煩悩は108個あると言われてますが、その根拠と108個の内容について御存じでしたら教えてください。
なお、四苦八苦からきた語呂合わせであるという説以外のお答えだとうれしいです。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (1件)

過去に類似の質問が...



参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=20790
    • good
    • 0
この回答へのお礼

おお、すんません(笑)
なんか早いっすね、レスが。
調べないで書いたみたいですいません(涙)
なんか僕が検索かけたら出てこなかったんですけど、
むむむ。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/14 22:13

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q煩悩の数はなぜ108?

なぜ108なんですか?中途半端な数字の気が…。
(宗教のカテがなかったので、思想に関するという意味では近い?かと、哲学のカテゴリーに投稿しました。)

Aベストアンサー

108個という具体的な数値ではなく、「たくさんの」という意味合いです。
最大では8万4千という説もありますが、100を超えるような多くの数がある、というのが由来だと言われています。

他にも「八百万の神」(やおよろずのかみ)というように、自然界にあるすべてのものには神様が宿るという考え方、「たくさん」のを意味する場合に八百万と表したりします。

Qカルヴァンの予定説と職業召命説

カルヴァンの予定説と職業召命説がどうつながっているのか、よくわかりません。

この2つは全く別のもので、一貫した論理ではないのでしょうか?

もしつながっているとすれば、「神から救済されるかどうかは、予め決まっている」ことが、なぜ「神から与えられた職業に禁欲に取りくまなければならない」ことになるのでしょうか?

詳しい人がいらっしゃったら、ご回答ください。

Aベストアンサー

まず、宗教改革以前のキリスト教世界では、労働に対してネガティブなイメージがあったということを押えておく必要があると思います。

宗教改革以前には神への奉仕が第一義とされ、世俗的成功には宗教的な意義はなかった。
労働は神からの罰(エデンの園から追放されて、働かなくてはならなくなった)であると考えられていて、
勤勉であるということに、宗教的な価値はなかった。
お金を儲けたからといって天国へ行ける訳ではなく、ユダヤ人のように勤勉に働きお金を貯めるのは、むしろ忌むべきこととされていた。
しかし、
予定説・・・この世のすべては神の予定のもとにある
職業召命説・・・職業は神の与えた使命である

という考えを敷衍すると、
「神から与えられた職業を全うした」結果、富を蓄積すること、すなわち「結果としての富の蓄積」は神の予定に沿っている結果であり、卑しいことではないと考えることができるようになった(むしろ神の祝福であるとされた)。
肯定されるのはあくまで「結果としての富の蓄積」であって、
お金儲け・贅沢自体を目的とするのはやはり良くないとされた。
そのため、禁欲的かつ勤勉に仕事励み、蓄積された資本を闇雲な消費に振り向けずに事業の拡大に投じる、という行動様式が生み出されていった。

ということだと思います。

また、ルターが聖書をドイツ語に翻訳した際に、職業という意味の訳語にBerufという単語を使ったのですが、その単語に「はキリスト教的天命」と「世俗的職業」の二重の意味があったため、翻訳版の聖書を読んだ人々には、職業召命説は自然なものと感じられたのでしょう。

まず、宗教改革以前のキリスト教世界では、労働に対してネガティブなイメージがあったということを押えておく必要があると思います。

宗教改革以前には神への奉仕が第一義とされ、世俗的成功には宗教的な意義はなかった。
労働は神からの罰(エデンの園から追放されて、働かなくてはならなくなった)であると考えられていて、
勤勉であるということに、宗教的な価値はなかった。
お金を儲けたからといって天国へ行ける訳ではなく、ユダヤ人のように勤勉に働きお金を貯めるのは、むしろ忌むべきこととされて...続きを読む

Q仏教の無我説、非我説について

 私は長年仏教を勉強していますが、どうしても無我説というものが理解出来ません。

 「無我説」というのは「『私』などというものは幻想であり、存在しない」という意味だと思いますが、そうすると子供のころから今まで一貫して続いている「意識の主体」というのは存在しないのでしょうか?子供の頃の自分は今の自分とは全く別の存在であるということでしょうか?(それならば、例えば、高校生の頃にやった犯罪に対して、今の自分は全く責任がない?)

 最近読んだ本の中で、「無我説」ではなく「非我説」というものがあることを聞きました。これは「無我(我はない)」ではなく、「非我(我は・・・にあらず)」だそうです。つまり、我(私の主体)というのは定義できないものであり、「私の主体は私の肉体ではない。」、「私の主体は私の脳でもない」と「私の主体はタケル(私の名前)でもない(ただ単にそう呼ばれているに過ぎない)」というように、「・・・ではない」という言葉でしか表せないものだとか。

 要するに我という主体はあるけどそれは定義できないというのが非我説のようです。

 このような理解でよろしいのでしょうか?

 私は長年仏教を勉強していますが、どうしても無我説というものが理解出来ません。

 「無我説」というのは「『私』などというものは幻想であり、存在しない」という意味だと思いますが、そうすると子供のころから今まで一貫して続いている「意識の主体」というのは存在しないのでしょうか?子供の頃の自分は今の自分とは全く別の存在であるということでしょうか?(それならば、例えば、高校生の頃にやった犯罪に対して、今の自分は全く責任がない?)

 最近読んだ本の中で、「無我説」ではなく「非我説...続きを読む

Aベストアンサー

個人的には、我という主体はあるけどそれは定義できないという意味だと思います。仏教については専門外ですが・・・
『私』などというものは幻想(マーヤ)であり、本当は実在していないというのは、仏教以前のヴェダーンタの教えにも見られます。

聞いた話では、非我説というのは、仏教より以前からあり、古代ヴェーダの時代からネーティ(否定)という言葉で、自己の本質を弟子に伝えてきたということのようです。

つまり自己は○○であるといい現すことは不可能である。否定を通してしか、自己の本質を言い表すことが出来ないという事です。(このあたりウパニシャッド文献などに書かれており、日本語訳も数冊出ています。)

ブッダはよく、知識について当時主流派だったバラモン(知識階級)との議論をしていたと聞いています。バラモンはアートマンが永遠不変の真我であると説いていたのですが、仏陀はアートマン(我)というものは無いと言ったのだと思います。
形骸化した権威としてのバラモンを否定して、仮説を立てずに、人々が分かるように真理を伝える教えとして生まれたものなのではないでしょうか。

それは子供の頃の自分は今の自分とは全く別の存在であるという意味ではありませんよね。そういう卑近な相対的な世界の話をしているのではなく、根本的な原理について話しているのかなと思います。

自己に関する無知があり、無知であるが故に輪廻している。(昔の犯罪は今の自分に責任がないという訳ではない。それはカルマとして自分に返ってくるという思想もありますし・・) それが苦しみの原因である。

少なくとも私たちが「私だ」と思っているものは、実は見当違いである、というのが教えの説くところでしょう。無知無明ってことなのかもれしれません。

仏教が始まる頃の時代背景というか教えや宗教について理解がないと、意外と誤解したり理解できない事が出てきてしまうこともあるかもしれませんよね。

個人的には、我という主体はあるけどそれは定義できないという意味だと思います。仏教については専門外ですが・・・
『私』などというものは幻想(マーヤ)であり、本当は実在していないというのは、仏教以前のヴェダーンタの教えにも見られます。

聞いた話では、非我説というのは、仏教より以前からあり、古代ヴェーダの時代からネーティ(否定)という言葉で、自己の本質を弟子に伝えてきたということのようです。

つまり自己は○○であるといい現すことは不可能である。否定を通してしか、自己の本質を言...続きを読む

Q孟子の性善説、荀子の性悪説

タイトルに関連したことでご回答いただきたいことがございます。

これらふたつの説、加えて中庸説などは、なぜ議論されるものとなったのでしょうか。

教育の必要性を説くことが目的かそれとも宗教の勧誘でもしたいのか…
考えてみましたがモヤっとするばかりです。

お手数と存じますが御教授いただけると幸いです。
お願いいたします。

Aベストアンサー

端的に言って どうしたら大勢の人が善人になれるかという設問は人間にとって切実な問題です。
だから善と悪の因果を知ることは、誠実な心の人にとっては無意識からの心の要求ともなっているのだと思っています。

やはりfireball1さんも、その意味での誠実な心からこの二つの「説」をめぐる議論にモヤモヤを感じているのだとお返事から察せられました。

 こんなふうに考えられないでしょうか。

性善説は、子供の頃の純粋無垢な新鮮な特に昔の我々が森や太陽の光とともに暮らしていた頃の思い出からの自然な感覚から善を連想して、もともと仁儀礼智は備わっていると本気で感じ、それを、そういう民衆が信頼できる統治者のあるべき姿と結びつけたもの。 それに類すると言われている西洋のペスタロッチなどの教育理論も、そこから子供たちの長所を見つめることがいかに大事かを発見していったもの。 歴史的には、大いに人生に役に立ってもきた「説」だったのですが、仁にしても特に自然から離れた生活の文明人にとっては自然なままでそこに最初からあるというのは
甘い幻想となってしまう。
本性というのならば、性悪説の言う本来だれにも欲望がありそのままでは
争いが主となり礼も何もなくなってしまうとうほうが、本来そなわった性質の部分(部分ですが)をよく言い表しているのではないか。  でもなんです。 この欲というのは、切実な貧苦や病苦等にあえいでいる時はとくに争いの方にのみ発展しますが、欲があるからこそ切々と心が通じ合えたり、それが元気のみなもとになったり、だからこそ精力善用を説いて争いそのものの中に武道の道を追求したりするように、 経験上からはその「(部分)」をもって性悪説とするのは半賭けだ。

人間にあたえられた最大のもともとの能力は「自己や自分たちの状況を見つめ反省する能力」だし、それこそ大人がともすれば忘れがちな新鮮な五感の世界、星や川の流れやその光の世界、またそうした新鮮な「感受する側の心」の世界をさらに発展せせてくれる本物の芸術の世界による、心ゆとりが、初めて貧困さへ超えて人間の中に「まごころ(善のふりを自分の名誉保全などのためにいくらでも仮面をかぶってしまえばすることのできる能力を人間はもっている。その能力を純粋に善のための想像力として生かすのも、嘘の無いまごころが前提とならなければ真心自体が存在基盤をなくしてしまう。それも嘘かもしれないですからね。)」の可能性を生んでくれる。

 これは こんなふうに多くの経験を通した多くの知恵を学んで、その中から中途半端な論議は卒業されるべき ほんとに切実なこれからの社会の課題だともいえるのではないでしょうか。
わたしは 知識はけっこう貧しい肉体労働者ですが、むかし知恵はそんな人たちの中に大きなものがあるときがあると学校の先生から聞いたことがあり、n 自分も歳食ってすこしそうなれたのかなとか思ってます。
でも知恵は知識があってよりいっそう役立つとも聞いてます。
こんなふうに おおきな観点 おおきな度量から研究をされにつづけられてあなたのような誠実は研究者が これからの社会のリーダーとなられんことをお祈りしています。

              がんばってください。期待しています。

端的に言って どうしたら大勢の人が善人になれるかという設問は人間にとって切実な問題です。
だから善と悪の因果を知ることは、誠実な心の人にとっては無意識からの心の要求ともなっているのだと思っています。

やはりfireball1さんも、その意味での誠実な心からこの二つの「説」をめぐる議論にモヤモヤを感じているのだとお返事から察せられました。

 こんなふうに考えられないでしょうか。

性善説は、子供の頃の純粋無垢な新鮮な特に昔の我々が森や太陽の光とともに暮らしていた頃の思い出からの自...続きを読む

Q性善説と性悪説、どちらを信じますか?

ある本に、性悪説に沿って物事を考えたほうが、
はるかに人間関係はうまくいくと書かれていました。

皆様は、人間関係において性悪説を信じて行動していますか。
それとも性善説を信じておられますか。

どなたか教えて頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず前提として
性善説の立場は「人は悪いことはしない」
といっているわけではありませんが
そのあたりの理解はよろしいでしょうか

どちらの説に立っても人は「悪いことをするもの」ですので
それに対する備えは必要でしょう

期待し信頼している場合に裏切られた場合の方が
ダメージは大きいものですので


人気Q&Aランキング

おすすめ情報