同じくする人達を集め、革命の準備を行います。他にも独自に反清朝に動くグループが、この頃は多数ありました。
そして1911年、武昌で文学社・共進会という革命派グループが武装蜂起し清朝軍に勝利し独立を宣言します。この勝利の報が中国全土を駆け巡ると、次々に各省で革命・独立の動きが出て、1ヶ月で15の省が独立宣言を行います。そして孫文がそれをまとめる形で、臨時大総統に就任します。
この危機に対し清朝政府では袁世凱が列強の力を借りて停戦交渉を行います。この結果、清の皇帝は退位し、孫文も辞任し、袁世凱が中華民国臨時大総統に就任し共和的政治を行う事に決まりました。
これが辛亥革命と呼ばれる清朝の崩壊と中華民国の成立です。
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1857 デリー北方のメーラトで東インド会社の印人傭兵(シパーヒー)


がインド最初の民族的反乱

1877 露土戦争 頃 オスマン支配下のバルカンで
 スラブ民族系の独立運動 パン=スラブ主義が広まり
 南下政策のロシアはこの独立運動を利用して トルコと開戦
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この回答へのお礼

お礼遅れてすいません。回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/11 21:01

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