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大藩の家老ともなると万石を食んでいる者も多く、その家臣も陪臣ながら百俵以上の家禄を与えられている者も少なくなかったと思います。(紀州家付家老で田辺城主・安藤家の城代・安藤小兵衛は陪臣ながら家禄九百俵だったと聞きました。)

家老の家臣は例え数百俵の家禄を貰っていても家格としては藩の足軽などよりも下位だったのでしょうか?
それとも、陪臣ながら藩士の家格も与えられていたりしたのでしょうか。

A 回答 (3件)

藩の中での武士の身分は、概ね「その禄高」で測られたと考えます。

即ち、大名の直臣で禄高100石の者と、陪臣で禄高100石の者では、概ね扱いは同じだったでしょう。

例えば、上杉家の重臣の直江兼続は、上杉家が会津120万石の時は30万石の「日本で一番禄高の多い陪臣」であり、上杉家が関ヶ原後に米沢30万石に減石された後も数万石の禄と家臣団を持っていました。兼続には嗣子がなかったので、彼の死後は兼続の家臣団は上杉家の直臣に直り(、その上級者は)「与板組」として「上杉家の上級家臣」と位置づけられました。

「与板組」でWeb検索して頂ければ分かるでしょうが、
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/ …

「米沢軍の編成について/米沢藩上杉家の軍制は「組」によって区分される戦国時代から続く家臣団の編成により構成され、大まかに分けると米沢移封後に成立した侍組・三手組・三扶持方・扶持方並・足軽組の基本5組による編成で戊辰戦争に突入する事になります。このように基本5組による編成で戊辰戦争を戦った米沢藩ですが、以下に米沢藩の家臣団の編成を簡単に説明させて頂きます。

侍組
米沢藩祖謙信公に従って各地を転戦した越後の国衆及び、上杉家に馴染みの深い信州侍の大身の者から選ばれています。また甲州武田家が織田信長によって滅ぼされた際、越後に亡命してきた武田家の生き残りも含まれます。この侍組は米沢藩上杉家の家臣団の筆頭格で、千坂高雅や色部長門や甘粕継成と言った戊辰戦争で米沢軍を率いた指揮官達もこの侍組の出ですし、他の侍組の藩士も戊辰戦争では兵士としてでは無く、士官として参加した者も多かった模様です。

三手組
三手組は「馬廻組」・「五十騎組」・「与板組」の3組から構成されています、馬廻組は藩祖謙信公の旗本から選抜された者により編成されました。次に五十騎組は初代藩主景勝公の旗本である上田長尾衆から有望な者から選抜されており、また与板組は景勝公の片腕であり、上杉家の副将格だった直江兼続の家臣達によって構成されています。直江家そのものは断絶しましたが、兼続の残した家臣達は有力な戦力として優遇され、馬廻組と五十騎組と並んで三手組と称され米沢藩の主力戦力とされます。

以上の侍組と三手組が米沢藩の上級家臣で、戊辰戦争に参加した軍監や隊頭(小隊長)は主にこの侍組と三手組から選抜されています。」

と解説されている通りです。

足軽と言うのは、要するに「戦国時代に農民を戦争の時に徴兵していた、それが平時に固定化したもの」ですから、武士と言うより農民に近い存在です。「陪臣で禄高100石クラスの者」は「歴々の武士」ですから、形式上は「大名の直臣」の足軽より立場はずっと上です。

この辺は、「大企業の社員」と「その大企業の子会社の社員」の関係に当てはめれば分かりやすいでしょう。だいたい「給料が同じなら立場も同じ」といった感じではないですか?
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この回答へのお礼

やはり日本一家禄の高い陪臣は直江山城守ですか。
毛利連枝の小早川左衛門かとも思いましたが、その頃はすでに独立諸侯とみるべきかもしれないですね。

直江家の家臣は兼続の死後、直臣に戻って上級家臣にもなっているのですね。

紀州・安藤家に附属された田辺与力(二百石)は将軍家より直々に附属された家柄を誇って城代・安藤小兵衛を陪臣と蔑視していたようですが、足軽・同心の類は侍よりは農民に近かったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/12 14:14

 NO.1さんが上杉家の例を引いて、ビッシリ論ぜられていますので、当方は少々雑談的に。

  NO.2さんのおっしゃる「藩によって扱いが違う」というのも、その通りだと思います。
 直ルートの家来と間接的ルートの家来と、どちらがエライのかというのは、中々わかりにくいところがありますね。
 今の役所でも、省の次官が役人のトップかといえば、そうではない役所があります。外務省では事務次官より駐米大使の方がエライですし、法務省では検事総長の方が事務次官より格が上ということになっています。
 一方、厚生労働省では、事務次官は外局の社会保険庁長官よりも格が上です(こっちの方が普通です)。
 旧軍隊では100%ハッキリしているように見えますが、それでもややこしいところがあります。見習士官は階級は曹長で、准尉よりは下ですが、実際は士官待遇を受けていました。
 さて直・陪の関係ですが、将軍家と直の関係にある大名は、明治維新後1万石でも子爵に叙せられていますが、質問者さんご指摘の安藤家などは陪ですから、3万石以上あっても皆男爵で抑えられています。ここでは、直の方が陪よりも格が上、という判断がされているようです。
 しかし、直の旗本は大身であっても、華族にはしてもらえませんでした。(大名を将軍の臣と見るかどうか異論がありますが)。
 当時のそのような相場観が、下のレベルにも通用するんじゃないでしょうか。
 各大名の家来の場合も、原則的には直臣の方が陪臣より格が上でしょうね。でも、直臣の50石と陪臣の500石では桁が違いますから、平時の付き合いでは、50石が500石に対して、上から物を言うということはあり得ないと思います。
 
 足軽というのは、原則的には1代限りの雇いで、これは「士」ではなく「卒」と見るのが普通ですから、陪臣の「士」よりも明らかに格下であると思います。
  
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この回答へのお礼

特に法務省の場合、次官は法務検察官僚の中でナンバー5に過ぎないみたいですね。

明治維新後は内高換算で1万石以上の旗本や万石以上の家老も男爵に列していたようですね。旧来の武家社会の秩序が崩れていたとはいえ、内高でも万石に達しない数千石クラスの由緒ある旗本が士族に編入されて一番報われなかったかもしれないですね。

幕府の同心は御家人の家格ということですが、諸藩の足軽は卒族として明らかに格下だったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/12 14:28

大藩の上級家臣にはたくさんの家臣を抱えていますね。


また、#1の人が言うようにその家が途絶えたときに直臣に編入される例もあります。また、直臣と陪臣との間で婚姻関係もあった例も多くあります。
ただ、陪臣の取り扱いはそれぞれの藩によって違うように思えます。実際、江戸中期以降各地の藩で万石取りの家臣が大名になりたいという運動が起こっていますので、重臣の家臣であっても外には同じ藩士という身分でしょうけど、本藩の藩士とは何らかの扱いの違いがあったと思います。
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この回答へのお礼

>直臣と陪臣との間で婚姻関係もあった
御三家附家老や岩国吉川家も厳密には伺候席も与えられていない陪臣ですけど代々、大名家の姫を正室に迎えているようですね。

江戸中期に各地の万石取りの家臣が独立運動を起こしていたのですね。
蜂須賀家の洲本城代・稲田家も直臣との軋轢で稲田騒動を起こしていますね。やはり藩によっては直臣・陪臣の身分差が大きかったとみるべきなのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/12 14:18

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