私は趣味で修道服や比丘尼装束について研究している者です。
「北条時宗」のプレタイトルにストーリーテラーとして登場する覚山尼や時頼の母松下禅尼、涼子の母籐泉尼が劇中で頭巾姿で絵がかれているように昔の出家女性・比丘尼は頭巾をかぶっていたのですが、なぜこのように頭巾をかぶるようになったのでしょうか?
もうおちゃらけでも冗談でもいいのでどなたか回答お願いします(><)

A 回答 (1件)

ご要望どおり、思いつくまま冗談で。



1.実はイスラム教徒だったので、女性は顔しか見せてはいけないから。
2.頭をそっているため、寒かったから。(風邪防止)
3.昔のかみそりは今のように高性能でなく、そるたびに血だらけだったから。
4.流行ファッションだったから。
5.昔の女性は皆長髪だったので、ハゲの自分が恥ずかしかったから。

当ってたらどうしよう…?

この回答への補足

atsuokaさん早速の回答感謝します
それにしても;きゃー本当に思いつきそうな質問だー

1は99%違うと思います。鎌倉時代当時日本にイスラム教が伝わっていたかということはまったくわかりませんが、当時の世界の状況から見てなかったと思います。
それに、髪の毛を隠すとか、顔を隠すとかは実はイスラム教が興った時の当時の風習で、本来イスラム教が定めていることではなかったと言う説もありますが。

2は防寒だけではなく防護としてもありえそうですね。これが正解とは必ずしもいえませんけど。

3ですが、男性の僧侶にとっても同じことが言えるのでどうでしょうか?

4……保留しときます。

5は私も1番始めに思いつきました。ちなみに修道女のほうは髪の毛をあまりいじるのはほめられないそうですが比丘尼のようには剃りません。

ちなみに困り度を3にしたのは本当に回答がほしいからで「すぐ絞め切るよ~」と言うことではありません。これからも気長~におちゃらけた回答から信憑性の高い回答までお待ちしております。

補足日時:2001/01/14 23:21
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モンゴル軍と日本軍の戦力ですけど、数を除けば日本軍が有利と見ます。
日本軍は地の利を得た地元で戦いますし、個々の兵は戦闘意欲も旺盛で、モンゴル軍に引けはとりません。
一方、モンゴル側は馴れない敵地への遠征の上、いつもの大量の軍馬を連れて来れないので、お得意の騎馬戦が出来ず、軍を編成する朝鮮人はいやいや侵攻してきているので、戦意は上がらず、夜は不安だから船で寝ようとしたら台風で沈没したという状況です。
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 「古いものをひっくり返してやる」という意気込みが、当時彼が対戦していた関東の名門佐竹氏に向けられたものだったのか、それとも新興の一族衆であった玉縄北条家の、北条一族内部での家格向上を目指した決意だったのか、今となってはわかりませんが、相当アグレッシブな人物だったことがうかがえます。
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 氏繁個人のランク付けについてはなんとも言えませんが、玉縄北条家は江ノ島や円覚寺、鶴岡八幡宮など鎌倉地域の支配を任されており、決して低くはなかったはずです。ただし、玉縄北条家最後の氏勝(氏繁の息子)は小田原合戦の際、山中城へ援軍として入り、命からがら脱出していますが、山中城の城主あるいは城代という資格は与えられず、譜代衆の松田康長の指揮下で戦っています。
 そこから勘案すれば、重要な城を任され、広大なエリアの統括を行っていた氏康チルドレンや松田、大道寺といった譜代の老臣よりはひとつ下のランクぐらいではなかったのかなと想像する次第です。

エピソードというほどのものではありませんが、氏繁は印判に「眞百(←機種依存文字なので、漢字二つで表現しました。本当は一つの漢字です)趾利出否(てんりしすいふ)」という言葉を用いていました。
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